一匹、二匹、三匹、四匹。
自由気ままに実に気楽に、天空で寝そべる羊雲を片端から数えていく。
二十五、二十六、二十七、二十八……。
日差しは大したものではなく、風は図ったような追い風で、ぐんぐんと海流に乗り進んでいく。どこへ向かっているかは知らないし、知ったところで意味はない。外の知識は皆無どころかほぼ絶無。知ったかぶるつもりはないけれど、知らな過ぎるのも問題のような気はするけれど。
百四十七、百四十八、百四十九、百五十…………。
ドラゴンの申し出を受け、自分とラナは客人として船に乗っている。家業を継ぐ程度の未来予想図しか持つことはなかったので、今後何をし何を目指す人間になるかは未定不定の宙ぶらりん。ラナはどうだか知らないけれど、革命とやらにも興味はない。島や村に未練があるくらいなら、自分はもっと泣くなり悲しむなりするはずで。
三二三、三二四、三二五、三二六………。
…………。
……………………。
……………………………………。
「暇」
「……いきなり天井から顔を出すな」
羊雲を数える作業に飽きた、宙吊りと言うべきか悩む状態のファン。
壁床天井が意味を成さない客人に、船長ドラゴンは額に手を当て小さく嘆息した。
一日目 ~究極の……~
やることがないなら船内の雑務でも手伝えと、実にもっとものようで投げやりな指示を受けたファンが向かったのは厨房。ここで船内全員分の食事を賄っているだけあって、調理器具や食材が隙間なくそこら中で並び使われている。
縦にも横にも太目なコック長に手伝う意を伝えたところ、こいつ使えるのか?という考えが丸わかりの表情で、山と盛られたジャガイモを用意される。皮むきらしい。
「一時間でおわりゃ上出来だぁな」
まぁ無理だろうが。
と、続けられれば誰でもカチンとくるはずだけど。少年は特に何も感じなかったけれど。とは言え洗われてもいない丸のジャガイモ五十個ばかりとなれば、諦めるのが先か飽きるのが先かという感じだった。
「…………」
なるほど。
これは挑戦と受け取る。
違うと言われても挑戦と決めつける。
内心で大いにやる気を上げながら、全く動かない表情筋。
眠たげな表情で一個目に手を伸ばす少年を、こいつ大丈夫か?と悪い方向に考えを改めて見やりつつ、己の職分に戻る。
魚を捌き始めて数分、袖を引かれて顧みれば赤紫の少年。
「あ? まさかもう止めるとか言わんだろなぁ?」
ここで頷けば客人だろうが天竜人だろうが……いや天竜人は率先して殴りたいが、身分に関わらず仕置きするつもりであった。しかし、少年はフルフルと首を横に振る。
「終わった」
「……はあ?」
「皮むき……終わり」
「んなわきゃあるかぁ! どんなコックでも三分かそこらであの量が終わるわきゃ…………あるぅううううっ!?」
でんっ、と鎮座ましますのは瑞々しい中身を晒す積み上げられたジャガイモ群。
素っ頓狂な声を上げたコック長が手に取ると、幻でも蜃気楼でもないイモの粘っこさ。
「どっどどどっどうやったこれ!?」
「…………」
少年はまな板の上の魚に手を伸ばし――するり、と“骨だけ”を抜き取った。そして尾から頭まで丸ごとの骨が投げ入れられた生ゴミの樽には、中身を失いぺたんこになった皮が幾層にも。丁寧に芽まで纏めて。
洗う手間なしむく手間なし。ファンにしてみれば、ただ移し替えるだけの作業なのだった。
「…………ぁ」
わなわなと震えるコック長を横に、少年ははたと思い至る。
こんなに早く終わらせては、暇つぶしの意味がないではないか……と。
「……」
まあ、いいか。
「――船長! 是非ともあの子を厨房の専属にッ!」
「……本人に掛け合え」
猛然と船長室に駆け込んで来たコック長へと頭痛を堪えるような一言。
しかしもう断られた後だったりする、究極の皮むき職人。
三日目 ~くまさん~
ごっしごっしとブラシで擦る、デッキの汚れ。粗方終わって、ラナは一息。そして小さく欠伸をする。ここの所、少し寝不足だ。
「……ファンは台所かな?」
初日から何かしでかしたらしく、コックの人に追われていた。ひょいひょい壁や床をすり抜けるので捕まえるのも容易でない様子だったが、余りのしつこさに辟易……もとい根負けしたのか何事か話していて。一日一回とかいう声が聞こえてきたけれど、何のことだろう。迷惑かけてないといいけど。
