子供時代のエルは髪を伸ばしていた。肩を過ぎるほどの位置で、鳶色の髪が走ると猫のように飛び跳ねる。表情も柔らかくて、幼い。少しお転婆な印象はあるけれど、天真爛漫という言葉が似つかわしい少女だった。
そして決定的な違いは、背中に羽がないこと。
《母親は海軍将校、父親は妻の持ち帰ってくる航海日誌を編纂し読み物として出版する仕事をしていたらしい。夫婦仲も良く、裕福で何不自由しない暮らしだった。ただ一つ、母親が一年の大半を航海に出ていることを除けば》
子供にしては恐ろしい速さで走る子供のエルを、ラナは懸命に追いつつアゼリアの声に耳を傾ける。軽い調子を消し、検査結果を淡々と読み上げるような事務的口調で、アゼリアが続ける。
《そんなある日、少女は母恋しさの余り彼女が持ち帰った悪魔の実を食べてしまう。強くなれば、力さえあれば母と一緒に海に行ける。そんな感情の発露だった。トリトリの実幻獣種、モデル獅子鳥。少女は確かに強くなった。並みの大人では敵わないほどに。そしてその力を無闇に振るわない自制心をも幼いながら備えていた。……しかし、それでもやはり母は娘を航海に連れて行くことを拒絶した》
街を抜け港の桟橋にたどり着き、ラナは親子の再会と拒絶の場面を見る。どうしても一緒に居たいと願う少女、自分が人を殺す姿を見せたくない母親。どちらの心も分かり過ぎて、胸が締め付けられる。
ページをめくるように風景が変わった。それに驚く間もなく鬨の声が銅鑼のように響き、思わず立ち竦んだラナの周りで剣戟が幕を開けた。そこは船の上だった。海軍と海賊の白兵戦だった。
《せがむ娘を宥めすかしていると、海軍本部から急報が入った。海賊船の目撃情報が寄せられたのだ。数日はゆっくり過ごす予定だった母親は休暇を取りやめ、ぐずる娘を宥めすかしすぐに出航した。島に置いてさえ行けば、娘の安全は保障されていたのだから。しかし……》
アゼリアの声が途切れたその時、遥か天空から矢のように影が飛来した。ラナが息を詰める前で、獅子と猛禽の爪を手足に持ち、翼を背に翻した少女が稲妻の速さで海賊たちを強襲した。爪で引っ掻き、体当たりし、あるいは大人顔負けの腕力で投げ飛ばす。
自らも戦っていた女性が驚愕に叫ぶ。
『ユエルテッ!? まさか港からずっと……!』
『母様! 私だって戦える……戦えるからっ!』
まさに獅子奮迅。獣の膂力で少女は海賊を追い立てる。だがそんな目立つ存在が目を付けられないはずもない。離れた位置から狙い定める幾つもの銃口に、少女は気付いていなかった。
『ユエルテ――ッ!!』
女性が駆けた。娘のために。そして響く、銃声。
『……かあ、様……?』
呆然と、見上げる少女の頬に飛ぶ、赤。
『無事……だな?』
よかった、と女は笑んだ。背に幾つもの弾を受け、血の塊を口から零して。
あ、と少女の身体が震える。顔が青ざめる。己の仕出かした行為が、何を招いたか悟って。
この戦闘における最大戦力が重傷を負い、俄然色めき立つ海賊たち。反対に動揺し、焦りを見せる海兵たち。
『――うろたえるなたわけ共!!』
だがそこに、中将たる女性の檄が爆裂もかくやと飛ばされた。
傷を負い、なお揺らがぬ光を目に湛えた女中将の怒号に場が静まり返る。海賊たちでさえ息を呑み、動きを止めざるを得ないそれ。
『貴様ら、私がこの程度でどうこうなると思っているなど勘違いも甚だしい。極刑だな』
ひぃ、と海賊よりも部下である海兵の方が恐れ戦く。女はふん、と鼻を鳴らし。
『嫌なら戦え、戦え! 正義を名乗るからには無様な敗北など決して許さん! 戦えたわけ共っ!!』
オオッ、と上がる喚声に、今度は海賊たちがたじろいだ。そこへ攻勢に出る海兵たち。
女はその光景を見届け、娘に向き直る。
『ユエルテ』
『あ、あの、かあ、母様……私、私……!』
『何も言うな。ずっと一人にしてきた私にも責はある。……寂しい思いをさせて、すまなかった』
