左肩にこてんっと、なにかが乗った。
「…………」
重さからいってそれは、人の頭だということはわかるし、ふわりと香るシャンプーの匂いで、相手が若いオンナだというのもわかる。
ところはがら空きの電車内。
時間は帰宅ラッシュも過ぎた午後九時半。
「…………」
視線だけを動かす。
どこのものかまではわからないが、短い制服のスカートが見えた。
どうもこれは寝てるらしい。
最近の女子高生は、学業に友情に恋愛に、それから他にも、おっさんとかの交遊とかで色々あって、かなりお疲れなんだろうね。
そんなことを適当に考えた。
俺はそのまま女子高生に、肩を貸した状態で、ゆっくりと、べつに眠くも何ともないのに瞼を閉じる。
「…………」
勿論悪い気はしない。
その証拠に俺の口元の筋肉は、自然と笑みの形を作っていた。
癒される。
行きたくもない会社に行って、下げたくもない頭を下げたくもない奴に下げて、リストラに怯え、安い給料で扱き使われるそんな毎日。
殺人許可証と拳銃。
あったら撃ってやろうかって奴が、俺にはいくらでもいる。
こんなラッキーが偶にはないと、とてもじゃないが、俺は真っ当な社会人をやってられない。
まぁ、とは言っても、
「はぁ……」
思わずため息。
それはちょっとでも冷静になれば、三十歳目前のオトコの癒しとして、やっぱし、誤魔化しようがないくらい虚しいのも事実だ。
ぎりぎり若者二十代。
なのにこれは枯れ過ぎてる。
潤いがない。
思考が見事におっさんそのものである。
「はぁ……」
なんてな風にそれこそ、疲れたおっさんみたいな哀愁のため息を、深く深く再度吐いたらば、
「悩みごと? あたしで良かったら、相談に乗るよ」
「……あん?」
左から瑞々しい声をかけられた。
そっちに首を捻ると俺の肩を、勝手に無断借用している女子高生が、大人を見透かしたような、生意気そうな瞳でじっと見ている。
子ネコみたいな印象。
まるで《ふふん》とでも、いまにも言いそうだった。しかしそれがまた、この娘は滅茶苦茶に可愛い。
……女子高生はホント得だね。
丁寧に揃えた短めの、おかっぱみたいな髪型も(この例えもおっさんだな。正式名称わからん)良く似合ってる。
「誰かにしゃべっちゃえばね、悩みなんて、九割は解決してるもんなんだから」
「残り一割は?」
「またそれを誰かにしゃべればいいんじゃない? そしたらまた九割減るでしょ? そのうちどうでもよくなって、きっと消えてるよ」
多分ね。
そう言ってパチンッとウインクしたのが、その娘にはえらくハマってて、最高にカッコよろしく男前に決まっていた。
「面白いこと言うね、きみ」
っても大人の悩みは、人に相談できないことが、ほとんどだったりするんだけど。
でも面白い。
でも素敵だ。
でもイカす。
「それに一割くらいなら、他人に頼らず何とかする強さも、長い人生には必要なんじゃないかなと、少ししか生きてないけど思うわけ」
「ごもっとも」
その考え方も見習いたいものだ。
全面的に。
「気に入ってもらえたみたいで嬉しいな。それじゃこの頼りになるお姉さんに、一丁溜めてる悩みを打ち明けてみたまえよ」
「実はですね――」
後になってから思い返してみると、軽いノリでの返事、これが良くなかったんだろう。
ネコ少女を完全に調子に乗せてしまった。
しな垂れかかってる女子高生の身体の重みと、頬から首筋にかけてをくすぐる、甘くぞくぞくとさせる吐息。
大変心地いい。
俺は確実に少女以上に、調子に乗りまくってたね。
少女と俺。
二人の力関係がこの瞬間決まった。
「日々の生活に張り合いがないのですよ。ビールとバッティングセンターさえあれば事もなしなんて、全然嘘っぱちなのです」
「ふむふむ」
わかったように、そして大仰に、少女は深く頷く。
「今日も会社でですね、それはどう考えてもてめぇが悪いんだろうが、ってミスで部署の人間を説教してるお馬鹿な上司に――」
「うんうん」
娘さんはとても聞き上手。
お若いのに立派。
将来はきっとどんな道に進んでも、大成するだろうねこの娘。
「部下の後輩はわかってるのかいないのか、いや、あれはわかってないんだろうなぁ」
「なるほど」
などと。
こんな感じで会ったばかりの少女に、日頃の鬱憤を電車内でぶつけていたらば、最寄り駅にあっという間に着いてしまった。
うぅ~~ん。
楽しいことは過ぎるのが、つまらない話をしてても早いねぇ。
「そいじゃ俺、次の駅だからさ」
「そう」
すっと少女がくっつけていた身体を離す。
「…………」
消えていく温かさが名残惜しいと思ったのと、その様子が以外にあっさりしていて、結構がっかりしたのはここだけの内緒だ。
しかし何だかなぁ。
これはやっぱりあれなのかな、もしかしたら、なんてのに期待しちゃってたのかねぇ俺は。
……カッコわり。
「そうだ。おじさんのお名前は?」
「ぐはぁっ!?」
不意打ちで無邪気(だよな?)の刃が、まったく持って気にしてないと思ってたけど、思いの他深く抉るように胸に突き刺さる。
