街から離れた人気のない岩石地帯にある工場は、風雨にさらされて錆びた臭いで満ちている。
破棄されて久しいここは、しかし尚その形を保ち、今では全く別の用途で使われていた。
武器庫と、訓練所だ。
周囲一キロを見渡しても民家一つないこの場所なら、拳銃を撃ち続けたところで問題になることはない。
交通の便が悪いために使われなくなった工場だが、そこに目をつけたマフィアがタダ同然の値段で買い取り、有効に活用している。
皮肉なものだと考えて、アゼリアはゆっくりと工場内を歩いた。
ここには自分にとってもいろんな思い出が詰まっている。
眼を瞑っても細部まで思い起こせるほどに、汗を、涙を流した。
組に拾われたばかりのころ、私もまたここで訓練を受けた。
いや、あれは調教と言った方が正しいか。ただの少女を、非情な猟犬に変える。それはもはや訓練とは呼べないものだ。
毎日毎日。血反吐を吐くまで訓練をした。筋力トレーニング、平衡感覚の強化、銃器の取扱い、ナイフの取扱い、近接戦闘の訓練、念能力の基礎訓練―――
体が悲鳴を上げて、何も考えられなくなるまでそれを続け、泥のように眠る。
寝ている間もまた訓練だ。最も無防備になるその時に脅威に対応できるよう、常に頭の一部を緊張させておかなければならない。休む暇もないとはこのことだった。
そんな訓練を一年ほど続けて、知らぬうちにやってきた八歳の誕生日、私に渡された誕生日プレゼントは、初仕事だった。
実に簡単な仕事だ。
護衛もいない弁護士を一人、殺す。
この体では警戒されることもない。笑顔を作り近づいていき、引き金を引く。パン、パン、パン。乾いた音が三回。それで終わる。
そう。かんたんな……とっても、かんたんな……
渡された拳銃は、小さかった。でも重かった。思わず落してしまいそうなくらい。持っていられないくらい重くて、倒れそうだった。
ボロボロの訓練着ではなくて、女の子らしい服を着せられた。一年前は着なれていたはずのそれが、とても落ち着かなかった。
喫茶店でコーヒーを飲んでいたその人に近づいて行った。
うまく笑えていたか判らなかった。泣きそうな表情だったかもしれない。頬を伝っていたのは多分汗だったと思う。
ポーチからそっと銃を取り出した。
その人がこっちを向いて、驚きに目を見張った。
「……ごめんなさい」
―――パァン
撃たれたのは彼だったのか、私の心だったのか。
多分両方だったのだろう。気がつくと私はここに居て、泣きじゃくって、震えて、吐いて、握り続けていた拳銃をこめかみに押しつけて、それでも引き金を引けなくて。
長すぎる夜が明けたとき、もう涙は流れなかった。
それ以降、私は街中に住まいを移した。
基礎訓練がひとまず終了したからだ。
訓練は次のステップに移る。
牙を隠し、羊の振りをする訓練。毒薬の使用とその耐性を付ける訓練。狙撃ポイントの見分け方。尾行術。諜報術。駆け引き。無論基礎訓練も続けられる。
だけど辛いとは思わなくなっていた。そう感じることに疲れていたから。だから私は何も言わず、命じられるままに日々を過ごしていた。
結局あの日以来、私がここに来ることはなかったのだ。
「今なら、何か別の想いを抱くかと思ったが……」
別に何もない。
ただ少しだけ、かつての日々に思いを馳せるだけ。
言うならば、ここは私がただの少女でいられた最後の場所だ。
あの日なくした何かがここにあるかと思ったのだが、何の感慨もなかった。
それはもう届かないものだからかもしれない。
「どのみち、私は進み続けるしかないんだ」
立ち止まることは許されない。
逃げることは私が許さない。
ならば進め。どこまでも。奈落の底までも。
手を見る。
ふとした時に幻視する、血濡れの手。
初めのうちは嫌悪に震えていた。恐怖に苛まれた。
けど人はいつしか慣れてしまう。
そんな幻視をしても、少し気を強く持てば恐れることはなくなってしまった。
それはいい変化なのか、悪い変化なのか。一概には答えられない。
「……ま、変わらないこともあるからな」
たとえ私がどのように感じても、変わらないことはいくらでもある。