『か、母様……ごめん、なさい。ごめんなさい……!』
ぽろぽろと涙を流す娘を血塗れた胸で数秒、抱き締める。だがすぐに離し、娘の肩に手を置いて女は真っすぐ鳶色の目を見つめた。
『いいかいユエルテ、よくお聞き。お前はこれからすぐ島に飛んで帰って、応援を呼ぶんだ。お前は海軍中将の娘だ、誰もお前の言葉を無碍にしたりはしない』
『で、でも、母様……』
『ユエルテ。私は海の上で船長の指示を受けたらどうしろと教えた?』
優しく言うと、少女は涙を浮かべながらもぎゅっと手を握り締めて。
『……ぜ、絶対、指示には従うように。そうじゃないと、指揮も規則も、成り立たなくなっちゃうから……』
よくできた、と言うように女性は娘の頭を撫でた。少女も涙を拭い、背中いっぱいに翼を広げる。
『頼んだぞ、ユエルテ。私の愛し子』
『はい、行って来ます……!』
力強く翼が大気を打ち、天空へ翔け上がる。見る間に小さくなる背を見送って、女は細い息を吐いた。よろけそうになるのを船縁に捕まってこらえ、だがこらえ切れずずるずるとその場に膝を着く。
《母親の取り繕っていたそれは虚勢だった。今にも倒れそうなのを気力で持ち堪えていただけだ》
アゼリアの声が耳元に聞こえ、見入っていたラナは我に返る。
《母の言葉は娘を逃がすためだけに費やされた。この頃にも電伝虫はあったのだから、娘を使いに出す意味はない。全ては方便。……だが母の愛情は、天の理によって裏切られる》
風が吹いた。急激な風だ。女がはっと顔を上げる。娘の飛び立って行った方角を見る。
『あ……ああ……っ』
ラナも女性と同じ気持ちで、呆然とそれを見上げた。思わず、声が零れた。
「……サイ、クロン」
海は、無慈悲だ。人間の瑣末な感情など歯牙にもかけない。
轟々と風が荒れ狂う。渦を巻き、旋風を巻き起こし、海面から立ち昇る一本の巨大な柱と化して何もかもを天空へ吹き飛ばす。
女性が、何かを叫んだ。たぶん名前だ。けれどラナの耳には聞こえなかった。ぐるぐると世界が回り、平衡感が消え失せる。気付いた時には軍艦も海賊船もなくなり、ラナはどこかの島の浜辺に立っていた。
「……エルは!?」
《安心しろラナ娘。あれで羽娘が死んでいたら夢はもう終わりだし、ラナ娘に会えるわけもない。後ろだ》
勢いよくラナが振り向いたそこに、鳶色の幼い少女が力なく、座っていた。海水を吸って奇麗だったスカートは重く濡れ、砂に汚れた表情のない顔が、茫、と海を向いていた。
《幸運にも能力者でありながら溺れることなく漂着したそうだ。サイクロンに吹き飛ばされる最中、巻き上げられた流木に必死でしがみ付いたらしい。羽娘は九死に一生を得た。……だがそれはたった六歳だった羽娘の、辛く苦しく、そして果てしもなく長い孤独と絶望の始まりでもあったのだ……》
…………
……………………
…………………………………………
どれほどの時間、少女がそうして海を見続けていたかラナには分からない。夢の世界に時間の感覚はない。だからじっと、自分も一緒になって小さなエルの隣に座り、待ち続けた。
『……母様』
ぽつん、と幼い声が涙と一緒に落ちて、ラナは顔を上げた。エルがぐしぐしと腕で目元をこすり、ようやく立ち上がる。
『グランドラインで遭難した時は……島にたどり着いたら、絶対海に出ないこと。お水と、食べる物と、安全の確保と……住んでる人が居たら、怖くないか確かめて、話しかけて、それから、それから……』
指折り母に教えられたことを数え上げ、少女が浜辺から離れた。砂浜を少し歩けばすぐに草木が密集して生える、熱帯雨林の様相が始まる。がさがさ茂みを揺らし一生懸命歩く少女に続いて、ラナもその後ろ歩いて行く。
