第百二話 神楽坂がいたじゃん 九月に突入したとはいえ、一日前はまだ八月であり、残暑なんて生易しい日差しが照っていた。 そんな輝きに負けじとホームルーム後には、にぎやかな生徒の声が麻帆良女子中等部の校舎に響いている。 始業式である今日は、昨今は珍しくなった半ドンであり、残っているのは部活がある者であろう。 久しぶりに会ったクラスメイトと昼食を共にし、きゃっきゃとはしゃいだ声がカーテンの隙間から聞こえた。 むつきもまた、世間的にはアタナシアが作った、その実はさよが作ったお弁当を食べたばかり。 作って貰ったと言ったら、何やら瀬流彦がこの世の終わりでも見たような顔をしていたが失礼な。 他の男の前では知らないが、むつきの前でのアタナシアはちょっとエロイだけの普通の女の子だ。 仕返しに、彼女の作った弁当美味いと何度も呟き、業者の弁当を食べる瀬流彦にハンカチをかみしめさせてやった。 そんな男の小さなプライドがぶつかるどうでも良い話は置いておいて。「熱かったりしないか?」「だ、大丈夫。アル」 相も変わらずというか、例の社会科資料室にいるむつきである。 首を真下に向けて腕の中にすっぽり収まり胸に顔を付けているのは、言葉遣いから分かる通り古だ。 たかが資料室に空調なんてあるはずもなく、埃っぽくも蒸し暑い室内であった。 首筋にちょっと汗の粒を浮かせながらも、古はむつきの言葉に首を振っては心音に耳を澄ますようにしていた。「その、できれば……もう少し強くても、全然問題ないアルよ?」「了解」 直接的には言わず、ややぼかしてリクエストされたため、彼女の背中から腰に回す腕に力を込める。 武道四天王と言われる割に、背も小さく華奢とは言わないが包み込める体つきだ。 むつきの腕に込められた力に抗わず流されるように、古は今よりもっと体重を預けて来た。 他の生徒達のはしゃぎ声やセミの鳴き声がとても遠くのモノのように聞こえる。 互いの立場故に、人知れず身を隠して逢瀬を行う背徳感は、むつきと言えど慣れるものではない。 それどころか恋人としての立場さえまだ数日の古は、これ以上ない程に顔が赤かった。「なんだか、この沈黙も。先生、なにか言って欲しいアル」「なんか柑橘系っていうか、古って甘酸っぱい匂いがする」「…………」 どうやら、今以上がまだあったらしくトマト並みになった顔を古がむつきの胸に押し付け隠した。 そんな古を見て、可愛いなとちょっと前かがみになって柔らかな髪の中に鼻を埋める。 夏場なのでふわりと汗の匂いが香るが嫌な物では決してなく、本当に甘い匂いとしか思えない。 昼間からしかも学校で二人が何をしているかというと、古の充電である。 放課後、つまりはこれから古は責任を取る形で、大勢の男たちと決闘をする予定だ。 勝敗そのものは古は当然としてむつきもあまり心配はしていなかった。 ただむつきも春日の面倒や、水泳部のことがある為、応援に駆けつけることはちょっと難しい。 なにせ数が多いので時々覗くことはできるが、ずっとその場にい続けることはできないだろう。 なので決闘を前に、激励という形で古を呼び出して静かにイチャイチャしているわけだ。「んっ、も、もう大丈夫アル」 そして我慢の限界に達したというか、充電し過ぎて爆発するとばかりにパッと古が離れていった。 ほらこの通りとばかりに、真っ赤な顔で鼻息も荒く、軽く力こぶなんて作ってみたりしている。「そっか。一応、小鈴についててやってとは頼んでるけど。口八丁で丸め込まれないように」「あはは、殴り倒すのは得意アルけど。これで絶対最後と皆に納得させる自信はないアルね」 今朝方はそう宣言したが、この後で負けた生徒が本当に最後だと納得してくれるかは不明だ。 結局今までの修行は何だったんだと自棄になられても困る、古にとっても相手にとっても。 なのできちんと相手を納得させられるよう、オブザーバーを小鈴に頼んでおいたのである。 古も自分のことはしっかり分かっているようで、親友の小鈴がセコンドなのは問題ないらしい。「それじゃあ、行ってくるアル。先生の為に、全勝をささげるアル!」 なんともらしい言葉を口にし、古が気恥ずかしさから逃げるように鍵を開けて扉に手をかける。 そのままがんばれと見送るのも良かったのだが、むつきは逃がさないとばかりに一歩を踏み出した。 