-Rance-if もう一つの鬼畜王ルート
第八話 ~Dark lord ~
人類領リーザスの遠く西――
恐怖と混沌が禍々しく渦巻く、深淵の暗黒なる大地。
名は魔人領。ここルドラサウム大陸で闇に魅入られし存在が息づく世界である。
-魔人領カスケード・バウ-
何処までも血の臭いや焼け焦げた臭いが漂う。地は濁った赤に染まり、骨とも肉とも判別のつかない黒い塊がそこかしこに転がっている。生々しい戦場の爪痕が其処にあった。
そんな地獄変相の上空に、一人の女性が佇んでいた。
戦場など似つかわしくないような白い肌と華奢な体。だが、その背には翼が生えており、女性が普通の人間でないことを物語っていた。華美にはためかせ飛ぶ姿はさながら清浄でけがれ無き天使のように思える。
「動きがない……。どういうつもりかしら」
とてもこのような惨状の場にそぐわないまるで暖かい春の陽光にも似た穏やかな声で呟く。
その時。ほんの一瞬間のことではあるが、びゅうと風が唸りを上げてそこを吹き抜けていった。女性の頬を風が吹きすぎると、腰まで達する彼女の長い髪が柔らかに靡いた。
瞬きする間もなく、彼女の隣には、紫色の魔人が姿を現していた。
「メガラス、どうだった?」
彼女は目だけをそちらに向けて訊ねた。
「……奴らは、下がっている」
「下がってる……? ……そう、何にしてもホーネット様に報告にいきましょう」
メガラスはこくり、と首肯すると女性と共にその場を飛び去った。
ケイブリスはひたすら怒っていた。
「うおおぉぉぉぉどぉいうことだぁぁ!!」
苦悶とも憤怒ともつかぬ声音が空気を大きく震わす。
感情の奔流に身を任せ、大木のような腕を振るうと、風を裂くような鋭い音と共に、石柱がまるで元からそこに存在していなかったかのように消失した。
「だから少しは落ち着きなさいよ、ケーちゃん」
横合いから飛んだ呆れたような声がケイブリスの耳朶に触れた。ケイブリスが出すようなビリビリと重く響き渡る低い声とは対照的な女性特有の高い声だ。
巨躯を揺らして意識を傍らへと移してみせる。彼の眼下には妖しくも爬虫類のような冷たさ、酷薄さを感じさせる女性、メディウサの姿があった。愉快そうに佇んでいるが、その態度が今のケイブリスの神経をより逆撫でたようだった。ケイブリスは昂る感情のまま語気を荒げた。
「カカカミーラさんが行方不明なんだぞっ! これが落ち着いていられるかあ!!」
地鳴りのような咆哮が上がる。同時に異常なまでに熱気が一気に膨れ上がり、塵を即座に蒸発させる。
側に立っていたメディウサが不快そうに顔をややしかめた。もっとも、近くにいるにも関わらず、顔をしかめるだけの被害で済むことが彼女のある種の異端性を端的に現していた。
もう何度目になるかわからないやりとり。そんな光景を魔人四天王の一人ケッセルリンクはしばらく黙って見ていたが、いい加減話が進めたくもあり、口を開く。
「ケイブリス。とりあえず私をここに呼んだ理由をさっさと聞かせてほしいのだが」
その言葉に反応したのはケイブリスでなくメディウサだった。彼女は目だけをケッセルリンクに向けて口の端を持ち上げた。
「あらあ、ケッセルリンクいたの? いつもは欠席してるのに珍しいこと。何しにきたのさ」
「何ね、わざわざ私の城までケイブリスの使徒が来たのもそうだが、今回は少し直接問いただしたいことがある」
メディウサは柳の葉のような眉をひそめた。「何それ?」という言葉をそのまま表したような顔でこちらを見上げている。
ケッセルリンクはその様子にもしかしたら彼女もこの事実を知らぬのかと思いながらも訊ねてみた。
「バボラやレッドアイらの前線組がこちらに下げられているというのが事実か否か。事実ならば何故か、だ」
