海軍部隊駐屯の官舎だった。
私室の椅子に腰かけたバリズは、夜も明ける間際となってようやく片付いた事態に、満足と心残りを同時に覚えながら大きく欠伸した。仕事を終えての酒はまた格別、と酒瓶の口を切る。
革命軍幹部、オカマ王エンポリオ・イワンコフの捕縛。あのバカ面をぶん殴る前に向こうが投降した形だが、大手柄には違いない。
しかし喰い損ねた、と思う。本日――正しくは昨日だが、あの少女を逃がしたことが残念でならない。
美味そうだった。女の、それも子供の肉は柔らかい。
(……まあ、オカマ野郎の言も一理ありやがる)
つい先日、うっかり――そう、ついうっかり、“市民”に手を出してしまった記憶を思い起こす。結果的にその事件は不祥事として揉み消されたが、バリズの降格と左遷は免れなかった。よくもまあ処刑されなかったと自分のことながら感心してしまうが、嗜好はともかくそれまでの実績が功を奏したのだろう。しかしそれもこれも自分が空腹を抱えている時に、あんな美味そうな獲物が通りかかるのが悪いのだと、愚痴のように言ってみる。
大海賊時代は、十六年の時を経てまるで衰えず、海は騒がしいままだ。その煽りを食って、かつてバリズが乗っていた船は難破したのだが。
食人嗜好も、その時からの付き合いとなる。尽きた食料の代わりに、波任せに漂う船の中で喰える物は他になかった。
無論、後悔などしていない。“食材”に感謝する気持ちは、微塵も揺るがない。
救助に来た海軍にそのまま入隊したのも、無難に“食料”を求めてのこと。海賊という名の悪ならば、幾ら喰らおうと文句などでない。海軍の体裁に悪いからと、薄暗い9番目の組織に一度警告されたことはあったが。故に一応、“食事”は隠れて行うようにしたが。
とはいえ、降格と左遷は痛かった。辺境に海賊は少なく、少将位であった方が自由が利いたからだ。
しかしそれも今日で終わりだ。大物を捕まえたことで既に昇進が決まっている。一階級、准将位だが、文句は言うまい。偉大なる航路への復帰も検討されている。こんな静かすぎる島とはおさらばだ。
となると、やはりあの少女を捕まえておきたかったと思う。悲鳴と哀願をバックミュージックに柔らかな生肉を噛み千切る快感を、昇進祝いに得たかったと思う。食欲が過剰なバリズは、捕食対象への性欲が薄いのだ。……その両方が同一なのかもしれないが。
(今からでも、探してみやがるか……?)
酒に侵されつつある思考で真面目に検討する。
少女の名前は不明だったが、オカマ王が投降した後でファンとかいう赤い服のガキが記録に残ってないか部下に調べさせたところ、二日前の定期便で下船したという記録が見つかった。
だが六感に何となく引っ掛かりを覚えたバリズは電伝虫による通話でどこの島から乗ったのかまで探らせ。
結果下船記録はあれど、ファンという名の赤紫の子供が乗船した記録は、どこにも残っていなかった。
そして図ったように姿を現した革命軍の幹部――怪しいことこの上ない。
(ドラゴンの隠し子って線は……ちと無理か)
細っこい身体も顔立ちも、まるで似ていない。母親似なのかもしれないが、血縁関係の可能性は低いだろう。
だがそれは、革命軍との関わりを否定する要素にもならないが。
「……」
ここまでだな、とバリズは結論付ける。これ以上あの少女に固執すると、何か途方もない厄災を引いてしまいそうだった。
長年の経験で培った六感が、警鐘を鳴らしている。ファンタジックなドラゴンの巨影が空一面に広がった様を想像して、苦く笑う。
――不吉な予感は、正確だった。
音もなく、影もなく。
匂いなく、姿形気配一つなく――
バリズが扉を開けた時からずっと室内にいた赤紫の少年が、男の喉に手をかけていたのだから。
「――っ!?」
ぶちっ、と。バリズが痛みを感じた瞬間には、全てが終わっていた。
声帯と一緒に、主要な運動機能を司る神経をも赤く引き千切られ。だらりと、バリズの首から下が弛緩する。
背もたれに寄りかかったまま、ゆらりと現れた下手人の姿に目を剥いた。口が動き、けれど言葉は出てこない。声帯なくして、声が出るはずもない。
「…………くふ」
と、少年が赤く嗤うのを、見上げることしかできない。その指先がブチブチと、パキパキと、自分の身体をコワす様子を、目を見開いて見る以外に、何も、できない。
腕の骨が抜かれてゴムのように垂れ下がる。肋骨をいじられ身体からはみ出る。引きずり出された小腸が腹の上でとぐろを巻く。置いてあったペンが突き刺され胃に穴を開ける。切られた膵臓から流れた液が内膜を溶かす。
痛みはない。
だがコワされていく。
少年は薄ら笑いさえ浮かべて。
楽しんでいる。
狂っている。
悪魔――否。
(悪っ……鬼……!)