「それにしても……本当に大っきな船」
頭の後ろで結った黒髪を振って、ラナはデッキの先端から自分の乗る船の全景を仰ぎ見る。
大きい。とにかく大きい。島で住んでいた家なら、十軒は余裕で収まってしまう。船上に重なっているだけでなく、船の中も多くの層に分かれていて、居住区や食糧庫、武器庫、作戦会議の広間。街一つとはいかないけれど、街の一区画ぐらいの設備は軽くある。普段島に来る最も大きな交易船でも、この半分くらいだ。
でも何より驚いたのは、大浴場の存在だ。普通船の上となると真水は黄金に匹敵するぐらい貴重な物なのに、それこそ湯水の如く使っている。男女が時間交代で毎日。海水をろ過する装置があるらしいけれど、ロカって何だ、ってまず聞いて思った。そんな物、島にはなかった。
必要なかったとも、言うけれど。
「……あ」
すいっ、と見上げていた船の上層部。壁からファンが透過してきて、こちらに気付く。軽く手を振ると、赤紫の少年はコクコクと頷き、今度は床の中へと消えていく。
……さっきまで荷物運び手伝っていたような。
船内が少し騒がしいような気もするけれど、多分ファンが間違って女の人の着替えシーンを目撃したとかそんなところだろう。でも覗かれたことより、興味の欠片もなく素通りされたことに怒る人が多かった。
実際に最後までヤるならともかく、ただの裸はファンにとって対象外らしい。変態じゃなくてよかったと喜ぶべきか、同じ女性として怒るべきかは甲乙つけがたい所ではあるけれど。
「……島から出て、一度も襲ってこないし」
昼の間は、食事の時ぐらいしか一緒じゃないけれど、夜寝る時は同じ部屋で、相部屋なのに。
ほとんどの人が雑魚寝の中で、ドラゴンは小さいながらも個室をくれた。最初にファンを寝かせたあの部屋で、同じベッドを使って眠っている。本当は二つ、それぞれ使わせてくれようとしたけれど、ファンが率先して断った。わざわざ二つも要らない。自分とラナは従姉弟だとか嘘まで吐いて。
……実際従姉弟からもう二等親ぐらい離れた血縁関係ではあるけれど、それこそ百人足らずの島の話。何らかの血縁がない方がおかしい。
いや。
そういうことが言いたいのではなく。
同じ部屋で、同じベッドを使っておきながら、全然積極的じゃない。犯すとか汚すとか、散々言ってたくせに。訳分かんない。
「私からは……できないのに」
「何がだ」
「何ってそんな――のっ!?」
声が裏返った。
慌てて振り返ったラナが見たのは――見上げたのは、丸い耳付きの帽子を被る巨漢。
「――――」
デカイ。素直な感想。というか、それしか思いつかない。
五……六メートル?もっと?
百四十センチに少し足りない自分の、優に四倍以上はある上背。太陽を背にして、ラナの影をより大きな影が塗り潰している。
「見ない顔だ」
「ふぇっ……!?」
茫然と自失していたラナは、その言葉でようやく我に返った。
「あ……え、えと、一昨日から船に乗ることになった、ラナ・アルメーラです!」
初対面の人にはまず挨拶を。
親の教育が窺える礼儀正しさで頭を下げた少女に、巨漢は何か感じ入ることがあったらしい。
赤紫の少年とはまた違う無表情で、と言うよりこちらが一般的な無表情で、膝に届くかどうかという少女を見下ろした。
「俺はくま。今時の海で礼を尽くす人間は珍しい。アルメーラ、お前の名は覚えておく」
「え…あ、その……すみません、アルメーラは家名で、名前がラナです」
「…………」
どこの海でも、家名で相手を呼ぶことはまずない。家名とは家系で、謂わば一つのコミュニティ全体へ呼びかけるに等しい。……家名の語呂が良かったり、そちらが知れ渡っていたりしたら、必ずしも常識に縛られるわけではないが。
微妙な沈黙が流れ、ラナは気を取り直すように笑いかけた。
「えっと、くまさん……ですね? 私も覚えておきます」
「……ああ」
「というか、忘れません。くまさん見たの、生まれて初めてですから」
「あ…あ……?」
頷きかけて、言葉の内容に違和感、齟齬を覚えるバーソロミュー・くま。
「……初めて?」
