第十七話 絶対なんてこの世にはないけど、それでも絶対に 黒板にカッカとチョークを走らせ、むつきは二人の人物の名を書いた。 最澄と空海、具体的に何をした人か知らない人はいても、名前を聞いた事がある者もいるだろう。 二人の名前を円で囲み、矢印を左上の唐という字へと向かわせた。 リズム良く最後にカッとチョークを黒板に叩きつけ記述はお終い。 それから後ろへと振り返ると、やはり何人かは聞いた事があるのか、思い出そうとしている。「この二人が平安の時代にわざわざ中国、当時は唐と呼ばれていた国に勉学の旅に出かけた。何を学びにかは、彼らが帰って来た日本で広めたものが関わってくる」 唐から再び矢印を右下、日本に引いて、天台宗、真言宗と黒板に書いた。「ここテストに出るから。最澄か、空海の名前が出たら兎に角、どっちか書いとけ。宗教とか仏教って書いても点やらねえからな」「はい、先生質問アル!」 皆が最澄と空海、それから天台宗と真言宗どちらがどちらかノートに写している時だった。 なんとも珍しい事に成績不振からバカイエローと呼ばれる古が手を挙げていた。 しかも授業中に質問など、明日は雨ではなかろうか。 かなり失礼な考えだが、それでも生徒が勉学に興味を抱く事は悪い事ではない。 出身国である中国の話が出たのだから、何か気になることでもあったのだろう。 俺も生徒の興味を引くような授業がと内心感動したのは内緒だ。「おう、なんだ古。何が聞きたい?」「最澄って、どれぐらい強かったアルか!」 一瞬何を言われたのか理解できず、んーっと額に手を当てて考える。 奇妙な質問内容に同じバカブルーの長瀬や、何故か桜咲までもそれは知らなかったと身を乗り出す。 そこでピンと来た、何故そんな見当違いな質問が飛んできたのか。 古は中国武術研究会で桜咲は剣道部、長瀬は散歩部最強の女、最後で気付いた。「最強じゃない、最澄だ。てか、ここに書いてあるだろ。漢字が違う」「じゃあ、強くはないアルか?」「お前は強いか、強くないかの二択しかないんかい」 教えてもまだ拘る古に突っ込みつつ、いやいやと考える。 折角、古が興味を持ってくれたのに、強くないとだけ言って終わらせるのは勿体無い。 それではじゃあいいと、興味を失ってそれっきりだ。「昔は、今みたいに義務教育なんてないし、普通の農民なんて食うに困る時代。勉強する坊さんって上流階級とも言えてな。もちろん、いい所の出以外の坊さんは食う為に畑も耕したろうが」「ふんふん」「山に篭ったり厳しい修行もするから、武術の一つでもおさめてたかもな。気になったら、調べてみな。実は凄い達人かもしれんぞ」「分かったアル。最澄、最澄」 実際のところ、勉学に忙しくてそれはないかもしれんが。 呟きながらノートをとる古に、空海も忘れんなよと加えておく。 それから改めて、他に質問はと見渡すと、何か妙にうずうずしている綾瀬がいた。 時計をチラチラと見上げ、あと授業は五分もないが。 トイレでも我慢しているのだろうか、しかしさすがに直接聞くわけにはいかない。 セクハラだと騒がしくなるのは、目に見えている。「おーい、綾瀬どうした。何か言いたそうだが」「ああ、先生気にしなくて良いよ。夕映は神社・仏閣マニアだから。最澄と空海について語りたいだけ。けど今から喋ると嫌いな授業が延びるからジレンマに陥ってるだけ」「いえ、全くパルの言う通り。なんたるジレンマ、神社・仏閣の素晴らしさを広める好機でありながら、あと数分で授業が終わりとは。コレが授業の開始直後であれば、時間稼ぎも兼ねて切々と語るのですが」「お前な、大昔の坊さんですら国を超えて勉学をしに行ったというのに……」 どいつもコイツもと、心配になって他のバカレンジャーへと視線を向けてみる。 バカレッドこと、神楽坂は幸せ一杯にハートを飛ばしていた。 中間テストが近い事もあって、高畑が帰って来たからだろう。 