引き戸が開かないよう先んじて伸ばした足で支え棒をし、鍵をかけ直す。 それから背を向けていた古を今一度抱きしめ直し、鍛えられた腹筋が分かるお腹に腕を回した。「止めはしないが、怪我だけはするなよ」「わわ、アル」 ただでさえ気恥ずかしいのに、不意打ち過ぎると古の体は小刻みに震えていた。 あまり虐めるのも決闘に支障がでるといけないので、手短に要件を伝えるのが良いだろう。 もう少しだけとでも言うように、身長差から頬ずりは無理だが耳元にささやく様に唇を寄せる。「それと、決闘終わったら。きちんとファーストキス、やり直そうか」「ファーストキにゅ?!」「ご褒美があれば、やりがいもあるだろ。これ、前貸しな」 そのまま古の耳元から滑り落ちるように、耳たぶに唇を掠らせながら頬にちゅっとキスをする。 狙ったわけではないが、ちょうど頬に汗の粒があり唇を濡らし舌先に甘酸っぱい味が広がった。 古の反応といえば、もはや語るまでもないだろう。 過充電により顔どころか全身真っ赤だが、目をぐるぐるさせながらも口がちょっと笑っている。 嬉しさと気恥ずかしさ、ご褒美への期待といろいろと入り混じった結果に違いない。 そしてむつきの腕を振り切って逃げようとしたのだが、動揺から手があべこべな動きをしていた。「あ、開かない。開かない、ア。開いた、やった。お、覚えてろアル!」 鍵が壊れると心配になるぐらいに扉を鍵ごとガタガタと揺らし、開くなり飛び出した。 三流の悪役のようなセリフを残して、これ以上させるもんかとばかりに走って逃げていく。 ひかげ荘へは、桜子と同時入寮ではあるがなんとも対照的な反応である。 皆同じ反応ではないのは、それぞれの持ち味があって可愛いものだが。 ちょっと可愛がり過ぎたかなと、携帯のメールで小鈴に再度古のフォローをお願いとメールした。 了解ネとキスマーク付きでメールが返って来た頃には、良い時間である。 そろそろ教室にいかないとと、社会科資料室を出るとばったり同じく向かおうとしていた高畑と会った。「やあ、乙姫先生。さっき、古君が凄い嬉しそうに走っていったけど」「ほら、今朝のアレですよ。決闘が楽しみだったんじゃないんですか?」「なるほど、例の」 高畑も今朝の騒動は耳に入れているというか、その時は会わなかったがその場にはいたのだろう。 最後の決闘という宣言も耳に入っているようで、古君も大変だなと笑っていた。 そのまま距離は殆どないが、連れだって二-Aの教室に向かいがてら打ち合わせを行った。「僕は水泳部のミーティングがあるんで長居はできませんけど、高畑先生も美術部の顧問ですよね」「んー、うちはまだ三年生は文化祭が終わるまで引退しないからね。春日君のことは、僕が面倒をみるよ。一学期は色々と迷惑をかけたけど、やっと本腰をいれられそうだ」 本腰入れられてなかったんかいという突っ込みたいが、あれだけ出張三昧なら当然か。「そうそう、あとでちょっと神楽坂について聞きたいことがあるんですよ」「明日菜君の?」「ちょっとした疑問みたいなもんです」 むつきがその内容を説明する前に、短い距離が終わって教室は目の前であった。 時刻は予定の十三時の十分前、春日のことだから遅刻ぐらいしてくるかと思ったのだが。 意外や意外、その姿は既に教室のなかにあり、あろうことか自主的に宿題を広げ頭を悩ませていた。 他に誰か監視しているわけでもなく、教室内にいるのは春日一人である。 これは一人だけ夏休みの宿題に黒星をつけてしまったのが、よっぽどショックであったのだろう。 思わず高畑と顔を見合わせて、ため息まじりにやれやれと笑ってしまった。 後悔先に立たず、これはこれで中学生らしい良い経験、教訓なのではないかと。「やってるな、春日。わからんとことか、あるか?」「お昼ご飯の間、皆がよってたかってさらにどや顔でいろいろ教えてくれたから大丈夫ッス」 だから私を放っておいてとまで言いそうだが、当然そういうわけにはいかない。 ただし、春日に関しては緊急度が低そうだったので先に高畑への用事を済ませておこう。 あまり邪魔するのも悪いので、ちょっと廊下へと指さして高畑を誘った。「春日君、僕と乙姫先生はちょっと廊下にいるから何かあれば遠慮なく声をかけてくれるかな」「はーいッス」 念の為、春日にも高畑がそう声をかけてから、入って間もない教室から再び廊下へ。 