無情に、無慈悲に、無価値に、嬉々として。
けれど、唐突に脈絡なく飽きた少年は、すいっと文字通りの意味で地下に潜り、数分ほどして舞い戻る。
その手に数匹の鼠を抱え、部屋に放たれた鼠たちは、腹が減っていたのか血に酔ったのか、すぐさま“餌”へ群がっていき――。
そうして。
夜食にしては遅く、朝食というには早い食事を届けに来た部下が、不幸にもその第一発見者となってしまうのは、それから三十分後。
チィチィと、甲高く鳴く、鼠。仲間の気配に、餌の気配に、わらわらと寄り集まり喰らいたかる、十数匹のドブ鼠。
こびりついたヘドロのような鼠の、悪臭。彼は、食器を取り落とす。音に、鼠たちが逃げ出す。後に、ついさっきまで上司だったモノの残骸が残され。
生きたまま喰われ、まだ生きていた男のぎょろりと落ち窪んだ目と、目が、合い、合ってしまい。
……喉を引きつらせ、嘔吐した。
「……」
ニュースクーの届けた西の海における海軍大佐変死事件の記事を、ドラゴンは沈黙のまま畳んだ。
テーブルの向こう側では、赤紫の少年が提出を命じられた反省文を前に、いつもの眠たげな無表情で頭を抱えている。その様子は島に上陸する前と、何ら変わることがない。
一つ、服装だけは様変わりしているが。真紅のパーカーに軍用的なハーフパンツとブーツ。ラナが選んだとすれば、なかなかセンスがいい。
「……問題は、そこじゃなくてだな」
「?」
独り言に顔を上げた少年へ、何でもないと腕を振った。
変わらない。
何も、変わらない。
ファン・イルマフィは変わることなく、狂ったままだ。
壊れた時計の、狂った歯車。
――治しようがない、壊れきった時計。
(どうしようも……ないか)
この事件に関する大よそのところは少年から聞いている。具体的に何をしたのかまで聞き及んではいないが、相当に凄惨な光景がこの記事から透けて見えた。
約束を、果たしたのだと。
少女を傷つけた報いを、受けさせたのだと。
瞳に狂気と愉悦を湛えながら、少年は訥々と語った。
取り敢えず拳骨の代わりにアイアンクローをかましておいたが、きっと反省はしないだろうと、ドラゴンは暗澹たる溜息を吐く。
ファンが持つ特技の項目に、暗殺の二文字が加わったらしい。
普通の生活を送る分には不要なスキルだが、ファンの性格――性質を考えれば、無駄と言えないから、困る。
「…………」
「ああ、できたか」
書き上がった反省文を少年から受け取る。……半紙の半ばも埋まっていないが、努力は買うことにした。
「…………ドラゴン」
何だ、と読み進めながら答える。
「………………強くなりたい」
静かで、抑揚のない声。なのに周りの雑音をすり抜けて、聞き違えることはない。
その意図も、その意思も、誤認を許さず伝わってくる。
「……」
用紙をテーブルに置き、ドラゴンは背もたれに体重を預けた。しばし、瞑目する。
いつかは来ると予想していた。出来得ることなら否と答え、どこかの町で平穏な暮らしをさせてやりたいと思っていた。
それを二人の内の一人、赤紫の少年は望まないだろうと知りながら。
「強さを得て……」
慎重に、言葉を選んだ。
「……お前は、何をする」
「…………僕は能力者」
ゆらりと、その姿が一瞬無にたゆたう。
“光”を、すり抜ける。
「良くも、悪くも…………目立つ」
仮に、二人が安全で平穏な地に定住するとしたら。
いくら隠そうと、少年が能力者であることはいずれ知れるだろう。使わないと決めた所で、ふとした拍子に露見する可能性は高い。そしてもしばれたなら、気味悪がられ、排斥される光景がどうしようもなく容易に想像できた。
能力者は基本、嫌悪の的であり恐怖の対象である。隣人に欲しがる人はまずいない。
無論理解を示す者もいるだろうが、海軍や自治軍など相応の立場を持たずして、ひっそりと暮らすことは不可能に近かった。そうでなくとも、少年はともあれ少女の可憐さは、知らず周囲の耳目を集めてしまう。
なればこそ、強くなりたいというファンの言葉には無視できない重みが伴って。
「……条件がある」
数分の思索を終え、ドラゴンは茫洋たる赤紫の双眸を見据えた。
「必要以上に、人を殺すな。必要以上に、人を壊すな」
