第四十三話 麻帆良に忍び寄る悪魔の影
麻帆良学園都市を厚い雨雲が覆い、土砂降りの模様を見せていた。
まだ一ヵ月は先の梅雨を思わせるような降り方の為、屋内にいても耳に痛い程であった。
南の島への旅行は既に数日も前の事である。
結局あの後、ムドはエヴァンジェリンに頼んで影の扉で一足先に麻帆良に帰った。
転移魔法で過剰魔力が生成され、苦しむかもしれない危険をおしてさえ。
それから、ムドは自分の荷物の全てを麻帆良女子中寮からエヴァンジェリンの家に移した。
家主も快く迎えてくれ、アーニャはおろかネギにも顔を見せてはいなかった。
従者の中でも顔を合わせたのはお勤めを望む面々のみで、明日菜やアキラと顔を合わせるのも数日ぶりである。
放課後である夕刻、ムドに集められた従者全員がエヴァンジェリン宅に集まっていた。
「はあ、結局旅行も散々でムド、あんたアーニャちゃんに何言ったわけ? ずっと暗い顔してたわよ。精一杯何でもない振りはしてたけど」
「他の寮生達も気にしてる。皆の、妹みたいな子だから」
ムドの従者であるからして、もちろんこの場にはアーニャの姿はない。
その事を気にしている明日菜とアキラだけが、もちろん事実を知らないのだ。
各人がソファーや床の座布団など、思い思いの場所に据わっている。
ムドは両隣にネカネとエヴァンジェリンを座らせたソファーから、目の前のテーブルにあるモノを置いた。
現在、ムドが保有している仮契約カードの全てであった。
カジノのディーラーがトランプをそうするように、一枚ずつが見えるように広げた。
「これが、現在私が契約している従者……つまりは、皆さんとの仮契約カードです」
「それぐらい見れば分か」
「アーニャちゃんのカードがない」
良く見なかった明日菜より先に、アキラがその事に気がついた。
明日菜も指摘されてから確認し、アキラと共に周りを見て頷かれる。
そしてまさかという視線をムドへと向けてきた。
当然だろう、ムドは常日頃からアーニャが大好きだと公言してきたからだ。
「アーニャとの仮契約を解除しました。そして、今ここで皆さんとの仮契約も解除します。ムドの従者、全ての仮契約を解除」
南の島での時と同じように、テーブルの上の仮契約カードが全て光と消えていく。
誰一人止める暇もなく、そもそも先に聞かされていた従者は止めるつもりがない。
小さくあっと漏らしたのは、やはり聞かされていなかった明日菜とアキラであった。
「ちょ、ちょっと……なんで解除しちゃうのよ。私、アンタの魔力の加護がないと普通の女の子なのよ。またあのゴーレム使いが現れたら、死んじゃうじゃない!」
「大丈夫ですよ、明日菜さん。私はあの時の犯人を知ってますから。そして、犯人が二度と手を出さない事も。少し違いますか、あの犯人は私以外は殺す気ありません」
「そう言うわけだ、安心しろ。私もネカネも犯人を知っている。むしろ、お前はこれまでの人生をその犯人に守られて生きてきたんだぞ」
「守られてきたって、どういう事よ。一体何がしたいのよ、アンタ達」
わけがわからないとばかりに厳しい視線を明日菜がエヴァンジェリンと、ムドに向けた。
「エヴァ、明日菜さんをからかわないで。明日菜さん、あの件についての貴方の安全は保障します。だから、まず私の話を聞いてください」
「本当でしょうね。もう、いつも冷静なんだから。たまにはガキらしく、慌てふためいた姿ぐらい見せなさいっつの」
「亜子、大丈夫?」
「アキラ、私は平気やて。だからムド君の話を聞いてあげて。大事な事やから」
説得され、明日菜とアキラの二人は浮かべていた腰を降ろした。
そしてムドは小うるさい雨音で集中しにくい中、一つ小さく深呼吸を行った。
別に緊張しているわけではない。