本人が学校にいるのに、普段通り先に朝会を始めてしまった時の、気まずさと言ったら。 いいよいいよと許して貰えたが、ちょっと高畑の顔が引きつっていた。 最近、副担任のむつきが当然のように仕切っていた為、なんで高畑先生がここにという視線を生徒から受けた事もある。 神楽坂だけは逞しく、皆酷いとポイント稼ぎも兼ねて一生懸命擁護していたが。「高畑先生、格好良かったなぁ」 この野郎、おおっぴらに惚気やがってと思わざるを得ない。 平日ではなかなか正面きって会いにすら、それこそ見つめる事すらできないというに。 残り最後のバカレンジャー、佐々木はどうかと見てみれば。「えっとサイキョーと、くーちゃんっと。アレ? なんでくーへが……まあ、いいや。会いたいみたいだし」「佐々木ぃ……」 何故そこに気付いたのに、まあいいやで済ませてしまうのか。 折角古が興味を持ったのに、それが妙な形で影響が出てしまうのか。「凄く不安になって来たから、次の授業で簡単な小テストするぞ」 当たり前だが、突然のむつきの提案にえーっと抗議の大合唱である。 その気持ちは良く分かる、むつきだって学生時代はそうだった。 だが現在は立場が違う為、面倒だよなと気持ちは分かってやれても同意はしてやれない。「煩いぞ、静かに。中間までに、何処が分からないか、覚えていないか教えてやるって言ってんだ。感謝して敬え、この野郎」 成績トップの面々は特に無反応だが、そこそこの成績優秀者はうんうんと頷いてくれた。 主に抗議の声を上げたのは、バカレンジャーを筆頭に、成績不振者だ。 美砂とかろうじてアキラも残念ながらそこに加わっているが、反応はそれぞれ。 にこにことむつきを眺めて微笑んでいる美砂と、頑張ろうと気合をいれているアキラ。 前者は成績を全く気にしておらず、後者はむつきの教科だからとでも考えているのだろう。「何時もすまんが、雪広と超、葉加瀬は聞かれたら教えてやってくれ。俺に聞いてくれても良いが、クラスメイトの方が聞きやすいだろう」「了解ヨ、ここは最近開発した強制睡眠学習装置の出番ネ」「凄いですよ、これは。夢という時間とは無縁の仮想世界で延々と勉強し続け、しかも最大の目玉は。一定成績を収めるまで目覚める事すらないのです!」「それ、成績不振者がつけると永眠しかねないか?」 頭は良くてもネジが飛んでる奴は論外だと、最後の砦にお願いする。「雪広、本当に頼む……雪広?」 珍しく頬杖をついたまま、雪広が遠い世界を見ていた。 それも授業中にと目の前で手を振って意識を確かめても気付きやしない。 雪広を他の面々同様に教科書で叩いたりもできず。 困ったなと頬を掻いていると、皆からの視線でも感じたのかハッと雪広が我に返った。「おーい、雪広。どうかしたか?」「え、あっ……き、起立!」 我に返って直ぐに、立ち上がって言ったが殆ど誰も付いてきていない。 え、立つのと隣の席の者とささやき相談しあったり。 間違いに気付いた雪広が、カッと頬を赤くしてうろたえていた。 だがそれも短い時間の事で、自分で自分を落ち着かせてはコホンとかるく息をついて言った。「申し訳ありません、少々手違いを」「まーた、道端で会った美少年の事でも考えてたんじゃないの。このショタコン」 からかいが飛んだのは神楽坂からであり、立ち上がった彼女は臨戦態勢だ。 普段ならここで言い争いが勃発するはずだが、雪広は反応すらしていなかった。 思ったような反応も得られず、神楽坂も構えをとくべきか迷っていた。 少しの間を置いて、雪広が神楽坂へと振り返り、今度こそと身構える。「アスナさん、授業中です。お座りなさい」「あ、はい。ごめん……」 オジコンと返す事もなく、拍子抜けして神楽坂が座った。「雪広、俺が言いたかったのは皆に勉強を教えてやってくれって事だ。ん、以上」「承りました。それでは改めて、起立」 雪広がそう言うと同時にチャイムが鳴り、皆が立ち上がった。 