冷たい沈黙が真綿となって首に巻きつく。
息苦しかった。背中の翼が無意識に縮こまっているのも気付かず、エルは恐る恐る隣を窺う。
鬼女がいた。いや違うラナがいた。いや、正しいのか? エルにはもう何が何だか分からない。それぐらい、黒髪の少女から立ち込める気配は、鬼気迫っていた。
「……ファン」
細く吐息のようにラナの唇が音を紡ぐ。しかしその吐息は悪魔でも潜んでるんじゃないかと思う程寒々しく響き、そーっとエルは身を引いて少女の視界から逃げる。それでも未だ鬼姫を源泉とするおどろおどろしい空気の勢力半径なのだが、直撃するかしないかで天地の差があった。
時刻は壁時計が示すところによると既に九時を回っている。外は星と月の世界に姿を変え、夜風が昼の猛暑を和らげる。
が、そんな刻限を過ぎたと言うのに、ファンが帰って来ない。
それどころか安否不明、消息不明の連絡が二時間ほど前に届いたのだ。電伝虫を取ったのはドラゴン、通話相手は脱出船に乗った支部長らしいが、エルは夕食を漁りに食堂まで出かけていたため又聞きだった。又聞きでよかったと心から思う。おかげで行方不明の連絡を受けた直後のラナと同席せずに済んだ。
とにかく何が悪いかと言えば、
(ファンが悪い)
それしかない。ファンが原因だ。諸悪の根源だ。色んな意味で。
(……心配は、してないが)
あのファンに限って逃げ損ねるという状況がまず想像できない。ぼーっとした見かけからは分かり辛いが、こと殺し合いの勘所に関しては頭がおかしいんじゃないかと疑っている。……疑いで済むレベルなら、自分はとっくにファンから一勝をもぎ取ってるだろうが――と、自虐に走り始めた思考をぶんぶん頭を振って追い払う。
「……あー、ラナ娘? そんなに思い詰めず気を抜いてみたらどうかと」
机の向こうから空気に耐え切れなくなったアゼリアがそう切り出した。果たして愚挙か英断か、見守るエルともう一人の視線を集めながら、ラナが青白い面を膝から上げ、
「そう……ですね」
頷き、椅子を引いて立ち上がる。そしてふらふらと部屋の隅に歩いて行き、見栄えの乏しい部屋で申し訳程度に飾られていた観葉植物――ただし作り物――の植木鉢に手を伸ばしたかと思えば、えいやとばかりに引っこ抜く。
「……ラナ娘?」
「“木”を抜いてみました。ふふふ……もう、文句ないですよね?」
「「「…………」」」
ふふふ、と恐ろしいほど可愛らしく微笑むラナにアゼリアがじっとり滴る額の汗を拭う。どうにかしろ、と横目で促されるが、心療医が匙を投げる問題をエルに解決できるはずもない。思いっきり目を逸らしてやり過ごす。部屋に残る最後の一人であるドラゴンもエルに倣いあさっての彼方。
孤立無援を悟ったアゼリアがもはやこれまでと敵前逃亡、扉に脱兎。しかし時空が歪んだとしか思えない速度で閃いたトンファーがその足をかっぱらい、果てしない勢いで転倒させる。
「ふふふ、どこに行くんですかアゼリアさん? ファンが帰るまで一緒に待っててくれないと困るんです」
「いやいやいやいや! ラナ娘、これはきっと感動の再会にキスぐらいしたくなるんじゃないかなーという私なりの配慮で」
「ダメですよそんなの。――帰って来なかったら、みんなであの世まで迎えに行くんですから」
「うわぁあああああああっ!? そこっ、そこ二人っ、見てないで助けてくれと懇願してみようっ!」
「……エル、もしもの時は二人同時、逆方向に逃げるぞ。一人は助かる。壁を壊しても構わん」
「いいだろう。お前らは好きになれんが今回ばかりは協力してやる」
「見捨てること前提で話をするんじゃなぁああああいっ!!」
