第三十一話 友達だから、本気で心配する
修学旅行二日目、ホテル嵐山の一階大広間にて麻帆良女子中生の全クラスが朝食中の事。
本日の自由行動をいかに過ごすか大広間は賑やかであった。
三-Aも相変わらず賑やかと思いきや、そうでない面々が一部いた。
よくよく辺りを見渡してみれば三-Aのみならず、他のクラスにもしょぼくれた瞳をしている者がいる。
昨晩の消灯後も起きていた一部の生徒であった。
それでも修学旅行という特別な時間の一分一秒を惜しんで、朝食をパクついていた。
「あらあら、この調子で後四日も持つのかしら。うん、美味しい」
「いくら楽しいからって、計画的に過ごせないなんて子供みたい」
普段口にする事がすくない白味噌のお味噌汁に舌鼓を打ちながらネカネが呟き、アーニャが呆れたように溜息をついた。
だがそのアーニャ自身どこかそわそわとしており、足元には付箋付きのガイドマップが置かれている。
むしろ、夜更かしできない自分の子供っぽさを悔やんでいるようにさえ見えた。
「それで、アーニャは何処へ行くか決められたの?」
「えっ、ま……まだ」
生徒の自由行動に合わせ、ネカネとアーニャそしてムドも自由行動である。
もっとも三人は共に行動する予定なので、今日はアーニャが行き先を決める番なのだ。
だが言葉に詰まった通り、まだ行き先は決まっていないらしい。
ガイドマップの付箋の多さから、候補が多すぎて決められないといったところか。
「ねえムドは……ムド?」
「え、はい。なんですかアーニャ?」
意見を求めようとアーニャが話を振ったムドは、何処か上の空といった様子であった。
「今日の自由行動の話、もう……ムドが私とネカネお姉ちゃんの話を聞いてないなんて。もしかして具合が悪いの?」
「いえ、私にしては珍しく爽快な目覚めでしたよ。とてもすっきりしています」
そうムドが答えた途端、喧騒に混じり食卓テーブルの上に茶碗を落とした音が響いた。
「も、申し訳ありません。お騒がせを……」
ほんの僅かでも喧騒を裂いて止めてしまった事に、立ち上がった刹那が頭を下げていた。
その顔はとても赤く、周りには茶碗を落とした事を恥じているだけのように見えた事だろう。
「ククク、何を慌てている桜咲刹那。それとも何かあったとでも言うのか?」
「いえ、めめめ……滅相もないです」
「せっちゃんはおっちょこちょいやな。はい、ウチが食べさせたろか?」
「お嬢様、結構ですので!」
含みのある微笑をエヴァンジェリンから向けられては慌て、お膳を持って近付いてきた木乃香へ両手を振って遠慮する。
最近、なんだか柔らかくなったと周りからヒソヒソ囁かれて、刹那はますます赤くなっていた。
その刹那が時折、チラチラと視線を向けるのは当然の事ながら、ムドである。
昨晩あった木乃香誘拐未遂の後、刹那はムドから早朝のお勤めに誘われた。
喜び勇んで赴いてみれば、普段の生活とは別世界。
表となる日常世界、裏となる魔法の世界、そこは第三の性の世界であった。
ムドに加え、ネカネや亜子、エヴァンジェリンからも愛されてしまったのだ。
(私はもう、絶対に以前の私には戻れない)
刹那の性癖を聞いていたエヴァンジェリンにより、魔力の糸で仰向けのまま宙吊りにされてしまった。
そこから特殊な正上位でムドの一物を受け止め、仰け反りながらエヴァンジェリンの秘所を舐めさせられた。
そればかりか、ネカネと亜子により全身をくまなく舐められ、愛撫されたのだ。
不覚にも失禁してしまう程の快楽を与えられ、以前の自分に戻れるはずもない。
ムドのすっきりという言葉に、過剰反応しても仕方がないといえた。
「むう、なんだろう。なんか変な感じ……明日菜も朝からぼうっとしてるし」
乙女の感を最大限に跳ね上げていたアーニャは、明日菜にもその電波を飛ばしていた。