夏休みの宿題にのめり込んでいる春日が聞き耳を立てるとは思わないが、廊下でも窓際へ立った。 窓から降り注ぐ日差しがちょっと暑いが、窓に背を預けるようにして並び立つ。 これが外ならタバコの一つでも高畑にすすめるが、そういうわけにもいかず直球を投げる。「聞きたかったのは、神楽坂の親権についてなんです」「へえ、それはまたどうして?」「ほらあいつ、夏休みも散々バイトしてたじゃないですか。平日も早起きして新聞配達してるらしいですし。一体、誰が神楽坂の保護者なのかって」「それなら、学園長だよ」 意外過ぎる名があっさり出てきて、あれっとむつきは小首を傾げた。「神楽坂は小さい頃に高畑先生に連れられてきたとかなんとかじゃ」「それはそうなんだけど。ほら、僕みたいな独身者は、しかも明日菜君みたいな女の子の保護者にはなかなかね。そもそも彼女は僕の恩師の関係者なんだけど、学園長に色々と便宜をはかって貰ったのさ」 なんだか微妙な言い回しであったが、神楽坂は高畑の恩師の子らしい。 独身者が小さな女の子の保護者になれないことも理解できる。 女の子どころか独身者が男の子であろうと養子をもらうのはなかなか難しかったような。 困り果てた高畑が、学園長に助けを求めたのか、向こうから手を差し伸べたかはどちらでも良いが。 結果的に、法的にも実質的にも学園長が神楽坂の親権を持っているに違いない。「学園長ですか……よりによって、うわあ。最近、名前を憶えて貰ったけど本来ぺーぺーの俺が気軽に声をかけて良い人じゃないんだよなあ」「はっは、我々はしがない平教師だからね。けど、乙姫君はどうして明日菜君の親権の所在を聞こうと思ったんだい?」 さすがに学園長に気軽に尋ねるわけにはと困っていると、逆に高畑から聞き返された。 教師が踏み込むには非常に微妙な問題故に、尋ね返されるのも当然だろう。「さっきも言いましたけど、神楽坂ってバイト三昧じゃないですか。夏休みもひいひい言ってましたし。あれって、ちゃんと援助が貰えていない育児放棄なんじゃないかって」「ああ、さすがにそれはないよ。明日菜君にはちゃんと説明したはずだけど。元々は、学園長が学費から生活費に至るまで全部面倒を見るはずだったんだ。小等部の中学年頃ぐらいまでは」「え……あ~、確かに中学生も厳しいですけど、小さい子にバイトなんかできないですもんね」「女の子は精神的にも大きくなるのが早いからね。高学年頃に、お世話になってばかりじゃ申し訳ないってバイトを始めたんだ。全部は無理でも、お小遣いや生活費ぐらいはって」 中等部からは寮住まいなので居住費や光熱費も、学費に含んで学園長が払っているのだろう。 だから神楽坂が払っているのは本当にお小遣いと食費ということになるのか。 なんだか当初思ってた育児放棄なんて、話を聞く限りは影も形もないではないか。 神楽坂が若干身の丈に合わない大人の面を見せようと、ひいひい言っている気がしてきた。 その当人は文句ひとつ言わず、懸命に働いてお金を稼いでいるので大人ぶりたいというのとも違うが。 とにかく、それならそうとちゃんと言って欲しかった。 それとも親権なんて普段使いそうにない言葉を使ったせいで、神楽坂を混乱させたむつきが悪いのか。「じゃあ、仮に学園長を説得するまでもないですけど。保護者である学園長が全部出すと言っても」「明日菜君が断るだろうね。むしろ、変に話を持ち出すと負担をかけてるんじゃって深読みして自分を追い込みかねないかな。僕も彼女にはもう少し、頼ってくれても良いとは思うんだけどね」 女の子として対等な関係になりたがっている神楽坂に、それは酷な願いだろうが。「なんだか、あまりこの件に深く突っ込まない方が良い気がしてきました」「微妙なところだね。明日菜君には、お金のことなんか気にせずもっと学生生活を楽しんで欲しいんだけれど……」 高畑もそうだが、元々は学園長が全部金銭的な面倒もみていたことからそれは二人の願いなのだろう。 ならばその願いは、むつきの願いと全く同じである。 しかし肝心の神楽坂が分かりましたと言いそうにないのであれば、余計なお節介に過ぎないか。 せめて、単純にお金をだすからではなく、神楽坂も納得できる代替案が必要そうだ。