少年の性情を変えることはもはや叶わない。抑制はどこかで、破綻を迎える。
故に赤い狂気を飼い慣らせと、ドラゴンは伝える。
「お前は、柱になれ」
「…………はしら?」
「どれほど強固な城も、それを支える柱なくして建つことはできない。お前はお前の器に従い、全ての根元である柱となれ」
「……………………?」
「今は、意味が分からないか……。だがいずれ悟る。お前は、枝葉にはなれない。必ずや柱となり、大樹を支える幹となる」
――波人間であるお前は、誰にも流されることなく己が道を進むだろう。
そして遠くない未来において、世界を揺るがす巨大な波濤となるだろう。
お前の得た力はそれほどのものだと。
いずれ、知る。
「………………」
「……なあ少年。危険とは言わないが、退屈じゃないかと聞いてみよう」
「………………」
「そうか。ならもう一つ、なぜマストの上で三点頭立する必要があるのか訊ねてみよう」
「………………特には」
「ふむ、若気の至りという奴かな。結構結構、若いうちは何でもしてみるのが僥倖だ」
「………………」
若気の至りも、僥倖も、言葉の使い方が絶対に違う。
空を真下に見下ろしながら、ファンは指摘すべきか数秒迷った。
マストの上の、見張り台。ファンの姿勢からは見上げる位置に、アゼリアが双眼鏡を首から下げて、障害物の一切ない大海原を見張っている。
アゼリアはやや色落ちした黒髪をバンダナで縛り、よく日に焼けた褐色の肌を晒す女性だ。革命軍の幹部でこそないけれど、面倒見の良い性格で人望を得ている。船上という密室で大勢の人間が暮らすとなれば、当然そこに齟齬や問題が生じるわけで、多忙な幹部に代わりその仲裁を買っているのがアゼリアだった。好き勝手してる自分はさて置いて、ラナは結構、世話になっているらしい。
生まれ故郷を巣立って船の生活も九日目。立ち寄った島を出たのは今朝で、船は順調に波を裂き、次なる目的地へ船首を向けている。
「少年、昨日は随分やんちゃをしたそうじゃないか。朝刊に載っていたぞ、『西の海で起きた変事・海軍大佐死亡の謎と抗争の一夜』。フン! 以前からあの大佐は気に入らなかったんだ」
変死もいい気味さ、とアゼリアは薄く笑う。
さすがに大差を殺したのがすぐ頭上にいる自分だとは、気付いてないようだ。
気付ける方がおかしいけれど。
「ところで、ラナ娘とは何があったか訊いてみようか」
「…………」
……ラナ娘って。
名前は入っているけれど、その呼び方はどうだろう。
「隠さなくてもいいぞ? これでも人間関係には人一倍花を生けていてね」
「…………それは、花瓶」
正しくは、過敏。
あるいは、敏感。
「男が小さなことを気にするな。で、特に男女の関係には気を遣っている。痴情のもつれは意外と洒落にならなくてな。もういいっ、死んでやる~!と叫ぶ女を何度宥めたことか知れない」
裏声使って真似して見せるアゼリア。
革命軍には女泣かせの男が多いのだろうか。
「この間なんか元カノが粘着に執着してきて怖い、助けてくれ~……とみっともなく縋りついてくる男を蹴飛ばしったけな」
……革命軍の男女模様はグランドラインか。
どこまで本当かは、知らないけれど。話半分ぐらいが、丁度いいかもしれない。
かなり結構言ってることは適当だと、ラナに聞いた覚えがある。
「ついさっき――といっても一時間は前だが、洗濯中のラナ娘を見かけてな。確か少年は……反省文だったか?」
「…………」
沈黙。
あんな苦行がこの世にあるのかと、思い出して身震い。
もう二度と書きたくない。
そんな自分の反応に何を見たか、逆さまの視界の中でアゼリアはにやにやと揶揄するように。
「随分―――色っぽくなってたな」
そう言った。見る目のある奴にしか分からんが、と付け加えるけれど。
「少年、あの子の器量はこれからますます磨きがかかるぞ。気をつけろ? ここからが、正念場だ」
「………………」
「私は互いが好き合ってる限り野暮なことは言わないさ。同性愛だろうが歳が二十も離れていようが、愛の前に障害は無意味だ」
障害あってこその愛、という意見もあるがね。
意味ありげに、意味深に、そして何の意味もなさそうに、褐色の女性はニヤリと口端を差し曲げる。