子供の足は遅い。開けた道を走るなら、能力者の少女は大人以上の速さで駆けることもできたけれど、初めて歩く森の道に慣れない足取りでは遅々として進まず。それでもどうにかこうにか、大きな川を見つけてぱっと表情を明るくする。最悪木の皮や草の根をかじれば飢えは凌げるが、水がなければ数日と人間は生きていられない。やった、よかったとラナも思った。
勢い込んで少女は川辺に身を屈め、両手に水をすくって口をつけた。もう喉がカラカラだった少女はけれど、一口すすった途端顔色を変え、思いっきり口の中身を吐き捨てた。
「え……な、何で?」
《ここは河口に近い。ほとんど海水と一緒だ》
ラナの疑問にアゼリアが答える。
《そしてこの島では真水が恐ろしく貴重だ。地下水のおかげで植物は育つが、地上に湧き出る真水は驚くほど少ない。故にここでは縄張り争いが、同時に水場の争いでもあるのだ》
うえぇ……と海水を吐き下した少女の瞳に涙が溜まる。荒い息を吐いて、ふらふら立ち上がり、川に沿って上り始めた。海の近さと川の関係をすぐに理解したらしかった。
下生えに足を取られながら懸命に進み、歩けば歩くほど少女は汗をかく。もういいかと水を一口舐めてもまだ辛くて、泣きそうな顔で少女は歩き続ける。そして偶然、野生の小さなオコジョかテンか、何かは分らなかったけれど小動物が川の水を舐めている光景に出くわし、矢も盾もままならず歓喜の表情で飛び出した。びっくりした小動物が逃げて行くのも構わず、喜び勇んで水を口に運んだ。
『っ!? ぇ、うえ……ぇっ……!』
だけどまた、吐き出してしまった。
《……ここの弱い生き物は、ある程度塩分濃度の高い水でも飲めるよう進化している。島の環境に適応できなければ子孫を残せなかったからだ。それが羽娘に勘違いを与えた。……人が飲める濃度の水は、まだ上流に行かなければ手に入らない》
「そんな……!」
《言っておくがまだ序の口だ。この程度でそんな顔をするなら、今すぐ夢を覚ましてもいいが》
「……いいえ」
手に入りそうで届かない、今何よりも欲しい水に渇き、喘ぐ少女を見下ろしながら、ラナは決然と返した。
「見ます。……最後まで。何があっても、見ます」
夢は続く。少女はまた歩き出す。さっきよりも力なく、涙さえ出せずに歩く。
『水……おみず……』
うわ言のように呟きながら進み、けれど左程も進まない内にその足が止まった。幼いエルの視線が向く先を追うと、一匹の蛇がするすると地面を這っている。
毒蛇かもしれないから避けるのかとラナは思った。だが少女は突如、爛と肉食獣めいた光を目に宿しその蛇に掴みかかった。あっという間にその顎を押さえ捕まえてしまい、え? とラナが目を疑った瞬間、大きく口を開けた少女の歯が蛇の表皮に喰い込んだ。噛みついた。ビク、と蛇の身体が痙攣する。少女は口を離ない。
「……!?」
少女の口元から、ちゅうちゅうと赤ん坊が乳を吸うような音がして、ラナは身を強張らせる。
《……街で暮らしていた羽娘に生き血を啜る習慣が勿論あるはずもない。本人が言うには喉が渇いて渇いて、もう何も考えていられなかったそうだ。ほとんど本能的に獲物を捕らえ、気づいた時には飲み干していた。これが羽娘の、この島での最初の狩りだった》
「へ、蛇の血って、飲めるんですか……!?」
《飲むどころか酒に漬けてマムシ酒だとかにする文化もあるぞ。しかし血を飲んで安全かどうかまでは私の知るところではない》
話していると、また周囲の景色がぼやける。夢の場面が変わる兆候。
次にラナが目にしたのは、身体を中途半端に変身させてのたうちまわる少女の姿。
『あ、あああっ、あああああああっ!!』
「え……なに、何!?」
《無理やり獣人型なろうとしている代償だ》
脂汗を浮かべ、全身をがくがくと痙攣させながら少女が激痛に悶える。ゆっくり、少しずつ、少女の身体が船の上で見た姿に変わっていく。
「代償、って……エルは、能力者のはずじゃ」
