――火。
赤い空に星が燃え、黒い煙に穢れる風。
あの夜を忘れられる日は永遠に訪れない。家族を亡くし、故郷を失くした。何もかもが燃えて灰と散る世界は、写真よりも残酷な鮮やかさでまぶたの裏に焼き付いている。
――死。
父はラナを逃がそうとして斬り殺され、父を殺した男はラナを引きずって行く途上で赤紫の少年に殺された。見知った人々の遺体を無造作に炎が舐める中、島を襲った海賊たちまで呆気なくその葬列に加わる様は、まるで出来の悪い喜劇を見ているよう。
――違。
死。死ぬ。みんな死んだ。父が死んだ。海賊が死んだ。家族同然の村人も、好き合っていた男の子も死んだ。地獄の門が開くほどに死が近すぎた。生きている自分が不思議でならなかった。生者こそがそこでは間違いだった。
――喜。
だから赤紫の少年はあんなにも喜んだ。命の輝きを死の十三階段に捉えてしまう少年は、間違った世界で初めて産声を上げた。きっとそれまでは生きてさえいなかった。死に囲まれなければ生を知ることもできない心に生まれついた。
ラナには死が近すぎて。
ファンは死の中で生を見つけた。
赤紫の少年の目に、だからこそラナは太陽のように輝いて見えたのだろう。
今ならそうと理解できる。普通の恋と言えなくても、それは一目惚れに近い物だと、少年を深く理解した今なら分かる。
でも、あの時は分からなかった。
小さい頃から知っているはずの幼馴染が、楽しげに人を殺して回ったのだ。
気が触れたかと思った。
悪魔に憑りつかれたのかと思った。
知っているはずの少年が、化物にしか見えなかった。
……だから身体を求められた時も、抵抗しきれなかった。
だって、怖い。怖くて、恐ろしくて、たまらない。
恐怖と脅威は似ているようで違う。村でラナを連行しようとした海賊も、初めて行った街で襲ってきた海軍将校も、その意味ではファンよりずっと下だった。強さは関係ない。見えないお化けを怖がることに似ている。ただそこに存在しているだけで恐ろしい。
怖いから、死を振りまく少年の手に身を委ねた。
初めての痛みと僅かな快楽だけが、恐怖を忘れる唯一の逃げ道だった――。
……本当の話だよ。怖かった。あの時、ファンのことは好きじゃなくて、ただ本当に怖かっただけ。だって私、付き合ってる男の子がいたんだよ? ウソじゃない、ファンも知ってる。シュリオっていうの。すごく優しくて、ふんわりしたお日様みたいな人だった。死に目には会えなかったけど、顔が泥に埋まって焼け残ってたから、見分けは付いたの。一生懸命運んで、お墓に入れて……すごく苦しそうな顔で、私を見てた。土をかける時、手が震えて、なかなか、顔にかけられなくて……でも、ちゃんと、かけたよ? この手で、ちゃんと、埋めて、埋葬してあげることが、できた。
……どうして、って思った。どうしてシュリオは、そこにいるの? どうして、隣にいてくれないの? どうして今私の肩を抱いて慰めてくれるのが、シュリオじゃなくてファンなの? って。バカみたいだよね。そんな風に、本気で思ってたんだよ? 悪魔の実を食べたのがシュリオだったら、あの優しいシュリオだったら、人を殺すことも怖がって、戦うなんてできっこないのに。ファンだから皆殺しにできたの。……普通はそんなこと、できないよ。
……アゼリアさんにもドラゴンさんにも、ファンに犯されたって話はしてない。必要なかったし、ファンが怖かったから。でもいつからかな。怖い気持ちがくるっと裏返って、その怖さもファンの一部だって思えるようになって。……気付いたら、好きになってた。自分が変な子だって思った。無理やりキスされて、裸にされて、犯されて……心臓を握られて殺されかけたこともあるのに、わけ分かんないよね。でも、助けてくれたの。慰めてくれたの。隣に居てくれたの。私には、私にも、ファンが必要なの。
……だからね、エルの事情を知っちゃって、嫌だけど、ホントは嫌だけど、いいよって言ったんだよ。エルにもファンが必要だって、嫌なくらい分かる自分が、それこそ嫌なんだけど……。うん、それで何が言いたいかっていうと……ずるいなぁ、って。
……ずるい。ずるいよ。うん、ずるい。ずるい、ずるい、ずるい。嫌だよ、何で居るの? 何で私とファンの間に入って来るの? 何で私とファンの時間を取るの? 無理やり犯されたわけでもないくせに。殺されかけたのも自業自得のくせに。恋人がいるって知っててキスするとか信じられない。ねぇ、何で? なんでそんなに幸せそうなの? 初めてのキスも初めての恋も初めての夜も全部好きな人に捧げられてよかったね。全部エルの望んだ通りだもんね。――気持ちを伝え合って二人きりのベッドで初体験? 何それ。私は外だったよ。ついさっきお父さんが目の前で殺されたばかりで、村は全部燃えてて、死体がそこら中に転がってて、人間の焼ける臭いが纏わりついて離れない! ……ねぇ、どう思う? そんな時にそんな場所で犯された私がどんな気持ちだったか分かる? 分からないよね? 分かるわけがないよね? 最悪のシチュエーションでレイプされたのも好きになったからいい思い出になりました、めでたしめでたし? そんなバカな話ないから。ファンには言わないけど、絶対忘れない。それだけは恨んでる。で、何? 恋人の私を差し置いて、何でエルだけ幸せな初体験してるわけ? 意味わかんない。ねぇ、何で? 何で? 何で?
