灼きつく日射しは夏の到来を匂わせ、流れる雲の形もその厚さを増している。本格的に夏季が来る前に、例年通りならバルティゴは大雨に見舞われるはずだ。昨夜のような一瞬の嵐ではなく、長くも短い恵みの雨季だ。
「……雨天。衣料が多く必要になるか」
見回りに傘を持って歩くなど愚の骨頂。片手が塞がる上に不明瞭な視界が更に悪くなる。が、問題としては降雨よりも湿度が大敵だ。油断した途端侵略を始めるカビにダニ、病気は流行りやすく洗濯物は乾きにくい。
カーツやイーゼルは最後の一つに傾注すればいいが、事前に準備をするのも手間暇かかる。
「別件。ついでに話すとしよう」
一人ごちて外から岩の通路へ入ったカーツは、母イーゼルの用命を受けて司令官室へ向かう途中だった。
『昨日あのバカが乗り込んできたかと思えばアタシの新作かっぱらって行きやがったんだよ! ラナに着せて楽しむつもりだったってのにクソッタレ! カーツ、取り返しておいで!!』
怒り心頭な母に命じられては罰則期間中の息子にノーと言えるはずもなく。十中八九無理だと思いつつもアゼリアのいるだろう司令官室へ歩くのだった。他にほっつき歩いていそうな候補場所は午前中に巡ってある。
石造りの階段をコツコツ響かせながら登り、嘆息。最近、どうも周りに振り回されてる感がある。母親に頭が上がらなくなったこと然り、昨夜アゼリアが新作の衣装を持って行ったこと然り。殊におかしいのは副職の男娼だ。女の当て所のない想いに温もりを供与し、金をもらう。それだけのドライな関係だった――はずだ。
(疑問。なぜか皆、押しが強い……)
もっと、とねだられても規定の時間が過ぎればすげなく振り払っていた。しかしなぜかこの頃、振り払っても女たちがよく粘る。甘えられる。何となく押し切られる。
以前のカーツであれば、そんなことはあり得なかったというのに。
『甘えてくる? ふふふ良い変化だと喜んでみよう』
そんなセリフを思い出し、眉間にしわが寄る。あの不良心療医、余計な根回し手回しは率先するくせに相談の答えは返さないとかどういう了見だ。……今に始まった話ではないが、あの回りくどさ面倒臭さはラナでさえ矯正できていない。
とは言え仕事に大きな支障なく、返ってやり易いほどで絶対に答えが必要と言うわけでもなかったりする。
ままならないものだ。
本当に欲した異性は、決して甘えてくることなどないというのに――
「……」
通常の人間の枠から外れた大柄な者でも歩けるよう、高く広く造られた階段を登っていたカーツは、最上階にたどり着く手前でふと、数段上に佇む人影に気づいた。
途端、零度と評される温度差なきカーツの表情が歪む。多くは苦渋により、残る僅かは、自身でも名状しがたい感情により。
「ファン……イルマフィ」
「…………」
眠たげな赤紫の瞳が、ぼんやりとカーツを見下ろしていた。
鮮血色の上着に黒ずんだ血染めのハーフパンツ、硬く頑丈な軍用ブーツを華奢とさえ言える小柄な身体に纏い、夢見るような無表情は未だ幼く成熟の途上で、これのどこが好いのかカーツには全く分からない。
こんなフラフラふわふわした奴に負けたのか、と初めて遠目に姿を確認した時、カーツは打ちのめされた思いだった。
ぎ、とカーツの奥歯が軋みを上げる。その時以来、できるだけ顔を合わせないよう留意してきた。恋敵とすら言えない一方的な横恋慕兼初恋を粉微塵に打ち砕かれる羽目となった諸悪の根源を前にして、平静でいられる自信がなく。アゼリアからも、イーゼルからも、そしてラナからも、赤紫の少年と事を構えるなと再三再四に渡って警告され、それを叶う限り守ろうとしたが故にこれまで接触を避けてきたのだ。
軽く、深呼吸する。まだ、自分は落ち着いている。そもそも、少年の側に非は一切ない。全てカーツの抱いた勝手な感情だ。恋をしたのも恋が破れたのも、カーツ自身の責任なのだ。
だから、そう。カーツは最初に名前を呼んだきり黙して、逆恨みに過ぎない感情を抑えていた。
抑えて、いたのだ。
―――しかし。