礼っときびきびとした号令で皆が頭を下げ、ご苦労さんとむつきも軽く下げた。 それで途端に騒がしくなるのだが、休憩時間なので何も言うまい。 それよりも気になったのは、雪広の様子、態度である。 休憩時間が始まると、再び頬杖をついて遠くを見始めた。 ある意味親密なのでどうしたと聞きたいが、他の生徒がいる場ではどうしても人目を引く。 雪広を気にしながら廊下へと出て、少し急ぎ足でむつきは職員室へと向かった。 自分のデスクにつくと、教科書を放り出し、スケジュールを確認してから携帯を手にする。 次の三限目は空き時間なので、多少余裕があるなと新規メールを立ち上げた。 送り先は色々な意味で特別親しい生徒数人である。 嫁と恋人である美砂とアキラ。 関係性が今一分からなくなったが相談役の毒舌長谷川に、最近親しくなった和泉だ。 もちろんメールの内容は、雪広の態度であり、何か知らないかである。 メールは続々と返信され、とりあえず順番にと美砂のから見ていく。「ふーん、やっぱ皆も気になってるか」 どうやら他のクラスメイトも気にしているようで、神楽坂などに聞いているようだ。 少々プライベートだが、昔に亡くなった弟の命日は三月らしいが。 その日に見せる表情にどこか似ているそうだ。「喧嘩ばっかしてると思いきや、仲良いんだな。アイツら。喧嘩する程、仲がって感じか」「ほほう、メールかね?」 気を緩め、少し椅子にふんぞり返っていた為、背後からの声に慌てて座りなおした。 それから隠す事はないのだが、無意識にメールを閉じてポケットにしまってしまう。 余計怪しい俺と思いつつ、むつきは声を掛けてきた新田に振り返った。「えっと、すみません。生徒とメールをしてました。少し、雪広の様子がおかしかったので何か知らないかと……」「なるほど、だが咎めるつもりはない。時代が変われば、生徒への接し方も変わる。私はもっぱら、怒鳴り声と拳骨だがね。ふうむ、それにしても雪広君がかね?」「ええ、そうなんです。珍しく授業中に呆けて、我に返ったはいいですが突然礼の為に起立の号令をしたり」「いやあ、相変わらず彼女達のパワーが凄い凄い。疲れましたよ」 新田と話していると、何時もの男臭い笑いを浮かべた高畑が授業から帰って来た。 早速というべきか、職員室での人気ナンバーワンの巨乳教師であるしずながコーヒーを淹れて渡している。 すみませんと当然のように高畑が受け取り、一部の男子職員がこの野郎と睨んでいた。 むつきも以前、美砂と付き合う前は妬む側だったのだが。 もっとも、今は若くて可愛い嫁と恋人がいるため、嫉妬なんてするわけがない。 いやあ、お熱いことでと妻帯者側の先生方と同じような目線であった。 丁度良いので今朝、ホームルームをした高畑にも聞いてみようか。 むつきは直ぐにやってきた高畑にバトンタッチしたので、雪広の様子にまで気が回らなかったのだ。「高畑先生、今日少し雪広の様子がおかしかったんですが。何か気付きませんでしたか?」「ん、僕は何も気付かなかったけど。彼女達なら大丈夫、何か問題があっても皆で乗り越えていけるさ」 口にした答えは確かに、ある一面では正しい。 生徒を信頼し、遠くからそのやり方を見守り、危険な場合や助けを求められた時だけ手を差し伸べる。 正しい意味での放任主義とはそういうものなのだろうが。 ちらりと見上げた新田は、何も言わなかったが静かに怒りをたたえている事が分かった。 学校にいる場合は知らないが、そもそも出張続きの高畑が生徒を見守れる場所にいないのだ。 正直なところ、放任ではなく放置主義と言われてもおかしくはない。(別に俺も人に自慢出来る程、立派な主義主張はないけど。て言うか、主義主張以前にアレだけど。無駄に新田先生を怒らせんな。隣で押し黙って、超怖いんですけど!) 以前のむつきなら、仕事しろこの野郎と内心怒ったのだが。 もうそう言う人だと諦めたし、自分の事でテンパって余裕がある高畑への嫉妬とも認められた。 