第九十七話 逃げられなかったお前の負けだ 新規入寮者とでも言おうか、椎名たちが宿題を持ってひかげ荘に返って来たのは十二時過ぎであった。 当然ながらむつきも、昼飯抜きで宿題をなんて鬼畜ではない。 彼女達も一緒に四葉お手製のお昼ご飯、ピリ辛冷やし中華をに舌鼓を打った。 なんだかんだで午後一時から、食堂のテーブルを片づけてから宿題を広げたのだ。 ちなみにさすがに食事の人数が多かったので、後片付けは四葉とさよ、絡繰の三人がかりである。 カチャカチャとお皿のぶつかる音と水音をBGMに、新規入寮者は宿題開始であった。「うぇーん、なんで先生の家に遊びに来て勉強なのぉ」「全然、終わってない。いっそ忘れていたかったにゃあ」「まき絵もゆーなも、これ。旅行中に無理やり勉強させられた分ぐらいしか終わってへんやん」「二人とも、全国大会でいっぱい応援してくれたから。一杯、勉強見てあげる」 早速悲鳴をあげていたのは案の定というべきか、バカレンジャー佐々木と明石のコンビであった。 二人の宿題をぱらっと広げた亜子が、これは酷いと二人を半眼で睨むようにしている。 佐々木と明石は抱き合ってごめんなさいと逃避を試みるが、にっこり笑ったアキラが退路を塞ぐ。 来なきゃ良かったと半泣きになりながら、亜子とアキラのプレッシャーの中で泣く泣く始めていた。「私は一発に賭けて終わらせる派だ。前回の旅行時に殆ど終わらせたさ、今回で止めだ」「真名は相変わらず、危ない橋が好きでござるな。拙者はコツコツ、お茶でも飲みながら進めたでござるよ。双子の面倒もあるでござるし」 一方、大人組とも言える龍宮と長瀬は、方法は違えどきっちり終わらせているらしい。 もっとも、終わってはいても宿題の内容の点数までは不明だが。「古も、先生の気を引きたければきちんと宿題ぐらい終わらせるネ」「べ、別に私は。なんのことアル?」 同じ国からの留学生同士、古の面倒は主に小鈴が見るらしい。 時々、良い男ネとむつきの宣伝を交えつつ、いやあれは赤くなる古をからかっているだけか。 そのむつきはというと、夏休み初日の勉強会に間に合っていなかった木乃香と刹那の勉強を見ていた。 とはいえ、木乃香は元々勉学は優秀で宿題も終わりかけ、刹那もほどほどに終わっているので焦る必要はない。 結果的に、むつきを真ん中に挟んで今まで足りなかった日常的なスキンシップ中である。 木乃香とはテーブルの下で手を繋ぎ、椅子を寄せて肩を寄せ合ったりしていた。「えへへ、先生の手ごつごつしとる。こんな太いの、うちの中に入ったんか」「木乃香の中は暖かかったぞ。きゅうきゅう締め付けて、エロかった」「ややわ、先生。うち恥ずかしいえ」 きゃーっと嬉しそうに羞恥に頬を染め、むつきの腕に抱き付いていた。「あっ、刹那そこ引っ掛け問題に引っかかってるぞ」「えっ?」 イチャつきながら、きちんと刹那の宿題も見ていたが。「木乃香、先生独り占めしてずるい。あっ、そうだ。先生、ここわからないでーす」「それでは不肖、この雪広あやかがお教えいたしますわ」「ちぃっ! あっ、でも本当にわかんないから教えて委員長」 羨ましそうに指をくわえていた椎名がそうアピールするも、あやかに阻まれてしまう。 本人に悪気がないのは分かりきっているので、ならば次の機会を狙う為に今の疑問を解消にかかる。「ねえ、ご飯時から気になってたんだけど……」 そして宿題の進捗としてはそれなりだが、現在の集中力が一番足りないのは釘宮であった。 宿題こそテーブルの上に広げてはいるが、頬杖をついて半眼になっていた。 その視線の先は、木乃香とイチャついているむつきと、椎名に教えているあやかである。 どうも午前中の時と何かが違うと、あやかに尋ねた。「委員長、なんだか異常にお肌がつやつやしてない?」「それはもう、皆さんが宿題を取りに行っている間に。たっぷりと先生に可愛がっ」「そういえば、美砂たちが見えないけど。なんでいないのかな!」 頬を染め幸せそうに腹部に手を当てあやかが呟いたのを見て、釘宮は瞬時に覚ったらしい。 かなりの力技で、自分から振った話を強引に転換させていた。 ちょっとぐらい惚気させて欲しかったとでも言いたげに不満ながら、あやかが説明する。「我々は、夏休み初日に全て終わらせていますから」「マジで。