それは例えば私が人を殺したという事実であったり、妹のために立ち止まることはできないという決意であったり。
だからどれだけ悩んでも、出る答えはいつも一緒なのだ。
そんなことをつらつらと考えながら、トラクターに背中を預けた。
ふぅ、とため息をつき、こめかみのあたりを手で押さえる。
そこで、ぴたりと手が止まった。
―――来た
相手のオーラを感じ取ったわけではない。「絶」は十分合格点に達している。
ならば何故そう考えたかと問われれば、勘としか答えようがない。
だがそれは十年の死線で培われた勘だ。決して侮っていいものではない。
私は上げかけた手を降ろすと、静かに息を整えた。
『大気の精霊』は使わない。少なくとも今はまだ。
だらりと体を弛緩させ、相手の攻撃がどこから来ても素早く反応出来るように意識を広げた。
考えてみれば、私が受け身に回るなんて久しぶりだ。
能力を発動すれば、私はほぼ全ての奇襲を見破ることが出来る。オーラの分散に重きを置いた能力の特性上、「円」の効果範囲に関しては折り紙つきだ。これに関しては、超一流と称される能力者たちと比べても尚抜きんでるほどの自信がある。
さらに私の戦闘は一撃必殺の奇襲戦。すなわち敵の反撃をゼロにすることが至上命題だ。反撃は当然想定したうえで策を練るが、実際に反撃を受け、なおかつ受け身に回らされることはほとんどない。
あまり経験のない戦況に少しだけ体が強張り、胸が跳ねる。
そのまま数秒が経過して―――
カツン
右側で鳴った音に振り向く。
コンテナの一つに投げ当てられた石が地面に落ちるのと、背後で気配が膨れ上がるのを感じたのは同時だった。
「たあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
相手は物陰から飛び出し、強化された脚力で一気に間合いを侵食してくる。
少しは考えたな。そう感嘆しながら私は素早く体を回転させると、突き出された拳を片手で掴み、回転を緩めることなく相手の腕を引き、足を払った。
逆向きのエネルギーが体の上下に加えられたことで、腰の辺りを中心に縦方向に回転する動きが生まれる。
すなわち、相手は強制的に前方向へ宙返りをさせられ―――当然着地は出来ず、背中から叩きつけられた。
「っ~~~~~~~~~~~~!!」
だがその程度は予想していたのか、かろうじて受け身を取ったことで素早く体をはね起こし、再びこちらに突進してくる。
若干がっかりする。考えていたのは初手だけか。
「それじゃあいつもと同じ結果だろう」
突き出された拳を右手で絡め取るようにいなし、隙だらけの体に左手の手刀を―――
「どうかしら」
―――入れる直前、いなしたはずの拳が開かれ、こちらの眼に向かって砂を叩きつけた。
「なにっ!!」
予想外。ここで目潰し攻撃とは。
反射的に眼を瞑り顔を背けるが、僅かに眼に砂が入り涙で視界が滲む。こればかりは鍛えていても仕方がない。
視界の回復を待つ暇はない。止む無く『大気の精霊』を発動する。
その範囲はこの工場全てを悠に覆い尽くす。「円」の効果も持つ大気の中、手に取るように相手の動きは判った。
「それを待ってたわ!! 『邪気眼』発・動!!」
勝ち誇ったその言葉を聞いたとき、相手が三度こちらに突進してくるのを「円」で感じ取っていた。
繰り出される突き。その以前との違いは、狙いが私の体から遠く離れていること―――
「しまった!」
狙いに気付く。だが少しだけ遅い。
相手の攻撃はすでに繰り出されている。
私のおよそ二メートル手前。
そこにあるものは、「大気」だ。
そこを貫く手刀―――
「くっ……!!」
その瞬間、私の支配下にあった大気が制御を失い、荒れ狂う暴風と化した。
操作が利かない。抑えきれない。自分の能力の強力さの分だけ負担は大きく、台風の中に投げ込まれたような風が叩きつけられる。
その中で聞こえる声。
「俺のこの手が光って唸る! お前を倒せと輝き叫ぶ!」
膨れ上がるオーラの気配。
間違いなく「硬」での攻撃が来る……!