《運が悪かった。羽娘が流れ着いたこの島はその昔能力者専用の流刑地として使われ、悪魔の実の力は大幅に制限を受ける土地だ。動物系なら中途半端な変身しかできなくなるというように。だが羽娘は無理やり変身しようとして、故に苦しみを受けているわけだ。……細胞レベルで生じる痛みだ、普通は耐えられん》
「何で、こんなに苦しんでまで……」
《その理由はあれだ。見ろ》
促された方向に視線を向け、ラナは息を呑んだ。
巨大な四足歩行をする肉食獣が、悠然と身悶える少女に近寄ってくる。
《戦うに生身じゃ足りない。逃げるにも生身じゃ追い付かれる。羽娘は限界まで逃げた末に賭けに出た。痛みに耐えて変形し終えるまでに喰われるか、無事変形して逃げおおせるか。……羽娘は、賭けに勝った》
変形が終わる。未だ全身を苛む苦痛に表情を歪めながら、少女は翼を広げて舞い上がった。肉食獣の放つ怒りの遠吠えが轟々と震えるほど響く。
また、場面が変わった。今度は再び浜辺。獣人形態の少女が近くの木の幹に、爪で傷を入れていた。四本の短い傷を長い一本の傷が貫く形。日数だ、とラナはすぐ思い至る。だがその数が余りに多くて、遣る瀬無さが胸を衝く。
小さな少女は少し大きくなっていた。髪も伸びている。代わりに、服が前よりボロボロだった。
鳶色の瞳が悲しげに傷を見つめ、数える。三カ月、という声が聞こえた。少女は木から離れ、海岸に向かって座り込む。膝を抱え、遠く水平線に、船を探して。
『何で、母様……来て、くれないの……』
じわ、と涙が浮かぶ。
『私が、悪い子だから? 勝手に船を追いかけて、母様のお仕事の邪魔したから……?』
「ち、違うよ、そんなはずない……!」
これが過去の記憶であることも忘れて思わずラナは呼び掛けていた。
「エルのお母さんは、そんなことでエルを嫌いになったりしない。だから、だから……!」
《優しいな、ラナ娘は》
「アゼリアさん……っ」
《優しいラナ娘に細大漏らさず見せるのはやはり酷だな。少々、早回しだ》
コマ落としのように場面が変わる。自らの翼にくるまりながら、少女が泣き疲れて眠る姿。縄張りを守る猛獣の目を掻い潜って、こっそり泉に口を付ける様子。嵐の風雨を避け鳥獣形態で木陰に蹲る情景。苦労して捕まえた獲物を生のまま一心不乱に平らげ、火を熾そうとして失敗し、小さくて履けなくなった靴を大事な宝物のように隠し、飛びながら口を開けて迫る馬鹿みたいに大きな鳥から必死で逃げ、夜毎もう数え切れないほど傷の刻まれた幹を見上げる日々。
『会いたいよ……母様、父様……助けに、来てよ……っ』
膝に顔を埋めて少女は嗚咽する。嗚咽は次第に大きくなって、泣き声を風が浚っていく。だが浚った風は少女の鳴き声をどこにも届けないまま、空の彼方で儚く散る。
時の経過は残酷だった。少女に希望一つもたらさないまま無慈悲に過ぎ去り、父と母に囲まれて過ごすはずの子供時代を終わらせた。
過酷な環境にも負けずすくすくと背が伸び、身体は女性らしい丸みを帯びた。鳶色の髪は長く膝まで届くほどで、浜辺で佇む少女の周りを風に揺られまるで纏っているかのよう。風雨と年月に晒された服は衣類の体を成さなくなり、襤褸が辛うじて肌の一部を隠しているだけ。六歳だった少女は、もうそこにはいない。
何年も何年もただ己の力のみで生き抜いてきた、獣のような少女がそこにいた。
《ラナ娘、野生動物に育てられた子供の話を知ってるか?》
黙って首を振ると、アゼリアが続ける。
《昔からそういう事例が稀にあった。狼が人間の赤ん坊を育てたとか、ライオンが自分の子供と一緒にお乳を与えたとか……本当に、稀だがな。羽娘の環境はそれに近い。育てられこそしなかったが、人間のいない島では獣の動きや考え方しか学ぶことができない。――故に、羽娘は次第次第、人の言葉を忘れていった》
「わ、忘れた?」
《代わりに鳴き声やら何やらの意味を汲み取れるようにはなったらしいがな。使わず、反復しない知識を人は簡単に忘れ去ってしまう。……ほら、羽娘が、段々羽娘になっていくぞ》
