炎天、である。
夏季の入口を潜ったバルティゴの大気は乾き、ほのめく陽炎が大地を舐める。昨夜降り注いだ恵みの雨など意にも介さぬその様はこれから訪れる夏の光景を存分に予告し、遠く海の果てを見れば、積み上がった積雲が過食気味ですとばかりになお肥えていく。
「……暑い」
ジリジリ容赦なく照りつける直射日光。空を飛んでいれば本来熱は奪われ、むしろ体温の低下を危惧すべきなのだが、風が孕む熱気にエルはげんなりした顔を隠せない。高度を上げ空に逃げればマシだと分かってはいるが、すぐ目的地であるためそれも面倒だった。
……あの島と、全然違うな。
胸中でぼやく。自然に比べてしまうのは長すぎる時間をあの島で過ごしていたせいだ。エルは心持ち速度を緩め、流れていく眼下を見下ろす。ほとんどが白土と岩石に覆われたバルティゴの大地は砂漠と呼んで差支えなく、多分に不都合があれど大きな河川の流れていたエグザルとは違いすぎる。森もなく、山もなく、動植物の多様さは比較しようもなく、水も食も衣類さえも外から持ち込まなければまともな生活すら送るに難い。
何でわざわざ過酷な環境を選んで住むのか、住人の気が知れなかった。
事情聴取――という名分を借りた強制連行により、反撃も虚しくとっ捕まった昨夜。部屋で交わされた会話の全てを、エルは克明に記憶している。
だけど革命軍、と聞いてもエルにはぱっと来なかった。一通り説明は受けどういう組織かは教えられたが、国だの法だのを深く考えるには人間の暮らしから離れ過ぎていた。そこが嫌ならもっといい場所に移り住めばいいじゃないかと、エサの豊富な地域を求める野生動物のような思考でドラゴンに渋面を作らせはしたが。
「……ま、私には関係ないか」
革命に心血を注ぐ者が聞けば眉を寄せるだろう呟きを零し、背中の翼を打つ。
トゥム・ユエルテ。
誰も知らないはずの名前を突き付けられて混乱させられたが、取りあえず客人扱いし、欲しい物があれば労働を対価にすることで話は纏まった。どんな労働かは知らない。だが人間との戦闘行為でも構わない。働けと言うなら働こう。革命だの何だの、そんなものはエルには無関係だ。ただ赤紫の少年にくっ付いて来たら革命軍の本拠地であったというだけで、少年が離れると決めたならこんな乾いた島に用はない。出て行けと言われるまでもなくさっさと出て行く。
「……あいつにとってはただの相棒だとしても、私にとっては、違う」
固い声で呟き、かぶりを振った。今は、細かいことを考えたくない。
だから少年の赤い上着を岩陰に見つけ、エルは素早く降下姿勢を取る。
ドラゴンの居室から遅れて出ること十秒と少し。その僅かな時間で少年はゆらりと消え建物内に影も形もなく、やむを得ずエルは窓から飛び立ち上空よりその姿を探していたのだ。案の定、いつも修行に使う岩石地帯でゆらゆらしている所を見つけ、エルはその背後へ柔らかく降り立った。砂塵が仄かに舞い上がる。
赤紫をした眠たげな瞳が、ゆら、とエルを顧みた。少年の視線がエルの全身を眺め、首が小さく横に傾く。
「…………ここまで……その姿で、飛んで来た?」
何を言わんとしているのか。数秒考え、ああ、と手を叩く。
「そうだな。気が付かなかった。……まあ、いい。もう隠す意味は失せた」
ドラゴンに捕まり、アゼリアにばれ、ラナにも姿を晒した。これ以上隠した所で、自分が滑稽なだけだ。
そう、と感慨も見せず少年は頷き、背にしていた巨岩へ向き直る。エルは上手い具合に影の落ちていた場所へ手頃な岩を引きずり、軽く土を払って腰かけた。それから、静かに構えを取る少年の背中をじっと見つめる。どうしても構ってほしい時以外、エルが少年の修業を邪魔することはない。
ない、のだが……。
ぺち、と気の抜けた音が鳴る。少年が広げた手の平で、岩の表面を叩いた音。
ぺち、ぺち、と左右で。一歩下がり、また踏み込んで、ぺち。ぺち。ぺち。ぺち。
「……っだぁあああ! 何がしたいんだお前はっ、それは一体何の修行のつもりだ!?」
