こじゃれた細工の施されたドアを開ければ、入店を知らせるベルが鳴る。店内へ一歩入ったその時から、少年は別世界に迷い込んでしまったらしい。
広々とした空間に着飾った顔のない人形が置かれ、見栄えを求めて林立する棚には多彩な服が自己主張している。奥の方で巻尺片手に採寸を測る女性がいて、別の場では客の注文に応えテーブルへと衣類を広げる男性がいた。華やかに色とりどり、流行感に溢れた高級ブティック。場違い感も一入。
「いらっしゃい。何をお探し?」
両眼を輝かせ心奪われた様子の少女をよそに、所在なく佇んでいたところ、ちょっと背伸びをした年若いカップル二名へ、手隙の女性が声をかけた。
「あ、その……えっと…………ふ、服を買いに来ました!」
突然話しかけられて、慌てたらしい。服屋で服を買わずどうするのか。
発言の数秒後、言ってしまってから気づいたらしく、顔を赤くする。女性店員は敢えて深く突っ込まず、けれど微笑を深めて、「どのような服がいいのかしら?」と訊ねた。
少女の服は、交易船が来た時に買った流行のワンピース。買い換える必要は今のところない。対して少年は服装や身なりに無関心であることが丸分かりな、お下がりを更に着古した麻のシャツにズボン。あちこちほつれて、破れている。
「こっちの男の子に合うようなの、ありますか?」
「えー……これはまた随分汚ら――コホン。随分と古いご洋服ね」
「…………別に、困らない」
ああ、そうなの……と女性店員が肩を落とす。洋装店に務めるだけあって、服装をないがしろにされるのは寂しいようだ。
返ってやる気が出たようにも、見えたけれど。
「赤毛はまだしも、赤紫の髪と目は初めて見たわ。……そうね、せっかくだから赤系統で纏めてみましょう」
こちらへ、と案内される。弾んだ足取りでそれに従う少女の後へ、ゆらりと続く。
可愛い服、おしゃれな服。女の子の大好物ではあるだろうけど、ラナの様子はそれだけじゃないような気がした。
少しばかり、浮かれ具合が過剰なような。
自分をそっちのけで、女性店員と一緒にこれがいいあれがいいと話し込む姿を見れば、そんな考えも補強される。
「一口に赤と言っても様々な種類があって――」
「――無地がいいかな……それとも文字? 模様? うーん……」
とりあえず、選択権はないらしい。どうでもいいけれど。
暇潰しに、少年は店内へと旅立った。
そして十数分後。
「ラナ」
「ファン? ごめん、もうちょっと待って」
「…………これ、ラナに似合う」
「え、どれどれ?」
似合うと聞かされて少女は振り返る。少年が両手に持つ物を見る。
そのまま、凍りつく。
「…………かわいい」
ぼそりと批評し、それをぎゅっと抱きしめるファン。
いや。
否定はしない。可愛いことは全面的に同意する。
……が、しかし。
「あら、よく見つけたわね。店長が趣味で作った物なのよ? これまで買い手は付かなかったけど」
お買い上げになりますか?と訊ねる店員の目はからかいを含んでいた。
こくこくと少年は頷き、
「買」
「わない! 買いませんっ!」
「………………」
「そんな恨めしげな目をしたってダメ!」
ラナは大きく息を吸い込み、叫ぶ。
「私、そんな着ぐるみ(猫)なんて絶対着ないから――っ!」
「やだ」
にべもなく少女の反抗を切り捨てたファンがてってとレジに向かう。その前にラナが回り込む。
バチバチと不可視の火花が交錯し、店内は刹那の間に戦場へと移り変わった――――かもしれない。
「…………そこをどく」
「買っても着ないから、お金がもったいないの!」
「…………無理やり」
「その時は破る!」
「………………」
困った、とファンは内心で呟く。本気で嫌らしい。
かわいいのに。猫。
「…………分かった」
ほっ、と少女が安堵した様子で息をつく。
――その油断を狙うかの如く、ファンは続けた。
「破られるまでの間だけで、我慢する」
「………え」
何秒だろう。一分はない。でも仕方ないから、ラナが嫌がるから、その十数秒着てもらうだけで我慢しよう。
ラナは着たくない。自分は着てほしい。だからほんの少しだけ、着てもらう。
完璧な譲歩案だ、とファンは思う。まさに相互利益を鑑みた妥協案だ、と自画自賛してみる。
一秒だって着たくないという少女の希望は、考慮の内になかったが。ある意味、これも知識の偏りに違いあるまい。
少年の真剣さを感じ取った少女が再び表情を凍らせる。何というか、目がマジだった。大真面目にアレを自分に着せる気だった。
実際可愛い、とは思うけれど。それはそれ、これはこれ。もうすぐ十四になろうかという歳で着ぐるみはない。絶対ない。天地がひっくり返ろうとないったらない! 尊厳的に!