――そう言うお前は一人で勝手にとんずらするつもりだっただろうが。
ふん、と鼻を鳴らしてエルは羽をぱたぱた。アゼリアの悲鳴も聞こえない振りで机に突っ伏す。
……おい、ファン。お前のせいで“常識”の代名詞が非常識じみて来てるぞ。
腕を枕に見つめる先は、夜に彩られた窓。誰にも聞こえない声量でぼそっと呟く。
「早く帰ってこい、ばか」
・
・
・
暗いのは怖くない。
一人なのも、別に平気。
けど、動けないのは、困った。
『…………』
よく見知った森の遊び場で、ファンはじっと膝を抱えていた。六歳の頃だろうか。帰る途中で不覚にも足をくじき、歩くに歩けなくなったことがある。いつも誰も来ないような所でこっそり遊んでいたから、他の子たちは気にもせず先に帰ってしまった。今はもう誰の声もしない。
森は暗く帳を下ろし、今宵を生き急ぐ虫たちの合唱が始まる。木の根に蹲ったファンは困り果て、眠たげな赤紫の瞳を闇に向け、ぽつんと呟く。
『お腹………………すいた』
ぐぅ、きゅるる。押さえた腹の虫も回りに合わせて歌い出し、ファンはとっても困った無表情で小さく吐息。子供らしい変な深刻さでこのまま飢え死にしたらどうしよう、そう言えば松の樹皮は食べられるんだっけ、と考えていたら、近くの茂みががさがさ鳴った。
瞬き一つ、そちらに視線を向ければぬっと出てくる見慣れた頭。
『……お、いたな。帰るぞ、ファン』
父親だった。捜しに来てくれたらしかった。ファンはまた一つ、瞬き。
無反応な態度にも流石の慣れを窺わせ、ダール・イルマフィは息子の襟首を掴み豪快に背中に放り投げる。
慌ててファンは首っ玉にしがみついた。片足が不自由なのに落ちるとか、冗談ではなかった。
『ん? 何だお前、足くじいたりでもしたか?』
しかも今頃気付いたらしい。抗議を込めてファンは無表情にダールの頭をはたく。
『わはは、そりゃすまん。が、お前も動けないなら動けないで、せめて声出して居場所知らせるぐらいしろよ』
『…………』
『まあそう睨むな。今日は母さん特製若鳥のシチューだ。腹減ってるだろうが? たっぷり食え』
『…………』
ファンの無表情読解スキルをマスターしているダールには、何を言わずとも大体通じる。
だからファンは、もう一度だけ頭をはたいた。
『わっはっは、そう恥ずかしがるな。んん? 怪我して動けなくなるなんざよくあることだ。父さんだってある。そういう時は助けてもらわんとな。日頃から他人に優しい奴は、自分が危ない時に必ず助けてもらえるもんだ』
『…………一蓮托生』
『そりゃなんか違う気もするが……つーかどこでそういう言葉覚えてくんだ……?』
ダールの歩みは大きい。ぐん、ぐんと負ぶさるファンを連れて歩み、あっという間に森を抜けてしまう。
星と月の淡い光が降ってきた。茫、と見上げたファンは次の瞬間、またも襟首を掴まれ放り投げられる。咄嗟に足を畳み身体を丸めて“着地”――そう、着地した。怪我のない両足で、しっかりと。
『よぉっし、後は一人で大丈夫だな? 父さんはちっと用事があるんで先行ってろ』
え、とファンは小さく目を見開く。――“記憶”と違う。このまま一緒に帰って、親子三人でシチューを食べるはずなのに。
『行くって…………どこ』
『どこだろうな。まあ誰もがいつかは行くところか?』
わははと笑い、ダールが踵を返した。ぽっかりと穴のように口を開けた森の闇へ歩き出す。
待って。そう言ったはずの喉から声が出ない。叫んでいるのに声にならない。
ファンは追いかけた。自分でもどうしてか分からないぐらい必死になって追いかけた。