「え?」
振り返るラナが見たのは森を歩くエルの姿。木々の間から漏れ零れる光の陰影を縫うように素足で踏み、水場へ向かっていた。
ふと少女は止まる。目的の水場に、いつか見た四足の肉食獣が陣取り腰を据えているのを認めて。
グルルルル、と獣が威嚇に唸った。エルの瞳が細く、剣呑な煌きを宿す。
人の言葉を忘れても、そいつに追われ喰われかけた記憶は忘れなかったのか、エルもまた犬歯を剥き出しに喉の奥で唸った。その姿がメキメキと形を変えていく。
苦痛に喘ぐ様子はない。――もう、悶えることはない。
『ピガァアアアアアアアアアアッッッ!!』
巨大な、本当に巨大な獅子鳥が顕現する。人身の名残も残さず、倍以上に膨らませた体躯を向き合わさせた。尋常ならざる少女の変貌にたじろぐ獣。だが負けまいとするように吼え、二匹が放つ咆哮はやがて死闘の鐘となりゴングを鳴らす。
『ピガッガアアアアア!!』
『グルォオオオオオ!!』
毛を逆立たせ爪牙を駆使し、上になり下になり引き裂き喰らい付き血潮が荒れ狂う。
端で見ていたラナには何時間にも感じられた、命を賭す激闘。制したのは、エルだった。嘴の一撃が目玉を刳り抜き、絶叫する獣の死角から刃物に等しい爪を振り抜いた。
音が絶える。争いの音が消える。喉輪から鮮血を迸らせた獣がどう、と倒れ伏す。
『―――ピガァアアアアアアアアアアアッッ!!!』
勝利の遠吠えだった。思わずラナも拍手して――凍りつく。
段々とその体躯を縮め、羽毛と獣毛を落とし、ぜいぜいと荒い息で水場へ駆けたエルがその勢いに任せて顔面を水に突っ込ませる。盛大にあぶくを散らしながらがぶ飲みし、ぷはっと爽快に笑った。はっ、はっ、とようやく手に入れた安全な水場に久しく浮かべてなかった笑顔を覗かせて、
そして、それに、気付く。
『……う?』
澄んだ水に映る、自分の姿。
見間違いかと覗き込んだ瞳が、固く強張った。
翼。
一対の、巨大な翼。
それが人型に戻って尚消えず、威容を翻していた。
『う……うあう?』
動く。今まで通り、人獣型のように神経は繋がり動かせる。――だけど、戻らない。
『あ、ああう!? うっああああああうううううううう!?』
戻らない。いくら暴れてももがいても繰り返し変形しても戻らない。それどころかまともな人獣型にさえなれず、鳥獣ですらない小さな猛禽の姿に変化し、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も疲れ果てるまで試し、とうとう翼は消えることなく日が先に暮れた。
「どうして……?」
喋ることを忘れたエルの代わりのように、どうしてとラナは呟く。
《分からん》
これまでずっと正確に答えを示してきた声が、そう返した。
《正直、悪魔の実に関してはまだ解明されていない部分が多い。恐らくこの島の環境で変形を酷使し過ぎたことが原因だと推測できるが、それ以上は一切不明だ》
「エルの羽は……戻らないんですか?」
《少なくとも今日まで戻ることはなかったな。それはラナ娘も承知しているはずだ》
「そうじゃなくて……っ」
もどかしげに語気を荒げる。
「エルはもう二度と、ちゃんとした人間の姿に戻れないか聞いてるんです!」
《専門家でない私に解を求められても困る。世界の全てを知り尽くしてもいない私には、治るとも治らないとも断言できん》
至極当然の、それこそ常識的な答えにラナは詰まって、唇を噛む。
何かがしたかった。何かをしてあげたかった。目の当たりにした少女の境遇は余りにむごくて、形は違えど故郷と親を失った自分に、少女の姿がダブって見えてしまって。
……でも、私にはファンがいた。
性交を強要された事実があったとしても、例えあの赤い夜の後革命軍に拾われなかったとしても、自分には赤紫の少年がいた。どれだけ犯され嬲られ辱められようと、何くれとなく支えて温もりとなって、二人きりの島でいつしか夫婦となり子を宿し家族を作る未来があった。