それはいかんよ女子高生。
三十路前のオトコはきみたち以上にデリケート。
髪の毛とその話題は気をつけなきゃ。
「うん? ああ? あははは、ごめんごめん。カッコいいお兄さんのお名前は?」
頼むよホントにさぁ。
「島田」
「下は?」
「誠」
「オーケー。誠ね。そういやそんな名前だったけ」
「はい?」
「なんでもない。こっちの話だよ、誠」
言って少女はすくっと座席から立ち上がると、さっきまで自分の頭を預けていた俺の肩を、親しげに軽くぽんぽんと叩いた。
さり気に呼び捨てにされてるが、不思議と嫌な感じはしない。
どころかちょっとにやけたりして。
「あたしは洋子。山本洋子。ファーストネームで洋子って、気安く呼んでくれたら嬉しいかな」
「また随分と普通の名前だな」
「ほっといって」
会ったばかりのおじさんと、これだけ普通にしゃべれるっていうのは、おそらく普通じゃないんだろうが、名前とのギャップが笑える。
「よしっ それじゃ誠、早速呼んでみてよ」
「あん?」
「な・ま・え あたしの名前。恥ずかしがらずに呼んでみて」
「……よせやい」
こっ恥ずかしい。
きみは知らないだろうけど、これでも俺はナイーブ誠って、巷じゃなかなかに有名人で通ってるんだぞ。
……まぁ、当然で嘘なんだけどさ。
でも無闇に照れが入るっていうのは本当だ。
元カノの下の名前を呼ぶまでに、なんせ、二ヶ月も掛かった実績がある。そして三ヶ月目に別れた。
泣けるぜ。
笑えるぜ。
どっちでも好きな方の台詞を選んでくれていい。
「ほらほら誠」
フレンドリー洋子の方は慣れたもんだ。
何の抵抗も躊躇もなく、年上の、それも会ったばかりの、ストレス一杯おじさんの下の名前を、実にフランクに呼んでいる。
「早くしないと、もうすぐ駅に着いちゃうよ?」
「あん?」
外の景色を見ると確かに、行きつけの定食屋とかコンビニがあって、駅に着くまでもう一分もなさそうだ。
「よ・う・こ」
言いつつ洋子はぴっと、自分の顔を勢いよく指さす。
「……山本じゃ駄目なわけ?」
「洋子じゃなきゃ駄目なわけ」
生意気な女子高生は疲れてるおじさんに、意地でも下のお名前を言わせたいらしい。
「…………」
「……さあ」
ブレーキが掛けられて、がくんっと大きく身体が揺れた。この感じだと乗車口からはかなりずれるだろう。
新人か? 下手くそめ。
案の定電車は止まってから、バックして微妙な修正を始めた。
「はぁ……」
「…………」
「いくぞ」
「どうぞ」
くっそう。
恋に恋する思春期乙女(沙織ちゃん中学二年生)みたいに胸が滅茶苦茶どきどきするぜ。
「よ、洋子ちゃん」
「ちゃんはいらないかな」
「……洋子」
「もう一回」
「洋子」
「…………」
「あのさ」
「なに?」
「お前さん、人に言わせといて、その反応はねぇだろ?」
ホントにこの小娘。
あれだけしつこいくらいリクエストしておきながら、耳の先まで一瞬で《病気ですか?》と心配するほど真っ赤々になってやがる。
可愛いじゃん。
「ああ、……ははは、ごめん。いや、なんかびっくりするくらい、すごくて、その、……予想外のパワーだったんでさ」
電車がまた大きくがくんっと揺れた。
「…………」
俺の心も不覚にもがくんっとまた、揺れたり揺れなかったり。
「…………」
洋子はどうだろう?
「…………」
なんて、な。
まぁ、それはそれとして、腕を組んで誤魔化すみたいに、ふいっと洋子は明後日の方向を向いている。
そんな年頃の仕草が妙に可笑しく、そして似合ってないのが、逆に洋子のキャラとのギャップを感じさせてくれて、可愛らしかった。
正直もっと俺は、洋子と一緒に居たい。
最高にハイって奴だ。絶好調のハレバレとした気分。
けれどぷしゅ~~っと音を立てて、やっとこさで電車の扉がゆっくりと開きやがる。
あ~~あ、ここでこの洋子とはお別れだ。
心底波長が合わん。
いまだったらうっかりと次の駅に行っちゃっても、俺は新米くんを絶対に怒らないのになぁ。
しかしそれはしゃあない。
彼だってこれが仕事なのだから。
慣れてないとはいえ、うっかりで済む限度を、それだと越えちゃうしな。
「んじゃ」
「うん?」
意味もなく気取って手を軽く上げると、俺は片足だけをホームへと踏み出す。
洋子は何故か不思議顔だ。
「またな」
「あん?」
さらに小さく首を傾げる。
「……洋子」
「……ああ」
ちょっと自分に酔ってるマジ顔で、俺が心の中でBGMを掛けながら別れの挨拶をすると、そこで洋子は合点がいったという顔をした。
にっこり、ではなく、にやりと、悪戯っぽく微笑むと、
「誠」
俺の腕を掴み引っ張る。
すぐにぷしゅ~~っと間髪置かずに、背中で電車の扉が閉じた音がした。
ホームには二人の姿しかない。
がたんがたんという音の中で、洋子がネコみたいに眼を細めて笑っていた。気に所為かもしれないが、その瞳が緑色に光ってるような?