「な!? ちょっとそれ本当!? ねえ、どういうことよ! ケーちゃん」
やはり知らなかったようだった。ケッセルリンクが述べた事実はよほどメディウサに大きな衝撃を与えたのか、即座にケイブリスの巨躯に詰め寄り出す。
バボラとレッドアイはケッセルリンクらの敵である派閥を侵攻している先鋒の部隊を率いている魔人。言わば攻撃の要であった。
あと少しで敵軍が布陣するカスケード・バウを落とせるとこまで追い詰めているこの状況で退かせる理由など思い当らない。
「あぁん!? 何がだ? …………お? おう! ケッセルリンク。やっとこさ来たか」
側でがなられてケイブリスがいらだち気味に振り向くと、そこでようやくケッセルリンクの存在に気付くことが出来たようだった。
「ああ。それで早速で悪いが、こうして私を呼んだ理由、バボラ達を戻してる理由の方を聞きたいのだが?」
挨拶もそこそこにケッセルリンクは本題を勧める。ケイブリスは頷くと口を開いた。
「俺様もそれを話そうと思ってたところだ。……よし、いいか? よく聞けよ。今から俺様達は全軍で人間どもを攻める!」
その告げられた言葉にケッセルリンク、メディウサの二人は眉間に皺を僅かに寄せる。
「人間ん?」
「…………それではホーネット派はどうするつもりだ?」
「フン、あいつらか」
ホーネット派。それは現在ケイブリスらの陣営が争ってる最大の敵であった。
ホーネット派の盟主は人間の少女を魔王とし、人類と魔族が共に栄える人魔共存というお題目など掲げている。
そんなもの典型的魔人気質のケイブリスにしてみれば性質の悪い戯言で耐えがたいものだった。ケッセルリンクにしても理由に差異はあったが、魔人に平和など不必要であり思想が相容れないことは同様だ。
だからこそ今ケイブリスと彼に同調する魔人の連合は共存を掲げる派閥と対立し、戦争をしている。ケイブリスにしてみれば不倶戴天の敵のはずだが、
「そんなものは後にまわす。人間どもを殺すほうが先だ」
ケイブリスは驚くほどあっさりとホーネット派のことを捨て置いた。よほど重要で優先させたいことがあるようだった。
ケッセルリンクは口髭を撫でながら、訊ねる。
「……一応、人間領はカミーラ達の担当だったろう? 思ったより、人間側の抵抗でも激しかったのか?」
「いんや、激しいどころじゃないわよ、結果はボ・ロ・負け」
「何?」
はんっと嘲笑まじりにメディウサはケッセルリンクに結果だけを教える。魔軍は人間領の国の一つであるゼスの首都を陥落させたにも関わらず、その後敗北を喫し、尻尾を巻いて撤退した、と。
ケッセルリンクは予想だにしなかったその答えにピクリと眉を反応させた。
それは想像以上の事実と言えた。ケイブリスの思いつきの理由が半ばカミーラがなかなか人間侵攻を終わらせないことに業を煮やしたものだとばかり思っていたからだ。
「それも指揮していた三人の魔人全てが行方不明という体たらく」
さらに加えられた一言を聞いたケッセルリンクはそれでか、と漸く納得する。
その行方不明と言う事実こそがケイブリスをひどく追い詰めている事象であり、そしてケイブリスをここまで苛立たせる原因となっているのだ。
何せその三人の中にはケイブリスが深い好意を寄せている女性が含まれていた。他の二人はともかくとして彼女が行方不明となればその安否が気がかりでとても落ち着いていられないだろう。
「おまけに人間どもに負けたのは大分前ときてやがる」
忌々しげにケイブリスがぼやく。
「大分前なのか?」
「そ、ケーちゃんが怖かったんでしょうね。誰一人として負けたと報告しにこなかったから」