「はい! 私の島にはいませんでしたから」
「………何がだ?」
「え? ですから――“熊さん”」
「……………………」
「でもお話だと動物なのに、本当は人間だったんですね」
知りませんでした、とはにかむ少女へ何と言ったものかと、くまは悩む。
壮絶を超えて空前絶後の勘違いなのだが、さしもの“暴君”も本物の熊に間違えられたことはなかったが、そして事実手の平には肉球もあるのだが。
世間知らずもここまで来ると清々しい。覚えておくとは言った。しかしそれこそ忘れられそうにない。
「……くまは名前で、俺は人間だ」
「…………はぇっ!?」
間違いを指摘した途端、すみませんすみませんっ、とぺこぺこ頭を下げる少女。
実際は改造人間であるという嘘も相俟って、ただ立っているだけで威圧的な“暴君”は珍しく、困り切った様子で眉根を一ミリ下げた。
「……これをやる」
「すいま……せ?」
尚も謝りかけた少女の手に、本来は土産物の菓子箱を押し付け、のっしのっしと歩み去る。
「いっ、いえこんな物もらうわけには!」
「それで俺の気が済む。俺のために受け取れ」
そう言われると、基本思いやりのある少女としては返す口実がなくなってしまう。
かつて暴虐の限りを尽くし恐れられた“暴君”であるなどと、当然ながら知らないラナは自分が見て感じたまま思う。
……いい人だ。
六日目 ~不思議生物~
ドラゴンの部屋には様々な物がある。寝台やテーブルは当然、表紙からして難しそうな書物、多くの名前が書かれた名簿らしき紙や新聞、海賊の手配書など。今日は西の海を離れ、広く世界の概観が映し出された地図が、四角い卓に広げられていた。
「正確で詳細な海図を描くには、相当の腕が必要とされる」
向かい側の椅子に座って身を乗り出してくるファンに、ドラゴンはどことなく諦観を浮かべて言う。
「海軍の出版する海図もあるが、海賊の手に渡っても問題とならないよう、重要な拠点となる島は地図から除かれる。凪の海や偉大なる航路となると、海王類の生態活動で頻繁に海流や海底の趣が変わり、例え海図を作ることができたとして、鉱物の影響で東西南北も不確かとなる」
「………………」
興味があるのかないのか、聞いているのかいないのか、外からは全く判別できない無表情かつ無反応。ひょっとして寝ているんじゃないかと疑心暗鬼が首をもたげると、ふいっと視線がドラゴンを向く。続き、とその目が語る。
「…………海王類の中には島を呑みこむほど巨大な種もいる。文字通り海の王者と呼ばれるが、その生態は数世紀を経て未だ全貌を明らかにされておらず――」
興味もあるし、聞いてもいるらしかった少年に、説明を再開。過去に確認された海王類の写真や絵、描写がされた図鑑からその危険性を指摘し、万一出くわした時の対処法を教え込んでいく。
話しながら、ドラゴンは思う。
……なぜ、俺の所に来る。
毎日、というか日に幾度も。ファンはどこからともなく(具体的には扉を使うことなく)訪れる。当初は暗殺を想定したが、別段そういう目的ではなく、特にこれといった理由もなく、ただ何となくやって来ているだけらしかった。そもそも、船に乗って以来あの純然たる殺気は一度も放たれていない。
適当な理由をつけて追い出すのも、自分から出て行くのも二日で諦めた。またすぐ戻ってくるし、出て行ってもフラフラと後を付いてくる。イナズマなど「見事に懐かれたようですね……」と感心する有様だ。
覇気で脅した相手に懐く意味が分からん、と酒の席でくまに零せば、「原因はそれだな」と更に訳の分からない言葉が返ってくる。どれだけ悩んでも回答に行き着かないため、この問題という名の疑問は棚上げしたが。
一昨日の昼、テーブルに広げてあった海図を眺めていたファンが、数日振りにまともな文章を口にした。
「……これ、何?」
僅か二語の文章ではあったが。
ともあれ、海軍の動向に関する定期報告に目を通していたドラゴンは、指差された物へと視線をやり、表情を暗くする。海図の上から手描きで描き足され、赤い文字で記された島。
「……それは、オハラだ」
「オハラ?」
繰り返した少年に報告書を閉じ、そうだ、と頷く。
