突然だった。赤紫の少年が海賊の後へと続いたのは。
ファンっ、と呼びかけても握っていた手と同じく、言葉までもすり抜けたように届かない。
ゆらり、ゆらり。歩く少年に追いつけない。人波を障害とせず歩む少年は、ともすれば遅い足取りで少女を突き放す。
「っ…!」
道を塞ぐ形となった路上の人々にもどかしい思いをぶつけながら、迷惑そうな顔をされても掻き分けて。今にも隠れて見えなくなりそうな赤い衣服に追いすがる。
何が何だか分からなかった。何が何だか分からない内に、説明もなく一言もなく、少年は繋いだ手を離してしまった。
「待って……待って……!」
置いて行かれる。知らない町のただ中で、一人にされる。
寂しいよりも、怖い。さっきまでの楽しさは失せて、不安が押し寄せる。
赤い背中をひたすらに追いかけ、つんのめるように人波から外れる。運よく転倒は免れて、顔を上げた少女の喉がひゅっと音を立てた。
裏町への入り口が、どんよりと薄暗く、口を開けていた。建造物に挟まれて、陰りとなった小路には、町の表側からあぶれた浮浪者たちが汚れた着の身着で地べたに座っていた。
上陸の際、裏町は利用している。だからそこがどんな風に危ないのかも肌で知っている。いかがわしい店が軒を連ねて、町の悪い部分が吹き溜まりのように集まっている場所。身を守る術のない子供が立ち入ってはいけない、禁止区域。
ラナはぎゅっと唇を引き結んで、座り込む浮浪者たちの前を忍び足で進み、
「…………」
踵を返してそれまでずっと抱えていた紙袋を彼らの前に降ろした。
「あの、中にある物食べていいので、預かっててください」
「……は?」
「持ち歩いてたら追い付けないんです。取りに来なかったら、他の物も全部あげるので売ってお金にしてください」
それじゃ、と言うが早いが駆け足で裏町の奥へと突き進んでいく。荷物を押しつけられた浮浪者たちは、唖然とした表情でその背を見送り、顔を見合わせる。
「……食っていいそうだぞ」
「変わった子だな」
「孫が死ななんだらあのぐらいかの……」
ごそごそと袋を探り、土産物の包装を遠慮なく破っていく。
「旅行者か」
「こんな見る物もない島に?」
「海兵の連れ子じゃろ」
「海賊かもなぁ」
口を動かしていた一人が、ふと思い付いたように言う。
「なあ……海賊の子でも海兵の子でも、死んだら拙くねえか?」
ピタリ、と全員の動きが止まる。やや蒼い顔で、互いを見る。
海兵の場合――裏町の大掃除が実行される可能性。
海賊の場合――報復の嵐が吹き荒れる可能性。
「………どっちもやばい」
「旅芸人っつーことも……」
「こういうのは悪い方向に考えて備えるもんじゃろ」
「飯の恩もあるしな」
「……あ、思い出した」
何だ何だと視線が集まる。髭もじゃの男は饅頭を危機感なく、
「あの子確か、今朝革命軍の司令官と一緒にいたわ」
「……」「……」「……」
「「「――――うぇえええええっっっ!!!???」」」
やばいどころの話ではなかった。
「だれかすぐそん人に伝えてこいっ!」
……ファンの行動で混乱の波は広がっていく。
幸運にもと言うべきか迷うけれど、見失った少年の進んだ道筋をたどるのはとても簡単だった。
転々と、道なりに人が倒れているのだから、一目瞭然。
きっと声をかけるなり道を塞ぐなり、少年の邪魔をしたせいだ。尾行と言うには稚拙すぎるけれど、追跡する少年を阻害したせいだ。
死んではいなかったが。赤くされてはいなかったが。
ただ一様に、腹や胸を押さえて悶え苦しんではいたけれど。内臓破裂寸前のダメージを、内部に“直接”もらったようだ。
自業自得、と言うにはやや悲惨。同情の視線を送りつつ、ドラゴンとの約束を忘れてはいないらしい、一応の理性を残しているらしい少年を追いかけて。
「……ファンっ」
小路の出口にゆらと佇む赤い背中へ、やっとのことで追いついた。いつの間にか湾岸まで来ていたらしく、潮風が吹きつけてくる。荒いだ息を整え問いただそうとした声に、突如爆発した怒声が被った、びっくりして少年の背に隠れつつ小路の先、開けた浜辺を見やれば、大声で喚き立てるさっきの海賊たち。
「……な、なに?」
「…………悪魔の実、売るか食べるか、ケンカ中」
何で七五調かはともかくとして。分かりやすいは分かりやすいとして。
「食べたら…ファンみたいに強くなれるんだよね? だったら食べた方が……」
「強くなるのは、一人だけ。売ればみんなで、山分け」
「……悪魔の実って、山分けできるぐらい高いの?」
「…………最低でも、一億ベリー」
「いちおっ……!?」
跳ね上がりかけた声を慌てて塞ぐ。が、今にも光り物を抜きそうな雰囲気の海賊たちには聞こえなかったようで、胸を撫で下ろす。かと思えば、一人が抜いた。血飛沫を上げて、信じられないという表情で倒れるのは船長だった。山分けどころか、独り占めを狙って。
剣戟が幕を開ける。本来それを止めるはずの船長は真っ先に切られ、怒鳴り声の内容から、斬ったのは副船長だと知れる。もう、収拾は付かない。固よりならず者の群れ、口よりも実力行使がものを言うのだから、尚更。
「…………」
