-Rance-if もう一つの鬼畜王ルート
第十八話 ~miscalculation~
-パラオ山脈-
ヘルマン帝国はリーザス侵攻のため秘密裏に部隊を編成。リーザス国内で騒乱が起きたのを見計らい、両国境へとこれを進発させた。
薄暮が迫るパラオ山脈。淡い闇のベールに包まれたその山を武装した兵士の群れが黒々と塗り潰していく。重装歩兵、弓兵、工兵、魔物部隊。狭い道筋をヘルマンのリーザス侵攻部隊が二列縦隊となって移動していた。
「混乱に乗じて急襲をかける、か。ステッセルめ、つくづく姑息なことを考える奴だ。シーラ様より賜った命令ゆえ、こうして従ってはいるが、そうでなければこんなふざけた作戦などせんものを」
苛立たしげに吐き捨てたのは部隊を率いる将軍のネロ・チャぺット7世。騎士たる者は常に正々堂々と挑むものであれ、という思想を抱いているような人間である。今回の遣り口にはよっぽど腹を据えかねるものがあるらしい。しかし、同時に騎士らしく主君に忠義を尽くすことを信条としているがためにいくら不満があろうとも逆らうような真似をとりはしない。それゆえに不満の矛先を宰相へと向け、その非難を口にすることに終始していた。彼の周りに侍る腰ぎんちゃくの部下などは全く将軍の仰る通りですと阿諛追従をしているが、ヘルマン第4軍副将クリーム・ガノブレードは冷やかな眼差しでそれらを見ていた。
とかくヘルマン武人というのは知より武、頭脳より腕力などと何かと策を軽視しがちなきらいがある。多くのヘルマン軍人は力のみでリーザスを十分押しきれると思い込んでいるようだが、実際にそんなことをすれば敗北するのは必至だろう。別段、クリームはヘルマン軍を過小評価していないし、リーザス軍を過大評価もしていない。互いの国の戦力及び状況を冷静に見つめた上で、今回のような策がなければヘルマンとリーザスの戦争に勝ち目は少ないと判断していた。
放った斥候からの報告ではリーザスの砦は混乱の最中。当然ながら援軍が期待できる状況でない。
狙い通りの展開。クリームはしかし、そのことに胸中でひどく落胆していた。
このままいけばリーザスはろくな対応もとれずあっさりと蹂躙されていくだろう。それはヘルマンにとっては確かに良きことかもしれないが、少なくとも自分にとっては少々欲求不満なことだった。
戦争というものは言うなればゲームのようなものだ。知恵を凝らして駒を巧みに動かし、智謀を活かして敵を出しぬき、如何に美しく自軍に勝利を齎すか。ゲームは困難であればあるほど乗り越える楽しみが生まれる。逆に言えば簡単なゲームなど面白くなどない。容易く攻略できる砦に何の魅力があろう。おまけに何も考えずに兵を進めていけば全て終わる味気なさ。そこに何の興趣があろうか。
ある分野において才能あるものはその分野の弱者を甚振ることに興味をもたない。自己の力や才能を出し切る余地がないからだ。磨きに磨いた能力だからこそそれを全力で振るいたい。振るえる舞台があってこそ才能は初めて意味を持つ。
クリームには自分こそが戦争というゲームにおいて優秀なプレイヤーだという自負があった。
しかし、尚武の気風がひどく強いヘルマンでは詭道は当然疎まれる。また、力の弱きもの、非力が厭われる以上、女性差別的な傾向は自然強くなる。不運にも軍の上官がその女性蔑視の典型のような輩のせいでろくに実力を発揮する機会に恵まれなかった。
鬱憤がある。それだけに今回のリーザス侵攻こそと心中ひそかに期するものがあった。大国同士の戦。自分の力や価値を試すのにこれほどのステージは無い。ヘルマンのレリューコフ将軍と並ぶ宿将バレス・プロヴァンス、防衛戦で負けなしの青い壁と称されるコルドバ・バーン、大陸でも屈指の突破力を誇る赤軍の将軍リック・アディスン、そして、卓越した軍才を持つ知将エクス・バンケット。出来ることなら、自分の力を尽くすことで彼らを打ち破りたかった。だが、この様子ではどうやらそれも叶わぬ望みのようだ。
月明かりの下に聳える砦。宵闇に塗り潰された尖塔はクリームの瞳にはただの黒い塊にしか映らなかった。
無念と失意の念とを抱きながらのリーザスへの行軍。足取り一歩一歩が重く鈍い。一つとしてなだらかな所のない山道は険しいこともあって、ただ歩くだけでも苦痛をより感じる。いい加減嫌気がさしだすと、まるでそうした心を叱咤するかのように遠雷じみた轟音が耳を劈いた。緩んだ脳蓋の中を強く揺さぶられる。
突然のことに兵士たちが皆色めき立った。瞬く間に動揺が伝っていく。
「何事だ!?」
ネロが鋭い叫びをあげる。そこに伝令が現れた。
「二時の方向より砲撃。先頭部隊が生成器兵からの襲撃を受けているようです」
(生成器兵の襲撃?)
