~pm.4:15~
乾いた風は白土のそれ。ざらついた風に攫われ、大勢の人間が作業する音は高く離れた場所にも届く。
揺れる黒髪に誰かが気付いた。いそいそと作業の手を休め、司令塔のバルコニーに向かって手を振ってくる男性。ラナは微笑んで振り返す。周りの数人がはっと顔を上げて我先に手を振り回し始め、瞬く間にそれが伝播して数十人もの男性がラナへ一斉にぶんぶんと。
余りにもな反応で少女は微笑したまま口元を引き攣らせる。
「ふん、やはり悪女だな。男どもを手玉に取って楽しそうなことだ」
「ふ、振り返しただけだよ? 私全然悪くないよっ?」
ばっと勢い良く後ろを見れば、鳶色の少女が不遜に笑っていた。
「くっくっく、果たしてどうかな? 小娘、お前さっき下の作業を手伝うとか言って降りて行きながら、どうしてまたこんなところに居る」
「そ、それは……!」
「いや言わなくていい。ちゃんと私も聞いていた。……男たちの気が散るから、頼むから後生だから離れててくれ~……だったな」
「う……」
「そして今また中断させてしまったわけだが……くっくっ。これを悪女と言わず何と言うのだろうなぁ?」
そこで堪えかねたように噴き出し、あっはっはとくの字にお腹を抱えて笑い転げる。
顔を赤くしてぶるぶる拳を握り締めたラナは、問答無用で腰のトンファーを投げつけた。
「姫。早めの夕食を――」
ゴンッ。
「あ」
「お」
ひょいとエルが避けた先で、丁度バルコニーの入り口から顔を出したカーツの顔面にトンファーの打突部がめり込んだ。
傾くカーツの長身が夕食入りの籠を取り落とし、自由落下した僅かな隙にエルの両手が雷光の速さで掠め取る。そのまま床に倒れるカーツは無視して、半ば野生の少女は嬉々とした表情で籠の蓋を持ち上げる。
それからやっとラナが悲鳴した。
「かかカーツさんっ!? ご、ごめんなさいっ、大丈夫ですか!?」
「……姫の、一撃なら……文句は、ない」
ぐぐっと無感情な鋼の眼で震える親指を立てて見せるカーツ。よほど当たり所が悪かったのか、それともラナの一撃が重すぎたのか、直後ぱたんと腕を落とし気絶した。
「か、カーツさん……」
悲しげにラナは青年を見下ろす。
「文句はなくても、問題があったらダメだと思います……」
「そこを指摘するのか。やはり悪女の称号はお前のものだ」
「もうそれくどいよエル……って何食べてるの!?」
ん? と骨付き肉を噛み千切り、咀嚼し、ごくんと呑み込んだエルが不思議そうに返す。
「見ての通り早めの夕食だ。もちろん普通の夕食と遅めの夕食も食べるぞ?」
「それ違うから! 早めの夕食ってそういう意味じゃないから! あ、私の分残してなかったら怒るよっ!」
「んむ……あむ……まあ……ごくん。善処……しないでもない」
エルの口からバキボキとどう考えても骨を噛み砕く音が聞こえ、どんな歯をしてるんだろう、とラナは冷や汗たらり。
残ったとしても野菜類ばかり回されそうだった。エルは肉食系なのだ。
「……なかなか面白い図になっているな」
バルコニーは最上階にあり、それ以外に部屋も廊下もないため階段と直通する造りになっている。そこを登って現われたローブ姿の大柄な人影に、ラナはびっくりした顔を向ける。
「ど……ドラゴンさん、司令室に居なくていいんですか?」
「息抜きだ。どちらにしろ、これ以上は見守る程度のことしかできん。……ああ、これは軽い脳震盪だな。適当に寝かせておけ」
ざっと見てカーツの容態を確かめたドラゴンは風の吹きつけるバルコニーに出た。何となくその後に続き、ラナはドラゴンの隣に並んで眼下を眺める。
たくさんの人が作業をしていた。ひび割れ、穴の空いた地面には運んできた土を被せて塞ぎ、すっぱり斜めに切り落とされた建物は、いつの間にか人々の間に加わっていたイナズマが応急処置をする。ちょきちょき切り上げられた地面がめくれて建物に巻き付き、その上から漆喰みたいな粘土状の物を塗りつけて乾くのを待つ。
ドラゴンが苦く笑った。
「こうして見れば、派手にやったものだな」
「ご、ごめんなさい」
「なぜお前が謝る」
即座に問われ、ラナは少し詰まった。
「……みんなが、してるのは、“ファンが暴れた後始末”なのに……私、手伝えてません」
「そんなことか。構わん。人にはそれぞれ己にしかできないことがある。俺やアゼリアでは、ファンを無理やり止めることはできても、ファンの本音を引き出すのはひどく難しい。さっきの司令室でのことは、ラナにしかできないことだった。力仕事ぐらい、力の有り余ってる連中に任せておけ」
「……もう一つ、あるんです。ドラゴンさんたちにじゃ、ないですけど……」
「では、誰にだ」
ドラゴンの声には革命軍を束ねる者としての重みがある。誰の嘆きも、どんな訴えも、その身に受け止め受け容れる。だから革命軍はここまで大きくなれた。ドラゴンという存在が人々の支えとなっていたから。
一瞬言い澱んだラナは、だがその懐の深さにそっと心中を吐露する。
「ごめんなさい、って……海兵さん、たちに」
「……」
ちらりとドラゴンが少女を見下ろした。食事中だったエルも、顔を上げた。
搾り出すように、ラナは言う。
「私の言葉で、ファンは支部長さんたちを助けるって決めて……でもそれは、ファンが敵を赤くするって、ことだから……。私の言葉が、海兵さんたちを殺してる。……もう、殺してしまってる、のかな」
「……」
「顔も名前も知らないけど、私の言葉が誰かの命を奪う引き鉄になってるんです。……顔も見えなくて、声も届かなくて、謝って許されることじゃないけど……謝りたくて。殺して、赤くしてるファンにはこんなこと言えないから、誰かに謝罪を、聞いてほしかったんです」
「……その罪は、俺たちの罪だ。俺たちが望み、ファンに頼み、そうなった。お前が気に病む道理はない。……そう言っても、お前の罪悪感は消えんだろうな」
「あ、はい、その……ごめんなさい」
小さくなって謝る少女に苦笑し、ドラゴンはその頭を撫でてやろうと腕を上げた。だがふと躊躇い、自嘲の面持ちを浮かべ中途半端に持ち上げた腕を下ろした。
「……大元の原因である俺に、慰める資格はないな」
「そう、ですか?」
「ああ。それに、俺も男だ」
「……?」
冗談めかして、ドラゴンが口角を吊り上げた。
「下手に慰めでもすれば、ファンに殺されかねん」
「……あ、あはは」