………じゃあファンを止められるかと言えば、それもまた別問題にして大問題ではあるけれど。
「ちょっと…待って、待って。ほ、本気なの?」
「ほんき」
無表情に少年が歩を進めた分だけ少女は後ろへ下がり、その背がレジカウンターにぶつかる。何だ何だと店内から視線が集まってくるが、それどころではない。これ以上下がれないのだから、猫に追い詰められたネズミの心境だった。
事実、少年の持つ白猫の着ぐるみが迫り来ているけれど。
「わ…私にだってプライドとか、そういうの、あるんだよ?」
「…………」
「そういう着ぐるみは子供が着る物で、私、子供じゃないから……」
「…………」
「ほ……他のことなら何でもするから、それだけはお願い……!」
ピタリ。
「…………何でも?」
ぶんぶん頭を振って肯定する。
それでも数秒、悩んだ様子を見せて、少年は踵を返した。遠くの棚に着ぐるみが納められ、ラナは全身で安堵し脱力。
おー、と何だかよく分からない拍手を浴びつつ、戻ってきたファンが耳元で囁いた。
「何でもする……ね?」
くふ、と。少年が笑ったような気がした。
背筋に氷塊が伝い落ちるのにも似た感覚を味わい、ばっと振り返る。
いつもと変わらない、夢見るような無表情がそこにはあって。けれど今の含み笑いが空耳でない証拠に、鳥肌が立っている。
何か、早まったかもしれない。“着ぐるみ程度”、一時の恥を忍ぶべきだったのかもしれない。
全ては後の祭りで、あるけれど。
ようやく決まった衣装を持たせて試着室に押し込み、閉じられたカーテンの前で、少女は薄暗い予感に力なく肩を落とした。溜息が出るのを止められない。
「なかなか愉快な彼氏さんね?」
「いえ彼氏ってわけじゃ……」
それに愉快なのは表面だけだし。皮一枚下は血が大好きな殺人嗜好者だし。
楽しげに微笑する店員さんに答えながら、ふと口ごもる。
彼氏と彼女ではないけれど。
なら自分とファンの関係は何だろう。
遠縁の親戚? 家が隣の幼なじみ? 友達? 家族? 恋人? 姉弟?
「……彼氏ってわけじゃないけど」
興味深げな店員のお姉さんを見上げて、自分でもちょっと迷いながら、出てきた答えに小さく笑う。
「恋人以上、友達未満…………かな」
「ふうん……? まあ、そんな風に笑えるなら大丈夫でしょうね」
「…え」
「ふふ。あなた、私の若い頃に似てるわ」
「……え?」
「無茶苦茶な、恋とも呼べない恋をしてるってこと」
がんばってね、と微笑む女性は長い亜麻色の髪をシニョンにして、スレンダーでありながら肉感的な身体をセンスの良い衣装で包んだ、どう見ても二十歳そこそこの美女。
ラナは思わず聞いてしまう。
「お姉さん……いくつですか?」
「女に年齢は聞かないものよ」
はぐらかしの決まり文句。片目をつぶったウインクに妙齢だからこその色香が漂う。――同性の少女でさえ、否、同性だからこそ見惚れてしまいそうな仕草だった。
将来、こういう動作が似合う大人になりたいな、と少女は素直に心を巡らせた。
ジャッとカーテンを開けて姿を晒した途端、へえとかうわぁとか、感嘆しきりの声と視線が向けられて、好奇の目をいうものを初めて経験したファンは居心地悪げな空気を作る。
「これは、見事な化けっぷりね……」
「……人って、ここまで変わるんだね」
失礼な言い草だった。誉めてるように聞こえるのは錯覚に違いない。
今一度、少年は自分の格好を眺めまわす。
袖が長く無地に真紅の上着は、フード付きのパーカー。迷彩柄を赤で染めたダークレッドのカーゴパンツが膝下ハーフ。靴まで新調されて、頑丈で真っ黒なブーツを用意された。軍からの流通品らしいそれを履けば、赤と黒でグラデーションを奏でる少年の出来上がり。
元より浮世離れした無表情も相まって、田舎臭さが完膚なきまでに打ち払われていた。
「カッコいい……はカッコいいけど、マフィアのボスの一人息子って感じかも」
うーんと顎に指を当てたラナの表現がツボにはまったらしい。衣装を見立ててくれたお姉さんがぷっと吹き出し口元を押さえる。肩が震えている。