クリームは眉をひそめた。
時にムシ、魔物といった生物は軍の作戦行動に影響を与える。例えば有益な面として食用のものであれば糧としての利用、強力なものであれば兵力としての利用、毒を持つ者であれば毒物を得るのに活用でき、反面として凶暴なものは人間に襲いかかってくるため行軍の妨げになるといったことがあげられる。それ故に軍人は生き物の生態に関して強くある必要性があり、さらに進軍する地域の生物について把握していなければならない。クリームも当然知識がある。だからこそ、ひっかかりがあった。パラオ山脈に生成器兵が生息していたことなど一度として聞いた覚えが無い。ここは敵国との国境。いくら貧乏国家と言えど地理を把握する意味でも調査員が派遣され、土地の詳細な状況は逐一調べられているはずだ。
生成器兵は厳密に言うならば、生物でない。地底に住む小人のポピンズが作っては外に放置したりするカラクリ。それらは例外なくところかまわず人間を襲うという迷惑な性質を有している。大抵の知性ある魔物であれば、人間の軍勢にしかけてくるといった愚を犯しはしない。多くの魔物は強者、弱者というものを頭で理解し、敵わないと見ればこそこそと姿を現さなくなることがほとんどだ。しかし、ただの決まった動きしか出来ないカラクリには知性というものがなく、遠慮なく軍隊の前だろうと姿を現してくる。そうした意味では、ヘルマン軍がここに出現した生成器兵と接触した出来事が決して有り得ないと言いきれるわけではないのだが……。
果たしてそれをただの運が悪い出来ごとと片付けるか。随分と都合が良い出来ごとと見るか。
クリームが思案に耽っていると、耳障りなローター音がひびいてきた。おそらく器兵コプター辺りが飛び交っているのだろう。
ネロが不快げに舌打ちした。
「斥候は一体何をやっていたんだ! 下等生物のガラクタごときに好き勝手されおって」
声音には不覚をとったことの苦々しさが滲んでいた。
「さっさと囮役を準備させろ! 本隊から意識を逸らさすんだ」
通常、軍隊は仮に遭遇した魔物がいても、まともに相手をしたりはしない。効率を最優先された軍に無駄な行動をとる余地は無い。そのために部隊には必ずと言っていいほど専門の囮役がいる。匂いやら性質やらの要因により魔物から狙われやすい人間が存在するのだが、それを利用することで魔物の気を引かせて、その間に本隊を安全に移動させることができる。
ネロが迅速に命令を下していく。予定通り囮役は放たれた。が、今度はその後の行動に問題が生じた。
(……渋滞)
速やかにこの場を去ろうにも、前は中々進む気配がない。
一人の人間であれば、前に進むも後ろに下がるも普通不自由がおきることは考えられない。しかし、人間が何十、何百といた場合はどうか。ましてやその場所が細い道だったら。
パラオ山脈は敵国を攻める際に不利な地と言われているが、その代表となるものの一つに隘路の行軍の難しさがある。当然のことながら隘路は大軍の行軍に適さない。兵の機動、集中が阻害されるからだ。
現在ヘルマンは分進合撃のために3つのルートに兵を分散してはいるのだが、それでも一つのルートに何百もの兵がいる。それだけの数が細道に集中すれば、長蛇の列をつくらねばならない。さらに上手く通るには歩調を合わす必要性がある。仮に、部隊の歩度がばらけてどこかに速い歩速と緩い歩速の部分がでてしまえば、緩い部分のほうは詰まりを起こしていき、速い部分のほうは突出していき、分断を起こす。隘路の敵とは渋滞であり、これが起きると機動と集中の面で大いに遅れをとる。
渋滞を避けるには、渋滞を引き起こしそうな場所をまず避けることが一番なのであるが、どうしても通過しなくてはならない場合、速やかにその場所を抜けることと速度を緩めず、間隔を上手く保つことを心がけなくてはならない。