冗談になってなかった。引き攣った笑いを返すとドラゴンもそれを悟ったらしい。顔をしかめ、慣れんことはするものではないな、とぼやく。
「おい、小娘」
「なに、エル――むぐ!?」
振り返った途端何かを口に突っ込まれ、思わず咀嚼する。香辛料がふんだんに使われた鳥の肉汁が口いっぱいに広がった。
「んぐ……けほっ。……い、いきなり何するの!?」
「美味かったか」
不機嫌そうな鳶色の瞳に睨まれ、語調が勢いをなくす。
「……まあ、美味しかったけど」
「食は幸せだ。衣食足りて住を欠かず、人の和にも恵まれたならば、そこより上を求むべからず。心得よ、身の丈を知って幸福と成せ」
エルらしからぬ、というのは失礼かもしれないが、歌うように紡がれた古めかしい文言にラナはぽかんとしてしまう。
「こ…ことわざ?」
「母様の教えだ。今のお前は満ち足りて、足りないものはない。それ以上を望むのは贅沢だ。つまりお前の悩みも贅沢だ」
だから悩むのをやめろ、と素っ気なく言って、エルは食事籠の方に戻って行った。
胸を衝かれたような思いでラナは少女の背を見る。衣食住どころか人の和さえ欠いて、ずっと孤独に生きて来た小さな背中。翼持つ少女から見れば、今を笑って過ごせているのに知りもしない他人のことで胸を痛ませるなど、持てる者の贅沢でしかないのだろう。
持たざる者は、他人のために涙するゆとりなんてないのだと。
「……元気づけようと、してくれたんでしょうか」
「の、ようだな。それにしても古い言葉を知っている。どこぞの聖人が残した言葉だ。……しかし、その教えを遵守しようとした国は、例外なく滅んだはずだが」
「えっ?」
驚きにラナが振り返り、ドラゴンはしかつめらしく顎を撫でた。
「一定の幸福より上を求めなければ文明は停滞する。歯車の止まった世界はやがて倦み、いずれ外の文明に押し流されるか自滅するだけだ。人間という種が進化の先に現れた生命であるが故に、歩みを止めた人々はその先へ進む力を失うのだろうな」
「そ、それじゃエルのお母さんは……」
「エルの母親が間違っていたとは言わん。子供に教える話としてはむしろ上等な部類だ。……そうだな、今の話を簡単に言い直せばこうなる。――毎日美味しいものを食べ、綺麗な服を着て、家があって、親も友達もいるんだったら、それ以上わがままを言ってはいけませんよ、とな」
あ、と声を上げるラナに、ドラゴンは苦笑を忍ばせる。
「人生の指針にしてしまうのはまずい。それはもはや聖人か仙人の生き方だ。人のそれではない」
「でも、子供に言い聞かせる範囲だったら……丁度いい?」
「ああ。多少、難解なところを除けばな」
幼いエルと膝を突き合わせ、難しい話をする。夢に出て来たあの厳格そうな母親の姿から、その光景はとても簡単に想像できて、くすっと微笑ましい気持ちが笑顔となって零れてしまう。
「お母さん、かぁ……ちょっとだけ、羨ましいな。私、お母さんの顔、知らないんです。小さい頃死んじゃったらしくて、あんな小さな村だから写真も残ってなくて」
「そうか」
「はい。あ、でもそっか。島に居た頃、ファンがどこかに消えてたのって……息苦しかったからなんだ」
古くもない記憶を思い起こして、ラナは白土の舞い上がる空を見上げた。
「仕事をさっさと終わらせた後どこに行ってるのかって、ずっと不思議だったんです。訪ねたってだんまりだし、今更聞いたって仕方ないことだから聞く機会がなかったんですけど……」
「けど?」
「……私でも、ファンのお母さんたちでも、誰かがファンの苦しみに気付いてあげられてたら、何かが変わってたのかな……って、そんなこと、今ちょっと思いました」
ドラゴンは答えない。仮定の話に雑談以上の意味はない。それはラナも分かっているから、暗くなりがちな気持ちを振り払うように大きく息を吐いて、そっと胸の前で両手を組み合わせる。
「……ちゃんと、帰って来ますように」
祈る少女を、さぁっと涼しげな風がすり抜けていった。
~pm.4:22~
「…………凍って、る」
律儀に白狐の面をかぶったまま、双眼鏡の下で赤紫の瞳が瞬く。爆発の代わりに立ち上る氷柱を五号艦より眺め、それを成した男をじぃっと見る。枝のように細く長い背丈と、額にずり上げたアイマスクと、厚ぼったい唇と、
「…………変な、髪型」
ぼんやり呟き、双眼鏡を放り捨てる。びちゃ、と血溜まりが跳ねた。他に跳ねるものはない。動くものはない。
死が溢れている。生物から物体に成り果てた命の残り滓が、漫然と雑然と床に壁にこびりつき、醜悪な絵画の趣きで彼岸の花を描いていた。おぞましきアカをふんだんに凝らし散りばめた、悪趣味極まる死の展覧会。喉を裂き、腹を刺し、骨を断ち、胸を割き、だが“壊しすぎてはいない”屍肉の博覧会。
“普通”の、虐殺現場であった。ともすればファンよりも、経験豊かな海軍将校の方が見慣れていそうな。
「…………」
考えることはまだたくさんあって、赤くした余韻に浸る暇もないのが、不満と言えば不満だった。ファンは結構情緒的なのだ。雰囲気重視、気分重視。細かなことに拘らない。赤くする手法も、透過を使わないやり方を無人島生活で覚えた。裂いて晒せば血は噴き出る。猛獣より人間の方がやはり脆くて、手応えがない。
一人、大佐と呼ばれていた男はなかなか強かったけれど、それでもエルと比べたら見劣りする。弱い。
「でも…………僕も、弱い。…………ドラゴン、赤くできない……」
昼に暴れた時のことを思い返し、小さく肩を落とす。何で自分に触れるんだろう。
思考が脇に逸れていた。ふるふると首を振って、ファンは身体を幽玄に溶かす。隔てる距離を零とし、一瞬の時さえ浪費せず支部長室の床に足を付ける。血と硝煙の臭いが消え、紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。
「…………?」
しかし誰もいなかった。首を傾げ、廊下に出る。人の気配を探せば何やら階下が騒がしい。
「あ、ああっ、君!」
素直に階段を見つけて降りていくと、初老に差しかかったやや丸い風体の支部長があせあせと走り寄って来た。
そこは一回の店内スペースのようだった。だが陳列されていたらしい多くの書物は棚と一緒に壁際へと押しやられ、バリケード代わりに使われていた。五十名を超す人間の不安そうな視線が、僅かな距離ももどかしく走る支部長と、その先にあるファンの狐面に向けられた。
何だこいつ、と怪訝そうな目を向けられる中で、支部長が額に浮いた汗を拭う。