――答えてよ、エル。じゃないと――――
・
・
・
少し時間をさかのぼる。
赤紫の少年が昏々と眠り続け、その隣で海軍大将がいびきをかいていた頃。
「……い、いないな?」
できるだけ身を縮めながら(それでも翼のせいで目立ってしまうが)エルは食堂の入口から中を窺った。
朝餉である。日に三度の楽しみに舌鼓を打ち、多くの人間がやれ上司がどうの、仕事がこうの、政府が海賊がと歓談に忙しい。口論が行き過ぎて掴み合い一歩手前のテーブルまで見受けられたが、その光景も常態化しているらしく止める者はいなかった。
慎重に目を走らせ一人一人顔を確認する。エルは眼が良い。混在化した悪魔の実は半人半鳥の肉体にも確かな恩恵を与えてくれる。猛禽の眼ならば容易い作業を瞬く間に終え、大きく安堵の息を吐いた。
居ない。物陰にも机の下にも見当たらない。
「鬼の居ぬ間に……なんだっけ」
呟きながらそそくさと並んだ。人の列は長いが、厨房側も慣れた様子でどんどん消化していく。ほどなくエルの番が回って来た。
「はいお嬢……ちゃん? ん? 見ない顔だけど、まあいいさね。中で食う、それとも外?」
「そ、外で! 急ぎで頼む!」
「はい外食一つ。今日は炒飯の握り飯に野菜炒めとリンゴが二分の一カットね。食器は洗って返すんだよ」
簡素な籠に料理が詰め込まれるのももどかしく、そわそわと足踏みしてしまう。無料で支給される一人前程度では正直物足りないが、贅沢は言ってられない。そもそもまだ一度も仕事をしていないエルは追加料金どころか一文なしだ。
籠を渡してもらい、礼もそこそこに出口へ向かった。こんな密閉空間からは一刻も早く出なければならない。
そう。
「見つかる前に……って考えてたんだよね?」
「ひぅッ!?」
ぽん、と肩を叩く感触に喉が干上がった。ギギギ、と錆びついた機械のように後ろを見る。
「ラ、ラナ……ふ、ふん。きき奇遇だなっ!」
「ううん、奇縁でも偶然でもなくて必然だよ? 夜明けから逃げ回ってお腹ぺこぺこのエルが、朝ご飯の匂いにつられないはずがないもん」
にこにことラナは天使のように微笑んでいる。だがその手は万力のようにぎりぎりとエルの肩を締め付けにかかっている。
「そ、そうか。は、ははは」
「ふふ。ふふふ」
「ははははっ…………うわぁあああああああああっ!!」
「ふふふ逃がさないよ?」
脱兎。脇目も振らず駆け出す。精一杯翼を畳んで人とテーブルの間を走り抜けるが、混雑に邪魔されて速度が乗らない。
決死の思いでエルは跳躍する。人の頭と天井までの狭い空間に身を躍らせ、瞬く間に人身から小さな猛禽に姿を変える。
周囲がどよめいた。知識で知ってはいても、悪魔の実の力を目の当たりにする機会は戦闘職でもなければなかなかない。ざわめきと好奇の視線に晒されながら、エルは空中で籠の持ち手を鷲掴む。鋭く羽ばたき、一直線に開け放たれた出口へと飛翔する。
ちらと後ろを顧みればラナも人ごみに負けてなかなか進めていない。エルは口の端を吊り上げた。勝った。いくら鬼姫なんて二つ名を頂戴していようと空はエルの領域だ。追いかけて来れるはずがない。くっくっく、はははははっ、見たかラナ! 追いつけるものなら追いついてみろ!