まさか人間に惨敗したなどという屈辱的な事実など魔族の誇りからすれば言い辛い。何よりカミーラが行方知れずなどと口が裂けても言えやしまい。ケイブリスに向かってそんなことを口にすれば即座に八つ裂きだろう。殺される未来しかない以上、モンスター達はケイブリスの下に戻れずに逃げるしか道がないのもわかる。
結果、ケイブリスの使徒が彼の手紙をカミーラに届けようとした時にようやく事態が発覚したということらしかった。
「愚かな……」
ケッセルリンクは肩をすくめ、深く嘆息を一つ吐いた。
「こうして話している間も惜しい。さっさと軍を編成するぞ、全軍でつっこんでやる」
「……いや、待て、ケイブリス」
「カ、カミーラさんは、か弱いからな、もし人間どもに何かされてたら……な、何か……うぐおおぉぉ……!」
焦燥感に駆られすぎて周りの声が聞こえないのか、ケッセルリンクの呼びかけにも応えず、ケイブリスは何かぶつぶつと一人でごちている。
「ケイブリス」
「いや、ありえんっ! そんなこと俺様は断じてゆるさんぞおぉ!」
再度の呼びかけも我を見失っているケイブリスには届かないのか返事が返らない。
その様を見てケッセルリンクは眼鏡をクイと押し上げ、改めて位置をなおすと、
「……ケイブリス……! 少し落ち着け」
底冷えするような声で、射るような視線を投げかける。同時、先程までの熱気が嘘のようになりを潜め、鋭利な刃物のような冷気が辺りを包みはじめた。
「ぐ、ぬ?」
ケッセルリンクが放つ威圧に飲まれ、ケイブリスは寸陰怯む。漸う、ケイブリスの意識をこちらに引き戻した。
「無闇に全軍で突っ込むなど愚の骨頂だぞ、ケイブリス」
「何ぃ!? それの何処が悪いんだ」
眉を吊り上げ、目を大きく見開き、ケイブリスの顔が凄まじい形相に歪んだ。怒りを孕んだ視線と冷徹さを孕んだ視線がぶつかり合う。
「考えてもみろ。魔軍を破ったからには向こうにそれなりの備えがあるのだと予想できる。過去に聖魔教団の例もある。人間が新たに魔人に対抗する術を見つけたのかも知れん。だとするならば、まともな用意もなく下手に仕掛けて全面衝突した挙句、さらにその裏をホーネット派に攻められでもしたら、目も当てられない。こちらに不利な要素が多すぎる以上そのような二正面作戦は反対だ。今は当初の予定通り、ホーネット派を掃討し、魔人領を統一した後にじっくり攻め込むのが妥当だろう」
メディウサも大方同じ意見なのかケッセルリンクの話に首を縦に振っている。
そもそも以前のカミーラ達の人間侵攻自体、たいした考えがあるわけもなく、ケイブリスのカミーラへのご機嫌とりに過ぎないものであったのだ。そしてそれが失敗したからには、現段階で無理に攻め立てる必要もない。大きな敵のほうに全力でとりかかるべき、ということだった。
だが、冷静さを著しく欠いているケイブリスにはいくら理屈で説明しようと頭が納得を許さないのか、口を真一文字に噛み締め、拳をわなわなと震わせている。ケイブリスのその様子を見て、ケッセルリンクは、彼が理解していないことを悟り、さらに追い討ちのように言葉を放つ。
「どうしても、と言うのであれば私は参加を辞退させてもらおう」
「あ、なら私も抜けるわ、ホーネット達を片付けるほうを先決させたいし」
「な、な!?」
ケイブリスはこれに激しく狼狽した。彼は、予想外の命令拒絶の宣告に怒りを覚えるよりも先ずショックを受けているようだった。
「ぐ……ぐぐぎぎ……」
頬が強張り、顔の全体が痙攣している。ガチガチと牙を噛み合わせ、ギチギチとすり合わせて耳障りな音がたつ。さらには隙間から唸り声まで聞こえる。
その姿を視界に収めて黙って窺っているとケッセルリンクは前触れを感じ取った。反射的に体の内の魔力と呪力が外へと膨れ上がる。