「君……君、そう言えば名前も聞いておらんな……い、いやそれよりっ、さっきから続く爆発はもしや君の仕業かね!? 海軍も囲みを解いて下がって行き、一斉砲撃の気配もない……。一体、何をどうすれば――」
「そんな…………ことより」
状況の推移に理解が追い付かず、泡を食って訊ねる支部長に狐面を傾け逆に問う。
「氷の…………能力者、知ってる?」
問いかけた瞬間、しん、と時が止まった。
囁きも衣擦れも等しく消え失せ、部屋中が氷に閉ざされたかの如く冷えた。
「……あ」
凍えたように震える唇で、拭いたばかりの額にびっしり脂汗を浮かべた支部長が喉から声を絞り出す。
「あ、青雉が……来てるのかね……?」
「アオキジは、知らない。…………けど。背が、高くて……棒みたいで…………アイマスク、してた」
「う、あ、あ……終わり、だ……っ」
「?」
一気に十歳も老けこんだような顔で支部長が膝から崩れ落ちた。あちこちから絶望的な声が上がり、啜り泣きさえ聞こえ、ファンは首を傾げる。
「…………誰?」
「し、知らないのかね……? 海軍最高戦力、ヒエヒエの実の氷結人間……“大将”、青雉を」
「…………氷結人間」
「氷を司る自然系だ。こんなところに、大将が出てくるなど……もう、どうにもならん。君、一応聞くが、覇気は?」
「覇気…………?」
聞きなれない言葉に繰り返すと、あからさまに溜息を吐かれ、ファンはむっと赤紫の瞳を細める。
ノータイムで足を振り上げ蹴っ飛ばした。支部長の丸い身体がずでんと引っくり返る。
「なっ……何をするのかね!?」
「失敬、千万。…………嘆いて、ないで……逃げる準備、しろ」
「逃げる? どこへ逃げると!? 陸も海も依然として封鎖されたまま、青雉まで出て来た! あの男は海を凍らせてしまうのだよ!? 直に砲撃も始まる中、何をどうやって逃げろと言うのだねっ!?」
「じゃあ」
喚く支部長の胸倉を右手で引っ掴み、面の奥から睨む。
「両方、クリアできたら、いい? 砲撃、も。青雉、も」
「む……無茶だっ、無理だ! そんな無謀は許可できないっ!」
「――――誰が、誰に、許可する、って?」
ファンの声が赤く濁った。ぶわっ、と噎せ帰るような死の気配がたなびき、蒼白だった支部長の顔が土気色になる。殺意の先端が左手に群がり、そっと持ち上げたその指先で、支部長の左胸をつついた。
「いっそ…………今、ここで……赤くなる?」
「っ――!?」
喉を干上がらせた支部長が魚のように口を開閉した。
面の奥でファンは嗤う。いつしかすらりと抜き放たれていたナイフが支部長を映し、無慈悲にその切っ先を振り上げ――本気で赤くするつもりで振り上げ――。
破裂音が響いた。発砲音に、動きを止め、ファンはゆっくりと振り返る。
その先に男がいた。両手で構えた拳銃を上に向けた男が、まともにファンの殺気を浴び震え上がる。それでも勇を振り絞って、男はぶるぶると手元の銃に新たな弾を詰める。
「し、しし支部長に、手ぇ、出すな……っ!」
「…………」
無造作に一歩近付けば、ひぃっと情けない悲鳴を上げ男が目を瞑って引き金を引く。ほとんど奇跡のような軌道でまっすぐファンに向かって弾丸が飛び、しかしファンが半歩横に動くだけで背後の書棚に突き刺さった。
淡々と距離を詰める。ただそれだけで恐怖に拳銃を取り落とした男の無精面を、じっ、と見上げ。
「…………諦めた、なら……誰にやられても、一緒」
「あ、あ、諦める? だだだ誰がんなこと言った! しっしし支部長がそう言ったか!?」
「…………」
「お、俺は諦めねえぞ! んなところで死んでたまるか! たた大将が何だっ、軍艦が何だ! 元から俺たちゃ世界に喧嘩売ってんだっ! いつか相手しなくちゃなんねぇなら、それが今日であって何が悪い!!」
「…………十分、悪いと思う」
「うぐっ……や、やっぱそうか?」
今更たじろぎ冷や汗する男から視線を外し、ファンは周りを見た。
火が付いていた。希望の火ではない。やけくそに近い、だが生きるための灯火。己の葬式を前にしたような顔色から、誰も彼も身を奮い立たせ、恐怖を武者震いと言い聞かせ、蛮勇を勇猛と虚飾して、無謀を遠謀と糊塗して、無理と無茶を経理屈でこね倒し、青い顔のままファンを、否、男を見つめた。それこそ蛮勇を成し遂げた男に引きずられた様子で、無理やり引き戻されてしまった感じで、だが、立ち上がる。
「……は、ははは」
支部長が笑った。憑き物の落ちたような顔だった。
「はははっ……確かにそうだ。いや、全く……歳は、取りたくないものだ。若い者に言われて、やっと気付くとは」
「あ、す、すんません支部長っ! 俺下っ端なのに何か偉そうなこと言ってしまいました!」
「とんでもない、上司を諫めるのは部下の仕事だとも。そして君たちに最善最適な道を示すのが、私の仕事だ!」
叫び、立つ。しっかと床を踏みしめ、快哉の如く叫ぶ。
「今これより脱出作戦を開始する! 沖の船と連絡を取りタイミングを計れ! 持ち出す資料と焼き捨てる物の種別は付けたな!? 三人一組の班行動を心掛け、いつでも動けるようにせよ!!」
「「「ヤ――ッ!!」」」
動き出す。革命軍が。支部長麾下五十四名が一団となり歯車となって部品となって各々がために全体のために回り始める。
支部長が振り返った。精気の蘇ったその表情に、ファンは肩を落としてナイフを仕舞う。
「…………赤く、し損ねた」
「何で本気で残念そうなのかね……。いや、それはもういい。確かに、頑張ってくれた君に対し私の態度はあんまりだった。この通り謝罪する。……それで、任せていいのだね? あの青雉と、軍艦を」
「…………ロウソク」
「蝋燭?」
「ん。…………それで、何とかしてあげる」
「……よく分からんが、頼む。君に、私と私の部下全員の命を預ける」
ファンは狐面の角度を直した。真摯に頭を下げた支部長へ、残念そうに、仕方なさそうに、肩を竦めて。
「まあ…………任された」
~pm.4:37~
冬を響かせ、男が進む。男の歩いた場所は例外なく永久凍土に成り果て凍る。土が、石畳が、扉が、軒先が、窓が、壁が、屋根が、十重二十重にパキパキと凍り尽くされ白く霞んだ。
氷結、していく。
「……さて、どこで出てくるか」
冷然と気配を探り、青雉は頭に叩き込んである革命軍支部への道をたどった。一歩踏むごとに広がる氷の世界を背後に、自らの能力が及ぶ領域を拡大させながら、歩く。走らず、歩む。