確かに学校に全然来ない意味不明な教師だが、一応は学園公認の出張だ。 それに悔しいが自分の授業より、高畑の授業の方が分かり易いと長谷川や和泉にも言われた。 それにそんな教師間で静かにくすぶる対立よりも、雪広の事である。(肩入れし過ぎって長谷川怒るか。いや、校内の事だし。本当はいけないけど、あいつはちょっとだけ特別な生徒だし) 美砂と付き合った直後、それとは無関係に教師として最初に認めてくれた子なのだ。 それにひかげ荘や美砂、アキラといった秘密を知っている相手を心配して悪いわけがない。 そう決断すると、怒り心頭で何処かへ行ってしまった新田を見送りながら仕舞った携帯を取り出した。 メールの宛先を雪広にして、お昼休みに社会科資料室で話があると送った。「乙姫先生ぇ」「うわっ、びっくりした。瀬流彦先生、何を泣きそうに」 再び、突然後ろから喋りかけられ、又しても携帯はポケットの中に。「君に彼女が出来たっていうか、僕の車をデートに使ったよね。お詫びは貰ったけど。あつかましいのは重々承知だけど誰か紹介してくれない? 彼女の友達とか」 瀬流彦の視線は、コーヒー片手に談笑する高畑としずなにあった。 どうやら瀬流彦もかつてのむつきのように、嫉妬する側であるらしい。 しかしながら、むつきの彼女の友達は女子中学生というか、生徒なのだが。 一瞬、それで良いか聞いてみたくなったが、そんなバカな事で人生破滅したくない。「一応聞いておきますが、期待しないでください」「うん、社交辞令的返答をありがとう。はあ、虚しい。僕も彼女を助手席に乗せてどこかに出かけたいよ。出かけたいな、誰かさんみたいに」 チラッチラと数秒おきに恨めしそうに振り返られた。「この人は……」 まかり間違っても口にはしないが、うざっと思ってしまった。 男のむつきから見ても、顔の造形も悪くないし、ぶっちゃけ麻帆良の教師は高級取りだ。 理由は良く分からないのだが、他の公立校に行った大学時代のダチに愚痴られた事もある。 顔もそこそこ金もあって、車だって持ってると思った所で気付いた。(ああ、この人どこか頼りない) 自分の事を棚に上げて、それじゃねえのと思ったむつきであった。 お昼休み、手早く業者のお弁当を詰め込むと、むつきは社会科資料室で待っていた。 普段はカーテンが敷かれた窓から、校庭や芝生でお弁当や菓子パンを食べる生徒を眺めつつ。 そのお弁当で気付いたが、親がいない寮で彼女達は自分で作っているのだろうか。 先程食べた業者のお弁当の味気なさが思い出された。 決して不味くはないのだが、商売第一の大量生産品である。 つい先程食べたものがなんだったか、肉類以外は殆ど思い出せない。 真実は不明だが、愛がないのである愛が。「美砂の奴、エッチばっかりは嫌とか最初言ってたくせに。休日はいつもセックス三昧だからな。アキラはまだ分からんけど、弁当作ってくれないかな」 一応職員室では彼女持ちで通っている為、それぐらいは問題あるまい。 愛妻弁当ですかと、他の男性教諭に冷かされ妬まれてみたいとも思った。 いや弁当でなくとも、一度手料理が食べたいと思い始める。 後で頼んでみようと思っていると、背後が扉がノックされた。「入ってまーす」「失礼します」 通じないだろうなと思ってそう返すと、やはり普通にそう返した雪広が扉を開けた。 後ろ手で横着に締めず、ちゃんと振り返ってから扉を閉めるのがなんとも丁寧である。「お話ということですが」「まあ、長くなるかもしれんから座れ」 用意しておいたパイプ椅子を勧め、その向かいのパイプ椅子にむつきが座った。 何やら躊躇するように、考え込んでから雪広もやや大げさに椅子を引いて座る。「話ってのは、お前の事だ。本当は、こういうことは担任の高畑先生の役目なんだが。何か、あったのか? 午前中での授業でも様子がおかしかったが」「先生にまで気付かれてしまうとは、この雪広あやか。