「なん……だと……」
手元にあるテスト用紙。その得点欄に赤ペンで記入された数字を目にし、俺は愕然としながら思わず呟いてしまった。
その数字は65。お世辞にも高いとは云えないこの点数を取るだなんて、一体何がどうしてこうなった。
100点を取るつもりはなかったものの、さりとて、ここまで微妙な点数を取るつもりだってなかったんだ。
有り得ねぇ――思わず頭を抱えて、ため息を吐く。
小学生時代をもう一度送ることになってから頭を悩ませたことの一つとして、テストの点数がある。
学校生活そのものはそれなりに楽しんでいるものの、授業内容は一度は学んだことであるわけで、正直に云えば退屈だった。
俺たちが第六世代だからか、授業内容は自分が過去受けたものより難しいとは思ったものの、それだけだ。ついていけない、なんてことはない。
そして更に、この世へ転生した際に付加された異能のこともある。
"一度習得した力は劣化しない"というこの力。
これは知識にも効果を発揮しているようで、暗記系の問題などは覚え間違いでもしない限り、ミスは有り得なくなった。
そして小学校の勉強と云えば、大半の内容が暗記系だ。算数だって公式さえ覚えておけばなんとかなるし、多少複雑な問題が出てきても、似たような問題を一度でも解いたことがあったのならば計算方法を応用することもできる。
加えて、第六世代になったことで俺のIQは前世と比較にならないほどに水増しされているため、授業についていけないということはほぼあり得ないのだろう。
そのためテストで百点を取ろうと思えばいくらでも取れるわけだが……まぁ、そこはそれ。
まだ低学年だった頃に百点を連続して取ったら同級生から微妙に距離を置かれそうになったため、それ以降はそれなりに手を抜いてテストをこなしていた。
レジミルの主人公みたく、テストの難易度からクラスの平均点を予測し、それピッタリの点数を取る……なんてことは流石にできないものの、おおまかな配点を計算して八十点台から百点の間をフラフラすることぐらいは容易かった――はず、なのに。
ざっとバツがつけられた部分に目を通す。通した後に、なんだか理不尽に対する怒りが沸いてきた。
「あの、先生」
「はい、蒼葉くん。どうかしましたか?」
「このテストの採点、厳しすぎやしませんか……?」
「そうね。蒼葉くんの採点、先生ちょっとだけ厳しくしちゃった」
「てへへぺろ、みたいなテンションで云われたって誤魔化されませんよ俺は!」
そう、赤でバツをつけられた問題を見てみたら、なんというか採点が厳しすぎる。
今回のテストは先生の専門分野とも云える国語だった。だからなのか、どこぞの出版社が刷っているだろうペーパーテストではなく、藁半紙の手作り。配点を読み取るのが難しい上に問題も普段よりやや意地悪なものが多かった気がする。
勿論、俺にとってその程度の難易度アップは問題でもなんでもない。この点数の原因となるのは、先生の採点の仕方がえげつないのだ。
「この文章問題、答えは間違ってないんじゃないですか?」
線①が示しているものとは文中の何を指すか、というタイプの問題だ。
自分で云ったように答えは合っている。合っているのに、バツがついている。
何故かと云えば、答えとして書いた文に使用した漢字の書き方が違ったから。その間違えというのも、
「ハネを一箇所忘れただけって……」
「惜しかったねっ」
「いやいやいや、これそういう問題じゃないでしょ!?
肝心の答えは合ってるんだから正解でしょうよ常識的に考えて!」
「えー……でも先生的にはこれぐらい厳しいほうが、蒼葉くんには丁度良いと思ったんだけどな」
……あ、バレてるのか。手を抜いてるの。
俺より良いテストの点数を取る奴だって、クラスにはいる。
俺にそこまで厳しいハードルを課すならそいつにも、と思うが、俺みたいに騒いでないので、この芳野御流採点礼法を使われたのは俺だけなのだろう。
「お、おのれー……!」
「……やっぱりわざとだったのね」
「……あ、いや、そういう意味では」
芳野先生は小さくため息を吐く。
そして声を小さくすると、俺にだけ聞こえるように耳元で囁いた。
「蒼葉くんは放課後職員室へくるように。
怒ったりするわけじゃないから、逃げちゃだめだぞ。
進路のことも含めてのお話ですからね」
そう云われて席へと追い返される。
俺は自分の席に座ると、テストを手に持ったままガックリと机に突っ伏した。
「蒼葉、残念だったねー」
言葉の割には少しも残念そうと思っていないような声色で声がかけられる。
声の主は俺の隣に座っている女子だ。髪をアップにして纏めていて、パチっと開いた目が特徴的な女の子。
「……ありえん。漢字のハネや払いをちゃんと書かないと、今後は点数が入らなくなるってのか」
「うわ、そんなの無理じゃん。
蒼葉、何か先生怒らせるようなことやったの?」
「たとえ怒らせても、それでテストの採点に補正入れるとか駄目でしょ。
まぁ、別に良いんだけどさ……」
手癖で書いているものを、一語一句確かめるように気を付ければ良い話。
大変面倒くさいけれど。
「そういえば私、蒼葉がそんな点数取るの初めて見た気がする」
「ああ、実際初めてだ。だからちょっとショック」
心境としてはドミノを準備中に倒してしまったものに近い。
もしくは砂の城を作ってる最中に波がぶっかかって崩れてしまうとか。
ずっと維持していた高得点が記録が崩れてしまったわけで。
大げさに騒ぐほどじゃないけど地味にダメージがくる類である。
「まぁまぁ、そんなに落ち込まないの。
元気が出るようにナデナデしてあげよう」
「わーい超嬉しいー」
「なでなで……って、なんか手がべたつくんだけどー!」
「マジで撫でたよコイツ。
そりゃお前、見て分かる通りワックスつけてるんだから、当たり前だろ」
まさか本当に撫でるとは思わなかった。
そのつもりで超棒読みの反応したのに。
「蒼葉の髪型って寝癖がそのままになってるんじゃなかったの?
っていうかワックスってあの床に伸ばすワックス?」
「どっちも違うし。というかそんな風に思われていたなんて地味にショックだぞ」
自然な感じで髪の毛浮かせていたつもりなのに寝癖扱いとはこれ如何に。
「どうせ髪の毛弄るなら染めたりとかすれば良いじゃん」
「んなことしたら親に怒られて先生に泣かれるわ」
「私は染めたいんだけどなー。もしくは脱色」
「まぁ脱色するのも悪くないと思うけど、日本人には黒髪が似合うだろやっぱり」
「黒ってなんか野暮ったくない?」
「その分明るめの服を着れば良いだけだろ。
あと野暮ったく見えるのは、前髪を伸ばしっぱなしにしたり、耳が隠れてたりしてるからじゃないのか?