あの美砂が……」「千雨は上で裁縫してて、美砂はモデル役。夕映は図書館探検部、和美は報道部。エヴァはネット碁、葉加瀬は地下の研究室。ちゃんと宿題終わらせた良い子は、夏休みを謳歌してるよ」 当然の権利ですとのむつきの言葉に、退廃的な生活してたくせにと釘宮が若干逆恨みだ。「先生、なんでも言うことを聞いてくれるお人形を皆に配ったって本当?」「だったら、私も部屋が欲しいかにゃあ。秘密基地に個室は基本」「私も寮以外に拠点が置けるのは心強い。なにより、超手製の防衛拠点だ。寮より防衛力は高いだろう」「んー、拙者も双子には隠しておきたいものもあるでござる。日々、家探しの腕前が上がっているでござるから。なかなか、手間でござる」 佐々木や明石はともかく、龍宮や長瀬は一体なにを持ち込むつもりか。「部屋はまだ余ってるから、好きに使え。ただ、人に触れて欲しくない物がある奴は三階な。三階は職人部屋みたいなもんだから。もしくは、小鈴と同じ地下か」「龍宮さんに長瀬さんの例の物は、地下で預かるネ。ここは寮よりも、プライベートがない空間ネ」 大よそ、龍宮はサバゲーのエアガン、長瀬は忍者道具なんだろうなとむつきは見当をつけていた。 龍宮の銃もそうだが、長瀬の忍者道具は刃物もありそうなので、確かに双子のそばにはおけまい。 あまり危ないものなら一応、先に俺の了承とれよとむつきは注文をつけておいた。「じゃあ、私は先生と一緒のお部屋が良いな」「漏れなく美砂もついてくるけど?」「なんですと?!」 またしてもと言いたげに、頭を抱えた椎名だがその言葉を撤回する様子もなかった。 精々がぐぬぬと歯噛みするぐたいで今のままだと、本当に突貫してきかねない。「やった。使わなくなったけど捨てられない体操の道具とか、寮の部屋を圧迫してたんだ」「んー、私はそういうのはないけど。秘密基地って響きにはひかれずにはいられないにゃあ」「ほらほら、楽しい想像も良いけど。手が止まってるぞ。ちゃんと勉強しない子には部屋あげないぞ」 ご褒美の前の小事だとばかりに、ちょっとは勉強の手が早まったようだ。 動機としてはちょっと不純かもしれないが、誰だって嫌な事をするにはご褒美が必要である。 大人だって、好きな事を仕事にしている人以外は、給料というご褒美のために働くのだ。 もちろん、家庭を持っている人は守る為に、結果的に給料を欲するわけだが。 夏休みの膨大な遊び時間を削る宿題という強敵の為に、ニンジンをぶら下げるのも仕方ない。「んー、やっぱなんだかんだで先生してる先生。うち、ちょい好きやえ。真面目な顔、恰好ええよ?」「サンキュ、前にも言ったな。ほえほえ笑ってる木乃香、俺も好きだぞ」「確かに前にも聞いたな。けど、今の方がキュンって嬉し恥ずかしやわ。せっちゃんも、うちのこと好き?」「え、こ……ここで言うんですか?!」 木乃香のキラーパスを受けて、顔を真っ赤にして興味津々な周りを慌てふためきながら刹那が見渡す。 そういうところが可愛いと、木乃香とむつきで片方ずつ、刹那の頬をぷにっと突く。「はあ……先生、お楽しみのところ悪いんだけど。ちょっと良い?」 なにか気に障ったのか、釘宮に睨まれ握った手の親指を立てて外を指されご指名された。 なにかというか、気に障ることしかしていない気もするが。 最後に木乃香の頬にキスをして、刹那の教師役をお願いする。 当たり前だが、椎名をはじめとして皆の視線を受けたが、ついてくるなと制しておいた。 考えてもみれば、一緒に風呂に入ったからといって急に腹を割って話せやしないか。 頬に一発張り手を喰らう覚悟で、ちょっと足音が荒い釘宮の後をついていく。 食堂を離れ玄関ホールを通り過ぎ、廊下のアキラの部屋の前ぐらいでようやく釘宮がその足を止めた。「せーの」 呼吸を整える呟きが聞こえた為、念のため足元を踏ん張って一撃に備えておく。 案の定、円を描くような足さばきで釘宮が素早く振り返りその手を振り上げた。「えっ?」 他のことは違い、当初から釘宮からは非友好的な空気を感じていたので覚悟はしていたつもりだ。 ただ振り上げられた手が握り絞められていたのは、正直予想外であった。 身構えていたつもりでも思わず待ってと声が漏れたが、間に合うはずもなく。 