だけどエルは一人なのだ。たった一人きり、幼い頃に流れ着いて、頼るべき人も持てず孤独に生き抜いた。
どんなに寂しかったか――ラナはもう知っている。
どんなに辛い目に遭ってきたか――ラナはもう、その目で見ている。
―――そこに流星の如く現れたのが、ファン・イルマフィなのだ。
どうしよう、とラナは本気で途方に暮れる。
自分と同じで、鳶色の少女には本当にファンが必要なんだと心から理解してしまった。
恋人である少年に仲良くするよう言われてなかったとしても、もう自分はファンを求める恋敵を拒絶できない。それぐらい深く、少女に共感してしまった。そんなことは不可能だけれど、もしファンをエルから取り上げたら、翼持ち天を翔ける少女の心はどれほど暗い絶望に叩き落とされるか。
一度目を閉じて深呼吸する。それから、強い眼差しで空を見上げた。
「アゼリアさん。――エルのお母さんは、エルを見つけられなかったんですね」
《そうだな。あの中将どころか、この島を訪れ羽娘と出会った人間は少年が最初で最後だ》
声の語る言葉に納得すると、また情景が切り替わった。ただ今度は、本をめくっていくように断片的な時の流れでしかなかった。
ぱらぱらと過ぎ去っていく少女の人生。ラナはその狭間で、幹に刻まれる日数がいつしか増えることのなくなった光景を見、胸の痛みに襲われる。葛藤の末に下された、それは少女が抱く諦めと未練の象徴。そして無数に傷を刻み付けられた木々を、瞳に暗い輝きを宿した少女が根元から切り倒す。大事に隠されていた小さな靴は、海に捨てられた。切れ端も同然の衣服も引き千切って地面に埋めた。
人間として持っていた全てを捨て去り、最後に遠い水平線を振り返った少女は、自らの心を断ち切るように外の世界へ背を向けた。鳥獣の姿となって高く吼え、森の中へ消える。世界がすうっと、暗くなっていく。
《……ここで一旦、羽娘の記憶は途切れる。人間らしい思考すら捨て獰猛な獣となって生きる道に、夢と化すほど強烈な思い出が生まれることはなかったのだろうな。故に、これから何年の時が過ぎ、少年と出会ったのはいつなのか、本人にさえ分からないらしい》
「……」
《疲れたか? 夢の産物でよければジュースでも出すが》
「そんな気分じゃありません……」
吐息して、暗闇に抱かれるようにしてラナは膝を抱えた。どこが上で下かも分からない、真っ暗な世界。まるで瞼の裏側みたいだと思う。
「……エル、こんなに大変な目に遭ってたんですね」
《一つ違っていれば奴隷として売られていたラナ娘がそれを言うか》
「仮定の話ならいくらでも言えます。……でも、エルのこれは実体験。本当にエル自身が味わった過去……」
そっと瞼を下ろして、自分が見た物を反芻する。
「……次は、エルとファンが出会うところですか?」
《いや、羽娘が一方的に少年を見つける場面だ。……見るか?》
「お願いします」
・
・
・
赤い服を着た人間の男だった。子供と大人、どちらかと言えば子供の部類に入る少年だった。
人間。人間だと心のどこかで思った。瞬間、引き金を引いたように思考を覆い隠していた靄が弾け飛んだ。鮮明な意識で、自分が人間だった頃の記憶が奔流となって鮮やかに溢れ返る。生まれ変わったような、心踊らずにはいられない、そんな感覚。
それからというもの、毎日少年を空から観察するのが日課となった。自分にとってもはやこの島全体が縄張りのようなものだったから、わざわざ見回りをする必要さえなかったのが幸いした。小さな鳥の姿で天高く旋回し、猛禽が誇る眼の良さで観察し続けた。そうしなければならないと思い、そうしたいと思う自分がいた。