一生の不覚ですわ」「おい、辛辣なのは長谷川だけで十分だ。誰でも気付く」 この野郎と思っていると、それもそうですわねとしれっと言われた。 本当に、丁寧さだけでなく、妙な強かさをも手に入れたらしい。 主に、むつき達が乙女にはどぎつい、恋愛事情を生々しく見せてしまったからだが。 一種自業自得のようなものであった。「先生はご存知ですよね、アスナさんが私をどう呼ぶか」「その言い回しは委員長ではなく、ショタコンの方か?」「ええ、そちらの方です」 以前までなら違いますとムキになるはずが、自分から言い出すとは。 雪広の悩みがよく見えない。「今でも愛らしい少年は好きですわ。道端で見かければ色々とお世話をして構ってあげたい。満面の笑みを私に見せて欲しいと」「別にそれショタコンじゃないだろ。普通の女の子の母性だろ」「いえ、以前なら家に連れ帰って一緒にお風呂に入ったり、添い寝したりと」「ショタコンじゃねえか、しかも重度の」 一応、危ない奴だなとこれまた自分を棚に上げて突っ込み気付く。 雪広は以前ならと前置きを置いたのだ。 以前の雪広は正直、その愛らしい少年の意向を無視してさえ、行動に移しかねなかった。 だが今は、その愛らしい少年が笑ってくれさえすれば、時折笑いかけてくれればと言ったのだ。 随分と趣旨変えをしたものである。「良い事だと思うが、それでお前が悩む理由がわからんぞ」「先生は私に昔弟がいた話をご存知ですか?」 間接的に聞きかじってはいたが、首を横に振った。 プライベートな情報を中途半端に知られていたというのも嫌だろうという配慮だ。「以前の私は、亡くした弟の代替行為として愛らしい少年達に歪んだ愛情を向けていました。今にして思えば、かつての少年達にわびたくなる程に」「そこまで言わんでも。別に実際襲ったわけじゃなく、頭を撫でたり可愛がった程度だろ?」 幼少期に綺麗なお姉さんに可愛がられた思い出は、その子を化けさせる可能性さえある。 一歩間違えると勘違い小僧になりかねないが、それでもだ。 ちゃんと正しく、あんなお姉さんに相応しい男になりたいと恋に花を咲かせるのもいい。 自分が小さな子供の時に、雪広に可愛がられたらそれはもう勘違いする。 絶対にお姉ちゃんと結婚するんだと、多少見当違いな努力をする事だろう。 経験者が言うのだから間違いない。 体の弱い親戚の姉ちゃんを守るんだと、ジャッキー・チェンの映画は一杯見て真似もした。 それで喧嘩も少しぐらいは。「別にそれを思い悩む必要はないと思うぞ。特に男の子は単純だ。綺麗なお姉ちゃんに可愛がって貰ったやったぜって思ってるだけだ」「いえ、それを思い悩んで……はいますが。もっと別に大きな悩みが」「本筋じゃなかったんかい」「いえ、関連性はあります。そもそも、この事に気付かされたのは先生達のおかげですから」 切欠が自分と、達というのは美砂やアキラの事か。「教師と生徒でありながら、結婚を前提として一目を忍んでさえ逢瀬を重ねる先生と柿崎さん。報われない恋ならいっそと、妾である事を自分から言い出した大河内さん」 なんと相槌を打てば良いのか、むつきにははかりかねた。 とりあえず、聞いてはいますよとアピールするように何度か頷いておく。「本音を言えば、歪んだ関係だと思います。けれど、先生方は常に相手を思いやっています。自分のエゴだけでなく、相手を深く受け入れています。特に年上の男性に泣きつかれたら私なら引きます」 雪広の批評に当たり前だが、むつきは凄く微妙な顔であった。「では、私が少年達に向けていた愛は? 歪んだ愛情、エゴだとは気付きましたが。では私の本当の気持ち、恋はどこにあるのでしょうか?」「好きな奴でも出来たってわけじゃないよな。迷走して、訳がわからなくなったと」「それだけならまだマシです。以前少し漏らしましたが、雪広財閥の娘として社交界へと出席しなければならない義務があります。