刹那の世話を焼こうとする木乃香に苦笑はしているが、時折物憂げに溜息をつくのだ。
時折ムドを見ては微妙な顔となり、もぞもぞと座りなおしている。
ただ明日菜が高畑一筋である事は知っているので、それ程注意は払わなかったが。
「でも、本当に大丈夫? 奈良には行かず、近場で済ませちゃう?」
「本当に大丈夫です。実は昨日、他所の学校の修学旅行生とお喋りしたんですが。今朝少し探してみたんですが見つからなかったので。あ、もちろん男の子ですよ?」
「別にそこまで聞いてないわよ。そりゃ、女の子は少し嫌だけど」
本当に少しなのかは、アーニャを見ていれば一目瞭然だ。
ムドはテーブルの下に手を伸ばし、アーニャの手を握った。
さすがに女子生徒が多い中で大っぴらに触れ合えば、喧騒が本当の騒ぎとなってしまう為である。
アーニャのご機嫌をとりながら、フェイトは何処の学校なんだろうと思いを馳せた。
早朝の濃厚なお勤めの後、朝食までの間に探してみたがそれらしい人は見かけなかった。
ホテルにも宿泊している修学旅行生の個人情報を尋ねる事はできない。
せめてフェイトが、何時までこのホテルにいるかぐらいは知っておきたかったのだが。
あまり詳しい事を聞かずに分かれてしまった事が悔やまれる。
「ねえ、アーニャ。お姉ちゃんとムドも……その自由行動の事なんだけど」
ムドがフェイトの事を考えていると、別のテーブルで朝食を終えたネギが寄って来た。
何かお願い事があるとでもいう風に、両手を目の前で合わせながら。
「僕は木乃香さんの班についていくから、ムド達もそれぞれ別の班についててくれないかな? 昨日の様子だと、ピッタリ張り付いてないと不安だし」
「えー、だって今日は三人でって。行き先はまだだけど」
「本当にごめん。半分は家族旅行だけど、もう半分は仕事だし。高畑先生が合流したら、人を割いてもらったら本当に自由にしてくれて良いから」
「残念だけど、仕方ないわね。アーニャ、ネギにだけ仕事をさせちゃ悪いでしょ。今度また、本当に家族旅行としてきましょう?」
不満たらたらのアーニャがぶーたれ、ネカネに頭を撫でられなだめられる。
本当にごめんと再度ネギがアーニャのみならず、ムドやネカネにも謝ってきた。
敵の狙いが木乃香であるとはいえ、不測の事態、主に魔法に関して対応できる人物を割いておきたいのだろう。
その人員の一人として、ムドまで数えてしまうのはどうかと思うが。
それだけネギも木乃香以外の誰かが襲われるとは考えていないという事だ。
「出発前に新田先生にも言われましたし、分かりました。それで、班分けはどうするんですか?」
「あ、もう誰がどこの班に付くのかは決めてあるんだ」
ネギが予め決めていたという割り振りは以下のものであった。
落ち着きのない鳴滝姉妹と桜子、円、美砂がいる一斑は落ち着いているネカネ。
古と楓がいる二班は、ネギが密に連絡をとるとの事で割り振りなし。
委員長のあやかを中心に千鶴や夏美、和美に千雨と比較的落ち着いた面々が多い三班はアーニャ。
亜子にまき絵、裕奈やアキラに加え真名がいる四班にムド。
そして共に行動する予定の五班と六班は人数も多いのでネギがというであった。
二日目の自由行動は、奈良駅を中心としての自由行動であった。
名目上自由とはいっても、ある程度の行き先は学校側より指定されている。
なにしろ生徒の自主性に任せると中には観光そっちのけで遊び呆けないからだ。
そして三-Aの二班である亜子達の行き先は、興福寺であった。
奈良駅から移動時間は五分と短く、その短い間に商店街を通る事もできる。
時間を有効に使え、お土産にも事欠かないチョイスであったが、目的はそれだけではない。
「綺麗やね、ムド先生」