未知の能力者に対し警戒してし過ぎることはない。相手が“あの”ドラゴン率いる革命軍と来れば、どんな隠し玉があることか。想像も付かなかった結果が今回の被害、その根本たる原因と言えた。
油断ならない相手だとは青雉のみならず、中将も承知していたはずである。しかし現状、軍は左官を含む大きな犠牲を出し、中将自身も死の危険に見舞われ、危うく殺されるところだった。それも恐らくはたった一人の“敵”に。
青雉がこうして街を凍らせながら縦断する目的は、示威行動の一言に尽きる。自分がたどり着けばこれほどの被害が出るぞという、分かりやすいデモンストレーション。注意を己に集めるためであったが、しかし青雉は囮でありながら必殺の牙。五号艦を陥とした“敵”もこうなっては守勢に回らざるを得ず、どこかで仕掛けてくるはずだった。
(移動に使える能力か、身を隠すのに役立つ能力か……あるいは、両方)
移動時間を無為にせず、青雉は思索に費やす。
(その上爆発も無効化する……と、考えるべきか?)
判断材料は多い。狐面、自爆、幽鬼、いつの間にか置かれていた火薬箱、そして局地的な念波の乱れ。五つもヒントが揃えば大概何らかの糸口は見えるものだが、しかし、今回の“敵”はどうにも能力がイメージし辛い。実際に目で見ていないこともあるにせよ、能力を直接攻撃手段に用いていないのが厄介だった。
どれもこれも火薬頼りの大爆発。間接的な攻撃ばかりで、能力本体をまるで使ってこない。むしろ意図的に隠している。完全に姿を現した五号艦だけ殺戮した点からも、そんな臭いがした。
(能力を秘匿したい理由がある……それが大きな弱点だからか、単にそう言い聞かされてるだけか)
頭の中で可能性を纏め上げる。
動物系――狐の幻想種。幻術だの妖術だので化かされている。……可能性、中。
超人系――種は不明。だが幽霊染みた能力ではないかと推測。……可能性、高。
自然系――希少なため、歴史上でほとんどが確認済みで既知。……可能性、極低。
「パラミシアが妥当なんだろうが……まぁ、いいか。見ればじきに分かるだろ」
「…………そう?」
「ああ……あ?」
耳元で違和感なく囁かれた声音に自然と答えてしまい、振り返る。
風が吹き、軒から下がる細いツララが一本、落ちて砕けた。
誰もいない。影形すらない。
「…………こっち」
囁く声は子供のそれ。だが青雉が再び首を巡らした先にも声の主は居らず、冷えた大気が吹かれるのみ。
思わずぼやく。
「面倒というか……面妖な能力だなこりゃ」
「…………褒め言葉?」
「そう聞こえたか?」
「…………分からない」
近くに居るような、居ないような。声ばかりが響き、正体を掴ませない。が、どうにもこうにも、子供だなと当たりが付き、青雉は思いっきり嘆息した。
「…………何?」
「何でもねぇよ。警戒してた“敵”が子供と分かってやる気が急降下とか、決してそんなことはねぇから安心しろ」
「…………不愉快」
姿を見せない声に険が籠もった。
子供っぽい自尊心を軽く突つき見事怒りを誘った青雉は、よしよし出て来い、と表面上は無造作に立ち尽くしたまま待ち構える。これで直接狙いに来てくれれば御の字であった。
が。
「……」
「…………」
「……」
「…………」
「……おい」
「…………何」
「今のは普通、何らかのアクションに出る場面でしょうが」
「…………出ないと、ダメ?」
不思議そうに首を傾げる子供の姿が目に見えるようで、青雉はガシガシと髪を掻き回した。
調子が狂う。
「あー……ったく、何しに来てんのよ俺は」
「…………?」
「仕事の合間にちょーっと遠出して、海水浴を楽しむピチピチギャル探すつもりがあら不思議、近くで大きな作戦が進行中じゃないの。おかげでせっかく南の海まで来たってのに、水着のお姉ちゃん一人居やしない」
「…………」
「だから早ぇとこ、街の避難命令解除したいんで――」
しゃがみ込み、青雉は右の手を地面に当てた。パキ、と霜が降りる。
「――いい加減、時間稼ぎにも付き合ってられねぇな」
「…………!」
寒気が爆発した。凄絶な冷気が腕を伝い地下の水分を凝固させ、瞬く間に巨大な氷柱へと化さしめる。突撃槍の如く青い氷が次々と石畳を突き破り、引っくり返し、街路を“奔った”。まるで氷の蛇が蛇体をうねらせその逆立てた鱗で削り取っていくような、そんなあり得ざる自然の猛威が鎌首をもたげ、支部の存在する区画へと牙を立てんと迸った。
「――――“幽山”!」
刹那。ゴッ、と山の如き衝撃波が大鎚となり叩きつけられ、石畳が広く陥没し、蛇氷も纏めて破砕される。
ダイヤモンドダストのように舞い上がる氷の破片。そこに、赤く小柄な影が降り立った。
白狐の面を付けた、子供。ふわりと、重量の失せたような挙動で着地し、ゆらりと、無機質な面貌をこちらに向ける。
「あらら……ホントに子供じゃないの。何考えてんだ革命軍の馬鹿どもは」
「…………」
ようやく出現した“敵”の姿に青雉は口の端から吐息を零すが、狐面の子供はもう軽口に乗って来なかった。ゆらと影のように佇み、ここは通さないという意思を透けさせる。友好的な態度ではない。
「無駄だと思うが、念のため聞いておく。……降伏しろ」
「…………」
無言、沈黙――回答、なし。
「敵と見做すが……構わねぇだろうな?」
「…………そろそろ」
「?」
子供が呟き、片手を胸の前に持ち上げ、そこに燭台が“現れる”。
現れる――そう、それは忽然と現れた。青雉は子供の全身を視界に収めていた。断言できる。子供は“何も”持っていなかった。だが現に蝋燭はちろちろと舐めるように燃え、灯火を揺らめかせて厳然と存在し、青雉の警戒心を跳ね上がらせる。――何らかの、能力。まるで今の今まで、見えなくなっていたかのような――
「そろそろ? 何がそろそろだってんだ」
「そっちは…………僕を、足止めしたい。…………僕は、その逆」
「足止めというか、こちらとしちゃもう俺一人で片を付けるつもりなんだが……」
「…………それは、もう……無理」
「あらら……大層な自信だ。お前が俺の相手をするからか?」
「それも…………あるけど」
狐面が蝋燭を見下ろした。元の長さを知る術はないが、溶けた蝋の溜まり具合から半分以上燃え落ちたようである。
ん? と見えた物に青雉は内心首を捻った。白い蝋燭の表面、今にも火が達しようとする部分に細い傷があった。――いや、傷と言うよりそれはわざわざ刻み付けた、
―――印?