「必殺! シャァァァァイニング・フィンガァァァー!!」
視界が利かず、能力が制御を離れた状態では相手の攻撃目標を見極められない。
仕方なく「堅」で体全体を守ろうとし―――
「あぐっ」
―――腹部に、割と重めのパンチが入った。
堪えられない程ではなく、しかし無傷で済む程度の攻撃でもなく―――数メートル後ずさり、ジンジンと傷む腹を擦って、私はその場に座り込んだのだった。
「……や、やったぁーーー!! アゼリア、合格? ねえ、合格!?」
「……約束は、約束だからな」
私はむっつりとそう返すしかなかった。
一撃でも入れられたらハンター試験出願を認める。
それが私がハルカに出した条件だった。
ハンター試験を受けるならば、基礎的な身体能力はもとより、戦闘のセンスも必要になってくる。
よってそれが出来ないのならば試験出願は認めない。そう言っていたのだが―――
「まさか成功するとは」
「む……なによ、アゼリアは成功しないと思ってたの?」
「まぁ、正直な」
かなり手加減をしていたとは言え、まったくの素人だったハルカが私に一撃入れるなんてあと二年は必要だろうと思っていた。
いろいろと策を練った結果ということか。
私としては今回は見送って、次回以降の試験にチャレンジにしてくれた方が安心なのだが……何しろまだハルカは基礎能力のレベルで非常に不安がある。
ちなみに今日で大体三十回目位のトライになった。
もう十二月の末日。試験申し込みの締切まではあとほんの少しだったのに……惜しい。
「とはいえ、何にしろ成功は成功だ。ほら、受験申込書」
「ふふふ……ついに、ついにこのときが来たのね!!」
ハルカは賞状か何かのようにそれを受け取り、もう合格したかのように喜んでいる。
まだ出願が認められただけで合格したわけではないのに……暢気なことだ。
「さて、一応今回の評価だが―――」
「はい、アゼリア先生」
「―――まず、「絶」は問題ない。あれなら合格点だ。そうそうバレることはないだろう。その次に石を投げて相手の注意を別の場所に向けたのもいい。だが、そのあとで声を上げて突進したのはいただけないな。あれでは折角隙を作っても意味が半減してしまうじゃないか。ああ言う場合の理想としては、姿を出さないまま背後から銃器で制圧するべきだな」
「……銃なんて持ってないわよ」
不貞腐れたようにハルカが言う。
言われてみればその通りだ。後で武器庫から一丁渡しておこう。
「で、その次だが―――目潰しはなかなかいい選択だったぞ。意表を突けば地味だが効果的だ。そしてそのあと。ようやく能力を発動しながら戦闘が出来るようになってきたな」
今までは能力を発動したらそれ以外にオーラを回せなかったのだから、大きな進歩と言える。
毎日「堅」の修行をさせた甲斐があったというものだ。
ハルカの能力は、言うならばより強力な「凝」だ。
普通の「凝」よりもさらに多くのオーラを目に集めることで、ハルカは「凝」でも見ることのできないものすら見通すようになった。
それは残留するオーラの残り滓や、相手の精孔、さらには相手の能力の構成など。それらを視覚化して捉える事が出来る。
先ほど私の『大気の精霊』を無理やり解除したのもこの能力を使用して行ったことだ。相手の能力の構成を見通すハルカは、その能力を破壊する弱点を見出すことが出来る。
彼女に言わせると、能力とは糸が紡がれて出来る布のようなものらしい。オーラという糸が絡み合い、結ばれ、そうして織られる布が「発」だ。
だからその結び目を壊してしまえば、その能力は分解される。「発」はそれぞれ基点があり、それは弱点ともなる。ハルカはその点を見きれるため、能力を壊す―――いわゆる除念に近い能力が可能となった。
しかしこの能力はオーラの消費が通常の「凝」よりも激しい。そのためハルカのオーラ量では能力を発動させながら戦闘を行うのは難しかった。
最近になってようやく「堅」が二十分を超えだしたので、なんとか戦闘中の使用が可能になったのだ。
なお、この能力の難しい点はオーラの消費量だけではなく、目への負担も大きいらしい。最近では慣れてきたのか痛がる素振りは見せなくなったが、最初の頃は目を押さえて苦しんでいた。
「ッ……ハッ……また暴れだした……し、鎮まれぇ……!!」と右目を抑えながら震えていた時は本当に心配した。
ちなみに能力名は『邪気眼』というそうだ。
邪気を見通す眼、か。なかなかいい名だ。
「まぁ、全体としてはまだまだ修行が足りないし、絶対的に基礎能力が足りない。けれどこの分なら一応及第と言えるだろう……とても不安だが」
「む、いちいち引っかかるわね。そんなに心配ならアゼリアも来ればいいじゃない」
「……許可が下りれば、それもいいんだが」
実際は難しいだろう。
私がロフトを一日以上離れる時は、必ずカーティスに報告を入れ許可を受けなければならない。
そしてあの男がそう簡単に私に許可をくれるだろうか……答えは否だ。
だが、確かに私も受けられれば心配はかなり少なくなる。
今まで私はハンター証など使いようが無いと思っていたので、そもそも許可を求めたこともない。
聞いてみるだけならタダだ。
……ダメ元で聞いてみようか?