「分かりました、色々と教えてくださってありがとうございます高畑先生」「いや、僕や学園長もちょっと明日菜君に甘えてた部分があったかもしれないね。君がこう言いださなきゃ、明日菜君がそう言ったからと彼女が学生を終えるまで忘れたままだったよ」「それじゃあ、申し訳ないですが引き続き春日のことをお願いします。僕は水泳部のミーティングがありますんで」 改めて、高畑に軽く頭を下げて、むつきは水泳部のミーティングへと向かった。 頭の片隅では、神楽坂も学園長、高畑も三人とも納得できる答えを探しながら。 水泳部のミーティングは、例によって一年生の朝日のクラスである一-Dの教室を借りて行われた。 三学年分の水泳部員が集まれば、教室一つでさえ手狭に感じるはずであったが。 既に夏の全国大会を終えた三年生は引退済みで、集まったのは二年生と一年生のみ。 約五十人を超えるぐらいで、全員に椅子はいきわたらなかったが足りない分は調達済みであった。 部員全員が仲の良い子同士集まっては席に座り、普段の授業のように教卓に視線を集めている。 だがむつきは、教室の前にこそいるが隅っこにいて集まる視線の対象外だ。 視線を集めているのは、新部長であるアキラと筆頭マネージャである亜子、そして引退したはずの小瀬であった。 しかも教卓に手を着き乗り出すようにしているのが小瀬で、両サイドに半笑いの亜子とアキラという布陣だ。「はい、というわけで現役を引退した前部長は、引き続きコーチとして水泳部に残ります。よーし、目の上のたん瘤だとか思った二年生は正直に手を上げて。正直、私もそう思う」 誰もが思っていたことを、あろうことか小瀬が口にしたわけだが。 顧問であるむつきや、新部長のアキラ、筆頭マネージャの亜子が突っ込まないのである。 既に外はおろか、内堀まで埋まってるじゃんと、特に一部の二年生が微妙な顔をしていた。 三年生と二年生で確執があったわけではないが、やはり私たちの時代だと意気込んだ直後に小瀬がいれば、そういう顔になっても仕方がない。 なので軽く手を叩いて視線を集めたむつきが、簡単に事の次第を説明しようとする。「正直なところ、今小瀬に抜けられると指導できる人間がいないんだよ。新部長のアキラは部のエースだし、コーチ頼むわけにもいかんだろ」「あの、可能な限り私も頑張るよ」「はい、大変失礼かもですけど。アキラ先輩には、自分の練習に打ち込んで欲しいです。アキラ先輩はうちの水泳部の希望の星なんですから。むしろ、コーチングは私が小瀬先輩から習います!」 フォローのようにアキラが自分もと言い出したが、一年のまとめ役の朝日が手をあげた。 むつきや小瀬にどうぞと言われるよりも前に、自分の意見と希望を口にする。 以前彼女が更衣室で言っていたことだが、彼女の目標は小瀬のような管理する側としての部長だ。 ならばコーチングに関しても、小瀬がいる間にきちんと引き継いでおきたいのだろう。「私ものりりんと同じ、かな。アキラには来年、是非リベンジして貰わなきゃならないし」「団体戦でも、全体の底上げよりアキラが早くなってくれた方がね。もちろん、私らもタイム下げないよう頑張るけど」「そもそも、アキラと私達じゃ水の抵抗が違うし。同じレベルの小瀬先輩のコーチの方が安心できるし」「よーし、貧乳言った奴は表に出ろ。最近ちょっと大きくなったから、ぱふぱふし殺してあげる」 朝日の言葉を受けて、小瀬のコーチやアキラの練習の専念は好意的に受け止められたようだ。 ただし、落ちに使われた小瀬は、自分の胸を鷲掴みにして美乳であると胸を張った。 反対にアキラは腕で胸を圧迫させるように、こそこそと教卓の下に隠れ始めていたが。「もう、アキラ。部長さんなんやから、今までみたいにこそこそしとったらあかんよ」 むしろ堂々とこの立派なぶつを誇るべきとばかりに、後ろに回り込んだ亜子に思い切り揉まれていた。 亜子のきゃしゃな指でもたおやかに形を変えるそれに、幾人もの部員がくっと唇をかみしめている。「まあ、こんな感じで。若干アキラは、人を纏める能力が欠けてるしね。ともかく、まだしばらくは私がビシビシ扱いてあげる。さすがに卒業したらわかんないけど」「それまでには、なんとか俺と朝日が半分ぐらいずつコーチング能力引き継ぐわい」「先生は謙虚です、憧れません。