ざわめく喧騒は全周から聞こえてくる。右も左も、前も後ろも。張り上げた声が上に抜け、下はゴロゴロと荷車の転がる振動が靴を貫く。
「「…………」」
風景に。人と人とが言葉を交わし、売り買いに勤しみ、噴水のある広場ではジャグラーがパフォーマンス。賑やかな音楽を奏でる演奏家を人垣が囲い、それに合わせて踊り子が舞い、人々が囃し立てる。そんな全てに、最辺境の島で育った二人は完膚なきまでに打ちのめされた。カルチャーショックだった。否、ショックなど生易しすぎる。まさしくそれは文化的大革命だった。
「町の人口はざっと一万。海軍の監視は緩いが、通報を受けてからの行動は迅速。この町では余計な騒ぎを起こさないことを条件に、犯罪者の出入りがある程度容認されている。……聞いてるか? 特にファン」
「……………。……………?」
聞いていなかったことが丸分かりの反応を受け、顔を隠したフードの内で嘆息を零すドラゴン。赤紫の双眸はいつもながらに眠たげだが、どことなく浮ついた様子が垣間見えた。
「……ここでは何か揉め事を起こせばすぐに海軍が飛んでくる。町の自警団もいる。殺したり盗んだり住居へ不法に侵入したり、犯罪行為は一切禁止だ」
「…………革命は国家反逆罪」
揚げ足を取るなと頭を小突く。ここの所知識(常識)が増えてきたのはいいが、妙に偏っていたりするから油断ならない。少女の隣で頭を押さえ、物凄く不満そうな気配で見上げられればその思いも一層強く。そわそわと落ち着きのなかった雰囲気も五割程減じ、楽しみの半分が奪われたというような顔。
「海軍に追われるような真似さえしなければ、それでいい。合流時間と場所は覚えているな?」
「はい、大丈夫です! ……けど」
「何だ」
「……この町、貴族はいるんですか?」
ドラゴンは思わず少女を見る。繊細な面立ちに浮かんだ翳りを見る。
「……いや、ここは市民による自治が確立されている。貴族も王族もいない」
だから安心しろ、とは言えないが。実際に行為に及ぶ輩は少なくとも、海賊やその手の人間は多い。……ファンがおかしな方向に突っ走らなければ大丈夫だとは思うが。誰にとっても。
ほっと息を吐く少女にドラゴンは続け、
「俺は仲間と会う約束がある。いいな、くれぐれも問題を起こすなよ」
「はいっ! ファンは私がしっかり見ておきますから。それじゃ、行ってきます!」
「……ん」
半ば引きずられる形で眠たそうな少年が歩き、黒髪の少女の好奇心が赴くまま町へと繰り出した。二つの小さな背を見送り、脈絡なく生じた不安をドラゴンは嘆息で押し流す。雑踏溢れた表通りから薄汚い路地の入口へ、仲間と落ち合う予定の場所へと足を向ける。
……その不安が的中するとも知らず、革命家は行く。
早い話。
自ら問題児と評したファンが、何も問題を起こさない方がおかしいのである。
目で見る全てが新鮮という感覚は、なかなか味わえる物ではない。夢の中を歩くような少年も、心なしか弾んだ足取り。手を繋いだ少女と二人して、田舎から出てきたおのぼりさんそのものだ。きょろきょろと新しい物を発見しては表情を輝かせる様子に、誰の目も微笑ましげ。
まさかこの二人が革命軍預かりとは誰も思うまい。
「え……っと、まずはどこに行くんだっけ?」
「…………換金屋」
「……どっち?」
「あっち」
てくてくと少年に先導される。しっかり見ておくはずが、早くも面倒を見られている。
「ファンって要領よすぎ……」
「……そう?」
そう。既に町へ馴染んでいるような気がひしひしする。
自分一人なら迷いそうな道を幾つか過ぎると、壁に直接カウンターを取り付けた換金屋が埋もれるように建っていた。
「換金……お願い」
眼鏡を掛けた人相の悪い店主が、愛想の悪い態度でじろりとこちらを睨む。ラナはそれだけで委縮してしまうが、この程度で今更ファンが怖気づくはずがない。
ずだ袋を探り、取り出したのはエメラルドの嵌まった金細工。島を襲った海賊船の中に積んであった宝物。似たような宝は他に幾つも見つけて、船に乗せてもらう対価としてドラゴンに差し出したら突っ返された。受け取る理由がないと。それは君たちの物だと。
見た目は厳つくて怖いけれど、くまさんと一緒でいい人だと思う。見た目は二人とも怖いけど。イナズマさんは奇抜すぎるけれど。
老年の域に差しかかった店主が金細工を手に取り、全体を眺め回し、ふんと鼻息を吐く。
「10万ベリーだ。保存が悪い」
「……え? でも4、50万ベリーはするって聞いたのに……」
「そらそいつの目が節穴だったんだ。嫌なら帰れ」
船の上で、ドラゴンに目利きと紹介された人だから鑑定眼は確かなはずで。
なら、この人が間違ってる……?