大して気の長くないエルの苛々はすぐに限度枠を振り切った。少年が口だけで答える。
「…………実験」
「何の!」
「――…………実験……」
言葉はゆらゆらと、答えになっていない。そしてむぐぐと目尻を吊り上げるエルにそれ以上取り合いもせず、またぺちぺち。手の平が岩を叩く音に納得できない様子で、赤紫の少年は踏み込み、左で打ち、右で打ち、ボクシングのワンツーと似た動作で、しかし何が気に入らないのか首を傾け、眠るような無表情のまま同じ動きを繰り返す。
「……む」
苛々を抱えながらその光景を眺めていたら、岩の下から巨大なサソリが這い出した。ファンの叩き続ける岩陰の隙間を寝床にしていたらしく、怒り心頭で剪定鋏のような両手を振りかざし尻尾の毒針を振り回す。が、ファンは無視。スカスカとサソリの虚しい攻撃が空を切る。ぺちぺちと少年の意味不明な攻撃が岩を叩く。
取り敢えずどげしと邪魔なサソリを蹴っ飛ばし、ぴくぴく痙攣する哀れな様を眼中にもせずエルは大きく口を開けた。
「だからっ、それは一体何の――」
ぺち。ピシ。
「――なん、の……」
ピシ、ピシシ……!
岩に、亀裂が入っていく。もはや言葉もなく唖然とエルの見つめる先で、亀裂はピシピシと蜘蛛の巣の如く縦横に走り、ついに音を立てて崩れ落ちた。
「……はあ?」
「…………“幽鳴”、完成」
ぽつ、とファンが呟くも、眼前の事象に理解が追い付かず脳裏をぐるぐる疑問が回る。ファンが、岩を叩いた。叩いていた。それだけのはずだった。
「衝撃波……?」
浮かんだ疑問を口にしてみるが、自分でも胸裏で違うと囁く。ファンの衝波ならはっきりとした音で砕けるはず。あんな風にその場で崩れ落ちはしない。
……こいつの能力は本当、訳が分からん。
「ラナは?」
「は?」
唐突過ぎるセリフに聞き返すと、ファンが眠たい目をこちらに向けていて。
「エルは、いるけど…………ラナは?」
「……私じゃ不満か、ファン」
ここにいる自分より、いない少女を気にする少年へ、じっとり湿った半眼を投げる。
無論、そんな程度でファンが堪えるはずもない。ぼんやり見つめられ、エルは舌打ちせんばかりにそっぽを向いて答える。
「あの部屋に置いてきた。……まあ、土産も置いて行ったから、しばらく来んと思うぞ」
「みやげ…………?」
「そう、土産だ」
くっくっく、とエルは含み笑う。何だか機嫌がよくなってきたエルの様子に、ファンが首を傾げる。
「そうだな、きっと今頃――」
・
・
・
「ドラゴンさんは女の子に興味ありますよね?」
にこにこと、ラナが訊く。だがドラゴンには、少女の美しい黒髪が背後でうねっているように見える。
「……いや、それは」
「ありますよね? なかったら病気か、男の人が好きってことになっちゃいますからね?」
「俺はいたって健康で、趣味も普通で……」
「じゃあ、女の子は好きなんですね?」
テーブルを挟んではいるが、膝を突き合わせているのと変わらない詰問にドラゴンは視線を泳がせた。
「まあ……そう、なるな」
「そうですか。……ドラゴンさんは、無理やり服を奪っちゃうくらい女の子が好きなんですね」
「だから、それは誤解なんだラナ……」
呻くように言うと、少女は慈愛の微笑みを浮かべる。
「分かってます、ドラゴンさん」
「ラナ……」
「ちょっと、欲望を抑えられなかっただけですよね」
机に、ドラゴンはくずおれた。少女の優しい声が百万本の針となってむしろを織る。
「大丈夫です。まだ間に合います。エルに謝って、許してもらって、全部それからです。人の道をちょっぴり踏み出しても、ファンみたいに外れ切ってないドラゴンさんはまだ戻って来れるんです。何があっても私は味方ですから、ドラゴンさんも頑張ってくださいね?」
「……」
「返事してください」
「……ああ」
ばんっ、といきなりテーブルを叩かれびくりとドラゴンは身を起こす。
「私、返事は『はい』だってお父さんから習いましたよ?」