遠ざかる。華奢なファンとは似ても似つかない大きな背中が。
ずん、ずん。暗闇の向こうへ、行ってしまう。
『じゃあな。ちゃんといい子で、“家”に帰るんだぞ』
『待って…………お父、さん……お父さん…………!』
・
・
・
声が聞こえ、青雉は身体を起こした。勢いを失い弱々しく火の粉を散らす焚火の向こう側で、一人の少年が横たわっている。
素早くかつ音を立てないよう慎重に近寄った青雉は、発熱し汗の浮いた額を水に浸した布で拭き、少年の身体にかけた自分の上着を甲斐々々しく肩の位置まで引き上げてやる。少し考え、真水で薄めた海水を数滴ずつ、荒く呼吸する少年の口に時間をかけて落とす。
「……点滴でもありゃこんな手間、要らねえんだが」
発熱、発汗と来れば注意すべきは脱水だ。水分と塩分の小まめな補給が必要不可欠。青雉はうつらうつらしながら、もう数時間近く同じ作業を続けていた。
刻限は間もなく深夜。日暮れ前に行われた戦いを思い返し、青雉は苦みと称賛を口の端に漂わせる。
勝って当然の戦いなどありはしない。
だが最後の最後で詰めを誤り逆襲を喰らったなどいつ以来か。掘り返す記憶がやや心許なかった。
「窮鼠猫を噛む、つっても鼠ほど可愛らしかねぇな」
あの時。
南の海の港町で戦いの決着が付くかと思った瞬間、青雉は嵐に放り込まれた。
比喩だ。大時化の海で船ごと天地が引っくり返るあの感覚。上も下も前後すら不確かで、ただ理解したのは己がシェイクされている事実のみ。それが少年の能力による現象だとはすぐに察した。だが後の祭りだ。気付いた時には見知らぬ森で膝を付き、荒い息を吐いていた。
船酔いと陸酔いと二日酔いが徒党を組んで襲ってきたような最悪の気分だった。二度と味わいたくはない。
(まあ頭が痛いのはそれだけじゃねぇんだが……)
大将の自分が戦闘中に行方知れずとなったのだ。各方面の騒ぎはどれほどになるやら考えるだけで気が重い。
帰還しようにもエターナルポースは自転車に置きっ放し。星の位置から現在地を割り出す天文航法もあるにはあるが、士官に昇任して以来頭の片隅で錆びついて使い物にならない。
とは言えこれが青雉一人なら、難易度はともかくなるようになる。
が、しかし、捕虜付きでは如何ともし難いのだ。その上問題の捕虜が風邪をこじらせているとなれば、その介抱に追われ連絡も取れず失踪同然な野営もいたしかたないのである。――と、青雉は今から帰った時の報告書(言い訳)を頭の中で算段する。傍らで寝こける小電伝虫から受話器がずり落ちている光景は、敢えて無視の方向で。
「……絶対後でどやされるな」
てめぇのせいだぞ、と小さくぼやく。
熱に魘され、時折寝言らしきものをこぼす、少年。その顔に面はない。邪魔だったから看病の前に外し、現れた素顔の幼さに驚いた。
十五に届くどころか、よくて十二、十三。大将である自分とほぼ互角に渡り合ったとは信じられないほど、その面立ちは幼く、その手足は細い。
(動きは、我流っぽかったな)
訓練を受けたものではない。ただ自分のやりやすいように死ぬほど走って、死ぬほど戦って、その果てに得た挙動。決して洗練されたものではなく、粗削りで、むらが多く、それでいて計算高さを隠し持ちながら、真正面からぶつかろうとする気概もある。
なんともちぐはぐな少年だというのが実際に戦った青雉の忌憚なき感想だ。全体としては戦略通り行動しつつ、要所要所が場当たり的というか、思い付きで動いてるんじゃないかという印象が拭い切れない。あの一騎打ちの最後にぶつけ合った大技で青雉は少年の裏を掻き勝利したわけだが、そもそも技の応酬に付き合う意義が果たして少年の側にあったかどうか。