まぁ野暮ったいのは野暮ったいなりに理由があるはずだし、そこを直せば良いだろう」
「なんか黒髪にこだわるんだね。好きなの?」
「まぁ、好きだな」
ふと、脳裏に萌の顔が浮かぶ。
ゆるいウェーブのかかったふわふわの黒髪。あれを他の色に変えるだなんて考えられない。
「ふ、ふーん。
まぁでも、確かに髪染めたりしたら回りがうるさそうだしね。
私もしばらく今のままでいいや」
「そうしとけ」
「じゃあ長さはどれぐらいが好きなの?」
「セミロングかな。パーマとかかかってると萌える」
「……何よ萌えって。
でも、ふぅん、そっか。セミロングにパーマね。ふーん」
「なんか含みのある言い方だな」
「別に。そういうのが好きなんだなーって思っただけ」
「ほらそこ、二人とも! テストの解説始めるから静かにしなさい!」
うだうだと話し続けていたら芳野先生に怒られてしまった。
こうして怒鳴られたのも地味に久しぶり。なんつー厄日だ、今日は。
†††
「失礼しました」
ガラガラ、とスライド式の扉を閉めると、詰まっていた息を吐き出すべく深呼吸をした。
さっきまで教務室で芳野先生と話していたことの内容を一言で云うならば、進路相談。
先生としては整備学校へ俺を推薦したいらしいが、その場合だと成績があと一歩足りないとのこと。
だからテストで遊んでないで真面目にやりなさい、というお叱りを受けた。
まさか芳野先生が俺を整備学校へ推薦するつもりだったとは知らなかった。
整備学校の資料を取り寄せてもらう際、芳野先生には進学先の希望を伝えたことはあったけど……。
それになんだかんだで俺はまだ五年生なわけで、受験云々は来年になってから本格始動するつもりだったから、推薦の話は正に寝耳に水。
……俺の認識が甘いのか、芳野先生が過保護なのか、もしくはその両方なのか。
いや、俺が甘かったのだろう。まだ時間はあると思っていたけど、実際はそこまで余裕があったわけではないのかもしれない。
完全に俺の認識不足。目を覚まさせてくれた芳野先生には感謝しないといけないか。
教室に戻ってランドセルを背負うと、俺は一人で帰路についた。
下校時刻が三十分ほど過ぎたからか、もう校内は静かなものだ。教室に残っておしゃべりしている生徒や校庭で遊んでいる連中もいるだろうが、そんなに多くはない。
ひとけのない生徒玄関で靴をはきかえると、そのまま外へ。
今日は道場へ行く日なので、家に帰ると自転車を使って向かうことにした。
普段は走って通っているのだけれど、今日は普段よりも少し時間に余裕がない。
急ぎ気味にチャリを漕ぐと、普段通りの時間に到着。
胴着に着替えて準備運動をすると、いつものように基本の型を反復するところから練習を開始した。
しばらくそうして、背中が汗でびっしょりと濡れ始めた時だった。
「蒼葉。少し良いか?」
「はい、なんでしょう」
俺を呼び止めたのは師範代だ。歳はもうすぐ四十に届くぐらいで、普段は社会人として働いている。
師範がもうそれなりの歳で、多くの門下生を指導するのが難しい状態なので、実質道場を取り仕切っているのはこの人だ。
「少し手合わせをしようか」
「分かりました」
俺が頷くと、師範代は籠手と竹刀を俺に手渡してくる。
籠手に手を通し、握りを確かめながら、俺はカーボン製の竹刀にしっかりと力を込めた。
俺が学んでいる流派は体術だけではなく、武術全般――目立つところで云えば剣術や槍術、弓術など――も教えている。
そのため組み手以外にも、武器を使っての訓練をすることがある。
今までの俺は体術のみを教えられていたが、最近になってようやく他の分野も教えてもらえるようになった。
剣術も教えてもらえるようになったのは、おそらく体術の技量が一定以上になったと認められたからなのだろう。
この流派は――他の流派でもそれほど珍しいことではないが――対武器を想定した体術の型も存在するため、それの意味を学ばせるためにも武器の取り扱いを学ばせる。
あれだ。いくら車の交通誘導技術を学んだところで、車を運転したことがなければ効率的に指示を出すことができないようなものだ。
俺は竹刀を構えて師範と対峙する。基本的には体術ばかりを学んでいるため、俺の剣の腕はそれほどじゃない。
一方、師範代の腕は本物だ。先輩辺りならば身体能力のごり押しで技量差を埋めることはできるものの、師範代が相手じゃそういうわけにもいかない。
だから勝機は限りなく低い。が、だからと云って負けることを前提で戦うつもりはない。
練習だからと云って、負けることを当たり前のことと思うつもりはない。
正に天から与えられた異能で非常識な身体能力を手にしていると云っても、これは日々自分自身の手で鍛え続けた力だ。
自分なりに誇ってもいる。簡単には負けてやるものか。
「ふっ――!」
呼吸を整え、息を吐き出すと共に全力で打ち込む。
今自分の出せる最大限の鋭さで放った上段からの一撃は、しかし切っ先で軽く反らされる。
そのまま竹刀を絡め取られそうになるが、俺は咄嗟に反応し、腕力にものを云わせて腕を引くと、即座に横薙の一撃を放った。
それを軽く反らされる。最小限の動きで渾身の一撃は再び無効化された。
だがそれでも、俺は動き続ける。
技量で劣っているなら、その舞台で勝負するのは愚の骨頂。そのぐらいは未熟な俺でも分かる。
悔しいが、俺はまだ古武術を学び始めて日が浅い。
いや、確かに年単位の経験は積んでいるし、鍛錬に費やした日数自体は決して少なくはない。
いくら剣術に不慣れとは云え、体術のものを流用した間合いの取り方や体捌きには自信がある。
……だが、今目の前にいる人は数十年という経験を積んでいるのだ。
経験値というジャンルで比較してみれば、まるで話にならないのは一目瞭然だろう。
師範代だけではない。彼と同じように、ある程度経験を積んでいる者に対しては大体こんな感じだ。
先輩含め、若さからくる身体能力を武器にした者と戦えば大体勝てる自信はある。
それに人生経験という意味じゃ負けていない。タイミングを賭けた駆け引きも、有利に運んでみせよう。
けれどこの目の前にいる師範代のように、ある程度以上の技量を持ち、かつ、周りとは格が一つ抜きん出ている者に対しては、どうしても勝つことができない。
おそらく、達人というやつなのだろう。
格の違いという奴を明確に感じる。才能のある人間が努力を重ね、そうした中で一握りの者だけが辿り着ける格というか。
……まぁそんなことは十も承知だ。
師範代と云われるだけあって、俺もこの人からは色々な技術を学んだ。
そして学んだ技術は現状、彼の劣化コピーでしかない。その技術を己のものに昇華する域に俺は達していない。