本来魅力的であるはずの笑顔が鬼女の如くあり、まさに“鬼姫”。もはや反論も思い浮かばず、うなだれる司令官。
「……………………はい」
部屋の隅で、腹がよじれるほど笑うアゼリアの姿があった。
・
・
・
「…………今頃?」
「いや、何でもない」
首を振りはぐらかせば、少年の瞳が一つ瞬き興味を逸した。それきりふいっと逸らされ、猫のような気まぐれさで少年が歩き出す。ファンの興趣がどこを向くかはグランドラインの方角をコンパスで探るようなもので、エルはその時次第と余り考えないようにしている。ゆらゆらと背中が遠くなる前に、その背を追った。裸足で焼けた地面を厭わず踏み、隣へ並び横顔を窺う。
小さな欠伸が零れていた。ファンは口元に手を当て、眠たげに浮いた涙を擦る。その挙措だけを見るなら、街中でふとすれ違うぼんやりした子供と何も変わらなくて、エルは仄かに湧き上がった微笑を口の端に乗せた。
周りには誰もいない。いつもはうるさい黒髪の少女も、今ばかりはこの場に現れる心配をしなくていい。
やや強引な仕草で、自分を強調するよう歩く少年の腕に両手を絡めた。赤紫の瞳が迷惑気に自分を見つめてくる。
「…………エル」
「少しぐらい付き合え。未だに返事をしないお前への罰だ」
「…………眠い」
「……本当にマイペースだな、お前は」
苦笑する。だがそれを否定したくはない。自分勝手で、自由奔放な少年でなければ、エルは今ここにいない。その確信はある。
仕方ないな、と零し、エルはあっさり手を離した。どうせすり抜けられてしまうのだから、惜しくはあってもあっさりと。
「寝てこい。私もどこか日陰で昼寝するさ。だが遅くとも今日明日中には返事をもらうから、そのつもりでいろ」
「…………エルも」
「ん?」
鳥の姿にでもなって手頃な寝床を探そうと、飛び立ちかけていたエルだが、少年に袖を掴まれ、何だ? と疑問の視線を向ける。
「エルも…………一緒」
「何がだ?」
意図が窺えずに問うと、ファンはさも当然とばかりにコクコク頷き。
「…………昼寝、一緒」
「――は?」
「一緒に…………寝よ」
「……」
寝る。昼寝。一緒。そして寝ようという誘い。
意味する所を過たず汲み取って、かっと鳶色の髪から覗く耳が真っ赤に染まる。
「わ……私を同衾に誘う気か!?」
「どうきんは、知らない……でも、嫌? …………エグザルでは、よく寝てた」
「私を人間と知らない頃の話と同じにするな! それに男女七歳にして同衾せずと言うだろうがっ!」
「知らない」
ずいっと少年が詰め寄ってくる。いつの間にか掴む対象が袖から腕に変わっている。
「嫌?」
「い、嫌とかそういう問題ではなくて……」
すぐ傍で見つめてくる瞳から逃げるように視線を逸らす。自分でも、なぜこんなに動揺しているのか分からない。
「だ、大体お前、小娘がいるだろうが! 勝手に女と分かった私を部屋に連れ込んで怒られても、私には責任取れないんだぞ!?」
「…………取らなくて、いい。だから、一緒に寝る」
「! ま、待て――」
断定的に台詞が放たれ、握る力がうっすらとその圧を増した。制止を呼びかけようとしたエルの言葉は、中途半端に途切れて岩の砂漠から消える。微かな浮遊感が全身を包み、じんっと痺れるような酩酊感がエルを襲った。
反射的に閉じていた眼を開ければ、そこはもう部屋の中。ファンとラナが暮らす一室。刹那の時間さえ要さない少年の移動能力を、初めて見た時は純粋に羨ましいと思った。だが初めてその身で味わった時は、多用すべきでないと直感した。
空間を跳ぶ際、一瞬自分が自分でなくなったような感覚に襲われる。連続で同じことをされれば、気絶までは行かないにしても相当な疲労感が身に伸し掛かる。能力者である少年自身にそんな感覚はないらしいが、実験的に連続“幽歩”の協力をしたエルは少年にその注意をしっかりと伝えていた。自分を連れて行く時は確認してからならともかく、せめていきなりはやめろと。