肩を大きく上げたケイブリスが咆哮を上げた。あわせて糸を引くように涎の飛沫が散るがそれを消し飛ばすように空気が爆ぜた。
高く響いたのは軋むような音。目の前では巨大な刃のような鋭い爪と魔力と呪力の厚みで撓むように歪んだ空間が衝突を起こしていた。震える剛腕と障壁。両者は絶妙な力で拮抗の状態を保っている。
ケッセルリンクは不快げに目を鋭く細めた。自身の髪にそっと手を触れてみるとやはり先ほどの衝撃波を受けたせいで乱れてしまっていた。このまま城に帰れば、愛するメイドから厳しい言葉を貰うだろう。嘆くように首を振ると、丁寧に整えてなおしていく。
しばし作業に集中していると軋む音がいっそう増したことに気付く。ふとケッセルリンクは思い出したようにケイブリスに目をやり、
「今の一発には目を瞑ってやろう。だが、次……ここから二撃目に入るようなことがあらば私も本気でお前を迎撃せねばならん」
浅い歩幅で一歩。カツンという乾いた靴音をたてて、相手に近付く。ケッセルリンクは髪から手を離すと真横に伸びる大きな腕へと添えた。ケイブリスは動きを止め、沈黙した。
異様な緊迫感だけが蔓延る。二人を中心に渦巻くように滞留していた。
「お前と戦えば私はただでは済まないだろう。だが、敗北の代わりに生きていることを後悔させるだけの永遠の苦痛は与えることはできる。ここは互いに退くのがうまいやり方だと思うが……どうする?」
「………………」
暫く視線をぶつかり合わせていると、ケイブリスがゆっくりと腕を戻して、頭を掻いた。
「…………悪かったな」
「まあ、カミーラの時のようにならなかっただけ幾分かマシだが、あまり埃を舞わすのはよしてほしいものだな」
「ぐぐ、嫌みな奴だぜ」
「……それで、もう終わったわけ?」
ちゃっかり自分一人だけさっさと避難していたメディウサが何食わぬ顔で戻ってくる。
ケッセルリンクは軽く眉をかくと、話を再び戻した。
「さて、ケイブリス。お前はカミーラが心配なのだろう。それは確かにわかるが、彼女は魔人、それも四天王の一角だ。人間がどうこう出来るわけがないことも良く知っているだろう」
「そうそう。プライドのお高いあの女のことだから大方部下を大量に失った手前出て来れなくて隠れてんじゃないの?」
メディウサ、ケッセルリンクの二人は、魔人が無事であることは確信していた。退かすことは出来ても打ち負かすことは出来るはずがない。魔人の種としての強さに絶対的な自信がある以上心配など無意味という考えが根底にあった。
それに、歴史でさえ、あの聖魔教団が魔人を誰一人として落とせなかったことで、人間は魔人を越えることは出来ないと証明しているのだ。
ケイブリスもそのことには頷かざるを得ないようだったが、
「だが、カミーラさんをこのまま放っておく訳には」
それでも、どうしてもそこだけは断固として譲りはしなかった。
ケッセルリンクは瞑目し、顎を引いてみせる。
「ふむ、確かにそれもまあ道理ではある。それに魔軍を破った人間をただ捨て置くのもよくはない」
「じゃあ――」
懲りないのか、なおも全軍突撃の意見を押し通そうと迫る。
だが、ケッセルリンクはその勢いを手で制する。
「いや、攻める前にやることがある。どのようにして魔軍を破ったのかの調査とカミーラ達の行方を調べ、連絡をつけられるように誰かを派遣するのがいい」
「そ、そうだな……カカッカミーラさんの無事を確認するのが先だな。じゃあ誰を向けるか……」
ケイブリスの意向をある程度汲みつつ、基本調査メインの小規模の部隊を人間領に向けることで取り敢えずのところ一致することになった。