出口を潜る直前、ずんぐりした巨体に進路を塞がれるも見事なターンで回避を決め、丸耳の付いた帽子を掠めてエルは自由の空へと飛び立った。
「あ、くまさん。その子捕まえてください」
「……容易い」
わっし。
「ピィイイイイイイイイ!?(何ぃいいいいいいいい!?)」
・
・
・
じたばた暴れる鳥をラナに引き渡し、くまは司令塔に足を向けていた。
当初こそ必死な面持ちであった鳥だが、少女の手の中でにっこり微笑みかけられた途端凍りついたように動きを止め、そのままいずこかへと運ばれていった。去り際に「たっぷり“お話し”しようね♪」というラナの囁きに、末期の痙攣のごとく震えていた理由は謎だ。
岩盤をくり抜いた革命軍中枢へと入り、くまは階段を登る。道中、なぜか慌ただしく行き交う者らに首を捻りながら、開け放たれたままの司令室に踏み込んだ。
壁に等身大の穴が開いていた。それも二つ。
「……」
ぐるりと首を巡らせれば、アゼリアは床で目を回し、イナズマは引っくり返ったテーブルの下敷きになり、ドラゴンは書棚から雪崩れ落ちた書物に埋もれていた。
「……」
のっしのっしとアゼリアを跨ぎ、イナズマの上のテーブルを取り払い、書物の下からドラゴンを発掘する。引きずり出したところで刺青顔の目が開く。
「む……ああ、くまか。よく来た」
「よく来た、ではない」
何だこれは、と部屋の惨状を視線で示す。
ドラゴンは疲弊した表情を取り繕いもせず、立ち上がって服のほこりをはたいた。
「端的に説明するなら、自業自得と、とばっちりと、因果応報といったところか」
「省きすぎだ。俺を呼んだことに関係あるのか?」
「あるな。大いにある。これはまあ、ラナが暴走した結果だが」
ぴくりと鉄面皮どころか鉄仮面の眉を動かす。
「待て。ファンならば理解できるが、あの品行方正を絵に描いたようなあの少女がこれだけの被害をもたらしたと?」
「ああ、ラナが周りからどのような認識をされているかよく分かる台詞だな」
一夜貫徹の名残である無精髭を撫でながら、疲れ切ったようにドラゴンが溜息を吐く。
「普段の様子だけ見ていれば想像も付かんが、状況が状況だ。“非常識”に傾くのも理解できる。そして俺に責める資格もない。……いや、愚痴をこぼしている場合ではなかった。南の海の一件は聞いたか?」
「道すがら多少は。だが細部は不明だ。海軍に包囲されて、結局どうなった? 危機を打開するため非常手段を取ったとだけ聞い……非常手段?」
出そろっていたピースが自然と組み合わさり、くまの頭の中であまり想像したくないパズルが出来上がってしまう。
ラナが関わって非常手段に該当する項目というか人材が一人しか思いつかない。
「……ファンはどこにいる?」
「それを俺も知りたいと思っているところだ。探れるか?」
「容易い……とは言えないな」
赤紫の少年とそれほど交流があるわけではないが、その反則的な能力は聞き知っている。主に目の前の男から愚痴混じりに。
「でだ、散々に現場を引っ掻き回すことで支部の人間は脱出できたが、肝心のファンが未だに帰らん」
「それが自業自得の正体か」
「俺は因果応報だ。騒ぎを聞いて駆け付けたイナズマが二次被害のとばっちりだ」
呆れて声も出ない。アゼリアが自業自得なのはいつものこととして、イナズマにまで類が及ぶとは。
「くま。お前を呼んだのはラナが暴走した――現時点で暴走中の原因を解決してほしいからだ。ファンさえ戻るか、せめて安否確認でもできれば多少は落ち着くだろう」
「手がかりは」
「ない。報告を聞く限り、青雉を足止めするためにわざわざしんがりを願い出たらしい。今のファンではまず勝てんが、変な所で律儀だからな……。状況を見るに足止めだけは成功させ、船を無事逃がしてのけたのだろう。つまり、青雉を巻き添えにどこぞへ飛んだ可能性が高い」
あり得る――というより、青雉を足止めできる手段などそれ以外に思い浮かばない。
“飛ぶ”と一言で済ませたが、その実態は“テレポートみたいな何か”としか表現し得ない詳細不明の現象である。この瞬間移動能力を有効利用できないか大真面目に検討したらしいが、波の回析でも波及効果でも説明できず、ドラゴンでさえ匙を投げた結果に終わっている。