私は九割で良いです」 若干脱線したりもしたが、小瀬が引き続きコーチをすることに対する反対意見はなかった。 小瀬が目の上のたんこぶになりかねない件も、むつきが上手く立ち回れば良い。 例えば、練習内容の相談という名目でしばし小瀬を監督室に押し込め、二年生が部内での最上級生としてふるまえる環境を適度に提供したりと。 その間、監督室で若い男女がナニをいたしても、バレなければ問題ないわけで。 いや本当、顧問というものは気を使うものである。「それじゃあ、私はあくまで練習のコーチだから。この場はアキラに譲るね」「ほら、アキラしっかり立って。部長さんなんやから」「分かったから、胸で遊ばないで。怒るよ、こら」 相変わらずおっぱいを揉みっぱなしの亜子へ、両手を上げてやや棒読みでアキラが怒った。 それはひょっとしてギャグでと聞きたくなるような迫力のなさだ。 むしろ、アキラでなければ可愛い子ぶっていると集中攻撃を受けそうなやり取りである。 特にこらっと腕を上げた時に、胸がぶるんと揺れたのでまたしてもくっと唇を噛んだ子たちから。「それで、次の目標は秋の新人大会なんやけど」「無視された?!」 本当にアキラが部長でと思いつつ、代わりに亜子がミーティングを進め始めた。 スケジュールの把握は任せろとばかりに、何時に大会があって何時までに何を決めなければならないのか。 うしろでオロオロしているアキラを置いて、進めて行ってしまう。 その様子を見ながら頑張れアキラと心の中でむつきがエールを送っていると、教卓を離れた小瀬が近づいて来る。 予め用意してあった椅子をむつきの隣に寄せ、座り込みながらむつきの腕を突き意識を振り向かせてきた。「先生、こっちはこっちで会話したいことあるんだけど」「お、なにかあったか? 和泉や大河内からじゃ、駄目なことか?」「あの子達は今、部内を纏めるので手一杯だから。ほら、全国大会で私が指摘した件」「なんだっけ……えっと、そう。あれか、アキラの部内での競いあえるライバル」 最近はちょっと忙しかったので忘れていたが、確かそんなようなことを小瀬に言われていた。 先ほども部員ないから声が出ていたが、アキラは水泳部の希望の星、エースである。 同じ実力の人間が全くいない突出した実力者。 しかも、周囲が希望の星なんて言うぐらい今の水泳部員の中にアキラに勝ってやろうって子がいない。 もちろん新部長であるアキラに対して、協力して部を纏めようという子ならいくらでもいる。 水泳でアキラと競ってそのエースの座を奪ってやろうという気概がはなからない子たちばかりだ。 良く言えば水泳部員は仲良しだが、ちょっと馴れ合いが過ぎる面もあった。「確かに、言われてみれば今の部員でアキラのライバルになれる子はいないか」「ポテンシャル的にも精神的にもね」 当たり前だが、こんな話は部員に聞かせられないのでお互い囁くような声でのやり取りである。「なら、他の部からポテンシャルのある子を引っ張ってくるか? いれば、だけど」「それもちょっとねえ……ほら、三年生が引退したからって今から二年生が入部したら。しかも、アキラに勝とうとしたらひんしゅくものだし」「殺伐とした状況になりそうだな。そもそも、そんなポテンシャルの高い子、他の部が手ばなさそうだし。なにこれ、詰んでねえか?」「だよね、なんとかしてあげたいけど……」 三年生が引退し、目の上のたんこぶがいなくなったという時期も悪いが根本的な問題もあった。 そんな今から水泳を始めて、アキラを焦らせるようなポテンシャルの高い子である。 小瀬も半分諦め気味であったが、ふと誰かいなかったっけとむつきは引っかかっていた。 最近、水泳に向いているかは別として、凄いポテンシャルを持った子を見たような気がする。 割とむつきに近しい人間で、亜子やアキラとの関係も良好、そうであれば突き上げも多少和らぐ。 なによりちょっと勝気で、あやかとのやり取りを時折見る限りは負けず嫌いな面も…… いた、物凄いポテンシャルを持ち、しかも運動部に入っていない逸材が一人。「神楽坂がいたじゃん。一応美術部って話だけど、文化部と運動部なら掛け持ちも」「誰、誰々その子。美術部にいるの?」 