時を同じくして、海上の軍艦では兵が甲板に集められていた。
大将青雉が出陣した以上、作戦の成否はもはや確定したと言って過言ではない。中将は“敵”が万一にも潜り込まないよう弾薬庫を厳重に閉め切り、火薬類も一旦その全てを中に収めるよう命令した。五号艦の二の舞はどうしても避けたかったのである。
そして兵を集めたのは暗殺を防ぐため――だけでなく、もし彼らが狙われたなら確実に戦いの様子を目にするためだった。ここまで多くの被害を出しておきながら“敵”の影さえ踏めず、能力の片鱗さえ掴めなかった失態を挽回しなければと、中将が敷いた非情の布陣。
仮に機能せずとも損はない。殺しに現れたならばどこからでもその戦いを見ることができ、そしてすぐさま首を取りに行く。――その間、殺されるだろう兵の数は、頭から慮外した。これは無為な犠牲ではない、と食い縛った歯の奥で、己に言い聞かせながら。
だが。
だが、である。
ドラゴンならば、アゼリアならば、少年の能力を知る人間であれば、赤紫の少年を敵に回した時点で火薬の類を一つ残らず海に放り捨てるだろう。
弾薬庫を守る堅牢な壁と鉄の錠前など、薄紙ほどの役にも立たない。
“知られない”ことは故に大きな意義を持つ。“能力の秘匿”自体が罠となり、致命的な手違いを誘発する。
小さな灯火が、揺れている。
誰もいない弾薬庫で、中ほどに導火線を巻かれた蝋燭の先端で。
場所を変え、火は揺らめく。。
同じ長さ、同じ太さ、同じ時間に火を付けたなら、消さない限り蝋燭の溶ける速さは等しい。
五号艦を含む五隻全てで人知れず、秘めやかに時を刻む灯火が、
―――着火した。
この日最大級の爆震が空を引き裂いた。
五隻の軍艦でほぼ同時に大爆発が起こり、それだけでは飽き足らず爆発が爆発を呼び無限に思えるほどの炎と黒煙が振り撒かれた。
蒼然と振り返った青雉は見る。もはや立て直せぬほど傾いた船と、引火し燃え盛る縦帆と、命からがら脱出し海に飛び込む兵たちを。
「仕掛けて、しまえば…………僕が、どこにいても……一緒」
「……!」
黒く、何より赤く燃える海を背景に、狐面の子供がゆらりと視界に入り込んだ。
支部への道を塞ぐ場所から、海への道を塞ぐ位置に。
「後は…………僕が、足止めして……終わり」
くふ、と仄かに笑う声がする。してやったりと、悪戯を成功させた子供のように無邪気なそれが、例えようもなく禍々しい。
幽鬼――幽霊のような、鬼。その表現がこれ以上なく的を射ていたことに、青雉は遅まきながら気付く。だが活かせなかった不明を決死の思いで伝えてくれた兵に瞑目して詫び、それまで子供相手だからと、どこか手緩かった己の手足を――心を、凍らせた。
「足止め結構だが……もう手加減してる暇、ねぇんで……覚悟しとけ」
「…………じゃあ、僕も……そこそこ、本気」
愉しげな雰囲気を面の奥に窺わせ、まるで“本気”を出す機会にこれまで恵まれなかったような浮かれた足取りで、子供が腰を落とし、構えらしき物を取った。燭台を放り捨て、ぎゅ、と拳を握る格闘家の真似事みたいなスタイル。見るからに我流でいい加減なそれも、もはや手心を加える理由足り得ない。
合図はなかった。互いの呼吸を探ることさえせず、狐面の子供が凍った石畳を砕くほどの勢いで飛び出した。
それが、開戦の号砲であった。
~pm.4:58~
元は整然とした街並みも少年の自爆戦術(笑)により建物が倒壊し、何度か回り道を要求されたものの、それでも尚全員が見つかることなく海岸のすぐ傍にまで到達し得た。それは僥倖でも偶然でもなく、海軍側の混乱がそれ以上に酷かったという必然だった。
「し、し、信じらんねぇ、本当に全艦爆破しちまいやがった……っ!」
先ほど少年に唯一突っかかった男がどもりながら的確に皆の意見を代弁する。支部長も同じ思いで、だが別のことを言う。
「全員、一人も欠けていないかね? しかし三人一組十八班は少し多かったかもしれんな……」
「あの、支部長。こっから、どうすんですか?」
「間もなく船が来る。それに乗り込むだけと言えば簡単だがね、見ての通り生き残った海兵諸君が陸を目指し泳いで来ている。ここまであの子に任せっ放しだったが、いい大人がいつまでも子供に頼っていてはいかん。皆、我々の底力を見せる時だとも。脱出船の到着に合わせ、威嚇射撃と並行し船に乗り込むのだ!」
「か、海軍将校とか残ってんじゃないすか?」
「脱出船にも精鋭が揃っている。後は運だ。祈ろう」
ずん、と地響きが足を伝い、支部長は赤く燃える海から目を離し街の中心方向を振り返った。
局地的な気温差の嵐が大気を凍えさせ、低気圧のような寒々しい突風を吹かせていた。その風に乗り、氷を砕く重い破砕音がここにまで届く。
「……できるからと、子供にもっともきつい役割を振らざるを得んとは」
仕方ないでは済まされない。もしこれで彼が死ぬようなことでもあれば、必ずや自分達は地獄に堕ちるだろう。
「それにまだ、君の名前も教えてもらっておらんのだ」
命を捨てるまで戦わなくてよい。我々のためにも、せめて生きて帰ってくれ。
我らも諦めず、最後まで抗ってみせるから。
~pm.5:00~
耳元で唸る大気に氷片が舞う。吐き出す息が白く凝る。
タッ、とファンの身体が氷の地面を蹴りつけ跳んだ。その場に降り注いだ氷礫が弾丸となって氷床を砕き、破片は落ちるよりも早く更なる冷気に蝕まれ、礫同士が網の目のように結び付き宙空で凍り付く。
「――パルチザン」
冷え切った声音が新たな氷塊を生む。巨大な針か槍に似た氷柱がざらりと広がり、上空から街路を埋め付くさんばかりに驟雨となって降り注いだ。