そして、調査隊――ケイブリス曰くカミーラ救出隊――の選出を考える。
ケイブリス自身としては、最も信頼の出来るものに任せたい気持ちがやはり強いだろう。出来ることなら自分が真っ先に行きたい気持ちがあっただろうが、そこはまだ言いださずぐっとこらえていた。
「……人間領に詳しいものでいけばレイ、だな」
「ん~? レイかぁ、人間上がりはイマイチ信用出来んからなあ」
ケイブリスは不満そうな顔。というより基本誰を推挙しても文句を言いそうだ。
メディウサがさりげなくケッセルリンクに視線を寄越した。明らかに底意の含まれているものだ。体から伸びる白蛇がぬらりと蠢いている。
ケッセルリンクは小さく肩を竦める。
「……だが、他におるまい」
人間上がりでないといえば、ここにいる面子を除けばバボラ、レッドアイが該当するのだが、彼らは攻めの要かつ、調査にどう見ても適すような魔人ではない。
「…………ちっ、しょーがねぇ、レイに任すか」
渋々という感じで了承する。人間領のことに明るいことが他の者より速く見つけることに有利になるということは彼もわかってはいるらしい。
「では、レイには私のほうから言っておこう」
「おう、そうか。ちゃんとカカカカミーラさんを無事に連れてくるよう、しっかりとそこんとこ強調して言っといてくれよ? 後、なるべく早くしろともな。それと絶対に手を出すなよとも……ああ、それと」
ケイブリスは強く念を押しながらやたらと注文を重ねていく。
「…………わかった、極力伝えておこう」
ケッセルリンクは眉間に手を当てる。
メディウサは唇をひん曲げた。
自分勝手なのは魔人らしいがその自分勝手の次元の低さの情けなさに二人は頭が痛くなっていた。
-シルキィの城-
「以上がケイブリス軍の動きに関する報告です」
会議室。人工的な照明など一つもなく、数条差し込む自然の光だけが室内を照らす中、ハウゼルの声が部屋中に広がる。
「随分と妙ね……」
ハウゼルの報告を聞き終えると、中央に位置する椅子にしんと佇む女性が、鈴の音色のごとき声を漏らした。彼女こそ、このホーネット派を束ねる盟主こと魔人ホーネットであった。
前魔王ガイの娘であり、高貴な出らしく気品が溢れ、魔人の筆頭の名に恥じぬ特別なものにしか纏えない空気がごく自然なまでにそこに在る。そして何よりその美貌は、悩ましく考える仕草さえ、絵にさせる程であった。
「有難う、ハウゼル、メガラス。サテラのほうはどう?」
思考の海に埋没するのもわずかなもので、次の者の報告へと移る。
視線を向けたのは、濃く明るい深紅の髪が印象的な魔人。
「はい、こちらは追加のガーディアンの製作は昨日終わりました。部隊への補充も滞りなく完了しました」
「そう、ご苦労でした。貴女のガーディアンはこちらの主戦力ですからね」
ホーネット派とケイブリス派は魔物の兵力に圧倒的な差があった。その為粘土をもとに新たな兵力を生み出すサテラのガーディアン作成能力はその差を埋めるべく非常に有効な手だった。材料さえ手に入れば時間はかかれど際限なく作れ、おまけにその実力は魔人の使徒にも劣らない。現ホーネット派における最大の主力と言える。
だからこそホーネットは心からの労いの言葉を彼女にかけた。
サテラはその言葉に照れくさそうな表情を浮かべる。
「い、いや、そんな大した事じゃない……あ、ありません。……~~っ……そうだ、次はシ、シルキィだぞ。何か報告することがあるんだろ?」
気恥ずかしさから逃れるために横を向くと、シルキィ・リトルレーズンへと水を向ける。
「そうだな……少し前のことですが、ここから遥か東、JAPANというところで大きな魔王の波動が観測されました」
「っ! リトルプリンセスのか」
ガタン!