……なのに、確認……しなかった。
突然、唐突に、自分を幽玄の向こうへ連れ去った。それが少年の本気さを表しているようで、気後れが湧く。
あ、と声が出た。ファンがぐいっと自分の腕を引いた。綺麗に整えられたベッドへ、連れて行かれる。
「は、羽が……」
羽毛が散るからと、黒髪の少女はエルがベッドに乗るのを嫌がった。だがファンは一瞬視線を寄越すだけでまるで頓着せず、掛布団を剥ぐ。白く清潔なシーツが現れる。エルは萎縮したように足が根を下ろしてしまって、前にも後ろにも進めなくなって。
「…………エル?」
異常に気付き、少年がそっと覗きこんでくる。
「私は、獣だったんだ……ずっと、ずっと、人であることをやめて、人間らしさを忘れて……何年も、何十年も、獣として生きてきたんだ……」
少年の瞳が、瞬く。
「だけど、だけどな、お前と会って、言葉を思い出して……今、私は……怖い」
手を使って食べる。服を着る。ベッドで寝る。
全てそれは、エルが一度失った人間らしさ。捨て去った人間の生活。忘れ果てたはずの、もの。
「夢みたい、なんだ……」
少年の肩にエルはもたれ、額を押し付け、喉を震わせた。
「あの島から出て、人の世に戻ることを長い間望んで……だけど今、こうしてそれが叶う段になったら、また失うんじゃないかと、思ってしまった。……実はこれが長い夢で、目が覚めたらあの島なんじゃないかと、心のどこかで疑ってる。……なあ、ファン」
泣き笑いのような、硬い笑顔を、少年に向けた。
「私は、人でいいか? 人間の暮らしより、獣として生きてきた時間の方がずっと長い私でも、人間の世界に戻って、いいのか? お、お前は私を獣のつもりで連れ帰って、相棒と認めてくれて、だけど私は獣のふりをしてただけて……い、勢いで求婚までして、ほ、本音は、邪魔じゃないか? 煩わしく、ないか? わ、私が人間じゃなければよかったって、思わな」
い、の末尾が、止め処なく溢れていた言葉が、止まる。
不安と、恐怖と、拒絶の怯えを。
少年の唇に、止められる。
触れ合いはほんの数秒。けれどとても長い、数秒。
ゆっくりと離れ、見つめる瞳は、優しかった。
「…………落ち着いた?」
「……」
ほんのり重なっていただけのそこに、指で触れる。不思議な熱が、指に伝わる。
昨日、奪うようにしたファーストキスとは、何もかもが違う。
こんな熱は、知らない。
「……あ」
肩を押され、ベッドに腰掛けてしまう。柔らかい、懐かしいとさえ言える感触が体重を押し返す。
目の前で、ファンが上着を脱いだ。その行動にドキリと心臓が跳ねる。脱いだ上着は椅子に掛けられ、ナイフの一式はテーブルに放られる。靴と靴下を足から抜き、服を緩めた。そこで脱ぐのは終わって、ほっとしたような、残念なような、複雑な感情が胸の奥で揺れ惑った。
シャツとハーフパンツという楽な服装のファンが隣に座り、ベッドがきしみ、二人分の体重を受けて真ん中へ誘うように沈み込む。自然と肩が触れ、また一つ鼓動が跳ねた。おかしい。こんな鼓動は、今まで感じたことがない。
「あ……」
少年の腕が肩を抱き、引き寄せられるような形で二人してベッドへもつれ込んだ。仰向けに倒れた少年の胸板へ身体を預けたようなそれは、まるでエル自身が少年を押し倒しているかのようで、かっと頬が熱くなる。だが頭が真っ白になる前に、その体勢は崩されベッドの壁際へと転がされた。少年と自分が寄り添うように、並んで横になっている。
翼は柔軟で、背に敷いたぐらいでは何ともない。むしろ少年と自らを包む繭のように働いてしまい、頬の熱が一層高まる。それはあの島で幾度か共に眠り、翼を毛布として提供していた頃の癖だった。
「…………大丈夫」
とん、と回された腕で、あやすように背中を叩かれる。身体を向け合い、見つめ合いながら横になり、少年は変わらない瞳で囁く。
「エルが、人で…………僕は、嬉しい」
「……っ」