「…………」
いつものようにいつもの如く、表情を変えないファンがカウンターを指で叩く。
コツコツ……コツコツコツ……コツ。
「明日の天気は……嵐のち、快晴。所により、突風」
途端、ぎょっとしたように老店主が目を見開いた。カウンターから乗り出さんばかりに覗き込まれ、ラナは少年の後ろに隠れる。
「……そうか。なるほど、なるほど……」
ぶつぶつと何事か呟いたかと思うと、また椅子に座り直す。そして言う。
「47万だ」
「…………ん」
え?とラナが思考停止する間に細工物と札束が交換された。おもむろに老店主が新聞を読み始め、無愛想な顔が向こう側に隠れる。
「…………行くよ」
「あ、うん」
後ろ髪を引かれるような困惑を残して、何度も振り返りながらファンの後ろを歩いた。
角を幾つか曲がった後で、ファンの側から口を開く。
最初の10万ベリーは足元を見られたぼったくり。その値段で自分たちが納得すれば向こうは大儲けだけど、仲間の紹介を受けてまで騙すような真似はしない。次に提示された47万が正しい価値だ、と。
「仲間って……」
「あの人………革命軍」
微かに息を呑んだ音が自分でも聞こえ、少女は唇を噛む。
これじゃ一から十まで、少年に頼り切っている。町に行けると聞いて、自分は楽しみにしていただけ。けれど赤紫の少年は、そこでやらなければいけないことを事前に調べて、訊ねて。知らないを道を知ってるように、吹っかけられても大丈夫なように、事前の準備を怠らなかった。
いけない、と思った。それじゃダメ、と呟いた。少年が一瞬こちらを見て、すぐに前を向く。自分とほとんど変わらないはずなのに、その背中はなぜか大きく見える。
ドラゴンや、亡き父の後ろ姿と重なる。
それは――少年が自立の道を歩き始めたからかもしれない。
書物や外の知識は島にいた時から心惹かれていたらしかったけれど、最近はそれに輪をかけて貪欲だった。暇さえあれば本を開いて、誰かの話を聞いている。独りで生き抜く用意を、始めている。
自分は……どうだろう。前へ進み始めた少年と比べて、自分はどうなのだろう。
「……たっ!?」
物思いに耽っていたら、誰かとぶつかってしまった。迷惑そうな顔の男性に謝り、いつの間にか少し距離の離れていた少年を追いかける。追いついた途端、手を握られる。
ドキリと心臓が跳ねた。少年はさっきの老店主に負けず劣らず無愛想で、でも繋いだ手は暖かかくて。
いつもは強引で理不尽なくせに、こんな時だけ優しく握られる。
夢見るような横顔は何を考えているか分からないけれど、何を感じているかは、自然と察してしまう。
「……」
少女は、黙って指を絡める。離れないよう、離さないよう、指を絡める。
――まるで、恋人のように。
ホテルの一室。カーテンを引き鍵をかけた密室。
琥珀色の液体を傾けたドラゴンが、静かに嘆息を零した。この一週間で溜息が癖になったとさえ思うほど、回数はいや増したと自分でも思う。
「ヴァナタが溜息なんて、珍しいこともアッティブルわね? ドラゴン」
「少し……いや一人、扱いに困る少年がいてな。何らかの対処をせねばならんのだろうが、今しばらく様子を見るべきかどうか……」
「扱いに困る? ヴァナタが?」
「不思議そうな顔をするなイワンコフ。俺に子供相手の経験があるとでも、本気で思ってるのか?」
「さあ、どうかしら。でもヴァナタの年齢を考えると、子供の一人や二人いたところでおかしくナッシブル」
「……」
ドラゴンの内心を表すように、ブランデーの上を波紋が走る。しばし波紋を眺め、やおら一息にグラスを干し次のビンを開ける。外見からは想像不能な思慮深さで、オカマ王がそれ以上言及することはなかった。代わりに、別の話題を振る。
「革命軍の同胞も、随分たくさん捕まったわ」
「……ああ」
「中には準幹部クラスの人間も幽閉されティブル。今後もインペルダウンには囚人が増えるでしょうし、ヴァターシもそろそろ動き辛くなってきた」