重装備を施した何百もの人間の集団が険しい山道で歩調を合わせる。当然思う以上に難儀な要求だ。それでも、ネロの率いる部隊はこれをきっちりこなしていた。部隊全体が同一の歩調で行動することで整然とした隊伍を維持する行軍動作はまさに兵を運用する上で基本として語られるが、その基本を末端まで高い次元で浸透、徹底させられているのはおそらくヘルマンでもネロの軍だけだ。山越えの部隊に抜擢されたのもそうした理由がある。
しかし、統制のとれた部隊はここに来て、足並みが大きく乱れた。理由は単純。予期せぬ生成器兵の襲撃。歩速を緩めずの鉄則がずれてしまったからだ。
一度流れが止まれば、滞留してしまう。解消するときこそ一気に状態が変わるが、直ちに起きることは期待できない。
(まったく、本当に嫌なタイミングで厄介なことが起きたものね……)
クリームの眉間には深い皺が寄る。
山も大部分を越えた。一番足に負担が来ているときにこうして立って待機が続くというのはいただけない。
間近とも言える位置には煙と火が空へと盛んに立ち昇る都市。目標がすぐそこというところなのに足踏み状態では兵らの心に焦燥も染みわたっていく。おまけに神経は使う。
また、兵の緊張感も微妙に緩んでしまった。突然の襲撃で一瞬張り詰めたものが、生成器兵だったということで霧散したことが反動となっている。
疲れ、焦燥、緩み、全てを立て直すのは少し時間がかかるだろう。乱れを正常に戻すのは決してたやすいことではない。
それもこれも生成器兵による余計な横槍が入ったせいだ。ヘルマン軍にとって望ましくないタイミングでしてほしくないことをされてしまった。部隊には悪影響しか残らない。実に都合の悪い出来事だった。
と、そこまで考えたクリームは、はっと目を大きく見開いてギクリとした。首筋に冷たい汗が浮かぶの感じる。山風のひと吹きがひやりと撫でていった。
――ヘルマン軍にとって来てほしくない、都合が悪い展開……?
(…………)
険しい表情で思考を高速で巡らして行く。
(待って……まさか……いや……でも……これは……)
クリームは茫然とする。脳裏に過るはある一つの可能性。違和感は確かにあった。
震えを帯びた手で何とか眼鏡の縁を捉える。視線は必死に暗夜を背景に浮かび上がる砦、煙の噴き上がる都市に行き来していく。
もしも。もしもあれが――。
自らの推量の輪郭が濃く描かれる。戦慄。喉がからからに渇いていく。
――ごくり。
無意識に固唾が喉を下った。と、まるでそれが引き金になったかのように、
「う、うおああああああ!?」
前方で悲鳴があがった。
「今度は何だ!?」
ネロが苛立たしげに大声をあげる。
「ね、粘着地面です! 突然粘着地面が現れて、歩兵部隊の足を捉えました!」
「な――」
ネロは何事か言おうとしたようだが、それはかき消された。
再び轟音が鳴り響いた。同時、夜気を吹き飛ばすような熱い衝撃が降って来た。
兵は一瞬、また生成器兵かと思ったようだが、それは違う。威力が段違いであったし、何よりリーザスの方角からそれは来ていた。
部隊が完全に詰まり、その上で粘着地面により磔にされたところに襲ってくる砲弾。あまりのことに大半の者は今何が起きているのか、何がどうなっているのか理解できないはずだ。兵達が混乱しだし、蜂の巣をつついたような騒ぎになるのは仕方なかった。
動揺していたのはクリームもまた同じだったが、現在の状況はここの誰よりはやく理解した。しかし、一つ解せない点があった。
(なぜ……)
二度目の砲撃。激震が足をさらっていく。土砂が派手に跳ねあがった。三度目の砲撃。あっけなく左右に吹き散らされていく兵と兵。血飛沫と枝葉を含む烈風を浴びせられる。
やはりやけに正確な射撃だった。辺りを見回す。暗い。乱雑に立ち並ぶ木や、赤土が剥き出しとなった山道は空の闇が感染したように漆黒に呑まれている。黒の甲冑を着こんだヘルマンの兵はそこに溶けいっていた。
(なぜ、こうも一番兵が密集しているここに正しく照準をあてられたの? 遠くから見えるような目印があるとは思えないのになにが)
なおも連続する砲声。
その合間に不快な鉄の魔物の囂しい啼声がクリームの耳朶に微かに触れた。
(っ! まさか……!?)