面の奥でファンは赤紫の瞳を細め、ゆらりと身を翻す。滑る氷の上を意にも介さず、というか実際には踏み抜く瞬間だけ僅かに地面をすり抜けて滑り止めとしながら、小柄な体躯を活かし踊るような挙動で氷槍の隙間をくぐり抜けた。
がりがりざくざく削れ砕け舞い上がる氷の粒。洋上に沈みゆく陽を浴びて煌く白いカーテン。
「――“幽山”」
腰溜めに腕を引き絞り、右手の先に震えを呼ぶ。能力――ユラユラの実の発露。ファンの意のままに、震えは不可視の波と化して充足、充填――拳を振り抜いた瞬間、それは弾け飛ぶ。解き放たれた獣が吠えるように、冷気の層が甚大な加圧にひしゃげ、たわみ、破裂したような音を掻き鳴らし、敵目がけて牙を剥いた。
衝撃波――山をも穿つ波の意を込めて名付けたそのままに、屋根に降り立つ青雉の長躯を千の氷片と砕け散らした。
「…………」
数秒、力の応酬が停滞し。
「!」
刹那の反応で飛び退ったファンの足元から爪先を掠め、氷の腕がパキパキと“伸び上がった”。
「あらら……また外れた」
距離を取るファンの前で瞬く間に氷がその嵩を増し、数秒と経たず氷像となって“立ち上がる”。――だが氷の彫像であるはずの身体は見る見るうちに赤味を得、血の通う肉となり肌となり骨となり、衣服さえ形作って男の姿を――面の奥を窺い透かそうとする青雉の姿を顕現せしめた。
「これで四度目。勘がいいのか、それとも別に要因でもあんのか……」
「…………」
ぼやきにファンは答えない。無言のまま、静かに男の気配を見据えて不動。
ロギアの厄介さは予想していた。だが実際に戦ってみると、まるで大自然の一部と取っ組み合うような途方もなさに攻めあぐねる。
敵は氷、そして氷結と言う自然現象そのものだ。どれほど砕き壊したところで能力者の実体には何の痛痒も与え得ない。世界中の氷を丸ごと溶かし尽くすような熱量でもあれば倒せるだろうが、そんなの太陽でも落とさない限り無理である。ファンは波だ。どう足掻いたって太陽にはなれない。
(けど…………もう、少し……)
慎重に距離を測りつつ、男が醸し出す極北の“波動”に目を凝らす。
視える――男の波、悪魔の実が放つ波動――“それ”の集束する先が、即ち攻撃目標点。森羅万象を掻き乱す悪魔の“波長”を、“波人間”たるファンは見逃さない。
―――自然系だからこそ、ファンの知覚から逃れる術はない。
「!」
男が再び全身を白く氷結させながら、ぐ、と両腕を構えた。そこから噴き出す――“波”。宙を伝播し、あるべき法則を塗り替え、怒濤の如くうねりを持って押し寄せる――巨大な、“波”。
「アイス――」
その瞬間には、“氷の波動”が集束する場所から、ファンは迅速に離脱している。
「――BALL」
“視ていた通り”冷気が殺到した。自然界ではあり得ぬ気温の急降下が引き千切るように水分を凝集して、大人をも容易く捉える巨大な氷の球牢を生み出した。
だが無論、ファンは逃げ終わった後。どころか横合いから滑るように回り込み、“全身を氷結させるせいで一つ一つの動作は鈍い”男の懐へ、男が完全に支配する氷結の領域へ、身を縮めながら踏み込んだ。
ヒュウッと別次元の冷気が手足に纏わりつく。男の凍てつく視線がぎょろりとファンを追う。“波”を肌に感じ、素早く身を屈めたファンの髪を、絶対零度の腕が死角から掠めた。数本、髪の毛が凍りつき散らされる。
顔を上げた。男と目が合った。冷然とした瞳の奥に、ごく微量の驚きが潜んでいた。
「――“幽鐘”」
己の頭部よりも高く、蹴り上げたファンの踵が土手っ腹に突き刺さり爆裂する。
目を瞠った男の顔がびしりとひび割れ、氷結の暇さえなく放たれた爆発的な衝波が鳴る。鐘に見立てた男の胴を寸断し、腰から上を粉々に粉砕した。
(もう、少しで…………“合う”)
確信に至るほどの手応え――足応え。だがすぐにまた復活する。ファンは反撃に備えようと伸ばし切った足先を引き戻し――地に足を付けるより早く、青雉の“下半身”が動いた。
「っ!?」
氷結の能力ではない。単に砕かれてなかった部分が行動しただけで――だからこそ察知できなかった埒外からの“反撃”。残る下半身が格闘技の教本に載りそうな――事実海軍式の足技を独りでに放ち、地表を這うように繰り出された水面蹴りがファンの膝裏を猛烈な勢いで刈った。
視界が裏返る。ファンの意識が浮遊感を覚えた次の瞬間、凍り付く硬い地面に背中から激突した。
「あ……っ……!」
痛みと衝撃に息を詰め、身体の芯がじんと痺れた。受け身の余地はなかった。
大人と子供、歴戦の海兵と巣立ち前の雛鳥。いくら衝撃波で威力を誤魔化そうと、高々半年にも満たぬ鍛錬では純粋な地力が――筋力が、圧倒的に弱く、負けていた。それを悟られないよう戦っていたのに、十数分の戦闘でもうぼろが出た。これ以上は長引くほど、ファンが不利だった。
白狐の面に苦痛を押し隠し、仰向けに倒されたファンは、だがはっと赤紫の瞳を見開く。
――風に逆らい、自分目がけて宙を漂い集いくる氷片が、目に映った。
パキ、パキとそれが凍り付く。男の腕となって、胴となって、瞬きの間に造形された絶対零度の身体が、小柄なファンの上に伸しかかる。至近距離で視線が交錯し、凍るほどの冷気が、寒気が、衣服など無意味に過ぎ去り肌を刺した。
白い呼気が、面に吹きかけられた。
「――――アイス――――タイム」
~pm.5:06~
全身から氷を剥落させつつ、青雉は束の間、そこを動かなかった。
フゥー……と氷片混じりの吐息を零し、のっそり身体を離す。
「……時間、かけ過ぎた」
そう言いながら、だが立ち上がりもせず座り込んで、自ら凍らせた相手を見下ろした。