少年は弱かった。自分が幼少期に仕留めた大きなトカゲから逃げ回るほどに。けれど、強くなるのは本当にあっという間だった。能力の特性を掴み、次に遭遇した時には刃が立たなかったはずのナイフで鱗ごと首を両断し、それが一日二日の出来事で、さすがに絶句した覚えがある。
少年は無口だった。日がな一日独り言さえ呟かない日も多く、時たま口を開いたかと思えばよく分からない言葉を話す。そこで自分が人の言葉さえ忘れていたのを思い出し、こっそり木の上から聞き耳を立てて復習した。だが自分の口調がどうしても思い出せず、記憶にあった母のそれを真似た。力強いその喋り方は今でも好きだ。
少年は無表情だった。あるいは眠そうだった。数日かけてそれが少年の地であることを見抜くが、時たま血を見た時に浮かべる凄惨な嗤い顔に、血潮の滾りを感じた。純粋極まる無秩序な殺意は久しく浴びておらず、生存本能が恐怖を生むと同時に闘争への歓びが胸に湧き、だがぐっと我慢して、いつどんな形で少年と接触すべきかに思考を費やした。
ゆっくりと日々が過ぎ、けれど気付いたら少年は島から消えてしまっていて、またいつかのように岩の中に隠れたのかと探したが半日を労しても見つからず、吹き消されたロウソクのように目の前が真っ暗になりながらねぐらに帰った。しかし翌日、ひょっこり姿を表した少年を認め心底安堵の息を吐いた。
その日、少年は山に登り始め、自分もまた心を決める。もし転落しかけたらすかさず助けに入り、好印象を獲得するのだ。何事もなく登り切ったなら、あの水筒を受け取って水を運んでやればいい。山頂の水が飲めないことをきっと知らないだろうから、絶対に喜ぶ。完璧な計画だと思っていた。――結果から言えば、そうそう思い通りに事が運ぶはずもない教訓になったけれど。
石をぶつけられ、裏切りのように感じて、キレて、襲いかかって。
最初が最初だったから、逆にこっちが悪感情を持ってしまいことある毎に争って。
だけどそんなある日、少年に負けて力尽きた自分が倒れているところへ、別の猛獣が通りすがった。そいつは腹を空かして、飢えた目でこっちを見た。今まで喰らう側だった自分が、とうとう喰われる番になったのだと確信した。
だがその瞬間、ひゅっと虚空を切り裂いたナイフが恐ろしい速度と鋭利さで猛獣の眉間に突き立った。断末魔さえ上げられず、地響きと共に猛獣が倒れる。
凝然と振り返れば、少年がナイフを投げ放った姿勢でこちらを見ていて、
『…………』
感情も思惑も読み取れない眠たげな無表情のまま、ゆらりと踵を返した。その背を、自分は黙って見送った。
数日後、決闘の最中に少年を後ろから襲おうとする輩を見つけ、すぐさま獅子鳥から小さな猛禽に姿を変え、身の程知らずな愚か者に猛進制裁した。助けた形になる少年と何となく見つめ合い、それ以上決闘を続ける気にもならずどちらからともなく背中を向け合った。
そうして段々、一緒の時間を過ごすようになり、決闘もじゃれ合いのような形に変わって、少年が焼いた肉を食べたり、背に乗せて一緒に空を翔けたりして、少年が帰ると決めた時、自然と自分も付いて行くことを決心したのだ――
(……ああ、夢か)
緩やかに目覚めへ向かう意識の底で、微睡みの揺籃に揺られながら微笑する。今日は、悪夢の部分が出てこなかった。少年と過ごした心地よい日々だけが夢に現れ、幸せな気持ちでエルは目を覚ます。
もうすっかり薄闇に包まれた部屋の様相と、隣で穏やかな寝息を零す少年が視界に入った。外では恐らく燦然と星が輝く時分だろう。
「……お前は、悩みがなさそうで羨ましいな」
今は閉じて見えない赤紫を覗くようにしながら、呟く。
「私と小娘のことも、悩む気などないんだろう?」
ちゃんと分ってるんだぞ、と手の平で赤紫色の髪に触れた。
そう、分かっている。こうしてすぐ傍で眠る少年が、黒髪の少女とは反対にどれほど常識に無頓着であるかぐらいは。プラス、女の勘で恋人と縁を切る気がないのも気付いている。そして今みたいに自分を同衾させる様子から、少年が取った選択も。