「ええ、色々な雑念が吹き飛びます」
亜子とムドが二人で見上げているもの、それは八重桜であった。
通常の桜とは違い、菊や牡丹のように一輪の花に幾つもの花びらがある桜だ。
ふわふわと淡い桃色の花が枝に咲き乱れる様は、桜が風に散る儚さとは異なった美しさである。
二人並んで頭上の桜を見上げ、呟いたムドの言葉に嘘はなかった。
確かにこの瞬間は、魔法や木乃香を取り巻く事件も、フェイトの事でさえ忘れてしまっていた。
「いにしへの奈良の都の八重桜。今日九重に匂ひぬるかな」
「歌ですか?」
「百人一首の一つで伊勢大輔が詠ったものやって。意味は……へへ、聞かんといて」
「綺麗ですね、本当」
そこまでは知らないと照れ隠しに笑った亜子だけを見て、ムドはそう呟いた。
ムドが抱いていた大和撫子の外観は木乃香や刹那だが、亜子は十分に勝るとも劣らない。
八重桜を透過しうっすらと赤みを帯びた陽の光が色素の薄い亜子の髪を染める。
照れ笑いで朱の差した頬もあり、まるで桜の妖精と言われても信じてしまいそうであった。
そんなムドの視線に気付いて、亜子もますます頬を染めていく。
まるで二人きりの世界にいるかのように錯覚する中、別のピンクが飛び込んできた。
「亜子、私達の存在忘れてない!?」
「もう駄目じゃん、まき絵。折角の良い雰囲気を壊したら。完全に二人の世界に入ってたよね、亜子」
「わ、わわわ。二人ともいたん!?」
どんと亜子の背中にまき絵が抱きつき、やっぱりかと続いて抱きついた裕奈が頬を突く。
「ふふ、中々どうして。ムド先生も罪作りな人じゃないか。意中の人がいると公言しておいて、それでも尚別の女の子に手を出すとは」
「私は単に正直者なだけですよ。好きなら好き、綺麗なら綺麗というだけです。だから亜子さんを綺麗だと言いました」
「おやおや、本当に罪作りな事だ」
ムドの頭に手を置いていた真名に、くるりと首をネジのように回される。
首という名のネジが締められた視線の先には、桜よりも赤い顔をした亜子がいた。
「ムド先生は亜子の王子様だもんね。いいな、ずるいな。ネギ君……今頃、何してるんだろう」
「ほら、亜子。黙ってないで、何か言わないと。私とお付き合いしてくださいって」
「さすがにそれはあかんて。もう、まき絵も裕奈も重いて」
釣られて頬を染めていたまき絵と裕奈を、振り回して背中からひっぺがそうとする。
そう、背中かからだ。
以前はいくら仲が良くても、亜子は後ろから抱きつかれでもしたら拒絶までいかなくとも軽く落ち込む事があった。
背中の傷のせいで、普通の女の子とは違う事を嫌でも教えられたからである。
だが今はその背中に張り付かれても普通に対応でき、亜子が変わった事を知っている裕奈やまき絵もさらに張り付いた。
「もう、本当にあかんて」
三人が八重桜の下でじゃれ付く様を見ながら、ムドと真名が苦笑する。
だが班員が一人足りないと、真名が辺りを見渡すとすぐそばにいた。
真名やムドからもさらに一歩引いた位置に、ぽつんと立っているアキラが。
「どうした、大河内? お前はアレに混ざらないのか?」
「え、私は……はしゃぐのは。何時も止める側だから。三人とも、あまり騒ぐと周りに迷惑」
指摘され、三人のお姉さんのような事を言い出したアキラが、慌てて止めに入った。
その言葉通り、くるくると三人で回っていた亜子達は遠巻きに眺められていたのだ。
一部では確かに迷惑そうにしている者もおり、アキラに止められてペコペコと頭を下げる。
しかし慌てるぐらいならば、もう少し早めに止めればよかったものをと思わずにはいられない。
はしゃぐ三人を微笑ましく眺めていたムドや真名が言える事ではないが。
「あー、なんだかお腹空いて来ちゃった。八重桜が綿菓子みたいだからかな?」