だから技で対抗するのは本当に無意味。
ぜ、と重い息が喉から漏れる。
呼吸が微かに乱れた。その瞬間、まるで意識の隙間を縫うように師範代の竹刀が振るわれた。
反応が遅れる。もし前世の俺であったならば、為す術なく打ち抜かれていただろうが――
「――ッ!」
考えるよりも先に体が動く。瞬間、両足に力を込めて床を蹴って跳躍した。
加減を忘れた全力でのバックステップは、二人の距離を八メートルほど開かせる。
とてもじゃないが師範代に一息で詰められる間合いではないだろう。
その証拠とでも云うように、師範代は呆れたような笑みを浮かべながらも、俺に先手を譲るように竹刀を構え、出方を伺う。
「相変わらず出鱈目な動きをしますね」
「……ええまぁ。現状、これだけが売りなので」
「いや、誇って良いですよ、蒼葉くん。
第六世代であることを差し引いても、そこまで体を鍛えたのは君の努力だ。
そして、君の剣の腕は、同年代の平均水準から比べればかなり高い」
「まだ竹刀を握り始めて間もないですけどね、俺」
「ええ。ですが体術の時に学んだ体捌きや間合いの取り方を流用できているのは流石だ。
学んだことを別の分野で流用するというのは、言葉で云うほど簡単ではないですし。
……まぁ、お喋りはこれぐらいにしましょうか。
きなさい」
……云われなくても。
完全に待ちに徹している師範代と違って、俺は責める側だ。
竹刀を下段に構え、呼吸を整えつつ師範代との距離を測る。
ひぃ、ふぅ、みぃ。この間合いをどう詰める。
下半身をバネのように縮め、力を込める。筋力を最大限に発揮できるタイミングと呼吸を合わせ――
バックステップの時と同じように、俺は全力で床を蹴りつけ間合いを詰めた。
だが真っ直ぐに突っ込むだけじゃ打ち落とされるのが関の山だ。
なので俺は八メートルという距離の間に何度もステップを入れフェイントを混ぜる。
一歩、二歩。師範代に接近するには、あと数歩必要――と、向こうは思うはず。
あと五メートルほど残っている距離を、俺は一息に跳んで詰めた。低く低く、這うように。端から見れば地上すれすれを平行移動したように見えただろう。
通常は二歩や三歩を必要とする距離を一歩で詰め、相手の虚を突く歩法。縮地と云われるものだ。
通常であれば血の滲むような鍛錬の末に会得する奥義なのだろうが、第六世代の身体能力を使えば真似事ぐらいやってみせる。
竹刀を下段から跳ね上げる。そのまま師範代の得物をはじき飛ばそうとして――
「素晴らしい」
不意を打った。師範代の反応よりも先に竹刀を振った。
だというのに、だ。
師範代は俺の一撃を両手で構えた竹刀の腹で受け、勢いをそのまま完全に逸らす。
タイミングが最悪だった。師範代の反応が間に合っていないと読んだ瞬間、俺はカウンターのことを頭から消し去り一撃に神経を集中していたから。
結果、どうなるか。簡単な話だ。
斬撃を受け流した師範代は、そのまま流れるような動作で竹刀から片手を離す。
そして無防備に迫る俺の胸に掌底を打ち込んだ。
力は全然込められていなかったが、これは俺自身が突撃した際の勢いがそのまま跳ね返されたようなものだ。
「がっ……!」
衝撃が胸を中心に走り、呼吸が止まる。視界が一瞬ブラックアウトした。
が、ここで意識を手放すわけにはいかない。
吹き飛ばされて一度は平衡感覚を失ってしまったものの、すぐに取り戻す。
そして重力に導かれ落下している方向を直ぐさま知覚すると、床に落ちると同時、受け身を取った。
「がはっ……! げほっ、げほっ!」
床を転がり、大の字になりながら盛大に咳き込む。
体が軋むが、骨に異常があるような感じはしない。怪我をしたとしても精々が打撲といったところだろう。
運が悪ければ胸骨を折られていたかもしれない一撃だった。流石は第六世代の体といったところか。頑丈さの面でもぶっ飛んでる。
「大丈夫ですか?」
「げほ……今の、俺じゃなかったら大変なことになってたと思いますよ」
「ええ。うっかり手加減を忘れてしまいました。
それだけ素晴らしい一撃だったということです」
「平然と云うことですか、それ」
大の字のまま横になった状態で、悪態を吐く。
動きを止めた瞬間、汗が一気に噴き出してきた。
集中に集中を重ねたせいか、どっと疲れが沸いてくる。
すぐに立ち上がる気は起きない。呼吸が落ち着くまでこうしていよう。
「蒼葉くん」
「なんですか?」
「今度の他流試合ですが、君と同年代の子も交えて行うことになりました」
「珍しいですね」
本当に珍しい。
そもそも俺と同年代の子が古武術をやっていること自体が珍しいし。
今まで他流試合を何度もしたことはあったが、対戦相手は全部が年上だった。
「ええ。たまには君にも楽しんでもらいたいと思いましてね」
「……楽しむ?」
「ええ。師範代である私が云うのもなんですが……蒼葉くん。
君は鍛錬を作業か何かだと思っていませんか?
体を作り、技術を学ぶ。君のその姿勢は非常に熱心で真面目ですが、どこかそう……仕事のようだと、思います。私はね」
「……たとえ仕事だとしても、楽しむことはできると思いますけど」
自分で口にしておきながら、師範代が云いたいことはそうじゃないと自覚していた。
要はこう云いたいのだろう。子供らしくない、と。
それもそうだ。萌と一緒にいるときや学校にいる時と違い、自分で云うのもなんだが、道場での俺は遊んでいない。
先輩と雑談したりはするが、訓練に打ち込む際には真面目に取り組んでる。
これは道場でのことではなく、日常的に行っているトレーニングについても同じだ。
最初の頃は辛かったものの、生活の一部に組み込むことに成功し、ノルマの一つと思えるようになれば問題ない。
それに鍛えれば鍛えるほど成果が出ると分かっている楽しさもある。ただこっちはスポーツの楽しさではなく、預金通帳を見てニヤつくような類だが。
話を戻そう。
師範代はつまり、俺に子供らしさを求めているわけだ。
まぁ確かに、道場での俺は無邪気さが足りないとは思うが。
そのせいで師範代には、俺が道場通いに退屈さを覚えていると誤解されたのかもしれない。
「まぁ……ウチは君のような子供の門下生が少ないですからね。
礼儀作法から入るという伝統もあるせいか、それで早々に飽きてしまう子が出ますし。
そして君と同年代の子らがいても、今度は実力差が凄まじく、試合にならない。
君のストイックとも云える姿勢は、そこからきているのだと思いました。
切磋琢磨できるようなライバルがいないからだ……と」
「ライバル……いるんですか?」
「ええ。師範の古い友人のお孫さんが、最近になって実力をつけてきたようでしてね。