釘宮のグーパンチがモロ、むつきの右頬に食い込み視界がぐらついた。 ぐらぐらと目が回りそうになる中で後から痛みを感じ、後ろに二、三歩たたらを踏んだ。「痛ってぇ!」「痛ったい!」 ただ、むつきのみならず、釘宮も右手首を抑えてうずくまっていたが。「お前、なにしてんの? いちち」「て、手首を挫きました。いた、ねえ折れてない。折れてないよね、これ?!」「折れてたら、その程度で済むか。ほら、湿布張ってやるから来い」 なんで殴られた方が看病せねばならんのだと、少しだけ理不尽を感じつつも管理人室に連れていく。 押し入れの中に救急箱があったはずなので、釘宮をその辺の座布団に座らせ探し出した。 当人は相当痛かったらしく、涙目になりながら左手で右手首をさすっている。「ほら、貸してみろ。今度から、人を殴る時は張り手にしとけ。手を痛めないように人を殴るのってコツがいるんだぞ。あと、拳の握り方とか」「分かった……そこは、人を殴るなって言うところだと思うけど」「美砂と椎名の共通の親友だからな、お前は。叩かれる覚悟ぐらいは先にしてた」 でもグーだとは思わなかったと、小さな仕返しとして手首に張った湿布の上からパチンと軽くたたいておいた。「痛っ。あ、ありがと」「どういたしまして。でも、殴って終わりじゃないだろ?」「勝手に殴って、勝手に手を痛めて上に治療して貰って。凄く言いづらい」「知らんがな。吐き出すもん、吐き出した方がすっきりするだろ。お前も俺も」 ひかげ荘は実質的にも法的にも、所有物であり持家である。 その家の中で言いたいことも言えない子がいる状態は互いの精神状態にも良くない。「私は、宿題して美砂たちと遊んだら。暗くなる前に帰るから。部屋もいらない。偶に、遊びには来るけど絶対に泊まったりはしない。これだけは、先に言っておくから」 怒りだったり、申し訳なさだったり様々な感情が入り混じった表情で釘宮がそう呟いた。 当たり前だが、美砂や椎名とは違って、むつきに個人的な好意はないと宣言しているのだろう。 状況に流されないように、自分に言い聞かせている部分もあるかもしれない。 痛めていない左手を浴衣の上から胸に当て、軽く深呼吸してから改めて釘宮は言った。 むつきを睨む様にしながら、今度は怒りだけをその瞳に宿したように。「先生がさ、美砂と付き合ってたとは全然気にしてない。エ、エッチしちゃったのも。百歩譲って仕方ないと思う。話聞いたら、ちょっと美砂がアレだったし」 さすがにセックスについては羞恥に頬を染め、むつきから視線をそらしていたが。 直ぐに頭を振って余計なことを追い払い、改めてむつきを上目使いに睨みつける。「同時にアキラや委員長たちとも関係持ったのは、正直警察に駆け込むレベルだけど。本人たちが納得してることを部外者の私が言うのも違う気がするから、ギリ買収されておく」 そんなに四葉の牛丼は美味かったのかと、心の片隅で後で食わして貰おうとメモしておく。「でも、さっきのアレはなに?」「すまん、心当たりがあり過ぎて。どれ?」「食堂で木乃香とイチャついてたこと!」 ばんとちゃぶ台を左手で叩きながら、釘宮が声を荒げたがそれで怒られる理由が良く分からない。 こちらとしては、木乃香とはもう少し精神的な触れ合いが必要だと感じたからイチャついたわけだ。 午前中には亜子とアキラにも露天風呂で怒られたが、ひかげ荘を知る子が増えすぎた。 その為、初期からいる子と最近やってきた子では、特に性的な触れ合いで慣れが違っている。 仮に美砂たちと同じ気安さで、佐々木や明石に抱き付いたり胸を揉めば、悲鳴をあげられることだろう。 だから木乃香に対しては、お付き合いを始めたばかりの男女の触れ合いをしたつもりだ。「さっきも言ったけど、木乃香とイチャつくこと自体は当人たちのことだし良いけど。食堂には桜子もいたんだよ。知らないとは、言わせないから。桜子が先生のことを好きだってこと」「まあ、な。俺の自惚れでなけりゃ、結構好かれてるのは知ってた」「ここに来てからも、桜子ずっと先生に構って欲しそうにしてたじゃない。なのに、今までと変わらない大人の対応で。余計なおせっかいかもしれないけど、もっと構ってあげてよ」 そこまで言われて、ようやくむつきにも釘宮の言わんとしていることが分かった。 