「葉っぱの色が桜餅のアレみたいでもあるかもだにゃぁ」
「ふ、二人共。それ花より団子の思考だよ」
「甘味処か。うむ、悪くない。そういう事ならば、既に下調べは済んでいる」
まき絵と裕奈の唐突な方針転換に、アキラが突っ込むも真名が油を注いでしまった。
懐からガイドマップではなく、独自のメモを取り出したところを見るに、本気のようだ。
真名の手帳を覗き込んだまき絵と裕奈が、目を剥く程に凄いメモらしい。
率先して先を歩く真名の後を、親鳥に続くひよこのようにまき絵と裕奈がぴょこぴょこと続いた。
「ムド君、ほら行こう。はぐれちゃうと困るから、手繋ごう?」
遅れて足を踏み出した亜子が、振り返ってそんな事を言い出した。
昨晩、新幹線での事でお仕置きされたのに、それはそれとチャンスは逃さないつもりらしい。
それにもっともらしい理由を亜子が呟いたので、千雨に注意された点も問題なかった。
ムドは差し出された亜子の手をとり、一緒に真名達を追いかけた。
手を繋ぎ歩いていく自分達を、最後尾で歩くアキラが厳しい瞳で見つめているとも思わずに。
真名の勧めである甘味処は、興福寺に向かう途中にあったお店であった。
そこで真名が餡蜜を頼んだのを筆頭に、きな粉や黒糖みつかけといった各種わらび餅からお饅頭と小皿を次から次に注文した。
皆でお金を出し合って、色々な味を少しずつ楽しもうという魂胆だ。
そして今、ムドは爪楊枝に指したわらびもちを亜子に差し出していた。
黒糖のみつが滴り落ちないように手を受け皿に、どうぞとばかりに。
裕奈とまき絵提案による八重桜の下での悪ふざけの延長であった。
「亜子さん早く、みつが落ちてしまいます」
「そんな事を言ったって……」
中学生にあるまじき営みを互いに行ってはいても、こういう甘酸っぱい事は殆どした事がない。
さらには親友がキラキラと期待を込めて見られては、さすがに恥ずかしいらしい。
だがやがて観念したのか、一気にパクッとわらび餅を食べた。
「あっ」
のみならず、勢い余ってムドの指に垂れてしまったみつすら桜色の唇で吸い取った。
「きゃーっ、見た、今の見た。凄い、ちょっとエッチなお姉さんっぽい!」
「なんだかんだ言って、やるぅ。いいんちょにはとても見せられない光景だって」
「まき絵や裕奈がやれって言うたやんか。ムド君、ごめんな。手、拭いてあげるわ」
「うむ、美味い……さすが、本場といったところか」
一人餡蜜片手に悦に入る真名は別として、まき絵や裕奈は大盛り上がりだ。
もちろん、先程の決定的瞬間もカメラのフィルムに思い出の一ページとして焼き付けてある。
お絞りで亜子がムドの指を拭く様子一つさえ、パシャパシャと。
さらに要求はエスカレートして、今度は亜子からと自分達の甘味を差し出してまで言い出したぐらいだ。
「もう、二人共。お終い、ムド先生困ってるやんか」
「あ、すみません。私少しお手洗いに」
「ええ、これからが参考になるところなのに……」
「そういえば、面倒見の良い人がタイプだっけ。アーニャちゃんとか、明日菜とか。惚れちゃいそうだからって、逃げたな」
亜子が恥ずかしがっている事もあるが、このままでは二人が食べ損ねるのではと中座する。
二人を思っての行動なのに、好き勝手言われてしまったが。
表の通りが良く見える席から、トイレはお店の奥にあって死角にあった。
トイレの扉を開ける前に一度振り返り、二人がようやく自分の分を食べ始めた事で安心して中にはいる。
あまり盛り上がって、二人が食べ損ねたと後で泣かれたくもない。
五分ほど、ほとぼりを冷ます為にトイレに入り、洗面台の前で一時体を解すように背伸びをした。
「んくっ……ああ、さすがに昨晩と今朝、一杯魔力を発散したので気分が楽です」