泣きたくなった。涙が出そうだった。ん、と少年の腕の中へ抱き寄せられ、額を胸に押し当てるよう、少年の温もりに包まれる。
「大丈、夫。……これは、現実。それに、悪い夢でうなされても…………僕がすぐ、助ける。だから、ゆっくり、休も?」
「だ、だが……だけど……」
心臓がドキドキと暴れて、これじゃ逆に眠れない。
そんな意図を汲み取ってくれたのかは分からなかった。だけど少年は、仕方ないなぁと言うように眠たげな瞳を緩め、エルを抱いたまま身体から力を抜いた。その瞳が、何かを想うように閉じられて。
「…………うーみの、かなたー…ぁで」
「!?」
頭の上で紡がれる声に、エルの心臓がドクンと一つ、暴れるのをやめた。
そろそろと、見上げた先で。
少年が静かに、歌っていた。
「なきさけぶ、あなたー…ぁ」
節を付け、ゆっくりと。
「…どーぅか、どーぉか…おもいだすのですーぅ……」
海の底から響くような、不思議な安らぎを口ずさむ。
「あなたの…まわりに…だれがいますかー……」
あなたの…となりに…だれがいますかー……。
おもいだして…わすれないで…。
あなたは…ひとりじゃ…ないのでーすー……。
静かに、緩やかに、繰り返し歌われ、エルの瞼が重く、重く。
……海の彼方で、泣き叫ぶあなた
どうかどうか、思い出すのです
あなたの周りに、誰がいますか
あなたの隣に、誰がいますか
思い出して 忘れないで
あなたは一人じゃ、ないのです……
ゆらゆらと、寄せては返し、引いては来たる、それは潮騒の子守歌。
波に浚われ、いつしかエルは穏やかな眠りの淵へ揺られていった……。
・
・
・
何事とも度が過ぎれば災いである。酒が百薬の長となり得るのも飲み過ぎない限りにおいてだ。
しばらくは腹を抱えて目の前で繰り広げられる前代未聞の催しを観劇していたアゼリアであったが、段々と笑いの衝動は潮が引くように消えて行き、代わりに現れるのは冷や汗で濡れた干潟の景色。
「もう二度と女の子の服を剥ぐような真似はしません。はい」
「……もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない」
「声に誠意が感じられません。もう一回です」
「……もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない」
「もっと心を籠めて言ってください。はい、もう一回」
たかだか十四の少女が、強面の男に教え諭すよう繰り返し言い聞かせる。だが男はもはや力尽きたように声から生気が失せ、瞳は虚ろと化していた。でありながら少女の指示に機械的に応じ、同じ言葉を繰り返す。異様だった。そしてアゼリアは、異様な光景に声をかけねばならない責任があった。
「あー……ラナ娘、今さら過ぎる気がしないでもないがそろそろ時間切れだと教えておこう」
「時間切れ?」
きょとん、と少女自身はけろりとした風にアゼリアを見た。
「うむ。いい加減司令官殿に仕事をしてもらわねば色々と差し支えるし差し障りが出る。故に時間切れだ。……というか本音はドクターストップだと囁いてみよう」
終わりの一言だけ口の中で呟き、仕方ないなぁと残念そうな顔をする少女にこっそり戦慄しつつ、ドラゴンの傍へ近寄って肩を叩く。
「司令官殿、終わったぞ。……一応はだが。そろそろ現実に戻れと促してみよう」
「……もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない。もう二度と女子の服を剥ぐような真似はしない……」
「………」
アゼリアは天を仰ぎ慨嘆する。……もうこれは洗脳の域ではないだろうか。
「あの、ドラゴンさんどうかしました?」
「あー、むー……まあしばらく使い物にならんだけだと伝えておこう。頼むからもう何もしてくれるな、いいな?」
念を押せば、はあ、と生返事を少女が返す。その顔は自分が何をしたか絶対に何も把握していない。
……少年も少年だが、ラナ娘も末恐ろしい。