はっと空を見上げた。ヘルマン軍の丁度上空には器兵コプターらしき影が舞っている。それが時折チカチカと光を明滅させていた。
やられたと思う間もない。今度は後方で爆発音がした。木々や土砂が道を覆っていく。
(退路まで断ってきた……っ!)
その事実はヘルマン兵には重すぎる。ただでさえ、奇襲をかけられて取り乱してしまっている。兵が詰まって前にもいけなければ逃げ場も失った。追い詰められたのだ。
その間も無慈悲に空からは砲弾の雨が落ちてくる。
恐怖に耐えきれなくなったヘルマン兵は潰走しだした。道を外れて、森の奥へと次々逃げ込んでいく。
ネロが「ば、馬鹿者っ!」と怒声を浴びせるも、甲斐なし。皆、目前の死の恐怖しか見えておらず、それより逃れたい一心なのだ。
しかし――
「ぎゃ、ぎゃあああああああああああ!」
――助かるわけはない。
山中に阿鼻叫喚が木霊する。クリームは耳を覆いたくなった。砲声や悲鳴の残響の中でも、いやにはっきり聞こえる咀嚼音。彼らの末路がどうなったか端的に知らせてくる。
知性ある魔物は強きものの前に姿を見せることはない。人間の軍隊がほとんど魔物の襲撃に遇わないのはそれが強き群れだと彼らが理解しているから。ならば、その群れから逸れ、魔物のホームとも言うべき森の奥に向かえばその人間がどうなるか考えるまでも無い。ようするにただの自殺行為なのだ、兵が散り散りに森に逃げることは。
しかし、クリームはそれを馬鹿な行為と責めることは出来なかった。兵は完全に恐慌に陥っている。油断を誘われ、罠に引きこまれ、奇襲を仕掛けられ、逃げ道を見失った。ここまで畳みかけられ、なおも精神が揺らがない人間は少ない。混沌とした部隊に秩序を取り戻すのが将の役目だが、もはや取り返しがつかない域に来ている。
(つまりは……戦の勝敗は戦場に着く前に決している……)
なすすべない。終局の形まで見え、クリームはそれをただ静かに受け入れた。
砲撃は長いこと続かなかった。無論、止んだからといって、活路が開けるわけでない。
葉が靡いている。前方からも、横合いからも、そして背後からも。気配が近づく。それは人間の血と騒ぎに誘われた魔物の群れだった。獰猛な唸り声が明らかな敵意を宿している。もはや半壊した軍隊は強者でないというところだろう。明け透けなほどの弱肉強食。
そんな彼らがヘルマン軍をじりじり包囲して、しかしその状態から中々仕掛けてこない。
それが端的に意味するのはつまり――。
先ほどまでの砲撃の轟音にも負けない声が遠方より投げられた。
「ヘルマン軍に告ぐ。こちらはリーザス第二軍将軍コルドバ・バーンだ。大人しく武器を捨ててこちらに投降するか、そこでモンスターどもの胃袋に収まるのが良いかどちらか好きな方を選ばせてやる」
-JAPAN-
織田城の客室。床に敷かれた畳みの上にマリス・アマリリスは大陸人としては慣れぬ正座をしていた。一人静かに次の報告が来るその時を待っている。
ヘルマン帝国によるリーザス侵攻。その知らせが舞い込んだ瞬間、マリスの心中に去来したのは安堵と不安の二つの感情だった。
安堵というのは部下からの報告内容があくまで"予定通り"のものであってくれたこと。ヘルマンがリーザスに仕掛けてきたことは特段驚くべきことでない。想定の範囲内の事象だった。国王であるランスが外遊しているのも、こうしてマリスが他国に赴いているのも当然自国内に相応の備えがあるからこそ。
ヘルマンは隙をついて上手く国を混乱させたと思っているようだが、それは思いこみに過ぎない。上手くいったように見せかけているのだ。反乱も暴動も全て偽りのもの。目を欺くための策。リーザスはもともと早くからヘルマンの奸計を看破していた。なにせヘルマンの忍者を買収して間諜に仕立て上げている。あちらの工作も、どう仕掛けてくるかも把握済みのことだった。敵の情報が割れ、こちらの情報が正確に伝わらなければ、計画が上手くいく道理はどこにもない。リーザスとしては仕掛けられた策を上手く逆手に取ることで戦の優位をとる一つのチャンスとなった。敵が必勝のものとしていた侵攻作戦を潰すことで出鼻をくじくと同時、敵国の政府と軍の失態は彼らの威信を減退させ、反政府勢力決起の機運を高めていく。