白く、元の色さえ判別不能なほど凍り尽くされた、子供の氷像。狐面に隠され顔は見えない。青雉が伸しかかった瞬間のまま仰向けに倒れ、だが最後の抵抗のように両手を前に突き出して。
「結局能力の正体も分からねぇままだったが……」
呟きが途切れる。遠く、港からの潮風に吹かれ、大砲の音――革命軍の、救助船。
新たな労働の予感に溜息し、ズボンの裾をはたいて立ち上がる。
「まぁ……いいや。後で色々聞かせてもらおうじゃないの」
氷像は答えない。答えられるはずもない。だがまだ、息はあるのだ。凍死の暇もなく全細胞が冷凍されているため、溶かせば息を吹き返す。故に連行すると決めた青雉は、道の真ん中でそうそう砕かれることもなかろうと、騒乱の気配漂う港に向け踵を返した。
「――」
だが――その足が止まる。氷結人間でありながら不意に寒気が背筋を這い上がり、背後を省みる。
子供の氷像が横たわる、変わり映えのない景色――見慣れた氷結の世界、凍った街並み、冷えた空気――おかしなところは、異常は、何もない。そのはずだ。そうでなければ、“おかしい”。
ならばこの――心臓を握られたような不安感は一体、
何
だ
?
「――――“幽鳴”」
「っ……!?」
影のように陽炎のように忽然と前触れなく唐突に脈絡なく、目と鼻の先に“現れた”子供が逆手に握るナイフを青雉の胸に突き刺し抉り貫き――“震わせた”。
振動――高周波。青雉の体内で無茶苦茶に荒れ狂い引っ掻き回しビシビシとひび割らせ、“波”が脳髄から爪先まで突き抜けぐわんと視界が一瞬暗くなりよろけた――よろけた!
「離……れてろ!」
氷結の腕を伸ばし、だが子供はするりとナイフを抜き取り青雉の胸を蹴って背後に飛ぶ。くるくると回転しブーツの底で氷を削りながら着地し、ゆら――と立ち上がる。
「…………惜しい」
そう、呟く子供の背後に――依然として氷像は転がっていた。
「何だってんだ……そこで凍ってるんじゃねぇのかよ」
「そう…………凍ってる」
くふふ、と笑い――嗤い、手のナイフを危なげなく弄ぶ。
「凍ってる…………けど。じゃあ僕は、誰だと思う……?」
嘯く子供は――得体の知れない能力を使う子供は、ナイフの切っ先を揺らめかせ、腰を低く落とす。格闘技の真似事よりも遥かに習熟した、構え。明らかに慣れた――スタイル。
「寒かった…………寒くなかった? 戦ってた…………本当に、戦ってた?」
おどけて、道化て、嘘か真か、真か偽か。謡う子供のナイフが揺れる。
「ごちゃごちゃうるせぇ……お前が誰かもどうだっていい。――全部凍らせる」
「くふふ…………そう、その通り。…………でも、おかげで“合った”。今ので…………微調整も、できた」
「微調、整……?」
言葉の意味を捉えかね――だがはたと思い至り、青雉は表情を変える。
「次は…………重いよ?」
面の奥に炯々と瞳が光った。ぞっ、と吹き荒れる確信的な殺意の奔流に青雉の直感が警鐘を打ち鳴らす。
能力は分からない――訳が分からない。覇気さえ纏わず、だが先程の高周波で青雉は“よろめいた”。原理も理屈も不明。藪の中。だが、あの攻撃は――“ヤバい”。
確実に止めなければならない。
「っ……アイスサーベル!」
子供が突っ込んでくる。氷の欠片を蹴立て真正面から突撃してくる。狙いは瞭然。互いの距離が詰まる。ナイフが閃く。青雉は生み出した氷の刃を握り、子供の胴目がけ――連行のことなど頭から消え、殺すつもりで両断するつもりで赤い上着を薙ぎ払った。
子供は止まらない。躱さない。爛々と狂気的な殺意の塊となって躊躇の欠片もなく刃に身を躍らせ、
―――氷刃を“すり抜けた”。
「んな……っ?!」
両腕が、振るった勢いに持って行かれる。体勢が崩れる。
子供が飛んだ。走駆と体重の全てを乗せたナイフが、深々と青雉の胸に突き立った。
「“幽――――鳴”」
振動が鳴る。響く。青雉の体内を駆けずり回り、その全てを余すことなく震わせ――氷結人間である青雉の“固有振動数”――ヒエヒエの実と全く同じ波長が“共鳴”し、“共振”する。わぁぁんと人間の耳に聞こえる筈のない高周波が頭の奥で喚き回り、視界がブレた。
「――っ!?」
全身が軋んだ――腕も首も腹も胸も足も骨も臓器も頭も神経も何もかもが傷み軋み喘ぎ――中も外もなく全身を狂ったように殴打されたような“苦痛”。青雉の膝が折れる。血が口の端から零れる――“傷付けられていた”。
生物無生物を問わず、この世の森羅万象は須らく揺れやすい“波長”を持つ。即ち固有振動数。“共振”に青雉の波が同調、相乗、増幅され、“幽き悲鳴”の名のままに絶叫を奏で、細胞単位で“自壊”させられた。
「…………!」
だが、すぐ傍にある面の奥が驚いた気配を醸す。何で死んでない、と言わんばかりに子供が刺したままの――そこだけ氷となって傷付いていない胸から突き出たナイフの柄を強く握り直し――だがはっとした様子でナイフを抜き飛び離れた。
「ちっ……外した……か」
ごほっ、と咳をした拍子に赤い塊が地面を濡らし、瞬く間に赤い氷となる。腕のサーベルを振りきった姿勢から、青雉はよろめきつつ膝を伸ばした。
「ようやく、分かった。……“波”だ。お前は……“波”を操る能力者だ。衝撃波、振動、念波妨害……すり抜けたタネは分からねぇが……それでほぼ、説明できる」
「…………!」
幽然とどこか余裕を残していた気配が波打ち、子供の姿が背後の景色に溶けて消える。だが完全には消えていない。――消えていたら、向こうからも攻撃できない。
故に青雉は間髪入れず氷刃を横手に突きつける。硬質な、金属を打ち合わせたような手応えが返った。ゆらりと虚空に狐面が揺らぐ。両手で握られた子供のナイフと青雉の氷刃が噛み合い、鍔競り合う。が、体格差で容易く均衡が崩れ、押し負けた子供は慌てて後ろに跳び離れた。