理知的に行動するようでいて、案外見た目のまま子供っぽいのかもしれない。
「さて、こっからどうすっかね……」
脳内会議の議題は勿論目の前で横たわる少年について。主な討議者は海軍規範に世界刑法に、青雉の良識やら何やらその他もろもろ。厳密に罪を量り天秤に乗せるのは裁判官だが、そこまで持っていくのは海兵や各国の警備を預かる者たち。裁判所へ送る責任は重く、事態を注意深く慎重に受け止めた上で判断を下さねばならない。
罪状を考えてみる。
壱、殺人罪。――言うまでもない。むしろ大量殺人。
弐、傷害罪。――直接見てはないが、恐らく被害者多数。
参、内乱罪。――革命軍に対する幇助、国家反逆罪含む。
肆、器物損壊罪。――軍艦五隻etc。被害総額は余裕で十億ベリー以上。
伍、公務執行妨害罪。――こうやって並べるのも馬鹿らしい小さな罪。
陸、……。
指折り数えていた腕を溜息しながら下ろす。
今ここで熱にうなされる少年がこれほどの犯罪者だと訴えて、信じる人間が何人いるのか。
身に宿した悪魔の能力の恐ろしさを、肌で理解できる人間がどれほどいるのか。
理解したうえで、少年と敵対する道を選べる人間が果たして存在するのか。
看病も成り行きだ。目の前でぶっ倒れた人間が熱を出したもんだから、仕方ないが故の消去法。義理立てする理由も特にない。
「……」
胸の裡が冷えていく。心の水面が凪ぎ、静かに凍っていく。
死んだ方が良い人間が存在するのを青雉は知っている。そいつらは大概が死んで当然の悪だ。占拠した港に我が物顔で居座り、女を犯しながらその夫を大砲の的にして遊ぶような畜生は百回殺しても殺し足りない。
かつて巨大な災厄の芽となり得る幼子を逃がした時とはわけが違う。この子供は自分から海兵を殺して回り、青雉の前に立ち塞がった。義理立てすべき理由も特にない。
「……“アイスサーベル”」
パキキ、と凍り付いた切っ先を細い首に宛がう。喉仏すら浮いていない華奢な首だ。少し力を込めればあっさりと裂け、命のスープを垂れ流すに違いなかった。
小さく、少年が咳をする。覇気を込められた氷剣が触れたせいだろう。余りにも弱々しい姿に剣先がぶれる。迷う。過激すぎる同僚の苛烈な信条を思う。決して相容れることのない絶対的正義。あいつは迷ったことがあるのだろうか。それとも迷いの果てに行き着いた選択が、あの正義なのだろうか。普段なら考えないようなことまで脳裏をよぎる。くそ、と悪態を吐いた。氷剣を握り直す。凍ったはずの水面にひびが入るのを自覚しながら、奥歯を噛み締めて刃を振り上げた。
「…………お父、さん」
掠れた声音が、ひび割れの奥に楔を穿った。
「待……って。…………行かない……で……!」
裁かれるべき罪人はそこに居なかった。
ただ父を求める幼子が、そこに居た。
薪を足され、盛る炎が星空へ息を巻き上げる。
青雉は深々と溜息を吐いた。憑き物が落ちたような顔だった。
「……やっぱ、俺にあの馬鹿の真似は無理だな」
太い指を、少年の小さな手が握っている。
名前も知らない少年は、夢の中で父に会えただろうか。無事、追いつけただろうか。
青雉に知るすべはない。ただ安らかな寝顔が、幸せな夢を物語っているように思えた。
「……ファン、帰って来なかった」
「お、おお落ち着け小娘! 絶望するにはまだ早い!」
「何やってる、逃げるぞエル!」
「エル、ドラゴンさん……二人とも、どこ行くの?」
「く、来るな来るな――わぁああああああっ!」
「のぅあああああああっ!」
「ふふ、逃げないでよ。……ね?」