「…………」
「何が言いたいか、分かっティブルわね?」
「…………ああ」
海のように深く、そして重い吐息のような返事だった。
それきり、会話は途切れる。言葉は交わさず、一人の男と一人のオカマは互いのグラスへブランデーを注ぎ、酒を酌み交わした。
こんなにはしゃいだのは、多分、人生初めてだ。抱いた物思いを振り払うように、自ら先だってファンを連れ回した。
年中並んでるのだろう料理や遊戯の露店を、両手の指では足りないほど巡った。知らない味に少しづつ舌鼓を打ち、ファンと張り合って的当てや輪投げに白熱したり(ダーツとか言うゲームは完敗したけど)、とにかく歩いて思いっきり笑って。
「はー……」
疲れた。
噴水が飛沫を噴き上げる広場のベンチに座り込み、その横に紙袋いっぱいの荷物を置く。表現としては、落とす。
視線の先で、ファンがぐるぐる投げ上げられては落ちてくるジャグリングを観……察?していた。何となく、見物じゃないような気がした。かと思えばゲームの景品で貰った無意味なおもちゃを取り出し、ひょいひょいとジャグリ始める。おお、とどよめきが上がる。直後、慣れないことをするからかキャッチし損ね額に当たり、次々と直撃し笑いが弾けた。何やってるんだか。
「……島の外って、こんな風なんだ」
世界の広さを、実感した。その実感はきっと、まだまだちっぽけなのだろうけど。
遠くに来た。島を離れて、こんな遠くに。
海の上では分からなかったけれど、ここまで来て初めて、異邦を感じた。
「……」
見慣れぬ風景に郷愁が生まれ、胸を締め付ける。楽しいはずなのに苦しくて、胸を押さえる。
島に石畳はなかった。地面は全部土だった。二階を超える建物はなく、空はもっと広かった。熱のこもった人いきれは初めてで。けれど島の空気は、もっとずっと涼やかで。
何もなくたって、島の生活は楽しかった。幸せだった。目が回るほどの品がなくとも、輝いていた。
……あの赤い夜に、何もかも消えてしまって。
「…………ラナ?」
はっ、と意識が現実に引き戻される。人の焼ける臭いと逃げ惑う悲鳴が遠ざかる。
赤紫の少年が、そこにいた。光の加減で、赤から黒まで色を違える瞳が見つめていた。
訝しげな気配に何でもないと答えかけて、硬直する。少年は、串に刺した焼き魚を一本ずつ、両手で持っていた、味付けのレモンが半切りにされて、先端を飾っている。
「それ……」
「売って、た。……買って、来た」
はい、と一尾を渡される。半ば無意識的に受け取る。隣に座ったファンが早速かぶりつき、魚の脂が石畳に滴る。美味いとも不味いとも言わない、けれど。
「…………」
黙ってラナも、口を開けてかじりついた。口腔から鼻腔へ、味が抜ける。
「………………あは、はは………」
まだ、一週間。遠くへ来たと思っていたけど、実は違ったのかもしれない。
口いっぱいに、島で食べた魚と同じ味が広がる。何てことはない味なのに、ひどく懐かしい。
同じ魚だから、同じ味なのは当たり前で。
西の海全域を周遊する魚だから、ここで釣れてもおかしくない……けれど。
「何で……こんなに、ピンポイントなのかな」
「?」
もぐもぐと咀嚼する様子は何も分かってない様子で。
何も分かってないくせに、ファンが選んだのはこの魚。単に食べ慣れてるとか、そんな理由で買ったのだろうけど。
それでも、今この瞬間。自分が島を思い出している時に、島で主食だった魚を狙い澄ましたように買って来た。
実は心が読めると言われても、今だけなら驚かない自信がある。
「……ありがと、ファン」
「…………どういたしまして」
絶対に、ファンは言葉の奥に秘めた意味を分かっていない。すれ違った感謝と応答。それがおかしくて、ラナはくすくすと笑う。
「ねえ」
視線だけで応えとした少年に、提案した。
「これ食べ終わったら、服買いに行かない?」