当たり前のことかもしれないが、釘宮は椎名の恋を応援しているのだ。 椎名のあの絶対幸運を知るだけに、それを抑えられるかもしれない可能性がむつきにあるからなおさら。 もちろん、これでむつきが美砂とだけ付き合っていたら、また対応は違っただろう。 釘宮は美砂ともルームメイトで部活も同じ、椎名と同じぐらい大切な友達に違いない。 しかし、むつきは美砂以外ともお付き合いしているので、椎名が増えても今更と言えなくもなかった。 なのに椎名のアピールを、これまでの様に半ば無視するむつきが、分からず手を上げるしかなかったのだ。「あまり意識してたつもりはないんだが……」 むつきはお嫁さんになると言ってくれた子を、むつきは万遍なく、惜しみなく愛している。 しかし、純粋な恋や愛より先に体で結ばれた子がいなかったわけではない。 美砂からして体が先であったし、千雨やあやか、亜子なども正直なところ体が先だ。 椎名があれほどアピールしてくれるのなら、気持ちより先に抱いてそれから愛しても良いはずである。 だが改めて考えてみれば、椎名に対しては少し気後れというか、身構えている部分があった。「軽く思い返してみても、椎名に応えなかった理由は二つある。まず一つ、椎名は態度で示してくれてるけど、まだ言葉をくれてない」「私まだ、左手は空いてるけど?」「別に乙女チックに好きって言ってくれなきゃ、やだとか言ってるわけじゃねえよ」 この幻の左がとでも言いたげな釘宮を、手で制してタンマをかける。「結構大事なことだよ。ここに住んでる子、全員が俺の恋人ってわけじゃねえ。エヴァとか絡繰りとか、葉加瀬に。四葉は、将来の約束したけどたぶんお互い体の関係はまだ想像してない」「あれ、違うの?」「ちげーよ。特にエヴァは義理の妹だ。俺が好きなのはアタナシア」「そっか、まだアタナシアさんがいたっけ」 忘れてたと、もはや釘宮は怒りを通り越して半笑いだ。「恋人じゃないけど、四葉を始め一定の好意は貰ってる。それこそ、一緒にお風呂に入ってくれるぐらいに。だから節操なく手をだしたからこそ、節度は必要なの」「えっと、意味わかんないんだけど……」「一緒に風呂に入ったらさ、普通は次求めるだろ。てか、その場で襲うよ。けど、相手の了承もなしに押し倒したらアウトだろ。半ば強引だったけど、一緒に風呂に入った釘宮はどう思う?」 そう尋ねられ、右手の痛みも忘れ、床に手をついて後ずさったのが答えである。 何時でも逃げられるよう、襖まで下がられてしまったが、構わず続けた。「だから、言葉がいるの。Aまで、Bまで、Cまで。椎名が言葉にしてくれねえと、どこまで踏み込んで良いかわからねえんだよ。特に椎名は豪運だから……」「私も久々に見たけど。うん、止めといた方が良いよ。やっぱり怖いってなった時、何かが飛んできて先生のが切り落とされたとかなったら気の毒だし」「こわ、怖い事いうなよ。別に椎名じゃなくても、他の子でも同じ対応するからな」 股間を抑えて、むつきもまた後ずさるのを目の当たりにして釘宮は思った。 刀子を遠ざける為にか、その為に飛行機に隕石ぶつけるぐらいである。 そういえば、あやかが某国の王系の血筋のやんごとなくお方の飛行機に隕石がぶつかったと言っていたが。 何ができるわけでもなかろうに、刀子がその現場へと急行していたようなと釘宮は思い出した。 現状、あまり重要な案件ではないので、まさかねと忘れ去ってしまったが。「とりあえず、納得した。マイナス十ぐらいの好意がマイナス七ぐらいになった」「お前の採点辛いよ。良いけど。それで、もう一つだが。こっちは俺の心の問題だ。美砂たちから俺の大学時代の、ひかげ荘にまつわる話聞いてるか?」「友達と彼女と宴会、あっ。別れさせられた件は、ごめん。聞いちゃった」「昔のことだから構わん。けど、その時の原因の女。どう思った?」 これまでの釘宮の行動から、どう思うも何も決まっているようなものであった。「最低だと思った。顔しか見ない奴より、よっぽど嫌な奴。先生の人格、まるで無視して」「椎名を疑うわけじゃないけど、あいつ俺の苗字欲しがってるだろ」「あっ」 当時の嫌な女とは違い、椎名はちゃんとむつきの内面だって見てくれている。 