「そして今の……逃げたな。氷結も、俺のサーベルもすり抜けられるのに……逃げて、離れた。つまり、“避けられない攻撃”があることを知ってる。だから、今まで、全く、完全に、透過能力を隠して戦っていた――俺に、“避けられない攻撃”を使わせねぇために!」
「…………っ!」
子供は答えない。仮面の裏に表情を押し隠し――だが飛びかかっても――来ない。
青雉が一歩、近付いた。子供はぴくりと――後ずさった。
「“覇気”の籠もった攻撃を無効化できない――故に能力任せの自然系より、お前は“ただの覇気使い”が、苦手だ。……身体が出来上がってねぇのもあるんだろうが、珍種だな。何の実だ?」
「…………」
「答えねぇか。それもいい。……どうせすぐ、喋ることになる」
奈落――底無しの冷気を腕に纏わせれば、子供がナイフを片手に持ち替え身構える。無敵の仕組みを看破され、だが逃げ出さない姿勢に青雉は素直な称賛を抱いた。
港からの騒音は既に途絶え、逃げたにせよ捕らえたにせよこの場を除く戦闘は終結している。ならばこれ以上、戦う必要はあるのか? ――答えは、“ある”。青雉の能力ならば水平線の彼方までを瞬時の内に永土と変えられる。脱出したと仮定するなら、少なくとも船が目視可能距離から消えるまで青雉を足止めしなければならないのだ。
「アイスブロック――」
凍気を氷結させ具現する。其は氷鳥。極寒の覇気が精錬される氷に纏わりつく。
腕を曲げ、子供が全身で斬り払う姿勢を見せた。握るナイフの刀身が、ヴ――と低く鳴動する。
停滞。刹那に、永遠に、時が止まる。音が絶え、色さえ失われる程の静寂に身を浸し、だが不意にどちらからともなく動いた。
殺気が押し寄せた。むわっと鼻孔に香るほど。言葉はなく、だが万言に匹敵する殺意が迸り、子供の銀閃が完璧な三日月を空に刻んだ。同時に氷鳥もまた飛び立ち、青く煌めく翼から氷華を零し天を翔けた。
「“暴雉嘴/フェザントベック”!!」
「“幽谷鳴閃”!!」
刻む鋼の軌跡が凄絶な斬撃の波と化し、羽ばたく氷の雉と真っ向から激突した。波と氷が互いを喰らい合い一歩も引かず削り合う。舞い散る氷の花弁と三日月の斬波。有形と無形の果たし合い。
音が勝敗を告げる。ビシビシと氷の身体にひびを入れ、悲鳴する氷鳥が次の瞬間、斬撃を巻き添えに無数の塊となって砕け散った。
相討ち――相克。刃を振りきった姿勢から、子供が体勢を立て直しその身を幽玄に溶かそうとする。だがばらばらと足元に降り注いだ氷の破片が、突如として“腕”を生んだ。
「あ……っ……!」
腕が、掴む。足首を鷲掴み、パキパキと肩を生やし上半身を作り下半身を形成し、“氷鳥にまぎれていた”青雉が、咄嗟にナイフを突き立てようとした子供の腕をも掴み止める。
「予想通り……“直接”俺の身体を震わせねぇと、ダメージは徹らねぇか」
「っ…………!!」
子供が自由な腕と足で衝波を打ち込む。だが青雉は身体を氷と化すことなく、生身のまま受け止めてみせる。
「無駄だ。そんな威力じゃ俺の“覇気”を破るまで、三日はかかる」
「覇気って…………何……っ!」
「後でなら教えてやるが……あらら、やっぱ凍らねぇな」
無敵の透過ではなく、子供の体表を覆うように奔る振動が氷結させんと張り付く氷の膜を片端から叩き壊していく。温度と関係なく動き続ける物体など自然界に存在し得ないが、悪魔の実は物理法則を凌駕し、子供の波動は氷結を絶対的に拒絶していた。
「どうするかね……凍らずとも俺に触れてる以上、じきに寒さで凍え死ぬのは確実だろうが」
「死な、ない……っ、…………行かせ、ない……!」
口調は強い。だが青雉には聞こえる。カチカチと、奥歯のなる音。氷の腕に囚われ、蝕まれる体温。
「は…………っくしゅん!」
「……くしゃみまでして何言ってんの。大体、お前がここまでタマ張って革命軍に肩入れする理由はあんの?」
「…………別に、ない。僕は…………革命軍でも、ない」
「……は?」
「でも…………言ったから」
ふら、と狐面がよろめく。寒さに意識まで奪われそうなほど――そんな有様で、声を掠らせ、だが隙を見せれば刺し殺されそうな眼光を面に覗かせて。
「僕が……言った。…………任された、って。軍艦と、アオキジを…………何とかする、って。…………そう、言ったから…………だから」
子供が自由な方の腕を伸ばした。その手が、青雉の身体に触れる。くしゃ、と服を握り締める。
「お前は……………………行かせない」
「っ――!?」
猛烈に嫌な予感がした。ばっと腕を振り払おうとする。
しかし――子供の囁きが、速かった。
「――“幽、歩”」
ふっ、と。
子供と、青雉の姿が掻き消えた。
夢か幻であったように、忽然と、脈絡なく。
誰もいない氷結世界に、子供のナイフが落ちて、砕けた。
微塵の破片は、舞い上がることなく氷土に受け止められ、誰にも知られず、役目を終えた。
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フルボリュームでお送りしました……と言っていいのかな? とにかく、頑張りました。ほとんど初めての本格戦闘シーン、お楽しみいただけたら幸いです。
後、珍しく今からちょっと感想返ししようと思います。ええ、最近何やら色々と感想入れてもらっているのが嬉しくて……^w^
戦闘も一段落したし、学校も始まったので更新ペース遅くなります。これまで通りに戻るか、もっと遅くなるかは不透明……。単位が危ないのでTwT
以上。……次回のタイトル、どうしようかな。