ただ断言できることが一つ。
――能力者本人以外の転移は、危険である。
一度や二度短い距離を飛ぶぐらいなら問題はない。実験がそれを証明している。だが三度、四度と繰り返していくと、不思議な現象が起き始めた。
まず、実験に付き合ったエルの居場所が意図した転移先と少しずつズレていった。飛ぶ瞬間には間違いなくファンの肩に置いていた手が、消失から出現の過程でなぜか離れてしまい、二人の移動先が僅かに狂った。それは回数を経るほど大きくなり、ついにはエルが気分の悪化を訴えた。
そして、それだけではないのだ。目撃したドラゴン自身、最初は見間違いではないかと疑った。その疑念は実験の後半に確信に変わり、確信は恐怖へ転じた。
――エルの姿が、ブレて見えた。まるで映像電伝虫の映す画面が崩れかけた時のように。
――あるいはエルという存在が、ほんの一瞬、二つに分かたれてしまったかのように。
ドラゴンが実験の中止を宣言するのと、エルが体調悪化を訴えたのが、同時であった。
続けていたらどうなっていたのか、想像するだに恐ろしい。
能力者本人であるファンには何の異常もないことから、同行者の肉体的な限界か、ファン自身の能力的限界だろうと目されている。ただ、二度と実験する気はないと、世界最悪の犯罪者が薄ら寒そうに漏らしていたことを、くまは覚えている。
果たして本当に青雉を巻き添えにして長距離転移をやらかしていた場合、青雉本人に異常は出たのか、興味はあるが、今の時点では余禄に過ぎない。
ドラゴンも似たようなことを考えていたのだろう。思いを巡らすように遠くを見ていた視線が、くまへと向けられる。その口が、話を戻す。
「未だファンが帰らないことから……考えたくはないが、死ぬか、捕まるかして帰るに帰れない状況なのだろう。青雉の能力を考慮すれば即座に殺された可能性は低い。捕縛されたのなら移送中に奪還の目がある……が、あいつのことだ。檻の中に入っていても何をしでかすか、全く分からん」
「案外、青雉と打ち解けているんじゃないか」
「……どうだかな」
肩を竦め、さりとて否定せず、ドラゴンが窓の向こうを見る。青空が広がっている。その下に少年はいるのか、いないのか。分からないが、目の前の男が見捨てるという選択肢を、端から放棄していることをくまは察する。
頷き、くまは踵を返した。自分の能力では、探すだけでもやや時間がかかる。無駄骨に終わる可能性もあるだろう。だが“暴君”とよばれるくまもまた、見捨てるという選択肢を持っていないのだ。早く動くに越したことはない。
しかし、部屋を出る間際、ふと足を止めた。
「ドラゴン」
「何だ」
「あんたが――アゼリアとイナズマもだが、たとえ手心を加えたにしても、ラナ相手に気絶させられるのは腑に落ちん。何があった?」
「…………」
ドラゴンが沈黙した。長い沈黙だった。ふっ、となぜか虚ろになった目が再び空に向けられ、なぜか菩薩のように安らかな表情で、なぜかカタカタと震え出す。
「……聞くな」
「……そうか」
知らない方が幸せなことも、あるのかもしれない。
電伝虫が鳴ったのは、そんな時。
・
・
・
――そして場面は回帰する。
カーテンを閉め切った部屋はそれだけでも薄暗いが、今は瘴気さえ漂うように感じられてならない。見慣れた部屋の様子が魔界にしか見えないあたり、いやはやこの世は全く不思議である。
「ねえ……エル。ちゃんと聞いてる?」
……うん、そろそろ現実逃避をやめなければ物理的に抹消されそうだ。いや生存本能は相変わらず逃避を訴えかけているのだが、どうにもこうにも逃げられそうにないあたりこの世は無情だ。
エルはゆっくりと息を吐く。両手は縛められてベッドの枕元に縄で繋がっている。それだけなら力尽くでなんとでもなるのだが、腕をがっちり拘束しているのはファンでさえ逃げられなかった海……なんとかいう例のあれだ、あれ。なんだっけ。まあいい。
名前も忘れた石ころの枷より、馬乗りになって腹の上に跨るラナの方が百万倍重要だ。人間形態に戻らなければ一枚残らず羽をむしるという脅しに屈したのがまずかった。……だが、しかし! 能力を封じたところで勝ち誇るのは早いぞ小娘! キサマの細腕に私の頑強な肉体を突破できようはずがない!