サテラはそれに希望を見出せたような声を出して、膝の後ろで飛ばすように勢いよく椅子から立つ。彼女らの勝利条件は決してケイブリス派の魔人を倒すことではない。リトルプリンセスを魔王として覚醒させることなのだ。魔王さえ覚醒すればケイブリスの野望も潰える。
だが、シルキィはその期待には応えられないような残念そうな顔つきで続ける。
「ああ、だが」
「戻った……のか……」
ある意味、予想通りと言えば、予想通りのことではあった。よくよく考えれば、魔王が仮に君臨したのならこの魔人の体に流れる血が騒がないはずがないのだから。
「少しして反応がなくなったから、おそらく例のヒラミレモンとやらを使ってまた抑えたのだろうな」
「……やはり……、美樹様は拒み続けているのですね……」
ホーネットが刹那、物憂げな表情を見せる。
「ホーネット様……」
それを見て、シルキィは少し顔を曇らせた。
リトルプリンセスが魔王の責任を放棄したことが起因し、今の魔人領における大きな混乱が招かれた。そしてそれを収めるために、ホーネットには重い負担が強いられている。つまり本来であれば、魔王さえ覚醒していれば、このような過酷な状況に立たされ、要らぬ苦労を背負うこともなかったはずなのだ。
それでもずっとここ何年も彼女は疲れも表に見せず、何も嘆くことなく、今も魔人と人間の未来のために重圧にじっと耐えているのだ。
その努力が報われないなんてことがあってはならない。そのような目に遭わせる事があってはならない。
絶望的状況を作り上げたリトルプリンセスの身勝手さ、そして何よりそんなホーネットを救うことが出来ていない今の自分の無力さにシルキィはただ歯噛みするしかなかった。
「……それで、他に誰か、何かありますか?」
そして、再び気を取り直すようにホーネットは会議の進行を執った。
ホーネットが皆の顔を見回してると、紫の魔人が静かに口を開いた。
「…………一つ、気になることが」
意外。その非常に珍しい光景に会議室の面々が皆軽く目を開く。
普段、こういう場では常に黙っているメガラスが話すのは稀なことであるからだった。だが、逆にそんな彼が態々何かいうということは、それだけ重要な何かという意味も持つ。
ホーネットはメガラスの発言を許可すると、促した。
「何? メガラス」
「南方……人類領ゼスにケイブリス派の魔人が侵攻した件ですが、…………カミーラ達が人間に敗北したようです」
「!?」
メガラスの告げた思わぬ言葉が会議室に衝撃を走らせた。
「魔人が人間に敗れただと?」
それは俄かには信じられない事実だった。シルキィの顔は驚きに彩られていた。
魔人が大軍を引き連れ、人間に対し侵略行為が行われたことは、こちらの陣営も情報は得ていて、既に占領は完了したものだとばかり思っていたのだ。相手は四天王のカミーラということもあり、聖魔教団滅亡以降低下し続けている人間の力にホーネット派の彼女達は期待などしてはいなかった。言い方が悪いが、これはいわば番狂わせなのである。
しかし、他の面々も大なり小なり驚きの色を見せる中でただ一人、驚きとは別の反応を見せたものがいた。
「…………」
それは、魔人サテラであった。
彼女の口だけは驚きに開いていない。その口元は、ほんの微かにだが、緩んでいるように見えた。
『人間側が魔軍を退けた』……それを聞いたサテラの胸中には、一つの予感よりも強い確信が沸きあがった。
"ランス"
真っ赤に静かに燃える瞳で呟いた。
サテラは軽く瞼を閉じると、過去に想いを飛ばす。
――ランス。以前、地竜の魔人ノスに唆され、リーザスに攻め入った時に出会った人間の名だった。
魔人である自分に初めて屈辱をあたえた強い男。
初めて、自分に恐れを抱かず対等に接してきた不思議な男。