もちろん、殿方との出会いを含め」 ここまで聞いて、ようやくだがむつきにも雪広の悩みが分かり始めた。 アキラのおめでとうパーティをした時に、和泉が言っていた悩みの拡大版だ。 以前の雪広であれば、どんな下衆な男が目の前にいても妄想で潜り抜けることが出来た。 私には愛らしい少年があると、冷ややかな笑みと共にでもあしらえたのだろう。 しかし、そんな男達が自分に向ける感情を、自分も少年達に向けていた。 さらにそんな男達の中から本物を見つけなくてはならない事に気付いたが、その方法がわからないと。「小説とかドラマでしか知らないが。そんなに上辺だけなのか?」「上辺だけの男なら、流石に看破する自信があります。厄介なのは、世渡りに長けた人物です。一見して相手を見下しているのか尊敬しているのか分からない人物」「そうか……」 もはや理解の範疇を超えてしまい、それっきりむつきは何も言えなくなった。 何か解決策でなくとも、助言ぐらいするべきなのだろうが。 雪広の背負ったものが大き過ぎて、何がどう正しいのかすら分からない。 気軽に自分の目を信じろとか、付き合ってみないと分からないとかは言えなかった。 シンッと社会科資料室の中が静まり返り、窓の外の校庭や廊下から生徒がはしゃぐ声のみが聞こえている。 何か、何かないかと必死に考えているうちに、雪広の方が行動に移した。「さて、このお話はここで終わりと致しましょう」「え、ちょっと待て。俺はまだ何も」「解決策がおありで?」「いや、そんな直ぐには……」 両手をぱんと叩いて、努めて明るく雪広がそう終わりにと言った。 策もないのに食い下がれば、問い返されやはり黙るしかない。「ご心配なさらずに。これは雪広あやかが生涯を掛けて取り組む問題。それに長女がいますので、まだ幾分には気が楽ですわ。いま少しだけ、私は普通の女子中学生です」「すまん、呼び出しておいてなんの力にもなれなかった」「いえ、こちらも先生に思いを吐露して少しは楽になりました。相談とは、悩みを共有し共に考える事。決して解決策に辿りつけなくても良いのです。一人ではない、そう気付かされるだけでも」 再度お気になさらずにと言われ、むつきも暗い気分になるのは止めた。 きっとまだそんな直ぐの話ではない。 雪広自身が言った通り、生涯をかけて解決していく問題である。 また何時か、雪広が行き詰まった時にでも、どうしたと声をかければ良い。 今度は自分だけでなく、美砂やアキラ、雪広に幸せになって欲しいと願う者と一緒に。「どっちが教師だかわからん台詞だな」「いえ、とても教師らしくありましたよ。人格は兎も角として、教師として先生は及第点だと思われますわ」「及第点……まあ、頼りないと思われるより、は……んっ、人格?」 人格と言った、人格と。 人格って何さ、教師として及第点なのに人格が駄目ってどういう事だ。「説明を要求する。人格は兎も角って、ちょっとひどくね?」「あら、そうでしょうか。教師と生徒という事は一先ず置いておいても、未成年にふしだらな事をする人間は失格だと思われますが。法でも定められていますよ?」「何一つ言い返せないが。お前や和泉、長谷川もか。良くある、教師に対する友達感覚というか。俺からは口にできないが、親しみのあるそういう間柄だと」「友達というのはちょっと」 軽く拳を握った手を口元に当て、苦笑いをされてしまった。「いやいやいや、お前。アキラの祝勝会とか、あれだけ俺の金で飲み食いして。入りたい時に入りたいだけ露天風呂に入っておきながら」「先生、ご自分の胸に手をあてて御覧なさい」 言われた通り、当ててみる。「未成年者略取」「ぐふっ」 雪広の感情の篭らない言葉が、深々と突き刺さった。「未成年者誘拐」「ちょっ」「ご自分の管理建築物、ひかげ荘に生徒を招いてみだらな行為をしているのです。該当しないとは言い切れませんよ」「待って、お願い待って」 椅子からもずり落ち、ギブギブと床に膝をつきながら、懇願する。