「オハラ……十六年前、海軍の手により存在を抹消された島。世界政府から実在を否定された考古学の島……。その翌年から、海軍の発行する地図にオハラの名は消えた」
「……なぜ?」
「歴史の本文」
初めて聞く固有名詞が分からず、少年が首を傾げる。こういう字を書く、と適当な紙にインクで記す。
「世界の歴史には記録されていない百年の空白がある。歴史の本文はそれを示す手がかり、そして空白の百年そのものだ。政府はこれを調べることを禁じ、その禁を犯したためオハラは島ごと灼かれた……」
と、目の前の少年が現実に島を灼かれたことを遅まきながら思い出し、酢を飲んだような顔をする。
しかし当の少年は気にした風もなく、相変わらずの眠たげな無表情で、疑問を滑らせる。
「なぜ、禁止?」
「…………表向きは、危険な古代兵器を復活させないためとされている」
やや硬い声で、ドラゴンは続けた。
「だがその実、世界政府が政府たる資格を失うような……あるいは単に不利益な何かが隠されているのではないか、と考える説が有力だ」
もっとも、ただの不利益で島を一つ滅ぼすのは、理由としてはいささか弱い。故にそれだけの手段を取るに足る、相応の理由があると見て間違いはない。が、如何なる理由があろうと罪なき人々を殺める政府があってはならない。
ファン、そしてラナ。生き残った二人の島と同じく、決して忘れてはならない島の名だ。
……生き残りと言えば。
おもむろにドラゴンは立ち上がり、書棚へ向かう。目的の品を見つけてテーブルへ戻り、少年の前に広げた。
「……手配書?」
「そう。十六年もの間新たな顔写真すら撮られることのなかった、そして手配を取り消されることもなかった、オハラ最後の生き残り。古代文字で記された歴史の本文を読めるというだけの理由で、海軍から無実の罪を着せられた当時八歳の少女――ニコ・ロビン」
「………ニコ」
「違う。ロビンだ。ほとんどの海では姓が先、名が後。君たち二人の島が特殊な例外だと覚えておけ」
「…………」
……、と少年は黙ってしまう。いや普段から無口ではあるが、この時は黙ったと表現するのが正しいような気がした。
居心地の悪い沈黙。それが自分のせいのように思えたドラゴンは、沈黙を打ち破るつもりで口を開く。
「何か……他に聞きたいことはあるか?」
「……………………」
数秒が経過したのち、ファンが指差したのは自分だった。
「ドラゴンを赤くする方法」
「他のにしろ」
ごん、と拳を落とした自分は悪くない。何ですり抜けられないのかと、涙目で見上げられても罪悪感を抱く必要は全くない。
覇気を教えるのは当分先が良さそうだと溜息した。いずれ知れるにしても、せめて今しばらくは。
この会話以降、少年が欲し必要とする知識をドラゴンの手が空いた時に教える形が出来上がった。無口で、偶に自分を殺す手段を模索する以外は優秀な生徒だった。欠点の一つが何やら致命的な気もしないではないが。
「……よって、凪の海は海賊はおろか海軍でさえ近付かない。一応抜け方も存在するが、それも完全ではない。……今日はここまでとしよう。この本は貸しておく。自分でも復習しておけ」
夜も深まり、普段から眠たげな少年が前後に傾き始めたことで終了を告げる。ピタリと舟を漕ぎかけていた少年が止まり、首を振って続行の意を示したが、成長期の子供に夜更かしを勧めても仕方がない。
「まだ先は長い。今夜はもう寝ろ」
「…………」
表情は全く動かないが、どことなくしゅんとした気配が漂う。以前、慣れれば分かると少女の言っていた意味が分かった気がした。無表情なくせに、なぜか感情が垣間見える。見えてしまう。何の不思議生物だこれは。
それはすなわち、慣れてしまうぐらいの時間を共有したということになるがともかく。
帰り支度を終え、扉へ向かう少年の背にふと訊ねた。
「…なぜお前は、俺に教えを請う? イナズマや他の者ならば、より多く教授の時間も取れるはずだ」
「…………」
振り返り様、少年が腕を振るう。しなりを持って三叉に分かれた食器――フォークがかなりの速度で飛来し、額を狙う。
無論、ドラゴンの命を脅かすにはまるで足りない。難なくキャッチして、食事時にくすねたな、と片眉を上げる。速さを除けば、正確な投擲だ。狩りによくやっていたのかもしれない。