君の仕合内容を撮ったビデオを見せたら、相手をしてもらいたいとあちらからお誘いがあったんです」
「……そんな相手がいたんですね」
「ええ。いたんです。いたんですが……その子は、とても可愛いがられているようでしてね。
俗に云う箱入り娘というかなんというか。外に出しても恥ずかしくない程度にまで鍛えてから、と考えていたのでしょう。
前々から君とその子を、と思っていたのですが、色よい返事をもらうことができませんでした。
それがようやく……おそらく、ある程度の実力がついたと考えるべきでしょうね」
「……ん? 箱入り娘ってことは、その子って、女の子なんですか?」
「そうですよ。ちなみに、なかなか可愛いそうです」
「そうですか。ちなみに、あまり興味はありません」
俺には萌がいるし。
床に寝そべり続けていたら、いい加減背中が冷えてきた。
俺は上体を起こすと、そのまま固くなりつつあった体を動かし始める。
「期待して良いと思いますよ、蒼葉くん。
君は、初めて近い実力を持った第六世代と戦うことになる」
「それが何か?」
「全力に応えてくれる相手だということです。
私たちを相手にしている際の君は、まるで詰め将棋をしているようなものだった。
どうやって守勢に回る相手を切り崩すか。そればかりを考えていたはずだ。
けれど今度の相手は違う。きっと、君の全力に応えてくれるはずだ。そして君も、彼女の全力に応えてあげることができるはずだ」
「それは――」
つい、言葉に詰まる。
それは確かに、楽しみだ。
今では当たり前のことになってしまったが、先の師範代との稽古のように、俺はいつしか他人と仕合う時、防御に徹する相手をどう倒すかばかりを考えるようになっていた。
当たり前の話だ。身体能力で俺に叶わないのならば、技量でもって隙を突く戦法に切り替えるのは。
体術でもそうだったが、最初の内は別にそんなこともなかった。
泥仕合というか、あまり頭を使わず体を動かして相手をどう圧倒するか考えるだけだった頃は、確かに全力でぶつかる楽しさはあったが……。
「……楽しみにしておきます」
「ええ、そうしておきなさい」
†††
「そういうわけで、今日は初めて同年代の子と戦えるかもしれないんだ」
「……良かったわ、ね」
「ああ。割と楽しみにしてる」
電車のボックス席に萌と隣り合って座りながら、俺たちは今日かれから行われる他流試合のことを考えていた。
会場は電車で三十分ほどいった街にある体育館。駅からさほど離れていないということで、電車での集合になったのだ。
萌は他流試合になるとマネージャーめいたことをしてくれる。飲み物の準備をしてくれたり、試合が始まったら濡れたタオルを準備してくれたりと。
もう何度目になるだろうか。道場の皆とも既に顔見知りになっているため、割と皆友好的に接してくれている。
中には俺との仲をからかってくる連中もいたりはするが、それだって悪意があるものじゃないし、もう俺も萌も馴れた。
道場の人たちは基本的に年齢が上ということもあり、それなりの分別もあるため彼女を差別したりもしない。だからなのか、萌も割と居心地が良いと感じてくれているようだ。
「ちなみに萌は、俺とその子、どっちが勝つと思う?」
「蒼葉」
「即答なんだ」
「……蒼葉は、負けない……わ。
いつも……年上の人にだって、勝ってる、もの」
「そうかな。結構負けてると思うけど」
大体他流試合の時の勝ち負けは五分ぐらいに調整されてる気がする。
ある程度の相手までは勝てるが、一定水準を超えたら途端に勝てなくなる感じ。
そのせいで勝率は五割ぐらいに落ち着いているはずだ。
なんて考えてみると、萌はふるふると頭を振った。
「……蒼葉は強いわ。
私、応援するから……頑張って」
「分かった。勝つよ」
そこまで云われちゃ勝たないわけにもいくまい。
そんなやりとりをしていると、周りの座席から何やら視線を感じる。
そんなに人が乗っていないはずなのに、何故だろう。あ、舌打ちが聞こえた。
「……ねぇ、蒼葉」
「ん?」
「……これ」
云いながら、萌はごそごそと小さめのショルダーバッグから包みを取り出した。
それがクッキーであることは、一目で分かる。
「ん、おやつ? もらっていい?」
「……自分で、作った」
マジか。俺の記憶が確かなら、それなりにお嬢様な萌は、台所にまったく近寄らない子だったはずだけど。
包みを受け取って開けてみれば、色んな種類のクッキーが入っている。
プレーンにチョコ、チョコチップもあればナッツ入りのも。
中々手間がかかってるな。
「……蒼葉、専用」
「ありがと。でも萌、お菓子とか作れたんだ」
「……練習した、の。
……蒼葉は、あまり料理ができないって、前に云ってた……から。
だから……私が、料理、する」
えっへん、と少し誇らしげに萌は胸を張る。
……ああ、そういえばそんなことも云った気が。
ほんの軽い雑談のつもりだったのに、萌はしっかり覚えていたのか。
「じゃあお菓子のリクエストしてみても良い?」
「……まかせて」
「今度はカップケーキとか食べてみたいかな」
「……蒼葉は、カップケーキが好きなの?」
「うん、結構好きだな。コーヒーにも合うし、あれ。
俺、割と甘党だからお菓子系はなんでもいけるかな」
辛いのもいけなくはないものの、ガチの辛党と比べたら霞むレベルなので甘党寄りか。
五十倍まで辛さを選べるカレーショップがあるとして、俺が平気で食えるのは十倍まで。
それ以降は舌がヤバイし、翌日の肛門が死ぬのでノーサンキュー。
そんな程度なので、まぁ甘党だろう俺は。
「……了解。甘いの、作る」
リクエストなんて厚かましいと思いつつも、萌は嫌がっていないようだ。良かった。
せっかく萌がやる気を出してくれたんだし、これっきりにしてしまうのは少し寂しいだろう。
「お礼に俺も何か作ろうかな」
「……大丈夫。
蒼葉、いつもデートの時にご飯をご馳走してくれる、から。
これはその、お礼……なの」
萌が今云ったように、何度か彼女とデートをするにつれ、そんな俺たちルールが出来上がっていた。
交通費や入館料などはそれぞれ自分が出して、ご飯は俺が奢る。
親の名義でせこせこ内職をしつつ小銭を稼いでいる身としては全部出したって良いのだが、萌がそれを嫌がったため今の形に落ち着いた。
それでも彼女からすれば納得できない部分があったのか、こうしてクッキーを作ってくれたわけだ。
「……お菓子は、そこそこ、作れるようになった……けど。
ご飯は、まだ……なの。
お弁当、上手くできたら、持ってくる……から、待ってて」
「そか。うん、楽しみにしてる」
「……あーん、してあげるから」
「それはしなくても良い」
「……どうして?」
「だってハードル高いだろ?