そんなに、悪っぽいだろうか。ファンは瞬きを繰り返して、姿見に映る自分を上から下まで観察する。……分からない。そして肌触りが良すぎて落ち着かない。ペタペタ触って、納得いかない風に。
「どうしたの?」
「…………スースーする」
「……前のがごわごわしすぎだったんじゃ」
それが服ではないのか、というファンの間違った持論。口には出なかったけれど。
「じゃあお買い上げということでいいかしら?」
「はい、お願いします」
「えー……そうね。上着、肌着、ズボンに靴と。端数は切って……合計43万ベリーになります」
極上の笑みで告げられて、三度ラナが凍りつく。忘れるというか、二人は知りもしなかったことだけれど、ここは高級ブティック。素材がいい分、当然値は張る。
ギギギ、と錆びた機械のように少年を顧みて。
「……いくら、残ってる?」
「…………」
沈黙がその答え。足りないのは明白だった。
でも、ここまで決めたのに諦めるのは悔しい。値引きしてもらえないかと焦った心で考えるけれど、少年以上に経験不足な少女の思考は空回りの一途。どうしようどうしようと思う気持ちばかりが先行して、口を開けど言葉は出ない。
「持ち合わせがないの?」
「「…………」」
「ふふふ……それじゃ、仕方ないわね。ツケでいいわ」
「――ええっ!?」
一見さん。それもどう考えたって町の住人に見えない子供二人に貸し付けるなど、理解の範疇にない。
驚いた声で理由を訊ねるラナに女性は微笑むだけ。
「無利子無期限、気が向いたら返しに来てね?」
気前が良すぎる。訝しんだファンが問い質そうとするが、その前にあっさりと値札を切られる。さあさあ、と有無を言わさず店の外へ背中を押される。
「ブティック“仔猫の鈴”、今後ともご贔屓に」
にこやかに手が振られ、美女の姿はシックな扉の向こうに消えた。雑踏に取り残された形で、二人は顔を見合わせる。
「お礼……言いそびれちゃった」
「…………」
「うん、そうだよね。…また、来ようね」
最後に二人揃って看板に頭を下げる。すっと歩を進めて雑踏に紛れた赤い背中を追いながら、少女は振り返る。
「ブティック……服屋さん、かぁ……」
心の奥底で、一つのビジョンが像を結んだ。
やりたいこと、やるべきこと。
見つかったかもしれない。
「うふふ、ふふ、ふふふふふ……!」
「嬉しそうですね、キティ店長?」
「だって、私の作った着ぐるみ気に入ってくれたのよ? 今まで誰も買いたいなんて言わなかったのに!」
「……もっと小さい子向けのだったら売れますよ」
「それじゃダーメ。大人になりかけの、瑞々しく多感な年頃の子に着てほしいもの。……あのラナって女の子、彼がいなかったら誘ったのに。…………いえ、いっそ彼もいっしょに誘えばよかったかしら。見目も悪くなかったし、若い雄しべと雌しべを同時に摘むのも美味しそう……」
「…………」
人気ブティックを纏め上げる店長の“趣味”に、真っ当な神経を持つ男性店員は全身で溜息を吐く。
アタックしたら一蹴されるだろうな、と胸のしこりを噛み締めながら。
洋装店を出て、やることも尽きた少年は、手を繋いだ少女と共に当て所なく町を巡っていた。
その足が、ピタリと止まる。前方から我が物顔でのし歩いてくる一団に足を止める。
十数人程度の海賊たち。先頭のドクロマークを付けた大柄な男が、船長のようだった。
航海で成功したのか、上機嫌で笑い合っている。手の平に少女の怯えを感じ、他の通行人たち同様、脇へどいて道を開ける。
すれ違う瞬間、ふっと香りが漂うように気配を感じ、少年の目は船長の背負う袋へ吸い寄せられた。
ドラゴン程に巨大ではなく、イナズマのように洗練されてはない、けれど濃密に脈打つような“気配”。
今まで能力者に対し感じていたものを、この時、ファンははっきりと自覚した。
「悪魔の……実……」
え?と窺うようなラナの言葉は、もう聞こえていなかった。
ゆらり、と。少年は海賊たちの背後に、続いた。