少年が、何らリアクションを起こさないカーツに何度か瞬きし、首を傾げて言った。
「…………誰?」
ピシッ、と。
ひびの入る、音がした――
・
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一方、その頃。
「ドラゴンさん。ドラゴンさんも男の人ですから普通にそういう欲求はあるしその欲望に負けてしまうことだってあるかもしれません。だけど女の子の服を剥いで無理やりなんて言語道断悪魔の所業です。鬼畜です。畜生です。女の子の心は男の人が思うよりずっと繊細で複雑で何でもないようなことで傷ついてしまうのに、それを何ですか? 裸に剥いた? 少なくともそう形容できる行為をしたんですよね? 反省してください。恥じてください。私ドラゴンさんはもっと尊敬できる人だと思っていたのにとてもがっかりしています。百回ぐらいエルに謝ったって罰は当たらないと思います。それとドラゴンさんは――」
延々と、淡々と。正座こそさせられなかったが、永久に続くかというお説教にドラゴンは呻く。
「……助けてくれ、アゼリア」
「……とばっちりが怖いから話しかけないでほしいと無視してみよう」
「ちょっとドラゴンさんちゃんと聞いてますか? 分かりました、もう一回最初からですね?」
ループした。頭痛を催し始めたドラゴンの肩を、慰めるようにアゼリアが叩く。
革命軍司令は今日初めて、少女が“常識の鬼姫”たる所以を目の当たりにしたのだった。
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殴られそうになった。
故に、降りかかる火の粉を払った。ファンにとってはただそれだけのこと。
背の高い、ファンよりも幾らか年上に見える男の瞳が突如燃え上がった。理由は知らず、自分の何が男の激発を誘ったのかも興味なく、右手の平であっさりと拳を受ける。――エグザルで殺し合い狩り合ってきた猛獣たちに比べれば余りに遅い攻撃で、ユラユラの実に頼ることさえ申し訳なく、驚愕に目を剥く男の胸を死なないよう拳で打ち据えた。
「ぐっ……!?」
男は咄嗟に持ち上げた反対側の腕でガードするが、ファンの一打は体格差を無視して男の身体を宙へ押し飛ばす。危うく踊り場に着地した男の顔が信じられないものを見るような、新たな驚愕に染まる。
「…………」
染まって、だがそれだけ。軽く痣ぐらいできたかもしれないが、大した痛痒を与えた様子もない。
手加減しすぎた。自分の手を見て、ファンは反省する。次はもう少し強く殴ろう。
独り頷き、偶には階段を使って降りようとしていたのを邪魔されたファンは、壁をすり抜けて外に出るべく踵を返した。
「待て」
呼び止められ、ファンはチラリと視線を向ける。
「……俺が、誰か。分からない、か?」
「…………」
沈黙を肯定と受け取ったのだろう。そうか、と男は呟き。
「――屈辱だ」
男の身体に怒気と敵意が滾る。肉が軋むほど固く握られた拳と気配に攻撃の意思を感じ取り、その理由が全く分からず、ファンは首を捻る。
バルティゴで生活する大前提として、ドラゴンから軍規を犯すなと命じられている。もちろんファンは革命軍に所属していないため労働などの義務を果たす必要もないが、集団生活に属する以上、一定のルールには従わなければならない。
無論、殺しは厳禁。各種犯罪行為も御法度。
けれど。
「…………正当防衛は、可」
ぽつりと、漏らして。
這うような低姿勢で駆け上がってくる男を眠たげに、つまらなそうに見下ろした。
――向かってくるのだから、仕方ない。
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パタン、と司令室の扉を閉めたエルは、少しの間そこで耳を澄ましていた。扉の向こうから黒髪の少女が大真面目に始めたお説教が聞こえてくる。焦りを含んだなけなしの反論が正論に叩き潰され、やがて消沈した様子で消えていくのが小気味よく、くっくっくっと意地悪く笑う。
いい様だ、精々長く針の筵に座ってろ。