「あたしもこの駅に、今日は用があるのだよ」
ネコ娘の顔は愉しそうに、にやにやとしていやがった。
「ああ……さいですか」
「ふふふ、さいですよ」
早く言えって。
ほんの少しだけ過去の島田誠さん(27)が、なんだかモノ凄ぅんごく、恥ずかしい大人になってしまったではないか。
「誠、もう晩御飯は食べた?」
「いや、まだだけど」
「ふ~~ん。……そう、まだなんだ」
はて? 一体何故だろう。
どうしてはてんでわからないのだが、俺が晩飯を食べてないという事実は、洋子のお気に召したらしく、その笑みを一層深くさせた。
「コンビニ?」
「の予定」
「グッド。ちょっと待ってね」
それを訊くと洋子はびっと親指を立て、ソニックのストラップの付いた携帯を取り出し掛ける。
「あ? 紅葉? ホント偶然なんだけどね、電車でお隣さんと一緒になっちゃってさ、うん? そう。201号室の島田誠さんだよ」
「…………」
待ってくださいよ、女子高生の山本洋子さん。
わたし、初対面のあなたに、色んな事聞いてもらちゃいましたけど、お部屋の事とかはお話しましたっけ?
「今日はカレーでしょ? なに? それしかできない? そんなんいいから、これから招待するんで、ちゃんと部屋片付けとくんだよ」
言いたい事だけ言い終えると、洋子は自分勝手に電話を切った。
天上天下唯我独尊。
受話器を離したその一瞬、通話口から悲鳴のようなものが聴こえたのは、おそらく空耳とか気の所為だけじゃない。
そういや何か声に聞き覚えがある。
隣に住んでいるポニーテールがよく似合っていた、いまどき珍しい苦学生タイプのあの娘だ。
え~~っと名前は、なんていったかな?
全国的にも非常に希少だろうし、特徴的かつ独創的なのは、かろうじてではあるものの覚えてるんだけど。屋号みたいな感じの奴。
「誠」
「なんでしょう?」
「あたしの友人で理由あって一人暮らしをしてる女子高生、松明屋紅葉の部屋で行う、カレーパーティなどにご招待したいんですけど」
「はぁ……」
そうだったそうだった。
あの娘は松明屋紅葉ちゃんだったな。うん。近くにある行きつけのコンビニの、地域みんなのアイドルである看板娘だ。
「来るよね? 一人でコンビニ弁当を淋しく食べるのと、可愛い可愛い女子高生とカレーを食べるのを、果たして比べられるだろうか?」
俺の眼に人差し指をびしっと、突き刺しそうにしながら、洋子は断られるなど露ほども考えてない態度で、自信満々高らかに宣言する。
「…………」
決めつけられるとこれで、誠さんは子供の部分が大概残っているので、つい逆らいたくなるのだが、
「来るよね?」
「……はい」
ずずいっと顔を寄せてきた洋子の迫力には、それすらも許されない感じだった。
いや、勿論、後者の提案の方が遥かに魅力があり、断る気なんて始めから、さらさらありはしないんだけどね。
「オーケー。じゃあ、紅葉の掃除の時間もあるし、ゆっくり行こ、あ? そうそう。明日は土曜日だけど、誠は仕事があったりするの?」
「んにゃ」
「ベリーグッド」
親指を立てるとそのままその手で、洋子は俺の手を取りきゅっと握る。――ちっちゃい手。ほんのりと人肌に温かくて柔らかい。
何とはなしに繋いだ手を、じっと見ていたら、洋子が小さく、ぽつりと呟いた。
「どうしよう。これってウマくイキすぎ」
「あん? 何だって? なにがイキすぎだって?」
確かに俺の言葉が聞こえたはずなのに、洋子は振り向きもせずに、手を引っ張るようにして、ずんずんとえらく早足で歩き出す。
「ゆっくりじゃねぇの?」
「…………」
「なあ?」
「…………」
「なあ?」
「うっさい!!」
このときはこれで諦めたのだが、無理矢理にでも、爆進するネコ娘の顔を見ときゃよかったと、後でちょっとだけ俺は悔やんだ。