ああまぁ、人の目のない、二人っきりの時なら別に良いけど」
「……いつも、私に恥ずかしいこと一杯してる……くせ、に。
その仕返しがしたい、の」
「だからって公開処刑は何か違うと思うんですけど!」
「……残念」
なんてやっていると、だ。
さっきから感じていた周囲の視線が余計に強くなってくる。
特にデートとかお弁当とかそういう単語が出た瞬間は、軽い殺気すら感じるぐらい。
まぁそのプレッシャーの出所は考えるまでもないですけどね。
やれやれだぜ、と思っていると、萌は再びバッグを漁りだした。
そしてさっきの包みよりもやや大きいそれを取り出すと、両手で掲げる。
ちなみに包みには黒マジックででかでかと書かれていた。義理、と。
「……クッキー、いる人、いますか?」
「ヒャッハァー! 女の子の手作りクッキーだぁー!」
「でも義理だぁー!」
「明らかに蒼葉の奴の失敗作ばかりだぁー!」
「いらねぇなら寄越せぇー!」
「誰がそんなこと云ったコラァー!」
……ウチの道場、女っ気が皆無だからなぁ。
なおも上がる奇声をどこ吹く風といった感じでシートに座ると、萌は水筒の蓋を開ける。
香りからして、中身は紅茶だろうか。
二人分を用意すると、萌は片方を俺に差し出した。
「サンキュ」
「……ちなみに、これも、私がいれた……の」
「おお、頑張ったな。
で、味の方は……」
二人してコップを傾ける。
そして同時に顔をしかめた。
「……苦い」
「こっちも練習しないとな」
「……そう、ね」
持ってきたスティックシュガーをどばどばカップに入れる萌。
ストレートも嫌いじゃないが、この紅茶は流石に苦い。
頑張るって云っているし、俺もコーヒーの入れ方でも学ぼうか。
そんな風に萌とお喋りしながら過ごしていると、あっという間に電車は目的地へと到着した。
†††
目的地である体育館に到着した俺たちは、着替えた後に挨拶を終わらせ交流戦を開始した。
あちらもこちらもそれほど規模の大きな道場というわけじゃないため、観客もほとんどいない。二階のアリーナ席はガラガラ。萌も上ではなく下で観戦しながら、師範代の奥さんたちに混じって手伝いを行っている。
なんだかんだで身内試合のようなものらしく、雰囲気もほどよく緊張しているものの険悪というわけではなし。
何か変わったことがあるわけでもなく、順調に練習試合は進行していった。
そうして午前の最後――練習試合は午前のみだが――最後の最後でようやく、俺の名前が呼ばれた。
普段は頻繁というほとではないにしろちょくちょく試合をさせてもらえるだけに、これだけ長時間待たされるのは流石に辛かった。
取りを飾るように仕組まれた試合順は、一体誰が考えたものなのだろう。
まぁ良い。さあ、この鬱憤を晴らせるだけの相手なのか――そう思いながら竹刀を持って腰を上げる。
その時、だった。俺と同じように呼ばれた名前が、耳に引っかかる。
普段の俺は対戦相手の名前を気にしたりはしない。流石に二度三度を耳にしたなら覚えもするが、一度目で気にするというのは稀だ。いや、厳密にはこの名前、初めて聞いたわけじゃない。
まだ試合が始まったわけでもないのに、背中を汗が伝う。
視線を向ける。その先にいた、俺よりも一つ年下であろう胴着姿の少女を見た瞬間、思わず手に持った竹刀を取り落としそうになった。
「……壬生屋、未央」
練習試合だからか、長い髪を彼女は後ろで束ねている。
可愛らしいと充分に云える顔は、仕合に臨む緊張からか、引き締められていた。
萌に引き続き、彼女とも顔を合わすことになるなんて、これは一体どういう偶然なのだろう。
それがなんだ、というわけじゃないものの、何か運命めいたものを感じてしまう。
まぁこの世界の運命は基本的にロクなものじゃないので、是非とも俺には関わらないで欲しいものだが。
そんなことを考えながら礼を交わしつつ彼女と対峙する。
この仕合のルールは極めて簡単。禁じ手は特になく、先に決定打を打ち込んだほうが勝ち。
半ばレクリエーションじみたものになっている。いや、実際そうなのかもしれない。これはきっと俺たちのために師範代が用意してくれた遊びなのだろう、きっと。
竹刀を構え、籠手をはめると、彼女と視線を絡ませる。強い意志のこもった青い瞳。落ち着いた佇まいと相まって、軽いプレッシャーを感じる。
それに気圧されたりはしないものの、この歳で対戦相手に威圧感を叩き付けてくるというのも末恐ろしい。
そしてこの時になり、ようやく納得する。きっとこの子も、近い実力を持った同年代の子に恵まれていなかったのだろう、と。
「――始め!」
審判の声が体育館に響き渡ると同時、俺は自分と対戦相手以外のすべてを意識から排除した。
さて、この子の実力はどんなものなのだろう。
牽制のつもりで、けれど決して鈍くはない一撃を打ち込む。
壬生屋はそれを竹刀で弾き軌道を逸らすと、即座に打ち込み返してきた。やられたらやり返す。彼女の気の強さをそのまま形にしたかのような行動だ。
速い――酷く鋭い打ち込みだ。一切の迷いがなく、この一撃で仕合を決めようという意思が感じられる。
並の人間ならば反応すらできずに打ち倒されてるであろう太刀筋。
だが俺は弾かれた竹刀をすぐ手元に引き戻し、彼女の竹刀を防いだ。
カーボン製の竹刀が盛大に衝突音を撒き散らし、軋みを上げる。
一瞬だが壬生屋の動きが止まる。その際、足を入れ替え一歩踏み込む。
ともすればお互いの吐息を感じるほどの距離にまで接近する。剣術ではなく体術の間合い。
更に一歩踏み込む。
彼女の軸足となっている右足。そのすぐ側に俺の右足を差し込んで、背中に腕を沿え、押す。次いで、差し込んだ右足を跳ね上げようとして――
重心が致命的なまでに崩れようとした刹那、壬生屋は左足一本で床を蹴り付け、俺との距離を開けた。
三メートルほどだろうか。そんな逃れ方をされるとは思ってもいなかったため、追撃という考えが浮かんでこなかった。
そう――そんな力ずくで逃れるだなんて方法、第六世代ぐらいにしかできやしない。
なんだ今のは。片足で跳んでいい距離じゃない。
驚いている俺と同じように、壬生屋もまた、呆れたように俺を見つめていた。
考えていることは、どうせ俺と同じようなものだろう。
有り得ない、どうかしている。こんな相手は初めてだ――
崩れた型を作り直すと、俺は竹刀を正眼に構えた。
そして呼吸を整えると同時、全力で床を蹴りつけ得物を打ち込む。
迎え撃つ壬生屋もまた竹刀を振り上げた。
今度は近付かせないとばかりに、猛烈な迎撃が行われる。
打ち込んだ竹刀のすべてを叩き返され、その反動でびりびりと空気が鳴動するような錯覚すら感じた。
切り込めないと分かったら一度距離を置き再度仕切り直し。
そうして幾度も切り結んで、綺麗に決められたら負けを認める――試合のセオリーはそういった形なのだが、俺も彼女も、仕切り直しなんてこと頭から抜け落ちていた。
ひたすらに竹刀を打ち付ける音が響き続ける。
やはり道場主の娘というだけあって、壬生屋の技量は俺を上回っている。