――だからほら、能力者でもないはずラナの長い黒髪がぬらぬらと蠢いているように見えるのは気のせいだ。こちらを見下ろす瞳がなんだか妖しい紫色に光ってる気がするのも目の錯覚だろう。ましてやどろどろとした瘴気を振りまいて、ただでさえ薄暗い部屋を暗黒に染めるような人間離れした所業を行えるはずがない。ないったらない。
「だからさっさとこれを外せ!」
「……エルって、馬鹿だよね」
視線に憐憫が混ざった。おい、やめろ。私をそんな目で見るな。
「というかこの石ころはどこから持ってきた」
「海楼石のこと? ドラゴンさんの部屋に転がってたよ」
ああ、そう言えば昨日、ファンを捕まえておくのに使ったな。ちゃんと片付けておけ責任者。
「そんなことより――さ。そろそろ、答えてくれないと酷いよ? 酷いことになるよ? 容赦しないよ、ホントだよ?」
「答えろと言われても、結局お前が何を知りたいのかよく分からん」
かり、と。万歳したまま動けないエルの喉元を、細い爪が引っ掻いた。それは、虫に刺されて痒いから掻いた、という程度の力加減だったが、場所が悪い。頸動脈が近い――いや、たかが人間の爪、焦る必要はない。エルの柔らかそうな皮膚は喉さえも強靭な筋肉を隠し持つ。刃物だろうがそう易々と通しはしない――なのに、じわりと、背筋を濡らす冷たい汗。腹に乗っかった少女一人、能力を封じられようと屁でもないはずの加重が、何倍にも増したかのように思えた。
「……分からない? 本気で言ってるの、エル」
「ああ、全く分からん。本当は嫌だとしても、一度は私を容認したお前が、なぜ今更こんな真似をするのかが」
単純に、ファンが帰って来ない不安からの八つ当たりなら、理解できなくもない。心の安定を保とうとした結果の暴力なら、エルも身に覚えがある。
だが、これはもはや、呪詛だ。吐きかけられる言葉が、呪いの如くのしかかって来る。
これが嫉妬なのだろうか。妬ましいという気持ちなのだろうか。
それはまだ、エルには理解できない感情だ。途方もなく長い時を野生で過ごしたエルにとって、男女の関係とつがいの違いは、よく分からない。雌は強い雄に群がるものだし、強い雄は往々にして多くの雌を求めるものだ。だから、赤紫の少年が自分を求めてくれるか不安に思うことはあっても、その隣に居た黒髪の少女がここまでの拒絶反応を示すなど、想像どころか目の当たりにしても理解しがたい。しかも一度は受け入れている。昨日だって普通に会話が出来ていた。エルからすればラナの態度は豹変と言うほかなく、余計に訳が分からない。
「不幸自慢をしたい訳じゃないんだろう? 意に添わない形で犯されたのが嫌だった、というのは同じ女として理解できる。だがそれは私じゃなくファンに言えばいいだろ。自分の非を認めないほど狭量な男じゃないぞ、あいつは」
「そうだね。今のファンなら謝ってくれると思う。でも、そんなこと聞いてないよ。――ねぇ、エル」
ぞわり、ぞわり。寒気が強くなる。瘴気が濃くなる。
「エルがずっと一人ぼっちで、辛くて寂しい生活をしてきたのは知ってる。ファンと色々あって、結局好きになったのも知ってる。アゼリアさんの能力でエルの過去を見せてもらったから、私は多分、ファンよりエルのことを知ってるんだよ? だから私、エルのことが許せた。許したくなくても、痛いくらい気持ちが分かっちゃうから、嫌でも許すことが出来たの。私はファンが好き。エルもファンが好き。ファンは欲張りで、エルは一直線で、私は同情して折れちゃった」
ぞっとするほど冷たい手の平が頬を撫で、ゆっくりと両手で挟まれる。
「けど、ファンが決めたことだから、もういいの。私はファンのものだけど、ファンは私のものじゃないから。知らなかった? そうだよ。一方的なの。殺されてもいいぐらいファンが好きだから、私はそれでいいの。惚れた弱みっていうのかな? それともやっぱり、ファンに壊されちゃったから、こうなのかな? まあどっちでもいいけど。困らないし。私がファンの恋人なのは変わらないし。――でも、じゃあ、エルはどうなの?」
「なに……が」
「エルは、ファンの恋人なの?」
……恋人?