ラナは、酷く冷めた目でそれを見ている自分に気付いた。この程度の殺し合いに、動じることができない自分。どうやってもあの夜と比べてしまって、そんな心の変化に虚しさを覚える。
戻ろう、と少年の赤い裾を引く。日が暮れる前に裏町から出よう、と。
「………ファン?」
様子が、おかしかった。少年の視線を追いかけ、ラナは息を詰める。
広がった血溜まり――鮮やかな赤に染まる人間。
ファンの大好きな――赤くなった人間。
くふ、と仄かな笑声。陽炎のように、寒気が立ち上る。
ぞっと少女の心胆が雪にまみれた。目の前の殺し合いなど比較にならない記憶を揺すられる。
知っている。あの時あの瞬間、少年が殺しに満足していなければ、自分もまた死体の仲間入りをしていたことを。狂熱に浮かされたファンは、力尽くか興が満たされなければ止まらない。初めてドラゴンと会った時も、そうだった。
それ以来、スイッチが入らなかっただけで。
止められる人間が、傍にいただけで。
今は。
「…っ」
ファンの前に、回り込む。両手を広げて、夢見る表情から目覚めようとしているファンの前に、立ち塞がる。
すぅっ、と赤紫の焦点が自分に合った瞬間、足が震えた。震えはすぐに全身へ伝播した。
それでも、蛮勇無謀と嘲られようと、例えこれで少年に殺されても、ラナは後悔しない。
――ただ言う事を聞くだけの異性に、ファンが興味を示すとは思えなかったから。
「……だめ…だよ……」
ほとんど絶息しそうな呼吸で、顔色で、訴えた。
「ドラゴン……と、約束した…よね……? 殺さない、って……。だから、ここに来る途中でも……殺さなかったん、だよね?」
「…………」
ファンは無口で、無表情で。大抵の場合、言葉よりも行動を取る。行動で、示す。
腕が、沈んだ。少女の左胸に、少年の腕が沈んだ。自分の身体をまるで霧のようにすり抜けたファンの手の平が、心臓に、触れていた。実際は触れていなかったのかもしれないけど、透過したままなのかもしれないけれど、触れていると感じた。
ラナは、動かなかった。じっと見つめる少年と目を合わせたまま、一歩たりとも引かなかった。いつもなら汲み取れる少年の情動は、無に帰したように計り知れなくて。すぐそこの騒動が、本の向こうであるとまで思えて。
「………………………………………………」
段々、ぶすくれたような気配が出てくる。眠たげな半眼が不満たらたらに見つめ、胸を圧迫していた感覚が消えた。なにもしないまま、少年が腕を引き抜いた。
「…………後で、覚えてろ」
どこの悪役の三文台詞だ。
というか。
「えっ…と、私が悪いの?」
コクコクと少年は肯定し、
「僕が正しい」
「……」
「僕以外は、正しくない」
「……」
……うわぁ。
独裁者だ。赤い衣装と言動がマッチしてしまった。少女は頭を抱える。
「あ」
「え?」
唐突に少年が前を、つまり少女の背後を見上げ、つられたラナが振り返る。同時に何かがくるくると落下してきて、思わずキャッチする。
「…………レモン?」
形と言い手触りと言い記憶にあるレモンと一致するのだが、変な模様と色に疑問符が浮かぶ。
まるでレモンだけどレモンじゃないと主張しているような……。
突き刺さるような視線にはっと顔を上げると、さっきまで暴れ回っていた海賊たちが――半分ほどに減っていたが、一人の例外もなくラナを、ラナの持つレモンを血走った目で狙い定めていて。
「「「悪魔の実返しやがれ糞ガキィィィィィッ!!!」」」
「ええええええええええええええぇっっ!?」
「…………くふふ」
驚きすぎて、少年が微かに唇を曲げたのにも気づけない。返せと言われたのだから兎にも角にも返そうとしたのだが、それより早く少年の手が悪魔の実を掠め取った。そのまま少女の腕を引いて走り出す。逃げ出す。
「ファ――ファン、ファンっ! 返さないと!」
「…………一億ゲット」
「泥棒はダメ――って言うか何で楽しそうなの!?」
「……鬼ごっこ、初めて」
「コックさんたちと散々やってたでしょ!?」
「あれは……かくれんぼ」
鬼ごっこが目的なのか悪魔の実が目的なのか。ファンなら平気で遊びと答えそうだから洒落にならない。
数を減らしたとは言え計八人もの殺気立った海賊に追われるのは精神衛生上ダメージ著しい。なんて、呑気に考えられるのは、今の今までファンの殺気を浴びていたからに他ならない。
怪我の功名とは違うけれど。
そもそもファンが追いかけなければこんなことになってない。
……いつも通りと割り切れない理不尽に、ちょっと涙腺が緩みそうになるラナだった。
「少――失礼。大佐、裏町で海賊が暴れているとの報告です」
「ハァ……? どうせ男ばっかだろ。テメエらで片付けやがれよ……」
「追われているのは十四歳程度の少年と少女だそうですが」
「カワイイのか?」
は?と目を丸くする部下に大佐はずいと詰め寄る。
「可愛い子ちゃんかって聞いてんだよ」
「容姿の方まではさすがに……しかし目を付けられるぐらいには綺麗なのかもしれません」
「ぃよし、出やがるぞ! 糞どもが、テメエら準備しゃーがれ!」
「はっ!」
俄かに慌ただしくなる詰所の椅子から立ち上がり、大佐と呼ばれた長身の男は唇を舐めた。
「くくっ……十四か。さて、どう言い包めてやがろうか……!」