そもそも、彼女が惚れる切っ掛けとなったのは、むつきが全力で椎名を助けたからだ。 むつき一人ですべては解決できなかったが、頼れる人脈を頼り、出来る限りのことをした。 だからこそ、慰められた時にちょっとときめいてしまったのが切っ掛け。 その後で乙姫桜子という名が駄目押しだったが、最初の最初は違った。「情けない話だが、やっぱ当時を思い出しちまうんだよ。椎名は良い子だと知ってるし、苗字を欲しがってるだけじゃないことも。けど、やっぱどうしても身構えちまう」「そっか。ごめん、先生。先走って殴っちゃったかも」「椎名を想ってのことだろ。それに、お前も手を痛めたしお相子だよ」 それはそれとして、痛かったなと思いつつ恐らく腫れているであろう頬を片手で撫でる。 あまり触れていると、釘宮がすまなそうにするので最後の一撫でをしてきっぱりやめておいた。 現状、距離が離れているとはいえ管理人室に二人きり。 これが物語であれば、フラグが立ちそうなハプニングが起きそうなシチュだ。 これ以上ややこしくならないうちにと、釘宮と腹を割って話せたことで満足せねばならない。「うし、そろそろ食堂に戻るぞ。折角だ、宿題は終わらせとけ。俺は明日から、ほぼ学校に缶詰だから。昼間ならここで気兼ねなく遊べるぞ」「なんで、夏休みなのに?」「教師に夏休みなんてありませーん。旅行から、水泳部の全国大会まで。俺ほとんど、仕事してねえからな。そろそろ、仕事押し付けられた瀬流彦先生あたりがキレそうだ」 水泳部はまだしも、あの日本横断旅行は学園長のお墨付きで一応仕事扱いではあったが。 むつきのいない間のしわ寄せは誰かが引き受けなければならないわけで。 大抵、そういうものは若い先生にいくわけで、二ノ宮も部活持ちなので、担当クラスも顧問もない瀬流彦に回ってくるわけだ。 あと、何故か瀬流彦は若い云々以前に、学園長の派閥の中でもえらく立ち位置が低かったりもする。「釘宮、お前二十歳ぐらいの姉ちゃんとかいない? 瀬流彦先生に合コン開いてあげる約束、のびのびになってて。そろそろ、呪われるかもしれん」「いないけど。いても、瀬流彦先生に紹介するのはちょっと……。むしろ、先生の知り合いにちょっと馬鹿っぽい男の人とかいないの?」「俺の知り合いは止めとけ。マジで色物しかいないから。てか、観音知ってるだろ。あんな胡散臭い奴しかいねえよ」 ただし酒呑は、今朝方に世話になったばかりなので、心の中で奴は除くと付け加えておいた。 神楽坂から連絡はないが、上手くやっているかなと思いつつ襖を開ける。 釘宮とは一応決着つけた形で、他に鬱憤溜まっている子はいないかなと顔を思い浮かべる。 たぶん、佐々木はなにも考えていないし、明石も細かいことは気にし無さそうだ。 龍宮と長瀬はなにを考えているか分からないが、懐は深そうなので大丈夫だろう。 となるとやはり、椎名と相手をするのがちょっと怖い古か。「って、おお!」「どったの、先……桜子? それにくーちゃんまで」 襖を開けて一歩廊下へ出ると、待っていたように桜子が佇んでいた。 そのちょっと後ろには古が、さらにそのずっと後ろの廊下の角にも誰かいた気がしたが。 出てくる気配がないので、気のせいか。「宿題が終わったって、わけじゃねえよな?」「先生」「お、おう」 何時ものにこにこ顔とは違う、椎名がキリッとした表情を見せた為、思わずどもりそうになる。 その表情はどこか思いつめたようでもあったが、頬は赤く血色だけはやたらと良さそうだった。 そしてむつきがこわばった返事を返すや否や、駆け出した椎名がむつきの懐に飛び込んできた。 ちょっとボディブロー気味に、例の髪型をした椎名の頭が良い角度でめり込んできたが。 根性でその小さな体を受け止め、察したように背中に手を回した。「好きです。苗字のこととか、その辺は置いておいて。最初に来るのが好き。デジャブーランドで守ってくれた時、嬉しかった。私のために色々してくれて、胸がキュンってした」「そっか、釘宮との話聞いてたか」 状況的にそうなんだろうなと察すると、ビクッと椎名は体を震わせたが足に力を込めてより距離を縮める様に深く抱き付いて来た。「エッチはまだ怖いけど、頬っぺたとかおでこにチューは良い。服の上からならおっぱい触るのも良いよ。あとは、あとはえっと。