アゼリアは軽い口調のくせに、言葉は重い。長くそうした事情を見てきた者の、忠告。
無視はできない、けれど。
「…………僕たちは、恋人じゃない」
「ふむ?」
「恋人には…………なれない」
ほう、と興味深げに、アゼリアの目が細くなる。
ファンは三点頭立の姿勢から、ぐっと腕を伸ばして体を入れ替え、軽やかに見張り台へと着地した。小さく称賛の口笛を受ける。
「ならばお聞かせ願おうか。互いが好き合い、障害もないのに恋人となれないそのわけを」
「……………………」
ゆっくりと、高い位置にあるアゼリアの瞳を見上げて。
「僕は――――ラナに恋してない」
ジャキッ、と。目と鼻の先で、銃口が暗い穴を覗かせていた。
一秒足らずの間に抜かれた拳銃はファンの額を照準し、照星の向こうでアゼリアの瞳が苛烈な光を湛えていた。
「少年。世の中には言ってもいいことと、言っちゃあいけないことがある」
「…………」
「それは――あの子を傷付ける言葉だ。聡い少年が、それを分からぬわけがあるまい?」
「…………アゼリアに言われなくても、分かってる」
「何がかな?」
「ラナに……聞けばいい」
僕たちが、恋人かどうか。
そんな言葉を残して。
「――む?」
アゼリアは、瞳を瞬かせた。煙のように――蜃気楼のように跡形もなく、ふっと消えた少年を探す。見張りを任される目の良さで、船尾から内部へ消えていく姿を捉える。
「……はて、少年の能力は透過じゃなかったか?」
あれでは“暴君”じゃないか――と胸中で呟きつつ。
「…………まあ、いいさ。上手く逃げられたが、釘はしっかり刺せただろう」
くるくると指先に引っかけた拳銃を、腰に納めた。夕食時、ラナ娘にそれとなく尋ねてみようかと、つらつらと図る。
頼れるお姉さん役も、楽じゃない。
などと、嘯きながら、けれど楽しげに。
「――で、詰まるところ私は聞いてみようと思い立ったわけだ」
「……あの、アゼリアさん。会話が繋がってないんですけど」
そうか?と片眉を上げる褐色の女性は、物語に出て来る女海賊さながらの格好で炙り魚を丸かじりした。
朝昼晩の食事時は食堂がごった返すというか、タイミングを見計らわないと席に着けないほど混雑してしまう。けれど例外はあって、ごく一部の私室を持つ人たちは料理を持って自分の部屋で食べたりする。
今日の夕ご飯は何だろう、寄港直後だから美味しいの出るかな、と期待して食堂に行ったら、アゼリアさんが二人分のお皿を持って待ち構えてて。たまには二人で話をしつつゆっくり食べよう、と誘われた。ドラゴンに呼ばれてファンはいないから、空いてる自分の部屋で一緒に食べようということになった。
「えっと……聞いてみようって、何をですか?」
「そんなものは決まってるじゃないか。――ラナ娘と少年の関係だ」
ブッ、と口に運んだオニオンスープを噴き出す。それを見越していたように、アゼリアは布巾でテーブルを拭く。
「ふむ、反応が初々しいな。無反応な少年はつまらない限りだったが」
「からかわないでください……」
「何を言う。他人の恋愛ほど面白い肴はないぞ」
「私は当事者ですっ!」
そう言えばそうだったな、と本当に他人事の如く。いや、実際に他人事なのだけど。
初めて乗る船の生活で、様々なルールを教えてくれたのがアゼリアだった。頼りになるお姉さんであることは間違いないけれど、どこまで本気か分からない飄々とした態度は凄く困る。
「まあ落ち着け。そんなに怒ると鷲が増えるぞ」
「増えるのはしわです! 増えませんけど!」
「好い女は小さいことを気にしてはならない――我が家の家訓だ。ラナ娘にも使う許可をやろうじゃないか」
……いい人だけど、いい人なんだけど……。
もう少し、小さいことも気にしてほしい。……ラナ娘のニックネームも止めてくれないし。
「ところで、ここからは真面目な話なんだが」
と、骨だけになった魚を皿に置き、アゼリアは顔つきを改めた。
「ラナ娘は、少年のことが好きで、間違いないか?」
「……いきなり、ですね」
「答えにくいなら、別に答えずとも構わない。しかし私は船内の人間関係を調整する、謂わばカウンセラーのような立場にあるからね。特に男女の間で生まれる不和は、可能な限り芽を出す前に取り除きたいと思っている」