いけるんじゃないかとむつきが呟くと、小瀬の興味を当然ひいたわけだが。 神楽坂が水泳部に入ってくれるような未来がないことは、直ぐにわかることであった。 そもそも神楽坂は美術部に顔を出せているのか、彼女は他の子と違ってバイトで忙しい。 まさかバイト代を払って水泳部員になって貰うわけにもいくまい。「悪い、今のは聞かなかったこと、に……」 いや、待てよと聞きたそうに顔を覗き込んでくる小瀬を手で制しながら改めて考え直す。 神楽坂については当然だが、今自分が考え付いた馬鹿な考えについてである。 バイト代を払って水泳部員になって貰うという考えであった。 もちろん、そのままの意味ではない。 しかし、水泳部員となってお金を得るという意味ではあながちバイトと言えなくもないか。 昔ちらっと資料を見ただけでうろ覚えだが、麻帆良には奨学金制度と特待生制度があるはずだ。 毎年、優秀な生徒が何処からともなく集まる、または集められている学園都市である。 この手の制度がないはずもなく、奨学金制度も貸与ではなく返済は不要の給付型だったはず。「先生?」「ちょっと待て、今考えを纏めてる途中」 だがこの話を神楽坂に持って行っても、そのままではあまり意味はない。 この二つの制度は、あくまで奨学に対する金銭の給付である。 神楽坂の学費は、学園長が全て払っているため、この制度をただ利用するだけでは意味がない。 払ってくれる誰かが、学園長から制度に代わるだけだ。 だから発想を逆転させる。 現状、神楽坂は生活費を自分で稼ぎ、学費を学園長に払って貰っていた。 まずこれを逆転、つまりは神楽坂が学費を払い、学園長に生活費を払って貰うようにするのだ。 もちろん、金額はそれぞれ異なるだろうが、そこはまあ入れ替えただけと神楽坂に納得させる。 多少の金額差であれば、学園長や高畑はきっと快く協力してくれるはずだ。 そして学費を払うことになった神楽坂は、バイトではなく制度を利用してこれを払う。(水泳部に入って、秋の新人大会で優秀な成績を収めることが前提だけど……) これが一番大きな穴であるが、結構良い線をいっているのではないだろうか。 神楽坂も無茶なバイトをせずに済むし、一人の学生として部活動に懸命に打ち込めば良い。 まだむつきが思いついただけなので、誰かに相談してみる必要がある。 その誰かとは、高畑や学園長に他ならない。 それに事前に話を通しておけば外堀を埋めることになり、神楽坂を納得させやすくなるはずだ。「小瀬、ひとまずこの話はまた今度だ。ちょい心当たりはできたが、まだ確実じゃない」「希望があるだけ、マシ。確定しそうになったら、ちゃんと教えてね」 その時は小瀬のコーチング能力が必要だと、お願いするようにその肩に手を置き頷いた。「大河内、それに和泉も。ちょっと用事ができたから、抜けさせて貰うわ。あとで決まった詳細を教えてくれ。今日はミーティングのみで解散だな? 誰もプールは使わないな?」「うん、その予定。打ち合わせもなく、いきなり三年生抜きで練習できないから」「この後で私とアキラ、小瀬先輩の三人で新人大会に向けたメニューを組むぐらいやんね」「なら、その時にはなんとか俺も加わるわ。あと、そこに朝日もいれとけ」 早口でそうまくしたてると、膳は急げとばかりにむつきは二-Aの教室へと向かっていった。 まだそれほど時間は経っていないので、高畑はまだ春日の夏休みの宿題を見ているはずだ。 いきなり学園長はハードルが高いので、まずは高畑に今の考えを相談するつもりである。 思い付きからほいほい考えを巡らせたので、思い違い等あってはいけない。 などと冷静ぶってはいるものの、これが上手くいけばと若干興奮しながら速足でむつきは歩いていった。 -後書き-ども、えなりんです。明日菜は原作で陸上部の美空並みに速いとあったので。水泳でもきっとアキラ並みかなと、こういう案になりました。明日菜の金欠を回避しつつ、アキラのライバルにする。でも、高畑的に明日菜が仮に部活で有名になるのはどうなんだろう。流石にフェイトも、中学生の大会の情報手に入れる程暇じゃないでしょうし。実現するにしてももうちょい先かな。あと、小瀬は引き続き水泳部でのセックス要員。さすがに原作ヒロインの数が増えると共に出番減るかもですけど。それでは次回は来週の土曜日です。