先生の恋人になりたい!」「俺、美砂を始め一杯恋人いるけど。それに大っぴらにデートもできねえぞ?」「負けないよう頑張る。それい、先生。私の運を忘れてる。先生とのデート誰にも邪魔させないよ?」 テンパっているのか、若干目はぐるぐるしているが。 腕の中からこちらを見上げてきた桜子は、自信満々にそう言ってのけた。 ただ、彼女の運を考えると逆に、後戻りできないよう見つかってしまうことも考えられるが。 ある意味で、リクエストとも受け取れたので、精一杯の告白をしてくれた桜子のおでこにキスをする。 思った以上に、この子は惚れてくれてたんだと、嬉しさを表現するようにしっかり抱きしめもした。「分かった。恋人になった以上、大事にする。ほら、桜子。頬っぺた」 こんどはそっちからとむつきは自分の頬を指さし、桜子からのキスを強請る。 ますます顔を火照らせた桜子だが、ぎゅっと目をつむりながら背伸びをしてむつきの頬に唇を触れさせた。 気恥ずかしさから逃げ出そうとした桜子を、二度と手放さないとばかりにむつきが捕まえた。「にゃはー、超恥ずかしい。美砂が良く惚気るのが分かる。クギミーにも、この嬉しさわけてあげたい!」「クギミー言うな。あと結構です、惚気マシーンは美砂一人で。まあ、桜子が楽しそうでなによりだけど。先生、ちゃんと美砂と平等にね?」「俺はそのつもりだが、法的に結婚できるのは一人だけだからな。もう少し先の話か」 ちくしょう嬉し過ぎるとばかりに、懐の中で暴れる桜子を撫でながらあやしつつ。 若干の出遅れた感のある所在なさげに立つ古へと視線を向けた。「わ、私は……強い男が好きアル。それに古家の為にも私より強い男を婿に迎えなければならないアル。だから、この唇は私より強い男にのみ許すはずが、先生に奪われたアル」 むつきを直視できず、古にしては自信なさげに視線を廊下の上へと落としている。 なんと声をかけて良いか、謝ったところで古のファーストキスが戻るわけもなく。 どう声をかけて良いから分からずいると、げしっと後ろから足を釘宮に蹴られた。「ちょっと、どういうこと?」「旅行中にちょっと事故でな。桜子すまん。ちょい、釘宮にパス」 聞いてないぞと言いたげな釘宮に、懐き暴れ猫と化した桜子をいったん預ける。「古、俺はお前の為にお前よりも強くなってやることはできない。年齢的なこともあるし、そもそも俺は俺でやりたいこと、やらなきゃいけないことがたくさんある。お前だけのために、そのすべてを捨てられない」「責任をなんて言うつもりは、ちょっとしかないアル」 ちょっとはあったんかいと、言いそうな気配のした釘宮には先手を打っていうなよと視線で釘をさしておく。 古がここで、思い切ったように伏せていた顔を上げる。 しかし直接むつきを見ることはなく、その視線の先には幸せ一杯の顔の桜子がいた。 グッと唇を噛む様にして、迷いに揺れる瞳で絞り出すように古は言った。「さっき先生の腕に飛び込む桜子を見て、羨ましいって思ったアル。私も先生に触れたい、触れて貰いたい。けど、先生は私のために強くはなってくれない。どうしたら良いアルか?」 これが普段感情の赴くままに、それこそ闘争心の赴くままに生きる古なのだろうか。 今の古は、古家の為に強い婿をという理性と、むつきと触れ合いたいという感情の板挟みにあっている。 好みと実際の恋愛感情は全く別物。 古を縛り付けているのは、恐らくは幼い頃から言いつけられてきた古家の為にという言葉だろう。 例の旅行中に起きた事故によるキスから、古は時々むつきに目を向けるようになった。 四国のお遍路でむつきが体調を崩した時、腕っぷしだけの男ではと口にしたこともある。 出来ることは多く、使い道は正しい方が良いとも。 そこまえ視野が広がったにも関わらず、ここにきて腕っぷしの強さに拘るのは少しおかしい。 一言で強いと言っても、腕っぷしから学力、世渡りに、金儲けといろいろあるのだ。「なあ、古。確かに俺の腕っぷしは古より弱い。けど、当たり前だが歴史は俺の方が詳しいぞ。お前にあの旅行を企画して皆を連れて行けるか? お金に困ってる子に、バイトを紹介できるか?」「バイトなら、超に頼んでなんとか。でも、他は無理ある」「別に俺だって、なにからなにまで全部俺がって言わないさ。