ムドの一挙一動に皆が集中してくれている事を確認してから、重い口を開いた。
「愛するべき従者にまで嘘をついている事に疲れました。だから告白します。私はこの場にいる明日菜さんとアキラさんを除いた全ての人と性的関係を持っています」
「へ?」
「あ、亜子?」
何を言われたのか分からないといった顔をした明日菜とは違い、アキラの反応は目覚しかった。
言葉を耳に入れて数秒も経たずに理解し、立ち上がっては本人に確認をとっていた。
だがその確認に対し頷かれて肯定され、力が抜けるようにへなへなと尻餅をつく。
それから遅れる事、数分後にようやく明日菜も意味を理解したようで赤面させていた。
「え、ちょ……性交って、キスとか膝枕抜きで?」
「かまととぶって、性交ってコレよコレ。乙女の花園にムド君の太いのをぬぷぬぷってね」
「朝倉、アンタは黙ってて! そんなだって、ムドはまだ子供で、ネカネさん!」
「本当の事よ、私達はムドを愛しているわ。知らなかったのは、明日菜ちゃんとアキラちゃん。それからアーニャの三人だけ」
左手の指で作った円に右手の人差し指を入れて、和美が暗喩する。
即座に黙らせた明日菜は、まるでおぞましいものでも見るかのようにムドを睨んでいた。
「悲しくなるので止めてください、明日菜さん。そうしなければ私が死んでいたという側面もあるんです。知ってますよね、私の病気」
「魔力がうんちゃらって奴でしょ。え、その為に?」
「私は疾患により、魔力を大概に出せません。なのに兄さん以上の魔力を生み出せる許容量を持ち、行き場を失くした魔力が暴れて常に熱が出ている状態でした」
「だから亜子や、ネカネさん達に……そういう行為で抜いて貰ってた? 嘘だったんだ、キスをすれば魔力が抜けるっていうのは」
ギチリと右手の拳を握るアキラにムドは素直に頭をさげて謝罪した。
だがそれで亜子との関係を終わらせるかはまた別の話である。
その為にも、こうして全員に全てを打ち明けようとしたのだ。
「全てを明かした上で、再度問いかけます。私と仮契約をしなおし、恋人として愛してくれる人はこちら側へ来てください。誰にも言わなかった私の全てを明かします」
こちら側と言われ、初めて明日菜とアキラは気が付いた。
二人はムドの対面となるソファーに座っている。
ムドの両側はネカネとエヴァンジェリンで、後ろに護衛のように刹那と月詠が。
テーブルの短い方に亜子と和美がおり、その一人用のソファーはムド側に寄せられていた。
こちら側とは、テーブルを境界線にしてムドがいる側であった。
「こちらに来たら、直ぐに股を開けと言っているわけではありません。愛してくれれば良い。仮契約とは元々、そういうものなんですから」
「ふざけんじゃ」
「私、それならもう一度ムド君の従者になる」
「アキラちゃん、なんで!?」
怒りの声をアキラに遮られ、本気で明日菜は問い掛けていた。
「私は、騙されていた事を許したわけじゃない。けど、理解は少なからずできる。当時の私が全て教えられても信じられなかったし。ムド君の事も嫌いじゃない。けど一番の理由は」
「アキラ、本当にええの? 私やなくて、自分の事を考えて決めてええんよ。ムド君の従者になる前から、ウチらは友達やん。それは変わらへんよ?」
「でも心配なんだ。亜子は私が守る。けどそれには力がいる。エッチは無理だけど、キスとか胸さわるぐらいなら大丈夫、平気」
そう呟いたアキラは、迷う事なく境界線を越えた。
ソファーから立ち上がり、テーブルの脇を周り亜子の隣に座り込んだ。
残された明日菜はまるで信じられない表情で、全員の視線にさらされる事になった。
答えは既に決まっている、このまま帰れば良いだけ。
ムドは安全を保障してくれたし、憧れの高畑も明日菜にはいた。