フェイント交じりに叩き付けられる斬撃のすべてを、彼女は正確に打ち払っていた。
その返し方も師範代のような最小限の動きで逸らし、カウンターを入れる類ではない。
全力で打ち払い、打ち負けた隙を狙ってトドメを入れる。そんな剛剣。
おそらく今まで、そのやり方で勝ってきたのだろう。
分からない話じゃない。竹刀から伝わる衝撃は、とても子供を相手にしているとは思えない力強さがある。
が、その力強さを俺は堪えることができる。
性別差や年齢。それに加えて――いや、ある意味これが一番大きいか――基本的な身体能力を上回っているからだ。
しかし技量は間違いなく壬生屋が上をいっている。単純に練習時間が違うのだろう。
加えて、彼女には剣術のセンスがある。
裂帛の気合いに乗せられた斬撃は、ただ言い付けられた通りに鍛えた以上のものを感じられた。
おそらく教授された技術を自分なりに消化し、自らの力として昇華したのだろう。今の俺にはできない領域の話だ。
そういう意味で壬生屋は剣術で俺の二歩も三歩も先を行っている。本物の天才とはこういう子のことを云うのだろう。
真っ向勝負ではとても勝てない。搦め手で勝負を決めるしかないだろう。
竹刀を打ち鳴らし、一つ、また一つと切り結びながら、防御に徹するスタイルにシフトし、頭の片隅で考える。
まず真っ先に浮かんできた勝ち筋は、長期戦に持ち込むこと。
壬生屋を見れば、今の段階でやや呼吸が上がってきている。それもそうだろう。この力強さで打ち込み、未だ切り伏せることのできなかった相手など今まで存在しなかっただろうし。
それでも尚太刀筋に曇りが見えないのは流石と云おう。体力で足りない分は気力で補っているのか。
だがそれでも、いつかは限界がやってくる。運動力、体力、気力はすべて俺が上回っているのだ。防御に徹して長期戦に持ち込めば、徐々に壬生屋の力は削がれてゆく。
そうして疲れ切ったところで勝ちを狙いに行けば良い。
現段階で最も妥当な案がこれだろう。変な冒険をせず確実に拾える勝負を勝ちに行くのが俺の主義だ。
が、それで良いのか、とも思う。
壬生屋との試合は、そういった詰め将棋じみたものではなく、全力全開でのぶつかり合いを楽しんで欲しい、という趣旨で計画されたものらしい。ここで普段通りに戦ってしまっては師範代の面子を――
「――っ!?」
瞬間、思考を打ち切って、俺は強引に真横へと跳躍した。
次いでさっきまで俺のいた空間を、竹刀が突き破る。突き――そう、咄嗟に俺が強引とも云える回避を行ったのは、手加減の一切ない突きを壬生屋が放ったからだった。
狙いはおそらく、胸だった。喉でなかっただけマシ……いや、そういう話じゃない。
もし直撃すればただじゃ済まなかっただろうに、それを分かってて彼女は放ったのか?
いかれてる。ありえない。
竹刀を構えつつ、じっと壬生屋の様子を観察する。
頬を上気させ、髪をいくつか頬に貼り付けた彼女。
体育館の床に汗を落としながら、空を薙いだ竹刀を引き戻しつつ彼女は俺へと向かい直す。
そうした彼女の顔に浮かんでいたのは、うっすらとした笑みだった。
薄ら笑い、とは違う。おそらく本人も気付いていないであろう、無意識下で形作ってしまった笑み。
なんで、そんな表情を――
「……何が、可笑しいのですか?」
「……何?」
「笑っているじゃないですか、あなたは」
云われ、思わず頬を籠手で撫でた。
しかしそうやっても自分が笑っていたかどうかなんて分かるはずもない。
俺が? 彼女と同じように笑ってただって?
「……一体どうして? 分かりません。ありえない。
あの突きを避けられるだなんて」
俺に投げかけた言葉の答えも聞かず、彼女は独り言を零す。
ありえない? それはこっちの台詞だ。避けられるわけがないと思う強力無比な一撃を、ぶち込むような奴がいるか。
……ああ、そうか。
今のやりとりで、ようやく実感した。認めよう。俺はこの手合わせを楽しんでいる。
師範代が云っていた、全力に応えてくれる相手という言葉に嘘偽りはない。
ならば、と竹刀を握り直す。
今更いつも通りの詰め将棋風な戦い方をする必要はないだろう。
ただひたすらに全力を込め、この身体の限界性能を引き出して相手をしてやる。
「仕切り直しだ。守りに徹するなんて冷めたことして悪かったよ。
そもそも、これはそういう仕合じゃなかったもんな」
「今までのは全力ではなかった、と……そうおっしゃりたいのですか?」
「三下みたいな台詞で恥ずかしいが、その通りだ。
ここからは全力でやらせてもらう。
行くぞ……!」
「来なさい……!」
そこから先の打ち合いは、酷く泥臭かった。
防御から攻勢へと俺が転じると、壬生屋と俺の戦いは、正に力と技の勝負となっていた。
逸らされようが防がれようが避けられようが、動体視力と筋力にものを云わせて執拗に壬生屋を追い詰める俺。
一方壬生屋は、俺ほどではないにしろ優れた身体能力で猛攻をしのぎきり、その技量で切り返しを狙ってくる。
ぶつかり合う竹刀はより一層悲鳴を上げ、握りしめる柄はギリギリと軋む。
だがそんなことになど一切頓着せず、俺と彼女は自らの限界を出し続けた。
否――限界以上の力を、発揮しているのかもしれない。
竹刀が虚空を横一文字に薙ぐ。もし防御が間に合わなければ刃がついていないと云えども大怪我を免れないであろう一撃。
しかし彼女と戦い始める前までの俺に、ここまでの威力と速さを兼ね揃えた斬撃を放つことができただろうか。いや、できなかっただろう。
一方、壬生屋。この一撃は、戦い始めた直後の彼女では防御が間に合わなかっただろう。
だが彼女はこれを凌いでみせる。更には、そこからカウンターの一撃を放ってみせる。
それを更に俺は防ぎ、返す。避わし、防ぎ、返される。
――ああ、すごい。素晴らしい。
今なら分かる。成熟した精神と目的意識で今までの鍛錬をこなしてきた俺だが、ああ、確かに退屈だった。
この全力を出しても打ち倒せない彼女とのやりとりと比べれば、どれほど物足りなく色褪せた日々だっただろう。
良いぞ。楽しい。簡単に終わってくれるな。
力の限り、時間の許す限りやり合おうじゃないか。
俺の全力を避けず流さず真っ向から受け止めてくれる奴なんて、今までいなかったんだ――
「お――おおおおおおおっ!」
「はぁぁぁぁあああああっ!」
気付けばいつからか、俺と壬生屋は互いに獣じみた声を上げていた。
威嚇するようなものとは違う。歓喜の声に近いだろう。
全身全霊、血の一滴からも力を振り絞り、この瞬間にすべてを出し切ろうとする。
――だが、その心地良い時間も永遠に続くというわけではなかった。
下段に構えた竹刀が走り、壬生屋の竹刀を打ち上げる。
さっきまで耐えていた彼女の防御がいきなり開いた。かすかな違和感を覚えながらも更に攻め続ければ、彼女は苦し紛れのカウンターを打つこともなく、防御に徹し始める。
これに違和感を覚えたのは俺だけじゃなかったようだ。
見れば、壬生屋の表情も困惑に染まっている――が、それと同時に俺は納得もしていた。