また、これでJAPANが同盟を組むべき相手に相応しいか否かという判断も出来た。窮地に立たされるリーザスに対してJAPAN宗主の香がどのような考えをもつか。もしも、あそこで少しでも愚かな思惑を抱いてみせていたなら、障害として叩き潰すことも考えなければならなかった。大抵の為政者ならば混乱のどさくさにポルトガルを奪うくらいの真似はするだろうし、ランスのアキレス腱ともいうべきものを抑えていることを利用して立ちまわるくらいはするであろう。しかし、香は当てはまらなかった。危うい国内情勢にあっても他所に鉾先を向ける絶好の機会を切り捨てた。はっきり言えば試したような形となるわけだが、国の未来を左右する以上、見れるとこまで見ることは不可欠。重要な局面で足を引っ張られる危険性はどうしても排除しておきたかった。こうして相手の出方の確認がとれたのは一つの収穫だろう。
手間やリスクのひどくかかる際どい策であったが、総じてリーザスにとっては上手く事が運ばれている。ヘルマンを罠にかけ、JAPANとの友好もこれからさらに推し進める目処が立った。
得るものは得られた。しかし、マリスは心底喜んでいるとはとても言い難かった。胸中にはざわつきがある。経過は順調のはずだというのに心は波立って穏やかでない。
何故か。理由ははっきりと自覚している。
(……月)
マリスの睫毛が小さく揺れ動いた。怯えさせるは月の影。あの不吉を意識してから言いようのない漠然とした不安がずっと広がっている。予定通りなはずの報告を受け取っても、なお掻き消えない。
月など毎夜昇るものだし、特別なことでは決してない。せいぜい、満月。それにしても多くの者にとってはただの丸い月としか映らなかっただろう。何も感じることなどない。だが、マリスには違った。似ていると思ってしまったのだ。
リーザス城に襲った深夜の悪夢。城を蹂躙する兵の群れ。飛び交う怒声と叫喚。小さく震える主君の肩を抱きながらふと見上げた窓の向こうに見たあの月に。
「…………」
マリスは徐に水晶玉を手に取った。占いなどに使われるアイテムで、いわゆる幻視を得られるものだ。大きく深呼吸して、それをじっと見つめる。
かざした手からしばらく魔力を送り続けていると、透き通った球面にぼうっとイメージが浮かび上がりだした。それはどこかの瀟洒な洋間だった。マリスにとってはよく見慣れた空間。リアの私室だ。しかし、そこに部屋の主はいなかった。
「……!」
思わず顔をぐっと近づけて覗きこんだ。
部屋には誰一人としていない。無人の空間のあちこちに視線を飛ばして行く。凝視。みるみるうちに自分の顔が強張っていくのを感じた。
――なんだ、これは。
我が目を疑うような異様な光景があった。本来、リアの私室が無人となることなどほぼありえないことだった。何故ならリアが部屋を空ければ、入れ替わりに侍女が部屋に入る。主がいない間に部屋を最高の状態に整える仕事あるからだ。
だが、マリスの目に映る部屋はどこにも侍女の手がつけられた形跡がなく、おそらくリアが出ていったまま放置されている。白絹の敷布はしわが出来たまま。花器もカンテラの中身も交換されていない。何よりリアには常に側に置くはるまきというペットがいる為、抜け落ちた毛などでよく汚れるからはっきりとわかる。勘違いではない。何気ないようでいて、その実ひどく不可思議で異質な状景。
いったいどうしてこんなことになっているのか。
どれだけ解読を試みようとも納得できる良い答えは出てくることがない。