この場にいる何人もの女の子と関係を持つムドは、正直な話汚らわしくも思う。
「私は帰っ……あれ?」
視線に耐えられないように立ち上がり、決断を口にしようとした明日菜がある事に気付いた。
(コイツ、私の安全は保障してくれたけど変な事を言ってなかった? 犯人はコイツ以外を殺す気はないって)
そう思い出した瞬間には、明日菜は頭が沸騰していた。
踵をかえそうとしていた足を止め、高々と上げた片足をテーブルの上に叩きつける。
パンツが見えるかもなどと細かい事すら気を回せはしなかった。
驚いた顔のムドにざまあみろと思いつつ、振り上げた拳を強かに打ちつけようとし、止められた。
エヴァンジェリンの魔力の糸に拳を絡められてだ。
そのまま即座に動いた刹那と月詠がそれぞれの得物で明日菜の首を斬る直前に持っていった。
「ちょっと、邪魔すんじゃないわよ。このガキ、一回ぶん殴らないと気がすまないのよ!」
「貴様、状況が分かっているのか?」
「明日菜さん、できれば動かないで下さい。斬りたくはありません」
「ウチもさすがに剣の手ほどきをしたお人を斬りたくはありませんえ。まあ、どうしてもと言うなら止めはしませんけれど」
死を突きつけた制止の言葉にも関わらず、明日菜は止まらない。
あろうことか刹那の夕凪と月詠の小太刀を指先で摘み取った。
既にエヴァンジェリンの魔力の糸は引きちぎった後であり、二人を同時に投げ飛ばしたのだ。
二人共、神鳴流剣士なので回転しながら両足で着地したが、本当に二人が殺す気ならば死んでいた。
それにも気付かず、明日菜は周りを見渡してからムドを指差し叫ぶ。
「あのね、私が怒ってんのは。ムドが、自分だけまだ狙われてますって言ったからよ。放っておけるわけないでしょうが。舐めてんの、私がそんな薄情に見えるのか!」
「見えませんけど、あの……前提条件、分かってますか? 愛して欲しいのですが」
「うっ、賭けてやるわよ!」
その言葉の意味は誰一人として理解できる者はいなかった。
「とりあえず、仮契約させなさい。全力で守ってあげるわ。その代わり麻帆良祭までに、高畑先生を落としてみせる。そしたら、愛する云々は見逃して!」
テーブルに足を乗せながら、握りこぶしを高々とあげての宣言である。
最初に噴き出したのは、ネカネであった。
クスクスと口元を両手で押さえながら笑いが止まらないとばかりに。
その笑いは和美や亜子、刹那から月詠へと伝染し、エヴァンジェリンまでもを笑わせた。
毒気が抜かれたと言うべきか、先程までの緊張感や暗い雰囲気はちりと消えてしまった。
「ちょっと、なんで皆笑うのよ。ムドみたいなガキがネカネさんやエヴァちゃん落としたのよ。見てなさい、絶対に高畑先生を落として処女を捧げてみせるわ!」
再度の宣言にて、もはや修復は不可能であった。
「いやあ、明日菜も大胆な事を言い出したね。勝ち目が全くない賭けじゃん」
「朝倉、それどういう意味。ガキに処女奪われたくせに、態度でかいわよ」
「全く、処女はこれだから。オナニーしたら下の毛が生えるって、勘違いしてるだけの事はあるわ」
「ムキー、誰がパイパン。って、オナニーしても生えないの!?」
やれやれと和美が肩を竦めると、明日菜が掴みかかりソファーごと押し倒した。
だが直ぐに自分の勘違いに気づいて、大っぴらにパイパンである事を明かしてしまった。
和美は押し倒されて頬を引っ張られ損である。
「ふふ、明日菜ちゃんったら自信満々ね。ムド、明日菜ちゃんの一世一代の大勝負。受けてあげなきゃ、男じゃないわよ」
「はあ……敵いませんね、明日菜さんには。分かりました。仮契約しますよ。だけど、麻帆良祭が終わるまでに高畑さんを落とせなければ、愛してもらいます」