……でも、私にはお前しかいない。
視野が狭いと揶揄するなら勝手にしろ。男が他に幾らでもいることなど百も承知だ。ファンが偶然私を島から連れ出しただけ? その偶然が何より大事なんじゃないか。きっかけもなしに男女の仲が深まる訳もない。永劫に思える孤独の中で、初めて心の拠り所となってくれた。私の止まり木になってくれた。
その事実さえあれば、他は何も、要らない――
「…………エル?」
「あ……起こして、しまったか?」
髪に触れていた手を引っ込める。少年は眠たげに目を擦り、んぅ……と返事なのか分からない呻きで応じた。赤紫の瞳が薄闇に小さな瞬きを見せ、横になったまま視線を向けてくる。
「…………よく、眠れた?」
「そう、だな。何と言うか、この柔らかい感触がまだ落ち着かない感じもするが」
ずっと地面か樹上で寝起きしてきた身体が、何十年振りかという布団の沈み具合にどうしても戸惑いを感じてしまう。懐かしくはあるけれど、無性に木肌の硬さが恋しくなるのはもはや習性だろうか。
「じゃあ…………ベッドは、僕と寝る時だけで、いい……」
「ふん……それじゃお前も、ベッドは私と寝る時だけでどうだ?」
「嫌」
即答だった。思わずぷっとエルは噴き出す。
「まあそうだろうな。小娘と寝る際にも、必要だものな?」
「…………」
黙ってしまう少年にくっくっとまた笑い、眠たげな無表情がどことなくむっとしているのに気付くのが遅れた。
少年の左手が無造作に自分の右腕を掴んだ。あ、と思う間もなく、反対の腕も同じように捕まえられる。そのままごろんとシーツの上を転がされ、身体の上で馬乗りになった少年が両手を押さえつけた。
「ファ、ファン?」
手際のいい所作に焦った声を出す。赤紫の瞳が、平坦に自分を見下ろしていた。
「…………ラナだけじゃ、ない」
「あ……え?」
じっと、見つめる瞳に、呼吸を忘れる。
少年の右手が戒めを解き、身体のラインに触れた。隣で寝ていたせいか体温が移ってしまって、熱くもなく冷たくもない手の平。夜の暗さを映す瞳に見つめられながら、不埒に身体をまさぐり始めるその手を止めることができない。服の上から胸の膨らみを確かめるようになぞられ、あ、と声が漏れた。自分が出したものとは思えない甘ったるい声。かぁっと頬が熱くなり、逃げるように顔を背けた。
ちゅ、と背けた頬に、耳に、首筋に、少年の口付けが降り、吐息が薄く肌をくすぐっていく。
「ラナだけじゃ、ない。…………エルと寝る時にも……必要」
「そ、それは……あ、や……っ」
くふ、と情欲に濡れた少年の微笑みが薄暗い部屋に沈んだ。
「…………今からゆっくり、じっくり……教えて、あげる」
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こんにちは、こんばんは、明けましておめでとうございます。うたかたです^^;
……えーと、感想版を覗かれない読者の皆様が居るだろうことに遅まきながら気が付き(本当に遅すぎですが)、こちらでご報告を。
どうにも進まないストーリーを早く進展させる目的で、三話ほど改訂いたしております。とは言え以前のも捨て難いためNG集として載せています。……もしかしたらそのうち両方を纏めて編集し直すこともあるかもしれませんが、しばらくこの方針で進むつもりです。
というか紙に書きつけたエルの章における文量が、没ネタだけでルーズリーフ20枚分以上はあるのでいささか頭の中が混乱状態だったり@@;
そういうわけで(何がそういうわけかツッコミはなしで)、次回はお待ちかねのベッドシーンになりますね。うたかたは、初めては一対一であるべきだろうとか思う趣味嗜好なので、いきなり3Pなどにはいたしません。悪しからず。
……他に言い忘れてることはないかなー、と思いつつ今日は終了。
次回、ご期待ください。