いつか必ず、また出会う。いつか必ず、借りを返す。
人間など、興味のなかったサテラがあの時初めて気に留め、彼の名を深く心に刻み込んだ。
そして、何時の間にか彼という存在は、サテラの心の中に深く居ついてしまった――
「サテラサマ?」
隣に控える従者、シーザーに声を掛けられ、サテラは我に返った。
どうやらしばらく反応が見受けられなかったのが気にかかったようだった。
「どうかしたの?」
その様子にハウゼルも気づき、怪訝そうな表情で訊ねる。
「いや、……魔人を倒せる人間なんて信じられなくて。少し面くらってただけ」
サテラは首を小さく振ると、何でもないといった風情で応える。
「そう。でも、魔人が敗れたのは紛れもない事実かもしれないわね。少し前に姉さんが刃物を突き刺された感覚があったから」
ハウゼルは自身の腹部に手を宛がう。彼女と姉、ラ・サイゼルは特殊な体質であり、その感覚を互いに共有しているため、何かが体を貫通した痛みをその身に直に味わっていたのである。
「刃物……? とすると聖刀……だろうな。リトルプリンセスを狙いにいって返り討ちにでもあったか」
シルキィが分析し、考えを述べる。多くの魔人にとって刃物という単語で一番に連想されるのは、聖刀日光だった。この刀は魔人の無敵結界を破れる伝説の武器。そしてそれは来水美樹の側にいる男性が所持しているのが把握されている。
「その可能性は十分に考えられるわ」
「案の定向こうも直接魔王を狙い始めてきたか……。そう考えると我々も再度リトルプリンセスに護衛を向けたほうが良いかもしれません」
こちら側がどれだけケイブリス派の攻撃に耐えてもリトルプリンセスが捕らえられれば話にならない。
殊に、魔人に対抗する刀はあっても使い手の力と経験の面で大いに不安があった。シルキィはホーネットに美樹の守りを固めることを提案する。
「そうね……ではサテラ、美樹様の護衛へ向かってくれるかしら」
「わかりました」
「それとハウゼルもお願い。貴方達なら美樹様も心許しているでしょう」
「はい」
サテラとハウゼルは真摯な眼差しのまま力を込めて応じた。彼女達は先般も美樹の護衛を勤めたことがあった。
「それとメガラスは、またケイブリス派の動きを探ってきてくれるかしら。特に、人類領に向けてまた何か動きがあるでしょうから」
メガラスは、了解し首肯く。
「シルキィ、貴女は、サテラとハウゼルが抜けてしまう分、少し負担が増えるかもしれませんが……」
「いえ、御気になさらず命令して下さい。私はホーネット様の補佐ですから」
「有難う、シルキィ。頼りにしているわ」
今後の方針が固まったところで会議は終わりを迎えた。
各々、次の仕事に着手すべく席を立つ。
メガラスは、早くも任務へと向かったのか既に室内から姿を消していた。
シルキィとホーネットはお互いに内談しつつ、退出しているところだった。
サテラも同じく任務の準備に取り掛かるべく、部屋を後にしようと立ち上がったところ、ハウゼルがこちらに話しかけてきた。
「サテラ、今のところリトルプリンセス様の最も新しい魔王の反応はリーザス周辺だそうよ」
「……そうか、ではそこに向かえばいいんだな」
「ええ、今回も一緒の任務、よろしくね」
「うん」
お互いに視線を絡ませ微笑みあうと、「また後でね」とハウゼルも自室の方向へと向かっていった。
サテラはハウゼルの後ろ姿を見送ると、自分が一番最後に廊下へと出た。
会議室の扉を後ろ手に閉じると、その場から暫くの間動こうとせず、じっとサテラは立ち尽くす。
(リーザス……か)
サテラが、ふと目をやった廊下の窓の外には、ただ仄暗くひややかな世界が広がっている。だが、彼女はそのずっと先の世界をただじっと見据えていた。