「上等じゃないの。絶対、この賭けに勝ってやるわ。まあでも」
自分で押し倒した和美を立ち上がらせた明日菜は、改めてムドの前に立った。
まだその位置はテーブルを挟んだ向かいだが、手を伸ばして短い髪を撫で付ける。
「ちゃんとこの私が守ってあげるわよ。その点だけは、安心しなさい」
「弱いくせに良く言う。まあ、直ぐにでも私が鍛え上げてやるがな。さて、茶々丸。とっておきの酒を出してやれ、今日は飲むぞ」
「了解しました、マスター。皆様、それまではご歓談ください」
そう呟きペコリと茶々丸が頭を下げた瞬間、呼び鈴が玄関先より鳴り響く。
あっと呟き、茶々丸を制してネカネが立ち上がった。
だがそのネカネをさらに、舌打ちをしたエヴァンジェリンが制した。
「どうせ、坊や達だろう。お前達はそこにいろ」
「木乃香達か、こんな大雨の日にも大変よね。ネギ先生に付き合うのも」
「明日菜、そのうちウチらかて笑らわれへんくなると思うよ」
「と言うか、既になってる気がする」
そんな歓談を背に受けながら、エヴァンジェリンは玄関を開ける。
激しい雨音が屋内に喧しく飛び込んでくるその先に、確かにネギ達がいた。
「エヴァンジェリンさん、今日も」
「帰れ、貴様達の面倒を見る理由がなくなった。修行なら勝手に何処かでやれ」
それだけを一方的に伝え、エヴァンジェリンは開け放った玄関を閉めた。
再び雨音や雨水による冷気等が締め出され、一応の静寂が訪れる。
歓談していたムドを含め、ネカネらも突然のエヴァンジェリンの行いに目を丸くしていた。
「おい、ムドまでなんだその顔は。もう既に、坊やを優遇してやる理由はないだろ?」
「まあそうですけど、びっくりしました。私のお願いは別にして、それなりに兄さんを気に入ってたんじゃないんですか?」
「所詮、それなりさ。素質を持った者はここにもいる。何人も育てるのは面倒だ、それに」
再びチリンチリンと呼び鈴が鳴らされ、エヴァンジェリンは返した踵をまた返しなおした。
「うるさい、なんの用だ!」
「エヴァンジェリンさん、あの何が。用事があるのなら、今日は出直してきますけど。あ、ムド達も来てたんだ。ネカネお姉ちゃんもじゃあ、アーニャは……」
「はあ、坊や。あのなあ」
「良いじゃない、エヴァちゃん。別荘を使うぐらい」
背後から飛んで来た明日菜の援護射撃は無視して、エヴァンジェリンは腰に手を当ててネギを見た。
ネギだけではなく、その従者である楓達もだ。
この雨の中移動してきて着衣の三割以上濡れているが、気にも留めない。
「私が今まで貴様に目を掛けていたのは、ムドの頼みがあったからだ。だが、貴様はムドを切り捨てた。家族を捨てていつかナギを探しに行くのだろう?」
「え、だけどアレは今すぐとかじゃ。それに捨ててなんか」
「エヴァちゃん、意地悪せんと入れてくれへん? せっちゃんや月詠ちゃんも」
「お嬢様、ここはエヴァンジェリンさんのお屋敷です。私が口を挟むべき問題ではありません」
まさか刹那に断られるはとえっと口ごもり、木乃香は目を丸くしていた。
ついで明日菜にも視線を向けるが、明らかな困り顔で援護は先の一度きり。
エヴァンジェリンは特に刹那の大切なお嬢様への態度を見て、それで良いと笑う。
「いいか、良く聞け。ムドはお前を立派な魔法使いにする為に、土下座してこの私の足を舐めた。足の裏から指の間までな。兄さんを鍛えてくださいと」
「まさか、エヴァ殿がネギ坊主を殴り倒したあの一件の依頼主とは。ムド先生でござるか?」
「そう、兄を立派な魔法使いにしたい一心で心を鬼にしてな。坊や、あの時の恐怖や畏怖、挫けた事は何にもならなかったか?」