最も優先されるべき仕事とされているにも関わらず、城の侍女はそれを出来ていない。出来ない状態に、ある。それは――。脳を走る月夜の記憶。
血の気が失せていく。早鐘打つ心臓。息が苦しくてならない。
安堵はもうどこかに吹き飛んでいた。まるで満ち欠けで形が刻々と変化する月のごときひどく不安定な心だけがある。
居ても立っても居られずお帰り盆栽を取り出す。立ちあがろうと腰を浮かしたところで襖障子に淡い人影が浮き上がった。
間もなく姿を見せたのは、部下だった。瞬間。マリスはもはや直感した。
相手の態度も表情も雰囲気もまるで平静そのものだった。会談時の報告とは真逆。顔色は悪くないどころか、その様子は実に落ち着いている。だが、それは表面的なものであり、単なるつくられた仮面を装ったに過ぎない。外に出してないだけなのだ。マリスは敏感に察した。奥に潜む暗雲の気配を嗅ぎ取っていた。
震えそうになる唇をなけなしの冷徹さで抑えて、言葉を絞り出す。
「……何が起こりました?」
「謀反でございます」
さながら雷鳴に聞こえた。淡々と告げられた内容は深く、鋭く、胸を貫くように刺さる。痺れるような恐怖に身が竦んだ。
「ヘルマンとリーザスの戦争開戦とほぼ同時にエクス将軍率いる白軍が反旗を翻しました。ヘルマンの侵略に対する防衛の為に戦力の多くを外に出して手薄となっていた首都は……落とされました」
マリスの掌から鉢植えがするりと零れおちた。
-リーザス城-
広間中に異様な緊張間が満ちていた。
「エクス……これはいったいどういうつもりかしら?」
リア・パラパラ・リーザスは瞳をきゅっと小さくする。そのまま目線をぐるりと辺りに巡らした。いつもの見慣れた景色はどこにもない。
殺気だった兵士らが睨み合っている。身につけている装具はいずれもリーザスのもの。掲げる紋章もリーザス王国。つまりはリーザス兵同士が相対していた。
「ここ、王の間で剣を抜き、この玉座にその切っ先を向けるという行為がどういうことかわかっているの? とても戯れで済ませられるような問題ではないけど?」
リーザス城は騒乱の渦中にあった。白軍の将エクス・バンケット、反乱。ヘルマンとの間で戦端が開かれたその最中、リーザス城を武力で制圧せんと麾下の兵を動かした。城内の守護にあたっていた兵を瞬く間に叩き伏せ、遂には謁見の間に抜き身を片手に闖入するという蛮行。騎士にあるまじき背信行為だった。
リアの心境はひどく煮えくりかえっていた。内心抱いた怒気、激情が飛び火したように広間の篝火が激しく燃えあがり、火の粉を舞い散らしていく。
揺らめく赤い光に染められた剣はしかし、ただの一つとして引かれることはなかった。
「ええ。はっきり理解しています。無論、覚悟も」
エクスはことさら低く冷淡に告げる。リアは無言で彼の目をじっと見つめた。まるで理性的なものだ。若き智将の瞳には狂気の色も見られ無く、普段どおりの怜悧な光が宿されている。
「エクス将軍、どうしてこのような真似をなさったのです!」
チルディ・シャープが口惜しさを滲ませた声を発した。城の守り手である親衛隊はいまやこの場に僅か残すのみで壊滅状態にある。チルディは不在の隊長の代理として隊の指揮をとり、謀反の食いとめにあたったのだが、防ぐこと叶わなかった。
虚を衝かれた。あまりに容易く突破されたこの事実はそれだけエクスが犯した裏切りの程が大きかったかを示している。国王はキナニに遠征中、リックとレイラの両名はそれに随行、コルドバは青軍を率い国境の防衛、そしてバレスと主力軍はヘルマンへの陽動と反撃への軍事行動の準備と動かしている。つまりほぼガラ空きとも言える首都の守護を任されていたのが第四軍のエクス・バンケットだった。それが今やこうして守るべきはずの城を制している。
「謀反など……主君への忠義に背くなど騎士にとって最も恥ずべき行為ですわ」