汗に濡れ、表情を強ばらせながらも防戦一方に転じてしまった流れを変えようとしている彼女。しかしその顔色は蒼白で、息の上がり方も明らかに普通じゃない。
簡単な話だ。体力はとうに限界を突破していて、遂に体が云うことを聞かないレベルにまで疲労が蓄積したのだろう。
……ここまで、か。
微かな寂しさが心に沸き上がってくるものの、仕方がないと苦笑する。
分かっていたことだ。性別差、年齢、身体能力で上を行っているのは俺の方なのだから。
皮肉なことに、一番最初に考えついた勝利条件を達成してしまったということ。
俺は打ち込み続けていた竹刀を止めると、バックステップで一気に彼女との距離を取る。間合いは五メートルほど。
急に退いた俺の様子に彼女は目を見開くが、俺はかまわず、竹刀を構えた。
「……なんのつもりですか?」
「このままじゃ決着が付かないだろ。
だから次の一撃で決めよう。お互いに。
どうだ?」
「……良いでしょう」
俺の意図を読んだのか、言葉通りに受け取ったのか。
彼女は重々しい息をつき呼吸を整えると、俺と同じように竹刀を構え直した。
「これで終わるのは残念だ。
勝負の結果がどうあれ、またやろう。
交流戦なんて関係なしに」
「ええ、是非。
……次は最後まで付き合えるよう、精進します」
どうやら俺の意図は筒抜けだったようだ。
まったく、そんな反応をされたら、もっと壬生屋のことを気に入ってしまうじゃないか。
正面に構えた竹刀を横に寝かせ、意識をただ正面の壬生屋だけに集中する。
他の何もかもを視界から排除して、ただ彼女の一挙手一投足にのみ注意を向けた。
そして下半身の筋肉を限界にまで練り上げ、全身の力が暴発すると錯覚するまでため込んだ瞬間――
「はぁぁぁぁぁぁ……っ!」
「やぁぁぁあああああ……!」
カウンターや防御、回避。そういった戦術の一切を忘却し、ただ一撃に現状の持ちうるすべてを乗せて、叩きつけた。
二人の距離が一瞬でゼロになり、流星の如き斬撃がそれぞれ衝突する。
果たして――
その結果、両者の竹刀が粉々に砕け散った。
「そこまで!」
仕合いの終了が告げられる。
その声は師範代のものだっのか、他の人のものだったのか。
白黒つかなかったのは少し残念だったが、まぁ次に持ち越しという風に考えれば悪くないかもしれない。
「……って、おい!」
礼をして握手でも――そう思って壬生屋を見た瞬間、ぐらりと彼女は身を崩した。
慌てて抱きとめると、彼女は困った風に笑う。
「……集中が、途切れてしまったようです。
格好悪いところを、見せてしまいましたね」
「こっちだって年上なのに遠慮なくぶつかったんだ。
それでおあいこだろ。気にするな」
手を貸して壬生屋は再び立ち上がると、俺と礼を交わして下がった。
俺を出迎える道場の皆の反応は、どうにも言葉にできないものだった。
賞賛の色がある一方で、困惑が。ほんの僅かに畏怖もあったかもしれない。
外から見た俺と壬生屋の試合はどんなものだったのだろう。こんな反応をされると、流石に少し気になる。
「どうでしたか?」
何を云えば良いのか考えあぐねていると、師範代が声をかけてきた。
彼の顔にもまた、困ったような笑みが浮かんでいる。
どうだったか。そんなこと、わざわざ言葉にする必要もないとは思いながらも、俺は笑みを浮かべて答えた。
「最高に楽しかったです。ありがとうございました」
†††
体育館のシャワールームを使わせてもらい汗を流して私服に着替えると、俺は廊下のベンチに座りながらぼんやりと天井を眺めていた。
脳裏には壬生屋と過ごした一時が再生されている。
思い返すだけでも口元がにやけてしまいそうだ。全力を出せるのがあんなに楽しいものだったとは思わなかった。
次に彼女とやり合えるのはいつになるのか。気が早いとは思いつつも、そんなことばかり考えてしまう。
知らない内に力がこもっていたのか、手に持っていたジュースの缶――スチール製の――に手の形がベッコリと残っていた。
「……蒼葉」
「……ん?」
気付けば、いつの間にか萌が俺の隣に立っていた。
座りなよ、と促すと、小さく頷いて彼女は腰を下ろす。
「……楽しかった、の?」
「……ああ、すごく。
こんなに良いものだとは思ってなかった。
そういえばそうだったな。誰かと競い合うことって、楽しいものだったんだ。すっかり忘れてたよ」
それは二度目の人生を始めてから、という意味ではない。
前世でも俺は、いつしか他人と競い合うことが面倒になって、自分なりに設定したハードルさえクリアできれば良い、という風に考えていたからというのもある。
人畜無害。マイペース。他人と自分の境遇を比べることに腹が立って仕方がなかったため、いつしか評価基準を外の誰かにゆだねるのではなく、自分自身で作り出してもので行っていた。
外に影響を及ばさず、影響を受けず。それはそれで完成した世界観の形だから気に入っていたし俺の性にもあっていたから満足していたが、こういうのも悪くないと少しだけ思えた。
まぁ、だからといって今更宗旨替えをするつもりはないが。
「……私、も」
「ん?」
「……私も、始めようかしら。
……古武術」
「どうしたのさ、いきなり」
「……馬鹿」
ぽつりとこぼされた言葉に首を傾げる。
一瞬どういう意味わからなかったものの、すぐに気付いて苦笑した。
そして萌の柔らかいほっぺたを、ぷにぷにとつまむ。
「萌は今のままで良いよ。無理に変わろうとする必要なんてないだろ。
萌は萌だから俺は好きなんだし。
そりゃ、俺のためにってのは嬉しいけどさ」
「……蒼葉って、結構、人を甘やかすタイプよね」
「そう?」
「……そう、だわ」
そんな風に云いながらも萌は俺の肩に体を預け、すりすりと額を擦りつけてきた。
ああもう可愛いなぁ。キスの一つでもしたくなってくる。
頬に手を添えて――と思った瞬間だった。
人の気配を感じて振り向くと、そこには壬生屋が立っていた。Hな雰囲気が終わる。おのれー。
「……おのれー」
どうやら萌も同じことを思ったらしく、壬生屋に聞こえないほど小さな声で呟いていた。
「あ、あの、お邪魔だったでしょうか」
「いや、別に。
それよりもう大丈夫なのか?」
流石に人前でゼロ距離いちゃつきを続けるほど羞恥心を忘れ去っているわけではなかったため、腰を浮かせて萌との距離を少しだけ空けた。
「少し疲れただけだったので、もう大丈夫です。
流石にあそこまで消耗したのは初めてだったので、わたくしも少し驚いてしまいましたけど。
……それでは、改めて。わたくし、壬生屋未央と申します」
「初めまして。俺は永岡蒼葉」
「……石津、萌です」
「はい、永岡さん。石津さん。よろしくお願いしますね。
石津さんも古武術を学んでらっしゃるんですか?」
「いや、萌はマネージャーみたいなものだよ。
な?」
「……そう、ね」
「そうなんですか。
……それにしても永岡さんは、すごいですね。
同年代でわたくしと互角以上に打ち合える方がいるとは思いませんでした。少し、感動です」
「そんなことはないだろ。