自分と、ファンが。
恋人?
「……違うと、思う。確かに、あいつは私を受け入れてくれたし、子を持つとも言った。でも私とファンの関係は、お前とファンの関係とは、全然、まったく……違う、はず」
「じゃあ、夫婦?」
「そんな風に聞くな。簡単に言葉にできたら苦労はせん。……私だってまだ始まったばかりで手探りなんだ」
「でも、好きなんだよね」
「それは否定しない」
「そっか。――じゃあやっぱり、許せない」
声色が不意に嵐のような黒雲を帯び、わけが分からなくて、エルは呆然とラナを見る。
「お前、さっきは許すって……」
「昨日、言ったよね。ファンが出発する前に。一緒に死んでやることはできないって」
言った。確かに、言った。本心だ。死にたくないから過酷な自然の中も生き抜いてきた。それは本能だ。もはや身に染みついて取りようがない、生命としての生存本能。人間でさえ持つそれが、野生に磨かれたエルは一際強い。それだけのことだ。
なのにそれを指摘する少女の目は、がらんどうのように暗かった。
「それって、おかしいよ」
「おかしい……?」
「そうだよ。変だよ。ファンのこと、好きなんでしょ?」
「そう、だけど」
「だったら、何で死なないの?」
小首を傾げた少女の仕草は、まるで当たり前のことを聞く子供のようで。
愛らしいはずなのに、ぞわっ、と鳥肌が立つ。
「死んでもいいぐらいファンのことが好きな私の隣に割り込んだんだよ? だからエルも死ぬほどファンのことが好きじゃないとおかしいよね?」
「え、あ――」
「ファンが生きて帰らなかったら、石を抱えて海に飛び込むつもりなの。魂は海に還るから、海で死ねばファンにも会えるよ。だから、その時はエルも一緒に行こうね。ううん、嫌って言っても連れて行くよ? 私が死ぬほどファンが好きなんだから、エルも死ぬほどファンが好きに決まってるもん。そうだよ、当たり前だよ。私と同じぐらい好きだからファンの隣を譲ったのに、そうじゃなかったらおかしいよ。おかしかったら、直さないと。正さないと。だからファンが死ぬ時は私が死ぬ時で、一緒にエルも死ぬの」
いっそ嬉しそうに、はにかみながら告げるラナ。
エルはその淑やかな微笑に、ようやく腑に落ちる感触を得た。
なるほどと、思うのだ。
――こいつは紛れもなく、あのファンが恋人と呼ぶ女だ。
「……狂ってるぞ、お前。いや、だが……好いな」
くつくつと。
喉の奥から笑う。
「好い、好いぞ。それぐらいで丁度いい。ああ好いな、凄く好い……!」
「エル……?」
不思議そうに首を傾げる恋敵に笑いが込み上げてたまらない。
「奪い合い、取り合い、殺し合う――それが私のルールだ。適者生存、弱者必滅――水も獲物も縄張りも命がけで手に入れた。闘争こそ私の人生だ。それを譲った? 笑わせてくれるぞ小娘が! 生まれと出会いが違っただけで何を上から目線でほざくかっ!」
「っ……!?」
「これからだ。これからだぞ? 今日までは私の負けだ。認めよう。だがこれからもお前が勝ち続ける保証なぞどこにもない! はっ、はっははは! 殴り合いじゃ勝負にならんからどうしようかと思っていたが、楽しみだ――本当に楽しみだ。お前が私と殺し合えるほど強くなるのが楽しみだ!!」
足を跳ね上げた。腹に乗って、腕を封じたぐらいで勝ったつもりの小娘に、その首に、一瞬で足首を絡ませる。
顔色を変えて逃れようとした小娘を、力尽くでベッドへ叩き伏せた。柔らかい寝台と言えど背中を打ち付けた小娘の肺から、見えはしないが空気の押し出される音が聞こえる。
「弱者をいたぶる趣味はない。子猫が鼠を嬲るのは狩りの訓練だ。野生の獣は無意味な殺しはせん」