歴史の詳細では、夕映や宮崎に負けるし。旅行だって、学園長や新田先生に仕事を調整して貰ったり、木乃香のお父さんに宿をお願いしたり。バイトの件は大学の友達に頼ったな」 人に頼ることも多いが、同時に自分の頭や足で答えを導いたり決断することもある。「俺は腕っぷしこそ、古に劣るが。お前より弱いか?」「弱くないアル。武術しかない、私よりできることが多いアル」「まあ、十歳以上も離れてて俺が成人してるのもあるが」 古弱くはないと認めてくれたが、まだむつきを何時もの能天気そうだが腹の座った瞳で見てくれない。 理性と感情の板挟みもそうだが、桜子のように好きな人の懐に飛び込めない、それは古の弱さだ。 そういった意味では、弱いどころかむつきは強い。 好きだと言ってくれた子は全員この胸で受け止める、受け止めるだけの覚悟はある。「ほら、来いよ古。お前が知ってる男の強さなんざ、ほんの一部だ。俺が教えてやるよ、男の強さってやつを。来ないなら、こっちから行くぞ」「うっ、ぁっ……」 腕っぷしに劣るむつきが一歩を踏み出しただけで、古が一歩後ずさった。 まるで強敵を前に蛇に睨まれた蛙、金縛りにでもあったかのようにそれ以上動けないでいる。 また一歩近づくたびに、慄き瞳を揺らしながらむつきを見つめていた。 結局手を伸ばせば届く距離になっても、古は動けないままであった。「ほら、捕まえた」「ぁぅ」 先ほどまで桜子にしていたように、古を真正面から抱きしめ懐深くに収めてやった。 古が羨ましいといった状態を再現するように、髪を撫でつけ硬直をほぐしてやる。「まんまと捕まえてやったぞ。どうだ、俺は強いだろ古。逃げられなかったお前の負けだ」「負けたアルか?」「完膚なきまでにな。俺に惚れたお前の負け。惚れた弱みっていうだろ、俺にとっては隙だらけだよ」「そっか、負けたカ。もっと、体から力が抜けるアル。先生にもっと一杯、負けたいアル」 認めることで金縛りが解けたのか、むつきの腕に応える様に古も腕を背に回し抱き付いて来た。「美砂たちも、こんな感じで口八丁で惚れさせられたのが目に見えるわね。くーちゃんが、日本語に弱いのにつけこんで」「こら、人聞きの悪いことを言うんじゃありません」「数秒と間をおかず、桜子に続いてくーちゃんも口説き落としておいて?」「さーて。古も、後で一杯甘えさせてやるから。食堂に戻るぞ。桜子は、背中にでも飛び乗れい」 釘宮の鋭い突っ込みに耐え兼ね、抱き付いて来ていた古をお姫様抱っこする。 おずおずと、両腕を首に絡ませて来るのが普段のギャップもあって可愛いではないか。 そして忘れてはいませんとばかりに、釘宮に預けておいた桜子に呼びかけ背中を見せる。「先生、いっくよー!」「おわっ、助走つけるな。あっ、やっぱキツイ。どちらか、降りて貰えませんかね?」「いやアル。私に勝った男は、このぐらいでへこたれないはずアル」「私も、先生頑張って。ほら、おっぱい押し付けたげるから」 別の意味で力が抜けるとも思ったが、当ててんのよをされて頑張らねば男ではない。 古をしっかりと抱え直し、背中の桜子もしっかりとおっぱいが当たるように抱え直した。「先生が私の好みと違う意味で馬鹿で良かった。うり、うり」「馬鹿、止めろ釘宮。マジで、わき腹突くな」 これも試練だとばかりに、釘宮にわき腹を突かれ苦しいこと、苦しいこと。 特に釘宮とはわだかまりらしいわだかまりもなく、喜ばしい結果となったか。 二人を速く食堂へと連れて行きことの次第を報告せねばと、急ぎ足になった。 決して、釘宮のわき腹突きに耐え兼ねたからではなく、当たらな恋人の生誕を祝ってである。 みしみしと廊下の板張りを軋ませながら歩いていると、玄関ホールで誰かが階段を下りてくる音が聞こえた。 思わず立ち止まってそちらを見上げて目に入って来たのは純白であった。 シースルーのヴェールに、細かい細工と刺繍がふんだんに施され、それこそ真っ白な花を世界中から集めて作り出したようなウェディングドレス。 各種白いバラで作られたブーケを手に現れたのは、長い髪をまとめメイクまで施した美砂であった。「桜子、それにくーちゃん。見よ、この圧倒的な正妻力。先生と私の愛欲にまみれた退廃的な日々は、伊達じゃない!」