怒り、悲しみ、嘆きといった感情の全てが糾弾の叫びにのって謁見の間に響き渡った。
それでもエクスは揺ぎ無く冷やかに。佇まいを崩すこと無い。
「騎士の忠節とはただ盲目的に上に従うことなのでしょうか」
澄まして返すとエクスはリーザスの紋章をそっと撫でさすった。
「私は今でもリーザスの騎士です。常にリーザスのためにありたい――その思いは変わりませんよ」
決起の迷いのなさ、淀みない手際は、もとより余りある覚悟、強き意志を抱いてるがゆえだろう。
リアは睨み据える目はそのままに口許に薄い笑いを張り付けた。
「どんな言を吐くかと思えば、この反乱もリーザスのためであるというのが貴方たちの言い分なわけね?」
「リア様、そしてランス王……貴方がたは国政を担うには相応しくありません。リーザス王国の未来を思えば、直ちにその座より退いていただくより他はないというのが我々の意見です。やり方はいささか乱暴ですが、出来ればリア様には賢明なご判断をお願いいただきたく存じ上げます」
ぴりぴりと殺伐した空気が肌をさす。
「……一つ。聞いておきたいことがあるんだけど、いい?」
「はい」
「エクス、貴方はいつから叛意を?」
「演説のあったあの日……あれがきっときっかけだったのでしょう。もしかしたらこんな時が訪れるかもしれないと」
「……ふぅん」
鼻から浅く息を吐く。
お腹の辺りでは腕に抱えたはるまきが威嚇するような唸りをしきりに上げている。それを顎の下を優しく撫でることでおとなしくさせると、リアはゆっくりエクスの許に近付いていった。
「リア様っ!? お下がりください!」
親衛隊員が動揺した声を上げ、すぐさまリアの身に寄ろうとする。それをきっかけに睨み合いの状態が崩れた。叛徒らの兵も仕掛けるべく動きだす。
反応が瞬く間に連鎖。そして、双方が激突を開始しようとしたその寸前、
「止まりなさい」
リアは鋭い語調で制した。一時、場の流れ、全員の視線をまとめて寄せる。
「親衛隊は剣を納めなさい」
束の間の空白を埋めたのはしごく簡潔な一言。しかし、意味をのめない者がほとんどだった。
「なっ!? それはっ! いえ、しかし――」
「ここまで周到に計画を実行されて、謁見の間にまで武力行使を許した以上、もはや大勢は決まったも同然。打ち倒すにしても、退くにしても切りぬけられる見込みはとても無いの。なら、これ以上余計な血を流させる真似も、血でこの謁見の間を汚すような真似もさせるわけにはいかないでしょう」
リアがチルディを見ると、彼女は苦渋の面持ちのまま黙り込む。固く引き結ばれた唇は親衛隊としての面子、騎士としての矜持を必死に抑え付けているかのようである。
心情は痛いほど理解出来る。逆賊にいいようにやられておきながら、ろくな抵抗すら出来ずに屈服しろというのだ。しかしそれでも、その程度の、それっぽっちの小さな満足のためにより大事なことを見失うような判断をするは愚かだ。だから、恥辱も、辛酸も飲んでもらわねばならない。無論、それはリア自身も――。
呆然と立ち尽くす親衛隊からゆっくり離れる。
こつこつとハイヒールが大理石を叩く硬い音の連なりだけが響いていく。リアがエクスの前で足を停止させると、完全な静寂が辺りを包んだ。
至近距離。互いの視線が真っすぐ結ばれる。
「お好きになさい。とりあえずは大人しくしててあげる。どうせ短い間でしょうから、ね」
「……」
一瞬、やや複雑そうな感情の色がエクスの細面に過った。彼はそれを隠すように手で眼鏡を押し上げると、
「捕らえてください」
短く命令を下した。
エクス派の兵が、リアの身柄を拘束する。かつての自分の臣下らによって取り押さえられる中でも、せめて背筋は伸ばして、堂々とした立ち振る舞いだけは崩さなかった。
最後まで見届けるより前に、エクスは背中を向けていた。
いくつもある窓からは四角い光が落とされている。翻った白の外衣は青白く濡れていた。