「……で?」
「…………」
コクリ、と一つ頷いて、踵を返した少年は扉の向こうに消えてしまう。つまり、今の行動が答えらしい。
嘆息し、片手でフォークをもてあそぶ。
「殺せないから、俺の傍に来る――か?」
なかなかの問題児だ。これから先も苦労しそうだった。
だがそれ以上に問題視するべきは、少年が元からああなのか、それともあの夜以来壊れてしまったのか、この二つだろう。
後者なら改善の余地がある。荒療治になろうと幾つかの手が打てる。
しかし、前者なら……。
「……前途多難はいつものことだが、これは少々毛色が違うか」
卓上に放り捨て、ドラゴンは天井を見上げた。その向こうに広がるだろう、海と等しく雄大な空へと意識を当てた。
狂気と凶気を友にして、鬼気と正気の境界線を行きつ戻りつする少年に、天意は何を課すつもりなのか。
らしくもなく、感傷的に。
同日 ~二人~
ふらりと影が伸び、ベッドでうつ伏せになっていたラナは寝返りを打った。同室の少年が音もなく帰っていた。
「お帰り」
「…………ん」
分厚い本が机に置かれ、ランプの火を吹き消したファンが隣で横になる。
手を伸ばさなくても、触れ合う距離。
けれどファンは、それ以上触れてこない。
胸の奥に不安が芽生えるほど、何も。
「まだ……起きてる?」
船体と、ぶつかり砕ける波の音。夜を徹する、自然の軋み。
静寂の乱れに声を乗せ、うっすら開いた赤紫の瞳は、闇の中だと黒く見える。
「……えっと……」
注がれる少年の視線に、口籠もった。何を言うべきか分からなくなる。
現実問題として、実際問題として。この船に保護された今、他に守ってくれる人ができた今、少年に身を捧げる必然性が消えてしまった。少年の力に頼る必要性が排されてしまった。それどころか、無理やりレイプされたと訴えることもできるようになってしまって。
なのに――少年から逃がさないと言われた時、部屋は同じでいいと言われた時。否定できない自分がいた。否定しなかった自分が、いる。
一人きりの部屋は確かに怖いけれど。激変した環境で、一人の夜を過ごしたくはないけれど。
「………………」
整理の尽かない感情を持て余していると、するりとファンの腕が伸びてきた。掛け布を、衣服を透かして、素肌へ直に、ファンの指が触れて。
一気に頬が上気した。かぁっ、と血が集まる。ほとんど一週間何もされてなかったから、耐性とか免役とか、そういのがまるで削げ落ちていた。胸元の膨らみをなぞる指先に、異様なほど神経が灼かれる。
少年の手が背中に回った。そのままぴったりと、全身が触れ合う。抱き締められる。
心臓が鼓動を刻んでいた。ドクドクと脈打つ音は自分の音。少年の心拍は――緩やかだ。
……緩やか?
「…………すぅ」
「……」
「……くー……」
「……………………」
――寝ないでっ!
無性に腹立たしい思いを少年の後ろ頭にぶつけようとしたが、そのまますり抜けて自分の額にしこたまジャストミートしてしまう。
ちょっと涙が出た。
断じて悔しいからじゃない。
「勝手っていうか……」
脱力しつつ、脱力しかできない現実に黄昏れつつ、ぼやく。
「ファンって……自分本位だよね」
殺したいから殺し、犯したいから犯し。
眠りたいから、眠る。
恐ろしいまでにマイペース。自己中にもほどがある。
「……」
一方的な触れ合いに理不尽な物を感じながら、けれどファンは最初から理不尽だったと思い直す。
理不尽でありながら、本当に大切な所は押さえてくる。
例えば――夜、少女が悪夢に魘されていると、今のように抱き締めてくれたり。
酷い時は起こして、眠れるまで一緒に起きていてくれたり。
無口で、慰めるようなことは何一つ言わないけれど。あの赤い夜を悪夢に見る自分の傍へ、いてくれる。
明日で丁度一週間。
よく保った方かな、とラナは小さく呟いた。
かつての想いは、新しい火を受け淡雪のように溶けかかっている。
――――もう、過去の物と、して。
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ドラゴンが空白の百年を知っているかは不明。しかし物語の進行上影響はない。