昨夜の意趣返しに心中で吐き捨て、その身を翻す。ドレス調の服は未だ肌に違和感を与えてくるが、見栄えと動きやすい作りともう一つとで慣れるべく努力する。
『ふむ。着衣もまた自由ではあるが、男というのは女を裸にすることにも悦ぶ人種だと囁いてみよう』
一発でグラついて決意が折れた。元々そこまで頑なにならねばならない決意でもなし。ファンが喜ぶというのなら、着てやらなくもないのだ。実際ファンに見せたら褒められて、その点だけは大女に感謝しているし、だからこそさっきは報復の対象から外してやったのだが。
……心遣いなど、らしくもない。
ぺた、と素足で岩の廊下を踏み、エルは窓を見つめた。外の景色に混じって半透明の少女がそこに映っている。翼を出せるほど大きく背中の開いた、淡いベージュを基調とする服を纏う自分。ドレスチックのようでカジュアルに、背中以外の露出は少なく、その空いた背も翼に隠れる範囲で、製作者の趣味が窺える。
肩甲骨の辺りから生える翼を意識しなければ、まるでどこにでもいる女の子だ――と、エルは自分の思考に呆れ、曲げた口の端に自嘲を零す。
「……何年生きたかも分からない、これから何年生きるのかも分からない私が、普通の女の子であるはずもない」
事情聴取――という名分を借りた強制連行により、反撃も虚しくとっ捕まった昨夜。すぐ後ろの部屋で交わされた会話の全てを、エルは克明に記憶している。いや、ほとんどが自分に関係する話であったから、忘れにくいというだけか。
トゥム・ユエルテ。
誰も知らないはずの名前を突き付けられて混乱はしたが、無意味な聴取に終わらなかったのがありがたい。取りあえず客人扱いし、欲しい物があれば労働を対価にすることで話は纏まった。動物系の自分に肉体労働はうってつけだろう。むしろそれしかできないが。
――そこで話が終わっていれば、万々歳だったのだ。
「ふん……やはり目こぼしなどらしくない。あの大女も纏めて嵌めてやればよかった」
自分を捕縛した男には喉を唸らせて警戒していたが、威嚇に取り合うことなくドラゴンと名乗った男は実務的な話に終始した。遠回しに回りくどく自己紹介した面倒な大女は、同じ部屋に居たが話が終わるまで大して口を挟もうとしなかった。途中、姿を晒した自分に目を丸くして服を取りに行きさっきのようなアドバイスを囁くなど、味方のような立ち位置でエルの視界に映っていたのだ。
それが大きな大間違いだと気付いたのは、聴取が終わって、男が友好を求めて差し出した手を叩き払って、ふんとそっぽを向いた自分に男が苦笑した後。さて、と大女が呟き、言った。
ここから先は私の仕事だな、と――
「……」
ふと、物思いに耽っていた自分に気付き、エルはぶんぶん首を振って追い払う。寝不足なせいだろうか、思考がおかしな方向を向く。
……ファンを探すか。
意識を切り替えて本来の目的に目を据える。赤紫の少年はゆらりといつの間にか消えてしまうが、大抵岩場の付近で暇潰しをしているからそこを目指す。
砂塵防止か断熱対策か、二重のガラス窓を開け放ち大空へと翼を広げ、
――突如廊下の端で男が壁に激突し、エルはたたらを踏んだ。
「……は?」
唖然と視線を送る先で、階段から吹っ飛んだと思しき見知らぬ男は壁に赤い跡を引き、ずる、と石壁から剥がれ滑り落ちる。一瞬死体かと見紛うが、げほっ、と喀血して零れた鉄錆の匂いが存命を知らせる。逆に言えば男の身動きなくして、死体との区別が難しい有様だった。
「ぐ、が……っ!」
そんな状態でありながら痙攣する両腕で男は身体を支え、今にも砕けそうな膝を突き立ち上がる。未だ戦意を失わない鋼色の視線が階下を睨み据えた。エルの位置からは死角となっているそこへ。
ゆら、と現れる、赤い人影。
「……ファン?」
夢見るような無表情に退屈の二文字を浮かべた少年が飽いた気配を漂わせ、ちら、と気怠げにエルを見た。
「っ――ぉ……お!」