鏡で見た顔色も程良く血色が良く、発熱も殆どないような状態だ。
過去を振り返ってもこれ程までに体調が良かった日は思い当たらない。
体の関係を持つ従者に刹那が加わり、相手をしてくれる人が増えたのが大きいだろう。
ネカネ一人の時は、やり過ぎて気絶させてしまう事もあった。
入れさせてくれないエヴァンジェリンが中途半端に加わった時はもっと酷く、気絶させる事もしばしば。
それから亜子が加わり、エヴァンジェリンが正式に加わり、昨晩に刹那が加わった。
魔力の発散相手としても、戦力としても充実してきている。
「けれど、戦力が多くて困る事はないですし……」
真名は元々考慮外、金で動くタイプだからだ。
まき絵はすでにネギの従者であるし戦いを否定しているので、これまた対象外。
できれば今日中に、裕奈かアキラのどちらかに唾でもつけられれば最高だ。
「姉さん以外、皆小さめですし」
それが悪いわけではないが、ネカネの胸はエヴァンジェリンが独占する事もあるのだ。
刹那が昨晩、明日菜に粉をかけてくれ今朝の朝食時は少し興味を持ってくれたような感じだが、まだ時間がかかる。
明日菜と同等の胸を持つ裕奈や、それ以上のアキラならば申し分ない。
最近は愛に溢れた生活であった為、久々に下衆な思考を広げながらトイレを出て行く。
「ムド先生、少し良いですか」
すると待ち伏せていたかのように、アキラが扉の前にいた。
その表情はなにやら深刻な面持ちであり、下衆な思考は一先ず頭の隅に蹴り飛ばす。
構いませんがと答えると、表とは別の入り口を指差されついていく。
お店の裏でかと思ったのだが、先を歩くアキラは止まらない。
まるで人が居ない場所を探すかのように、キョロキョロと周囲を見回しながら歩いていた。
歩くと同時に何か考えを纏めているのか、そのうちにまた興福寺の境内に戻ってきてしまった。
そして辿り着いたのは北円堂というお堂の裏手、植木に囲まれた立ち入り禁止区域ぎりぎりのところである。
日差しと影が半々のその場所でアキラが立ち止まり、ムドへと振り返った。
その表情は待ち伏せられていた時よりも、深刻さが増していた。
「ムド先生、一つ聞きます。先生は、アーニャちゃんが好きなんですよね?」
「ええ、もちろんです。別に、こんなところまで来て聞かなくても。何時でも、そう答えますが?」
答えながら、アキラがそう問いただしてきた質問の意図を考える。
十区八苦、亜子に対するムドの態度についてであろう。
しかし八重桜や甘味処でも、アキラは止める素振りも見せずに静観していた。
少々やり過ぎなところはあったが、ムドの歳や亜子との歳の差を考慮すれば目くじらを立てる程でもない。
何がこうアキラを問い詰めさせるように決心させたのかが見えなかった。
「皆、クラスの皆が知っています。じゃあ、亜子の事はどう思ってるんですか?」
「可愛らしい女性だと思っています。同時に、兄さんの生徒で委員として私の仕事を手伝ってくれる事もありますし」
あくまで亜子は表向き、ムドにとってはそれだけの生徒だという事になっている。
ムドのそんな言葉に、ふっと僅かにアキラの表情が緩んだ。
「良かった。少し、疑っていました。先生と亜子の事を。新幹線で先生が亜子の面倒を見て、洗面所に篭ってる間、長谷川さんが言ったんです。なんでもないって」
それを聞いても、千雨と親しくないムドにはアキラが問い詰めるに至った経緯が見えない。
「長谷川さんは、あまりクラスの人に興味がない人だから普段は知らないって言うんです。あの時、長谷川さんがなんでもないって何かを隠すような言葉を使ったから」
普通は、そんな小さな違いに気付く人は少ないだろう。
それだけアキラが鋭い感性を持ち、人を気に掛ける事ができるという事だ。
余り親しそうでない千雨の言葉使いにでさえ気付いたのだからなおさらである。