以前からそこはかとなく徴候は匂っていたものの、敢えて目を背けていたアゼリアだ。“常識の鬼姫”。何を以って鬼と称するか、その一端を垣間見たような気がした。名付け人は深い意味も考えず呼び始めたのだろうが、恐ろしい一致もあったものだとアゼリアは溜息する。
「さて……脱線も脱線、むしろ一回転して話が逆走してる感が大いにあるとはいえ、ラナ娘をここに読んだ当初の目的へ立ち返ってみよう」
「……何でしたっけ? えーと」
「無論羽娘の話に決まっている」
ドラゴンの回復は一先ず捨て置き、テーブルを回って椅子に座る少女へ歩み寄る。
「そこで注意事項がある。今から“見せる”のは全て真実であり、虚飾は一切ない。羽娘に同情したとか応援したいとかいう感情とは一切合切無縁だと念入りに主張しておく。主に私のために」
「何でアゼリアさんのためなんですか……っていうか、見せる……?」
「百聞は一見に如かず。では行って来いラナ娘」
「え?」
ぽん、とその頭に片手を置き、告げた。
「――“夢幻抱擁”」
目に見える現象は何も起こらない。それは精神の内で作用する力。
少女の黒い瞳が一瞬で濁り、弛緩した身体がテーブルに倒れる。すぅすぅと、漏れ零れる寝息。
「……こちらはこれでよし。ガイドも付けたから充分だろう」
問題は、と未だ呆けた様子でぶつぶつ繰り返す男に呆れた目を向ける。
「こういう場合はショック療法が最適だが……トンカチ、トウガラシ、水責め、針……いやこんな面白味のない選択肢の何が楽しいと自戒してみよう」
顎に指で触れながら再びテーブルを回り、普段は自分よりも高い位置にある頭を見下ろす。
よくよく考えれば、これは千載一遇の好機である。にんまりとアゼリアは口端を吊り上げ、乱暴な手つきで男の髪を鷲掴み上を向かせた。その時点で首に痛みでも走ったかドラゴンが小さく呻き、しかし構わず口を塞ぐ。
唇で。
「―――ぶほわっっっ!?!?!」
虚ろだった目に光が宿り息を吹き返した男が全身で飛び跳ねた。男が覚醒するまでの一秒に感触を堪能した女は、男の狼狽をとっくりと眺める。
「なっ……何をするかお前はっ!?」
「酷い反応だな司令官殿。泣いていいか?」
「泣くほど殊勝な女がこんな真似するかっ!」
ドラゴンが口元を拭いながら叫び、アゼリアはそんな男の反応にもっともだと思いつつ悲しげに目元を押さえてみせる。
「はあ……まさか司令官殿が私のような好い女の口付けでさえ反応しない不能だとは思わなかった。と、哀れに過ぎて袖を濡らしてみよう」
「……袖なしの服のどこを濡らす気だ。いや、いい。答えるな」
腕を上げてアゼリアの回答を遮り、苦虫を口いっぱい噛み潰した表情で男は椅子を引き、その視線が眠る少女へ向けられるが、チラと眺めただけで状況を察したらしく何も言わず座り直す。
アゼリアはにやにや笑いながら、背もたれ越しにその背後へすり寄った。が、警戒されたらしい。煩わしげに腕が振られ追い払われる。
「ほう、ほう。その態度からすると僅かなりとも羞恥を引き出せたと鑑定してみよう」
「二度とやるな。今後二度と、絶対に、何があってもだ。次は、許さん」
「ふふふ照れているな司令官殿。心に決めた女性がいるわけでもあるまいに、唇程度で大騒ぎとは」
「……悪いが、そういうわけだ」
疲れた様子で男は言った。そして一瞬後、失言に気付きざっと表情を変え口を押さえる。だがむしろ、唖然と表情を凍らせていたのはアゼリアの方だった。
時が止まったに等しい数秒を経て、ようよう、アゼリアは首を傾げ唇を動かした。
「……司令官、殿? まさか奥方がいたりとか……」
ドラゴンが無言で目を逸らす。
「まさかまさか、子持ちだったりとか……?」
ずいと詰め寄るアゼリアに、返らぬ肯定。返ることのない否定。
つついた藪から竜を出したような心境によろめいたアゼリアは、くずおれそうな身体をテーブルに寄りかかり支えた。