「先生、忘れないで下さい。私が願っているのは、クラスメイトが笑顔であること。先生を訴えないのは、柿崎さんと大河内さんが幸せを感じているから。もし、お二人の笑顔を奪うような事があれば、お覚悟ください」「絶対に不幸にはしない。絶対なんてこの世にはないけど、それでも絶対に。約束する。それに俺自身、あの二人だけは絶対に手放さない」「よろしい。それでは、長々と失礼いたしました。相談にのって頂き、ありがとうございます。それと、ご友人と言う言葉は、考えておきます」 雪広がもう一度失礼しましたと、社会科資料室の扉を開けて退室していいく。 扉が閉められて直ぐに、むつきはへなへなと座り込んだ。 大河内の件も含め、何も言ってこなかったので勝手に許された気になっていた。 和泉だって内心ではどう考えているかは不明だ。 長谷川は一応美砂の親友となったが、ひかげ荘の三階を使いたいというドライな関係。 その長谷川がある意味で、一番心を許せるのではなかろうか。「当然と言えば、当然だが。ショックだったな。一番最初に教師として認めてくれた雪広だけに……だからこそ、あの態度なのかな」 ほげっと大切なものを落としてしまったかのように、むつきは天井を見上げていた。 一緒にご飯を食べたり、着衣ありで露天風呂にさえ入ったのに。 彼女のクラスメイトに手を出しておいて、好かれていると思う方が間違っていたのかもしれないが。 なんだか何もやる気がしない。 まだお昼休みは二十分を回ったところだが、午後の授業までに心は回復するだろうか。 温かな日差しの中でリフレッシュの為に、一眠りでもした方が良さそうだ。 座り込んでいた床から立ち上がり、お尻を払ってからパイプ椅子に座る。 その数秒後に、再び社会科資料室の扉が廊下側から開かれた。「先生、みっけ」 ひょっこり顔を覗かせ、素早く入ってきたのは美砂だ。 注意深く周囲を見渡しながら、その後ろからアキラも続いて扉を閉め、鍵を閉めた。「委員長が教えてくれたんだ。先生が落ち込んでいるかもしれないからって」「なにアイツ、ツンデレなの。もう、俺がどう思われてるか分からんくなってきた」「先生を支えてるのは、世界一可愛いお嫁さんや彼女だけじゃないって事。私達、今度一度身体チェックを受けなさいって手配してくれてるし」「ああ、アイツまさしく委員長だわ。クラスメイトの事を本当に考えてる」 確かに二人共に体つきこそ大人顔負けだが、まだ十四の少女でもある。 口では愛してる好きだと言っても、むつきはそこまで頭が回っていなかった。 雪広はクラスメイトの美砂やアキラの事を、本当に大事に考えているのだろう。 だが、ふとむつきは思った。 雪広財閥の娘として、自由な恋愛を望めない反動でもあるのかと。 あの雪広の心の内を同性ですらないむつきが、言い当てられるかは激しく疑問だが。 とりあえず、好意には甘えようと美砂を膝の上に乗せた。「先生、一杯慰めてあげる、それとも応援? アレで結構、委員長も先生に気を許してはいるんだから」「そうか? ボロクソ、言われたけど。アキラはこっち」「ひかげ荘での委員長、教室に生徒だけでいる時並みに生き生きしてる。もし本当に心底から先生を嫌ってたら、そんな顔さえ見せてくれないはず」 隣にパイプ椅子を並べ、そこに座ったアキラの手を握る。 慰められているだけか、本当の事かは良く分からないが。 やはり先程思った通り、また行き詰った時には皆で相談にのってやろうと思えた。 -後書き-ども、えなりんです。今回はあやか回、と言っても恋愛感情なんてあるはずもなく。むしろマイナスからのスタートです。主人公もあやかが悩んでいた事までは気付きましたが、友好な解決策・または助言が出来るわけでもなく。ちょっと無力な感じでした。あと前半の授業風景。割と頑張って想像して見たのですが。多分、あんな感じですよね。それでは次回は土曜日です。