『別にいいですよ』
―――で、聞いてみたらあっさりと許可が下りてしまった。
絶対に許可は下りないだろうと考えていたので、ある種拍子ぬけしてしまう。
『プロハンターが増えることは組にとっても私にとってもプラスですからね。ただし、合格後はハンター証もまた私の管理下に入ってもらいます。それでいいならば、その間は暇を出してあげましょう』
だが付け加えられた言葉を聞いて、思わず舌打ちを洩らしそうになった。
この蛇のような男は流石に抜け目がない。そんな言葉がなかったら、ハンター証を売って借金と手術代を全額埋められるというのに……何しろハンター証の裏でのレートは、ナンバーによって差があるものの平均して二十億ジェニー近いという話だからな。
けれどもハルカが心配なことに変わりはない。私にとっては大してプラスが無い話だが、マイナスとなる要素もない。
結局、私はその条件で首を縦に振ったのだった。
電話を切り部屋に戻ると、ハルカが「堅」を続けていた。
今までの最高記録が二十一分。せめて三十分は出来るようになってほしいものだが……まぁ、試験までにそれを成すのは無理だろう。
「どうだった、アゼリア?」
「ああ、あっさりと許可が下りたよ」
「ホント!? やったぁ!! ていうか……なんでアゼリア今まで試験受けなかったの? ハンター証取っておけばお金なんて簡単に稼げるじゃない。売っちゃってもいいし」
「それは無理だ。私がハンター証を取っても、それは組の管理下に入るからな。勝手に売ったり使用したりすることは出来ない」
それを拒めば、相手は妹の命をカードとして切ってくるだけだ。
忌々しい限りだが……私にはそれに対抗できるカードがない。
「じ、じゃあ、天空闘技場とかは!? 知ってるでしょ。あそこは上の階になれば一試合で二億ジェニーとか稼げるのよ。アゼリアならすぐに―――」
「いや、実は、そこは行ったことがあるんだ……」
そう言うと、ハルカはきょとんとした顔をした。
苦笑して、話を続ける。
「確か十歳くらいのことだったかな……天空闘技場のことを知った私はちょうどいいと考えて―――何しろ修行も出来て金も稼げるからな―――そこに行ったんだ。組には無断でな。そしたら百八十階くらいまでは行けたんだが、そこで組にバレてな。強制的に連れ戻された。ひどく怒られたよ。勝手な行動を取るな、とね。稼いだ金も大部分は没収されて、ほんの一部だけ借金返済に回してもらった。今後このような行動を取ったら、妹がどうなるか覚悟しておけと釘を刺されてな」
あの時稼いだ金は借金を完済するに十分な金だったのだが……
立場の弱さは、理不尽を覆せない。
「……なら、私が闘技場でお金を稼いで渡すっていうのは―――」
「それも無理だ。私の銀行口座はすべて組が管理しているし、入金については毎月明細を報告させられている。そこで不明な金でもあれば、即座に呼び出しだ。それを友人からもらったなどと言えば……同じことだ。『組に無断で勝手な行動を取った』として、こちらの立場を悪くする。金も没収されるだろうな」
「……なにそれ」
ハルカの声には怒気が滲んでいた。
私はもう怒ることも諦めてしまったことだが……誰かが自分のために怒ってくれるというのは、嬉しい。
「なにそれ。全部全部、組の都合のいいようにされてるだけじゃない! こんな、こんなの―――」
「そう。私を飼い殺そうとしているだけだ」
怒りに声が震えるハルカの言葉を引き継ぎ、淡々と告げる。
十年の月日は諦観をもたらした。
私は、自分の行く末についてはもう諦めている……
「こう見えても、私は組の武闘派の中では上位に立つ。だから組としては私を手放したくないのだろうな……」
全く以てありがたくないことだ。
さらに問題は、あの上司にある……
「おまけに、私の上司は臆病なんだよ。自分の手に握れる限りの手綱を集めておかないと気が済まない人間なんだ。飼い犬が逃げ出さないかと心配して、檻を開けることも出来ない」
どちらにしても私は切れない首輪がある限り逃げ出すことなど出来ないのだがな。
「……なんで」
「え?」
「なんで、そんなに落ち着いていられるのよ……!! そんな諦めたような顔しないで!! 妹を救えれば満足みたいな顔しちゃって、アゼリアも幸せにならなかったら意味がないでしょ!! もっと足掻いてよ!! 鎖に繋がれてるなら引き千切って、首輪があるなら首輪ごと走り出しなさいよ!! 檻を開けてもらえないなら、自分で破ってしまえばいいでしょ!!」
「……」
無茶を言ってくれる……
人がどんな気持ちで自分に言い聞かせてきたかも知らないで。
諦めないことで世界が変わるなら、私ももう少し強くあれた。
だが―――
理想で現実は変えられない。
夢はいつまでも夢のままだ。
現実を変えるのはいつだって、純然たる力だけなのだ。
そのことを嫌というほど学ばされた私は、ハルカの言葉にうなずくことは出来なかった。
〈後書き〉
ハルカの能力をようやく出せました。どうも、ELです。
ハルカは「凝」に特化した能力者と考えてください。
さて、次回あたりからようやく原作入り。もしかするとその前に閑話を一話挟むかもですが。
結局原作の流れにある程度入ってもらうことになりました。うまく書けるかな……
それでは、次回更新の時に。