その鋭いとさえ言える心遣い、他人を気にかけられるアキラが欲しいと思った。
だが一度は緩んだはずのアキラの瞳が、きつく結ばれた。
「ムド先生、あまり変に亜子に期待を持たせてあげないでください」
そう言い出したアキラは、拳を握り締め断腸の思いで言ったように見えた。
「あの子がムド先生に好意を抱いてるのは分かってますよね? 亜子も背中の傷を消してもらえて、切欠は何だって良いんです。亜子の気持ちは、亜子の気持ちだから」
「もちろん、気付いていました。兄さんよりは、女性の気持ちに聡い……と、自負していますし」
一瞬、刹那の事を思い出し本当にそうかと自問してしまったが。
「だったら、なおさら亜子を期待させるような事はしないでください。亜子、一度先輩に振られて凄く落ち込んだ事があるんです。今回もまた、報われないの亜子だって分かってるはずなのに」
アキラの事は凄く欲しくなったが、同時に凄く難しい事が分かった。
優しすぎるのだアキラは。
仮にムドに対する愛をアキラに植え付け、振り向かせたとしてもきっと遠慮する。
亜子だけではなく、アーニャや他のムドに好意を寄せる人に遠慮して身を引く。
ムドが欲しいと思った気遣いや優しさが仇となって、いずれ放れていってしまう。
(残念だけど、諦めよう。もっとアキラさんが欲深い人だったら……)
とりあえず、ここは表面上でも了解の意を示して、流すべきだ。
ムドと亜子の関係など、どうせ分かりっこない。
亜子とて、表立って付き合えない事は了承済みのはずだ。
その分だけ、濃厚な時間を毎日の早朝と深夜に行ってはいる。
「ムド先生、どうして答えてくれないんですか?」
いざ分かりましたと言おうとしたところで、アキラの少し詰問調になった言葉を投げかけられた。
友達を思って、勝手に恋を終わらせようとする罪悪感から興奮しているのか。
少し落ち着いてとムドが手の平で制そうとするも、アキラは待ちきれず言い放った。
「本当はこんな事はしたくない。けれど、ムド先生が態度を改めてくれないのなら……」
「アキラさん、落ち着いてください。私は」
「先生の事を学園長先生に報告します。私は先生よりも、亜子が大切だから!」
「アキラ、止めて!」
いよいよアキラの焦燥感も絶頂に差し掛かる頃、亜子の声が割って入ってきた。
全く戻ってこないムドとアキラを探していたのか、息を切らし庭木の幹に手をついている。
胸を押さえ必死に呼吸を整えながらも、視線だけはアキラに向いていた。
「亜子、何処から聞いてたの?」
「全然、学園長先生に報告するって……お願い、止めてアキラ。ウチからムド君をとらんといて。先生がおらんとと、ウチもう」
「だって、亜子知ってるでしょ? ムド先生はアーニャちゃんが好きだって」
「当たり前やんか。好きな人の事だもん。もっと一杯、色々と知っとる。ウチだけのムド君になってくれへん事も知っとる。けど、それでもええやん」
亜子の真摯な言葉に、言葉に詰まったようにアキラが一歩下がった。
報われない想いでも構わないというある意味で不毛な言葉が理解できなかったのだろう。
アキラはきっと、本当の恋をした事がない。
だから不毛だとしても構わないと言う亜子の言葉が理解できないのだ。
ただ一点、ムドは二人の言葉のやり取りを聞きながら、何かズレてはいないかと思った。
仮にアキラが学園長にムドと亜子が仲良過ぎると報告しても、良くて注意だ。
決定的な証拠がない以上は、学園側としても取るべき処罰はありえない。
学園長がそれを期に、ムドを放逐しようとすればまた話は別だが。
(なのに亜子さんは、私がいなくなるかのような……まさか、アキラさんが全部知ってしまってそれを報告しようとしてると勘違いしてる?)