「なにどや顔してんのお前?! 格好と台詞が全くつり合いとれてないんだけど!」 本人は華麗などや顔を決めているつもりかもしれないが、場違いにも程がある。 美砂の格好もそうだが、つい先ほどまでかなり真面目に会話していただけに。 正妻力(笑)とか、末尾に余計なものがついているとしか思えなかった。 全員がなかば唖然としていると、どたどたと慌てふためいた千雨が転びそうな勢いで降りて来た。「この馬鹿、まだ最終チェックが。壊すなよ、マジで壊すなよ。この夏休みでどれだけ時間を費やしたと思ってんだ。お披露目には、もっと相応しい舞台をぉ!」「鏡見てたら、私のあまりの可愛さに性欲を抑えきれなかった。反省はしてない。先生、今夜はウェディングプレイで決まりっしょ。正直、もう濡れてる」「いやぁっ、私のドレスがぁ!」 宇宙空間に散っていく某白い悪魔の後継機を見たかのように、千雨が髪の毛を振り乱し叫んだ。「こら、美砂それ脱ぎなさい。千雨がマジ泣きしてんだろうが!」 これだけ騒げば当たり前だが、なにが起きたどうしたと食堂からアキラたちが出てくる。 遊戯室でネット碁をしていたエヴァや、恐らくそのお世話に駆り出された絡繰も二階から顔を覗かせていた。「ひええ、柿崎さん綺麗です。憧れてしまいますぅ」「ジャンルが違えど、良いモノを見た後は創作意欲が沸いて仕方がないです。今日のお夕飯は少し腕によりをかけましょうか」「おお、五月に火がついたね。さすが本物は本物を知るヨ。誇って良いネ、千雨さん」「ふん、刺繍についてはちょっと私も手伝ったんだぞ」「及ばずながら、空き時間にお手伝いを」 さよから四葉、超にと評判はかなりのものだが、千雨を慰めるには至らなかったようだ。 大部分は千雨が作ったのだろうが、以外にもエヴァや絡繰もかかわっていたらしい。 このプライベートが希薄なひかげ荘で良くも、皆にばれずここまで作り上げたものである。「良いな、良いなウェディングドレス。私も着たい」「まき絵、結婚式前に着ると今季が遅れる。私たちは、先生に貰って貰うから良いけど」「ゆーな、トイレ行くとか言ってなんでそんなとこにおるん?」「ふぁっ?!」 何故か、露天風呂がある方の廊下に隠れるようにしていた明石は謎だが。「ふっ、私達には縁遠い話だ」「でござるな。生憎、我々は一般的な男性よりも背丈があるでござるし」「あら、先生はそのような細かいことは気になさりませんわよ?」「おー、なに皆面白そうなことしてるの。しまった、事件は外じゃなく内で発生してたか」 単純な憧れとは違い、似合いそうもないという意味も込めて呟いた龍宮と長瀬の言葉をあやかが一蹴する。 わいのわいのと、皆で千雨の作ったウェディングドレスの批評をしているとカメラマンが返って来た。 外の暑さに気怠げにしていたのもつかの間、美砂の格好を見るや色めきだった。 美砂の行動はともあれ、これだけの被写体はそうそうあるものでもないだろう。 特に同級生のウェディングドレス姿など、早くても五年は見られないはずであったのに。「んがーっ、もう自棄だ。ウェディングドレスは着て、なんぼ。全員、撮影室に来い。即興で全員にサイズ調整して先生との結婚写真撮るぞ。来い、ある意味で相棒!」「良いね、良いね。なんか乗ってるじゃん、ちうちゃん。美女揃いの撮影会、腕が鳴るぅ!」「おい、なにボケっとしてんだ先生。花嫁の隣には花婿がいるだろ!」「やけくそになるなよ。分かった分かった。撮影会の後で、ちゃんと宿題やらせるからな」 仕方がないなと、千雨の剣幕に苦笑いしながらむつきは階段へと足をかけた。 未だお姫様抱っこをしている古や、背中に背負っている新しい花嫁さんを連れたまま。 今回ばかりは嫁かそうでないにかかわらず、全員であるかもしれない日を先取りで写真に収めた。-後書き-ども、えなりんです。久々にお馬鹿な日常が書けた気がします。特に最後の正妻力(笑)当初この場面は予定になかったのですが、美砂の影が最近薄いなと……一気に濃くなった気がします。あと感想で釘宮が以前の千雨ポジというお方がちらほら。私個人としましては、そうではないつもりです。千雨は公平でしたが、釘宮はあくまで桜子や美砂の味方。現在桜子が遅れをとってますので、比重は傾いてますが。次回は来週の土曜日です。