「……」
「昼間、少年にも尋ねてみたんだがね、そちらは上手く躱されてしまった」
なかなか優秀だ、と呟く。
「これでも、私はお前たち二人を気に入っているんだ。そうでもなきゃ誰がガキの恋愛なんかに口を挟むものか」
「本音が出た……!」
「まあ、そこは流してくれていい。他愛ない言葉の綾というものだ」
……どこが綾なのか全然分からない。
むしろ、ど真ん中な気がひしひしと。
「会話が脱線したな……で、だ。イエスかノー、首の動きだけで答えてくれて構わない」
爛、と深い瞳が光を反射し。
「ラナ・アルメーラとファン・イルマフィは―――恋人の関係と理解して、いいかな?」
「………」
小さく、吐息した。
言い逃れを許さない、問いかけ。
強引では、あるけれど。心配してのことだと、分かるけれど。
でも――誰かに聞いてもらいたい気持ちも、あったから。
ラナは、黙って首を振った。
“横”に。
「おととい……町で、告白したんです」
険しい視線を向けるアゼリアへと、ラナは言う。
「分かってたのに……分かり切ってたのに……好きって、言ったんです」
憂愁の色を、微笑に含ませて。
「ファンは絶対、応えてくれないのに」
「――――」
意味を。
図り、かねた。どう見たって、二人の仲は相思相愛以上でも以下でもなく、恋に恋するわけでもなく、微笑ましくも確かなカップルとしてアゼリアの目には映っていた。
しかし当の本人たち両方が、それは違うと言う。恋人ではないと言い、けれど好きだと言う。
理解――し難い。
不可解だ。
「……告白、したんだろう?」
「……はい。でも、告白した“だけ”です」
好きとも嫌いとも。愛しているともいないとも。
赤紫の少年は、一言だって口にしてない。
「ファンの頭の中って、単純なんです。好きか嫌いか、無関心の三者択一……」
その好悪にしたところで、好きな食べ物と、異性に向ける好意と、動物を可愛がることが同列に語られて。
複雑な感情を、赤紫の少年は持たない。持とうとしても、持てない。
単純一途とは、また違うけれど。そんな少年だから、何を感じているか自然に分かってしまうのだけど。
「私は、ファンを捕まえられないけど……ファンは、私を捕まえられる」
両の眼差しを伏せ、想い馳せるように。
「だから、私は捕まっちゃったんです。ファンっていう津波に攫われて、後戻りできない深みにはまっちゃって……」
「……」
「恋とも言えない恋……って、言われました。服屋のお姉さんに……あの人はもしかしたら、一目見ただけで分かってたのかも」
「……お前はそれでいいのか? 告白し、だが答えない少年を好きになったままでいいのか?」
「――アゼリアさん。私、最初にちゃんと言いました」
応えてくれないと分かっていたのに……好きと、言ってしまった。
少女は瞳を開けて、寂しさを交えながら、けれど後悔のない黒い瞳で微笑んだ。
「理不尽で、不条理で、横暴なファンに…………私は、恋しちゃったんです」
そういう意味では――私も、壊れてるのかもしれません。
ラナはぺろっと舌を出して、そう締めた。
自分の心は、ファンのいいように壊されて、狂ってしまったのかもしれないと、思った。
「………………参ったねこれは」
沈黙の末、アゼリアは否応なしに苦笑する。
「つまりこういうことか? 私が憂慮し苦悩した全ては邪推だった、と。……まあ上手く行っているなら何よりだ。私は恋の形にまで口出ししないからね。ロリショタブラシスホモレズ好きにやればいいさ」
「えっと……すみません。無駄な心配かけて」
「……さりげなく無駄と言ってくれるあたり、追い討ちなのか天然なのか」
「え?」
「いやいや。戦果はなかったが、ラナ娘の惚気話が聞けて楽しかったよ。後で言い触らすとしよう」
「ちょっ……やめてください!? カウンセラーが患者のプライバシー口にしちゃ悪いと思います!」
「私はカウンセラーみたいなもので、カウンセラーじゃないからなぁ……」
とぼけた言葉を平然と。赤い顔で可愛らしく怒ってくる少女で遊びながら、口の端を曲げる。
やはり明るい子どもたちこそ、私たちが守るべきものだと、思った。