サッと血の気が引く思いが、背筋を駆け抜けた。
その予感に違わず、亜子が仮契約カードを取り出してしまった。
「アデアット、傷跡の旋律」
「え?」
躊躇無く、亜子がエレキベース型のアーティファクトである傷跡の旋律を呼び出した。
かけ紐を肩にかけて、何時でも演奏できるように構える。
もちろん、一体何が起こったのか分からないアキラは茫然とするばかりだ。
「亜子さん、駄目です。しまってください」
「ムド君、ウチが守るから。相手がアキラでも……」
「必要ありません。いいから傷跡の旋律をしまってください!」
「もうあかん、アキラがムド君の事をどっかやってまう前に」
ビンッと亜子が弦の一本を弾き、重厚な低音が当たりに響き渡った。
「そこまでだ、和泉亜子」
次の瞬間、亜子の後頭部に拳銃の銃口が突きつけられた。
それを握るのは褐色の肌を持つ腕である。
気配を一切感じさせず背後に忍び寄り亜子を止めたのは、真名であった。
重く冷たい金属の感触を突きつける事で、亜子の暴挙を止めてくれていた。
「亜子さん、傷跡の旋律を戻してください。大丈夫、まだアキラさんは何も知りませんから。亜子さんがまた私に振られるんじゃないかと、気を持たせるなと忠告してくれただけなんです」
「え……ほ、ほんまなん、アキラ?」
「うん、けれど……それだけじゃすまなくなった。亜子、それ何なの? 何がどうなってるの?」
「あっ、アベアット!」
勘違いに気付いた亜子が慌てて傷跡の旋律を仮契約カードに戻すが、もう遅い。
アキラの注意は既にムドと亜子から、傷跡の旋律、アーティファクトに移ってしまっている。
「全く、痴情のもつれで魔法がバレるとは前代未聞なんじゃないのか?」
「だと、思います。とりあえず、助かりました真名さん。すみませんが、三人だけにしてください。あの甘味処の払いは私が全て持ちますから」
「太っ腹な事だ。君の手癖の悪さは嫌いだが、そういうところは好きだよ」
「私も、現金な貴方のそういうところは好ましくもあり、嫌悪していたりもしますよ」
亜子の後頭部から銃口を外してくれた真名へと財布を放り投げる。
財布を受け取った真名は、まき絵と裕奈の事は任せて置けと去っていった。
皮肉や比喩ではなく、本当に現金な人だと呆れる。
もっとも、助けてもらっておいて呆れるもなにもないが。
「ムド君、ウチ……ウチどうしよう。ただの勘違いやのにアキラを」
「分かってます、大丈夫。亜子さんは悪くありませんから」
女の子座りで尻餅を付きながら、泣き出しそうな瞳で見上げてきた亜子の頭を撫でる。
魔法を明かしてしまった事だけではなく、親友を手に掛けようとした罪悪感を払うように。
表の顔である先生と生徒の間柄ではなく、裏の顔である恋人同士として。
アキラもそれが本当の顔だという事には直ぐ気付いたのだろう。
本当の本当は何処にあるんだとばかりに、ムドを睨みつけていた。
もう少しだけ待ってくれと、アキラに視線で頼みつつ亜子を優先させる。
「大丈夫です。亜子さんは悪くありません。力はありませんが、それ以外の事からは私がなんとかしてみせますから」
「ごめんな、ごめんなムド君。ウチ、まだ全然弱いのに頼ってばかりで」
問題ないですと、ムドはことさら強く亜子を抱きしめた。
-後書き-
ども、えんりんです。
意図せず魔法がばれる、たぶん初めて?
あと、アキラがほいほい蜘蛛の巣へと足を踏み入れつつあります。
そんな感じのお話でした。
ちなみにネギ側での告白イベントは、起こってません。
それでは次回は土曜日です。