俺の方が一つ年上なんだし、剣の腕だって壬生屋の方が上だった。同い年だったら俺が負けてたと思うよ」
「謙遜を。最後の一撃、わざわざわたくしに気を遣って頂けたことには気付いています」
「まさか。俺も俺で限界が近かったから、より楽しめる締め方をさせてもらっただけだよ。
またやろう。楽しみにしてる」
「……蒼葉さんは、変わった方ですね」
「そう?」
「……蒼葉は、変わってる……わ」
思いもよらない方向から壬生屋への援護射撃が飛び出した。
萌からもそんなことを云われるとは思わなかった。割と心外だ。
考えが顔に出ていたのか、萌と壬生屋は控えめな笑いを上げる。
それがまた俺にとっては心外で、年甲斐もなく眉根を寄せてしまった。
「いえ、すみません。悪い意味ではなかったんです。
……ええ、では、是非に。
次の手合わせを楽しみにしておきます。
……あの、ところで」
「なんだ?」
急に壬生屋は言葉に詰まると、ちらちらと俺と萌を交互に見た。
「あの、その……お二人は……」
「うん」
「……先ほどの様子を見るに、大変仲がよろしいようだったのですが――」
「……彼女、よ」
壬生屋に最後まで云わせず、萌が小さな声で、それでもはっきりと言い切った。
すると壬生屋は顔を真っ赤にして、変な顔をする。
「……そっ、そうなのですか。
……あ、いえ、その、えっと…………す、進んでいらっしゃるんですね」
なんとも微妙な云われよう。ああ、そうか。事情を知らない人から見たら、俺と萌は軽い歳の差カップルだしなぁ。
俗に云うおねショタ。その単語が今の時代にあるかどうか分からないけど。そしてあったとしても壬生屋は知らないだろうけど。
……萌が年齢固定型クローンであることを今明かすのは、まだ早いだろう。
「し、失礼しました。
ひょっとして、とは思ったのですが……同級生の中に、年上の女性と付き合っている殿方がいなかったものでして……」
「あぁ、いや、気にしないで良いよ。今度事情を話すから」
「じ、事情ですか!?」
何を想像したのだろうこのむっつりお嬢さんは。
更に顔を真っ赤にすると、口に手を当てて恐ろしいものを見るような視線を向けてきた。
なんだか色々と誤解を受けているような気がする。
「そうだ。多目的結晶のメールアドレス、教えてくれる?
あとでメールするよ。せっかくこうして会ったんだし、古武術だけの繋がりってのも味気ないからね。今度、遊んだりもしよう」
「あ……はい、良いですよ。
その……石津さんも、教えていただけますか?」
「……う、うん」
ぎこちない同意。一体どういうことかと思ったが、おそらく二人とも俗に言うアドレス交換に慣れてないのかもしれない。
萌はともかく、壬生屋もそうとは少し意外だった。
いや、壬生屋の場合は単純に男との接触があまりないからかもしれない。
道場に通っているから兄弟子ぐらいはいるだろうけど、それ以外、同年代の男友達ともなると、いないのだろう。
ともあれ、これで壬生屋へメールを送ることができるようになった。
萌の表情をこっそりと見てみれば、少しだけ嬉しそうにしている。
それもそうだろう。彼女にとって壬生屋は、初めての同性の友達になるかもしれないのだし。
解散時間が近いため、アドレスを交換したら壬生屋は行ってしまった。
彼女の後ろ姿が見えなくなると、俺は萌の肩を軽く叩いた。
「やったじゃん。早速壬生屋にメールしてみたら?」
「……えっ、と。でも……何をメールしたら良いのか、分からない……わ」
「そんなの、いつも俺にメール送ってるようなテンションで良いじゃないか」
「……恥ずかしい」
「そんなこと云わないの。この機会を逃したら後でメールを送り辛くなるだろ。
ほら、ハリーハリー。たかがメールを送るだけだ」
「うう……」
萌は恨めしそうに俺を見たあと、左手に視線を落とした。
そして十秒ほどあと、送った、と小さく呟く。
「よし、よく出来ました。
今度の日曜は壬生屋と遊んでみるか。
その時まで少しはメールのやりとりをしておくように」
「……分かった、わ」
一度送ってみたら大したことがないと思えたのだろう。
それほど気負った風ではなく、萌は頷いた。
それじゃあ俺たちも行こうか、と道場の皆がいる場所へ戻るためソファーから腰を浮かす。
が、何かが引っ張られる感覚。見れば萌がシャツの裾を掴んでいた。恨めしそうにして。
「なんでしょうか、お嬢さん。どうやら不機嫌なようですが」
「……今度の日曜日、デートはしない……の?」
「……土曜日に自宅デートで。
何か映画でも見よう。それで我慢してくれ。
おやつにハーゲンダッツもつける」
「……それで良い、わ。
ありがと、蒼葉」
そう云うと萌も立ち上がり、さっき壬生屋に邪魔された分までと云わんばかりに抱きついてきた。
腕に柔らかな膨らみが当たって、少しだけムラっとくる。さっきまで壬生屋と激しいやり合いをしていた興奮が残っているから、余計に。
「……今から帰ってもまだ時間はあるな。
萌、ウチに寄っていかないか?」
「……いく」
答えると同時、萌は更に強く俺の腕を抱きしめる。
一見大人しそうでいて二人っきりになるとデレデレし始めるこれは、オトデレとかそこら辺に属するんだろうか。
そんなことを考えつつ、萌の身体に手を伸ばさないよう我慢して、俺たちはこの場を後にした。
■■■
●あとがき的なもの
5121面子で登場したのは、壬生屋でしたとさ。冒頭の同級生の少女は、アンケート3の名残です。
内容としては蒼葉の身体能力が現状でどれだけ人間離れしているのかと、萌の友達作り第一歩の二点。ついでに二人のバカップルっぷり。
古武術周りは作者の知識が全然足りてないので、おかしいにしても酷すぎるよココ! という場所に気付いたら指摘を頂けると助かります。
小学生編はあと二話を予定。エロはあと一回あるかないか、といった感じ。
エロシーンはあんな塩梅で頑張ります。
●内容的な部分
もっと蒼葉と壬生屋には跳んだりはねたりの超人バトルをさせたかったけれど、子供な上にウォードレスを着てないからこんなもんかな、と。
や、それでも割と超人的な動きをさせたつもりではあるのですけれども。
あと萌と蒼葉は四話と五話の間でそなりにデートとセックスの回数を重ねています。
●Q&A
Q:なんで森さん出なかったんですか?
A:出したかったんですけど、出したらきっと作者の趣味が暴走して幼少期が伸びまくる危険があったんです!
Q:これはおねショタ?
A:一見おねショタのようでも中身はおっさんとロリっていうマニアックな仕様です!
Q:二人で海……。
A:また今度にしよう、ってシーン入れ忘れましたすみません。
修正します。
Q:地獄の香りが未来から漂ってきてむせる。
A:果たしてどうなるのか。や、一応大筋は決まっていますけれども。
蒼葉の勇気が第五世界を救うと信じて……!
以上になります。
感想で意見を頂けると幸いです。
設定が見過ごせないレベルでおかしい、と思った方にも指摘して頂けると幸いです。
それでは、読んでいただきありがとうございました。