じたばたと暴れる小娘の力が段々と弱くなる。喉に絡んだ足首を外そうともがくも、圧倒的な筋力差が悪足掻きすら許さない。
「能力を封じられた私にさえ劣るお前は――だが強くなる。きっと強くなる。私があの島で頂点にまでのし上がったように、弱者はいつまでも弱者でいるわけじゃない。常識で糊塗した己の裡に狂った鬼を棲まわせたお前が、いつまでも弱いわけがない」
足肌に感じる頸動脈を一際強く圧迫する。足を掴む恋敵の指先が震え、くたりと力が抜けた。
「楽しみだ。本当に、本当に楽しみなんだ。……取り合う雄も、奪い合える相手も、今までいなかったんだ。一人でも、二人でもそんな戦いはできない。三人以上じゃないとダメなんだ。……だから私は、お前にいてほしい。ラナ。ラナ・アルメーラ――私はお前も好きだぞ? なあ、これっておかしいか?」
いつからいたのか、首を巡らした部屋の隅に佇む、赤い影。ゆらりと、当たり前のような顔で帰ってきた少年は、興味深げな無表情でゆっくりと近付いてくる。
「…………蓼食う虫も、好き好き」
「それ、おかしいって言ってるのと同じだぞ」
「…………僕のが、僕のを…………好きになるのは、いい」
「言っとくが人間として好きなだけで恋愛感情じゃないからな?」
少年がぐったりしたラナを抱え上げ、エルの隣に寝かせた。……自分で締め落とした相手が隣で寝ているというのは、何だか複雑だ。どことなく寝苦しそうな寝顔を見つめている間に、少年は複雑な結い方をされたロープを手際よくほどき、海楼石の鍵穴にナイフらしき物を挿し込んだ。
かちゃかちゃと内部を探ること十秒余り。カチン、と小気味よい音を立てて錠が外れた。開錠術までできるらしい。
「…………心配、した?」
「そこの小娘ほどじゃない。まあ死んだら供養ぐらいしてやるが、こいつみたいに後追いするのは馬鹿げてる。私の命は私のものだ」
「…………くふふ。うん、それで、いい。…………僕が、赤くするのを、我慢できなくなるまで…………生きててね?」
「その時は目一杯抵抗してやるさ」
ふん。くふふ。と笑い合う。
闘争と殺し合いで結ばれた絆。愛だの恋だの、自分たちには似合わない
正面から抱き合ったり、手を握り合ったり。それはそれで楽しいが、何か違う。
「よし、じゃあずっと使いたかった言葉を言ってやろう」
「…………?」
「――おかえり。……ふん、改まって言うとこっぱずかしいな」
「…………うん。ただいま」
――お前と出会った、短くも濃密なあの頃のように。
背中を預け合うぐらいが、心地いいんだ――
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苦節三年以上。やっと、やっと書き上がりました。
何度ワードを開いては閉じるを繰り返したか分かりません。ページは真っ白なまま、ただ時間だけが過ぎていく……。出来上がった瞬間、感動してしまいました。泣いてしまいました。胸につっかえていたものがようやく取れた思いです。
改稿前を覚えている方がどれほどいらっしゃるか分かりませんが、以前はギャグっぽくまとめていました。それを本音のぶつかり合いに変更し……キャラの心情が掴めなくなりました。ですがようやく、本当にようやく、一区切り付くところまで書けました。お待たせしてしまい、申し訳ありません。
リアルの都合で続きはまた遅くなってしまいますが、最低でも第一部完結までは持って行きたいと考えています。……ええまあ、予定は未定なのですけどね。
ではまた、次の更新でお会いしましょう。
そのうちハーメルンに移転するか考えています……。
――なお、嘘企画はチマチマ書いてますが、真面目に書くほどエロシーンがエロくなくなる仕様は変わっていませんorz 馬鹿になればいいのかな……。