「いえ、感謝しているぐらいです。アレがなければ、今の僕はありません。でも、僕はムドを捨てたりなんか。ねえ、ムド何か言ってよ。お風呂での事は僕が悪かったかもしれない。けどアーニャの事だって」
アーニャの事まで出されては、ムドも黙っているわけにはいかなかった。
心配するネカネや亜子に大丈夫と微笑み、玄関先のエヴァンジェリンの隣に立つ。
あれから初めてネギの前に立ったが、特に感傷は浮かばない。
感情が切れてしまっている事を再確認しつつ、変わらない笑みで微笑みかけた。
「私は兄さんが別荘を使えようが使えまいが、どちらでも良いんですが。エヴァが嫌がる以上、その意志を尊重します。言いましたよね、父さんを探しながら立派な魔法使いにもって」
「そんな事は聞いてないよ、アーニャが様子変なのにお姉ちゃんはここにいるし。何がどうなってるの?」
「アーニャとは仮契約を解除したんですよ。気付いてしまったんです。兄さんのおかげで。アーニャへの気持ちは全部、勘違いだったんです。今は」
隣のエヴァンジェリンを抱き寄せ、その唇を唐突に奪った。
エヴァンジェリンも嫌がる素振りは見せず、ムドの唇に吸い付いてきた。
雨音をBGMに少しだけ大人っぽく、傍目にも舌を絡めている様子が見えるように。
そして目が点となっているネギやその従者達に本当の姿を見せる。
「本当に私を愛してくれる従者だけを選んだんです。まあ、兄さんには関係ない話ですが。頑張ってください。お手伝いはしませんが、応援ぐらいはしますよ」
「相変わらず、身内に甘いな。精々、家族を捨てようとした事を悔いるが良い。そして気づけ、今までいかに自分が恵まれていたかを」
止めなさいとエヴァンジェリンを注意し、それじゃあと笑顔でムドが玄関を閉じた。
特に、明日菜は怒っていたはずであった。
ムドの従者云々は決着つけてはいたが、ネギを含めこの大雨の中に木乃香らを追い返した事をだ。
せめて雨宿りぐらい、そんな気持ちでさえも目の前の光景に吹き飛んでいた。
一つの村が、悪魔の大群によって蹂躙されている。
最初はただ幼いネギとムドが、仲睦まじく叔父の家の離れで暮らしている光景であった。
休日の度に学校の寮から帰ってくるネカネやアーニャ、ネカネの父である叔父。
はたまた近所のスタン爺さん等々、優しくも厳しい人達に囲まれて平和に暮らしていた。
時々というか、頻繁にネギの悪戯に巻き込まれムドが酷い目にあってはいたが。
だがそんな日々は、唐突に終わりを告げた。
湖でネギと共に釣りをして遊んでいたムドが村に帰ると、その全てが燃えていたのだ。
自分の家である叔父の家の離れや叔父の家そのもの。
教会や近所の人達の家、スタン爺さんの家も、何から何まで。
ネギに手を引かれ、炎の中を走るムドの前に探していた人の意志になった姿が現れた。
「おじ、さん?」
状況を理解できないネギの呟きと、声も出せないムドの息遣いが響く。
ムドの過剰魔力は既にこの頃からその身を苦しめ始めていたのだ。
「ピンチになったらお父さんが来てくれるって。僕があんな事を思ったから」
「来てくれるよ、お兄ちゃん。大丈夫、叔父さん達も火事だって」
涙を流すネギをぜえぜえと息切れしながら幼いムドが元気付ける。
この大火事の中でも決して放されなかった、泣くこの瞬間も握られていたネギの手を信じて。
そんな幼い兄弟の前に、大量の悪魔が姿を現した。
地面から滲むように、空から翼をはためかせ、炎を物ともせずその中から。
街を蹂躙しつくした悪魔が生き残りを求めるように、二人の前に集まってきた。
寸分違わぬ、鮮明な記憶が再現される。
口を飛び出す四本もの大きな牙と豪腕を持った悪魔がその腕を振り上げた。
「ムド!」
「お兄ちゃん、逃げ……」
幼い命を前にしても躊躇はなく、小さな体でせめてムドを守ろうとネギが庇う。