その隙とも言えない一瞬の間隙に男は床石を蹴り付けた。ボロボロの身体で行い得る最善、硬く握り締めた拳の打ち下ろしが身長差を利して頭部を狙う。だが振り向きもせず、ゆら、と少年の軸がぶれて重力のまま傾き、偶然バランスを崩したら躱してましたという不自然さで男の肘の内側に滑り込む。
目を剥く男の胸板を、少年の細い手の平がトン、と叩き。
「“幽鐘”」
――ただ一手があり得ざる衝波を生んで、鐘に見立てられた男の肋骨が鳴り折れる。
衝撃で貫く“幽山”と違い波は胸と手の平の間で爆裂し、とっさに屈んだエルの頭上を飛び越え男の身体が紙人形の如く飛んだ。優に十数メートルを滑空し勢いのまま転がった男は血反吐を撒き散らしながら壁にぶつかり、止まる。
さすがに、もう、男が起き上がることはなかった。
「……死んだか?」
「赤い、けど…………生きてる」
むしろ生きてることが残念な口振りで、はぁ、とファンが溜息を吐く。
男にとっても少年にとっても、いっそ殺してやった方が楽かもしれない。血塗れの男と少年の表情を見比べ、エルは勝手にそんなことを思った。
と、司令室の扉が中から開き迷惑そうにラナが顔を見せた。その目が一番近くにいたエルを捕まえる。
「今うるさかったのって、エル? お説教まだ半分しか終わってないから、静かにしててほしいんだけど……」
「私は関係ない。うるさかったのはファンと、アレだ」
え、と指差された先を何の気なしに追った少女の黒い瞳が倒れ伏す男を映し――
「――――カーツさんっ!?」
悲鳴するように名を叫び、余りに無惨すぎる姿を見て口元を覆う。真っ先に反応したのは、アゼリア。椅子を蹴倒し司令室から飛び出で、ざっと場を眺めるや否や状況を理解したのかこの上なく真剣な表情でカーツに駆け寄る。
遅れて扉を潜ったドラゴンが疲れた表情を引き締め、ラナの悲鳴に何事かと集まり始めた部下へ指示を飛ばす。
「医師を! 外科専門をまず連れて来いっ、薬と湯も合わせて大急ぎだ!! ――それから、ファン!」
慌ただしく治療室へ駆けた部下を見送り、応急処置を施すアゼリアを横目にしながらドラゴンは少年を呼んだ。
ゆっくりと歩いて来たファンは今の光景をまるで見ていないような、常と全く変わらぬ眠たげな無表情で小さく首を傾ける。
「……説明しろ。殺しも私闘も禁じてあるのにこの状況は何だ」
「…………僕は、迎え撃っただけ」
ラナは心配げにカーツを見やりつつ、ファンの言葉を聞く。
「いきなり、攻撃してきた。…………だから、攻撃した。赤くならない……よう」
「つまり正当防衛、自分の身を守っただけだと言いたいわけだな? だがお前なら、逃げるなり穏便に片付けるなり如何様にもやり方があったはずだ。ここまでのことを仕出かす必要など――」
「…………逃げる?」
ふ、と少年の声質がトーンダウンしたことに、付き合いの長いラナだけが気付き、さぁっと顔を青ざめさせた。少年を刺激しないよう足音をひそめて、エルの大きな翼の陰に隠れる。
エルはライバルとも言える少女の行動に怪訝そうな表情を浮かべるが、目の前の事態を優先して何も問わなかった。服の裾を縋るように掴まれても、煩わしいと思いつつしたいようにさせておいた。
「なぜ、僕が…………逃げる?」
少年の言葉がすぅっと溶け込むように大気を揺らす。
それは津波の前に海が消えていく様子に似て、静けさ故の予兆が窓ガラスを震わせる。
遅まきながら、ドラゴンは自らの台詞が少年の“何か”に触れてしまったのだと気付いた。待て、と手の平を向け制止を促すも、その動作すら呼び水となって波紋が波打ち、
「――――何で僕が、逃げなくちゃならない」
吹き抜けた凄絶な寒気に少年を止めるよりも壁となることを選択したドラゴンへ、ぱん、と鋭く鳴り響く柏手。
少年が胸の前で、手を打った。
「“怨霊幽殉”」
亡霊に背を撫でられたが如く冷え渡った廊下に、触れられるほどの殺気が刹那のうちにむせ返る。ぞっ、と肌を粟立たせたエルが翼を広げ、傷口を縛っていたアゼリアが振り返りざま目を見開き。
――それら一瞬の出来事を無に帰すよう、波動が全てを巻き込み弾け飛ぶ。
膨れ上がった膨大な衝撃波が、天上の雲に風穴を開けた――。