そして悪魔の腕が振り下ろされた瞬間、その人は現れた。
衝撃に地面が割れ砕ける程の悪魔の一撃を細腕で受け止めた人影。
ネギをそのまま大きくしたような赤い髪の毛を持つ男だ。
今やネギの杖となったそれを手にした男は、悪魔の腕を止めた手から雷を生み出した。
放電により拳を弾き、斧のような雷で悪魔を両断。
それからは、悪魔と人間の立場が逆転した光景であった。
男が腕を一振りすれば十何匹の悪魔が消し飛び、杖を振るえば何十の悪魔が消し飛ぶ。
極め付けに燃え盛る村ごと破壊するような雷の嵐が、守るべき村ごと悪魔を消し飛ばした。
悪魔の屍の上に立つその男は、一匹の悪魔の喉元を掴みあげる。
「コノ力ノ差……ドチラガ化物カ、ワカランナ」
そのまま男が悪魔の首をへし折ったのを機に、ネギがムドの手を引いて逃げ出した。
悪魔ではなく、力に恐れをなしたように。
同じ髪の色の男の前から。
だが逃げた先にはまだ、生き残りの悪魔がいた。
のっぺりとした卵型の顔からは立派な角が生えており、その口が開いて光を放つ。
そこに現れたのは現在の明日菜ぐらいの年齢のネカネとスタン爺さんであった。
「ぐむ……」
「う……」
だがその助けも虚しく、ネカネもスタン爺さんも下半身から石に変えられ始めていた。
細い両足が自重に耐えられず折れてしまい、ネカネが背中から地面に倒れこむ。
「お姉ちゃん!」
咄嗟に支えようとしたムドも、そのまま押しつぶされてしまった。
そのムドをネカネは無意識ながら守ろうとうつ伏せになって抱え込んだ。
「封魔の瓶!」
ネカネの動きに気をとられた一瞬の隙をついて、スタン爺さんが悪魔を封印する。
悪魔は小さな小瓶に封じられ、一時の危機は去った。
だが、スタン爺さんやネカネへの石化はまだ続いていた。
「誰か、残った治癒術者を探せ。石化を止めねばお姉ちゃんも危ないぞい」
首まで石化に侵食されながらもスタン爺さんはネギやムドを案じていた。
「さあ坊主、この老いぼれは置いて……お姉ちゃんと弟を」
完全に石化し物言わぬ置物となったスタン爺さんにしばらく、ネギは縋っていた。
何度も繰り返し声をかけ、やがてそれも諦める。
涙を何度も拭きながら、今度は気絶したネカネや下敷きになって意識が朦朧としているムドを起こそうとする。
だがムド一人ならまだしも、ネギ一人ではネカネまでは運べない。
「お兄ちゃん、僕は」
「ムド頑張って、お姉ちゃん」
その二人の前に、今一度炎の中から現れたのはあの男であった。
二人の父親であるナギ・スプリングフィールドだ。
ネカネを含め、ネギやムドでさえも軽々と抱え、村が一望できる丘へと連れて行く。
丘から眺める光景は何度見ても変わらず、何もかもが燃え盛っていた。
「すまない、来るのが遅すぎた」
ナギの謝罪の声は小さかったが、はっきりとムドにも届いていた。
寝かされたネカネに抱かれながらも。
その二人を守るようにネギは震える足で立ち上がり、アーニャから貰った星飾りのついた練習用の杖を握って構えた。
実の父親を前に、それ程までに怖ろしかったのだその強さが。
「お前……そうか、お前がネギか」
今やっと気がついたように、ナギがネギへと歩み寄る。
「お姉ちゃんと友達を守っているつもりか?」
ムドの記憶を見ていた誰もが、ナギのその台詞に驚いていた。
耳を疑い何度思い返しても間違いなく、ナギはムドを自分の子供だと気付いていなかった。
どうして、ネカネに抱きしめられながら幼いムドはそんな表情を浮かべている。
ナギは目の前にしゃがみ込み、震えているネギの頭をくしゃりと撫でつけた。
「大きくなったな。お、そうだ。お前にこの杖をやろう。俺の形見だ」
「お、お父さん?」
「ハハハ、重すぎたか?」
ネギが受け取った杖の重さに耐えかねたのをみて、ナギが笑う。
ムドもナギが父である事に気がつき、ネカネの腕の中から這い出した。
駆け寄ろうとするも、それは触れる事すら敵わなかった。
「もう時間がない」
そう呟いたナギが彼方を眺めて呟いた。
その体を浮遊術でふわりと浮かべ、ムドの手の届かない場所に浮かび上がる。
「待って」
「心配すんなって、お前の姉ちゃんの石化は止めておいた。後はゆっくり治してもらえ」
「ちが」
「それにしても、アイツも元気だね。歳の離れた姉弟か。ん、まあいいか」
何か思い出す素振りを見せながら、ナギがさらに空へ上る。
「お父さん」
「悪いな、お前には何もしてやれなくて」
その言葉が向くのは、ムドではなくネギ一人であった。
「こんな事を言えた義理じゃねえが、元気に育て、幸せにな。お前も、ネギの良い友達でいてやってくれ。大事だぜ、友達って奴はな」
「お父さーんっ!」
ネギの大きな声が空にこだまし、降りしきる雪を振るわせる。
その間ずっと、ムドは茫然自失となって尻餅をついていた。
幼い身の上でありながらも頭が回る利口さの片鱗は見えており、理解していたのだ。
ネギを助けに来たナギ、父親に気付いて貰えなかった。
歳不相応な乾いた笑いが漏れ、ネギとは違う理由で涙が溢れてきた。
そこで、ムドの記憶は一度閉ざされ、皆の意識が現実へと戻ってくる。
これまでの光景は、ムドと意識をシンクロさせて従者の皆に過去の記憶を見せていたのだ。
戻ってきた先は燃え盛る村ではなく、もちろんエヴァンジェリンの家のダイニングであった。
「とまあ、今のが私の全ての始まりですね
そう呟いたムドが、ソファーの上で飲めもしないワインをグラスからちびりと舐めた。
「この時を境に、私の病気も悪化。何かあるたびに熱が出るようになりました。姉さん、ごめんね。嫌な記憶を蘇らせちゃって」
「馬鹿、知らなかったわ。まさかあんな会話がされてたなんて。ネギが父さんと会ったって喜んでたからてっきり私は」
涙ながらに隣に座っていたネカネに抱きしめられ、あの時と同じ胸に埋もれる。
泣いているのはネカネだけではなかった。
酒の勢いもあるのだろうが、亜子とアキラは手を繋ぎながら涙を拭いていた。
直前まで、この雨の中に木乃香ら女の子を追い返すなんてと怒っていた明日菜もだ。
さらに刹那や和美も雫を零してはふき取り、例外は月詠だろうか。
ナギの悪魔の蹂躙を思い出し頬を少し染めている。
月詠の性癖は理解しているが、流石にあの父親を相手に頬を染められて良い気分はしない。
今夜のお勤めではイキ地獄の刑だと、心のメモに書き付けておく。
「しかし、ぐす……お前、ナギの」
「マスター、お鼻を」
エヴァンジェリンでさえ涙ぐみ、茶々丸に鼻をかんで貰ってから言った。
「ナギの手記はどうした。坊やの杖と同様に貰ったとは聞いていたが」
「あの後はしばらく信じられなくて、丘に何度も足を運んだんです。そこで拾いました。実は父さんは気付いていてわざと、なんて思ったりもしました。笑えるでしょう?」
「笑えるわけないでしょう。でも手記ってエヴァちゃんがネギ先生と戦った時の……あれ、アレってまだネギ先生が持ってなかったっけ?」
「そういえば、そうですね。もう私には必要ないものですし、兄さんにあげますよ」
確かに魔法が使えないムドが持っていても、意味のない代物ではある。
それにナギと自分を繋ぐものは極力持たない方が良い。
手記に書かれていた内容も、何度も目を通している為に記憶しているのだ。
「ふぇ……ムド君、私の胸もさわる? アキラも、少しならさわって良いって」
「ぐす、亜子ストレートに伝えないで。ただ、ムド先生がただの淫行教師じゃないって分かったから。亜子を託すかどうかは、また別だけど」
「アキラ、固い事を言わない。良い男だよ、ムド君は。成長すると顔良し、アッチ特大の超有望株だよ。悲しい過去は、私らの巨乳で癒してあげようじゃない」
そうだよねと言いながら、ムドの膝の上を跨いだ和美が正面から胸を押し付ける。
「ウチの胸もこぶりながら中々のものですえ。あ、先輩はない乳なので除外ですえ」
「月詠貴様、何故いつもいつも私を。私を苛めて良いのはムド様だけだ」
掴みかかったまま、刹那が尻餅をついた月詠の上に倒れこんだ。
酔ったところに先ほどの光景を見せられ、さらに回ったらしい。
この場で酔ってないのは、お酒は二十歳からと断固辞退した明日菜ぐらいであった。
エヴァンジェリンも割と酔っているようで、豊胸マッサージをしていたりする。
今日はこのまま乱交も悪くないとムドが考えていると、唐突にネカネが立ち上がった。
空いた席にはアキラを座らせてから、時計を見上げた。
「ごめんなさい、ムド。そろそろ、私は寮に戻らないと。アーニャとネギのご飯を作らなきゃ。その前に買い物でもいってお惣菜買わないと間に合わないわ」
「その点は、ご心配に及びません。マスターの命を受け、お持ち帰りようのお弁当をご用意させていただきました」
「まあ、ありがとうエヴァンジェリンさん。それに茶々丸ちゃんも。本当、大好き」
二人の頬にキスをしてから、ネカネはそのお弁当を受け取って抱きしめた。
頬は赤みが差して酔ってはいても、主婦としての性は見失わないらしい。
凄いなと割と尊敬の眼差しを送っていると、ムドの携帯電話が鳴り始める。
ぽふぽふとネカネの代わりに座ったアキラの胸に触れていただけに、やや気分を害した。
「ネカネ、私の事はエヴァで良い。ムドの次にお前の体を知っているのはこの私だぞ? ちなみに私の体をムドの次に知っているのもお前だ」
「あらあら、どうしましょう。かの伝説の魔法使いから、お誘いだなんて。喜んで、呼ばせてもらうわエヴァ」
そんなネカネのやり取りと、さわるたびに小さく悶えるアキラの吐息を聞きながら携帯電話の液晶画面を眺める。
その瞬間、一気に酔いが覚めた。
「も、もしもし、フェイト君!?」
直立不動、カチカチに固まりながら着信ボタンを押して耳につけた。
「君とはゆっくり語らいたいところだけど、少しまずい事になった。今君は、一人かい?」
「いえ、エヴァや他の従者と一緒ですけど」
「それは良かった。そのまま闇の福音のそばを離れないでくれるかい」
その言葉に並々ならぬ心配が含まれている気がした。
今丁度、エヴァンジェリンが展開した影の扉から帰ろうとしたネカネを止める。
唇に人差し指を当て、少し静かにと皆には注意を促がしながら。
「何があったんですか?」
「すまない。僕が裏で操っている組織の人間が一部、暴走したんだ。京都の一件の情報を仕入れ、馬鹿な事に君を手にいれようと麻帆良に悪魔を派遣してしまったんだ」
聞かされた時にムドの脳裏に浮かんだのは、他でもない。
寮でネカネやネギの帰りを一人待っているであろうアーニャの顔であった。
-後書き-
ども、えなりんです。
あれ、昔はともかく今現在のフェイトってMMに影響力あったっけ?
あったよね、ゲート破壊映像の模造してネギ達を賞金首にしてたし。
さて、今回の主眼は六年前のあの日のお話。
六年前の事は、ほぼ原作と変わりなし。
本当に変わりなし、ナギがネギを助けに来たという事は。
ムドがナギを嫌うのは、彼がネギしか助けに来なかったからでした。
この頃から、幼いながらにナギですら助けてくれないと心が歪になりはじめます。
ネギの呼び方がお兄ちゃんから兄さんと、微妙に溝作ったりとw
ただ、この記憶に違和感を感じた貴方は正しい。
それでは次回は土曜日です。