「……いや司令官殿の外見年齢を考えればあり得ないことではなくまた革命軍を組織する以前を露ほども知らない我々にも非はあるわけでだからと言ってよもや司令官殿に女を愛するような甲斐性が存在すると塵芥ほども思わなかった自分を責めたくもあるがしかしまさか……」
女の目が、信じられぬという光を持って男を見る。
「まさか、世界最悪の犯罪者が隠し子を持っていようとは……」
「忘れろ」
断ち切るような響きが耳にもたらされた。
「忘れろ。せめて時が来るまでは。でなくば俺にもあれにも、災いとなる」
「御意」
忘れろ、と繰り返す。その声を受け、常の軽さが嘘のように黙然と、アゼリアは頭を垂れた。
・
・
・
空が濁っていた。街並みは仔細がぼやけて覚束ず、けれど時折思い出したような鮮明さで映る。
どこかから漂う磯の香りと、人の動きと、海鳥の鳴き声。全ては遠く感じられて、少女はまるで世界から取り残されたようだった。
あるいは、別の世界に迷い込んでしまったような。
「……え?」
そんな、呆然とした呟きしか漏らせない。確かめるように周りを見回す。
一瞬前まで、ラナはバルティゴの屋内にいたはずなのだ。それが気付けば外で、見知らぬ街で、雑踏に囲まれている。
「……夢?」
《ほう、さすがラナ娘。慧眼だな》
すぐ耳元で独り言に答えが返り、ラナはびくっと身を竦ませて振り返るが、そこに探した人影はない。
「……アゼリア、さん?」
《いかにも。と答えたいが、生憎今の私は木霊のような物と思ってほしい。助言もできるし、今の状況に説明も付けられるが、本体の意識と切り離されているため夢に現れることができないのだ》
まさしく木霊のように、アゼリアの声だけがどこからともなく耳に聞こえ、取り敢えずそれだけでも安心できる要素が見つかって、ラナは湧き上がった安堵を吐息に混ぜて零した。
「これ……ここ、どこなんですか?」
《これは昨夜、羽娘の協力を得て見させてもらった“夢”の世界だ。正確には私が記憶した“夢”の再現映像になる》
「夢……これが?」
《ラナ娘にはまだ言ってなかったな。私はユメユメの実を食した超人系幻夢人間。夢を見、また見せ、操る。夢の世においてのみ私にできないことはない。私はこの能力でラナ娘を夢に案内したというわけだ》
「えっと……」
ラナは難しそうに小さく眉を寄せて、言葉の意味を考える。
「エルの夢をこうやって見ることが、エルを理解することに繋がるんですね? ……でも、夢で何が分かるんですか?」
《夢とは、眠りの中で脳が見る記憶の断片だ。記憶は寝ている間に整理され、その日以前の記憶と複雑な糸で繋ぐ。縒り合された記憶は出鱈目な夢となって瞼の裏に映されるが、取り分け心に深く刻まれた記憶は薄れることなく夢に見る。……ラナ娘は、覚えがあると思うが》
「……悪夢」
ぽつん、と呟きが、凪いだ湖面に波紋をもたらして落ちる。
アゼリアの頷く気配があり、ラナは目を閉じて胸に手を当てた。そこにはいつだって、赤い夜の光景が焼き付いている。
まだ半年さえ過ぎていないのに自分が復帰できたのは、少なくとも昼間思い出すことがなくなったのは、この上なく乱暴に自分を悲しみと絶望の底からさらって行った少年が傍に居たからだ。
寄る辺があった。赤紫の少年という、支えがあった。絶望を希望に、変えてくれた。
だけど――そう。
ファンがバルティゴに連れ帰った時、一人だったあの少女は?
《幸せな人間も悪夢は見る。ならばトラウマを抱えた人間の悪夢とは如何ほどのものだろうな?》
響く声からは普段の軽妙浮薄がない。ただ淡々と真実を告げる学者のような声だった。
《この夢は羽娘の悪夢から構成されている。そして悪夢は羽娘の古い記憶に端を発している。ずっと消すことも忘れることもできず胸に抱えていたトラウマだ。それでも知りたいか、ラナ娘。エルと言う少女の過去を、何が起きてエグザルという無人島で生き、少年と出会ったのかを》
ラナは何も知らない。エルとは顔を合わせたばっかりだ。赤紫の少年は知ることを無意味と断じて、ただ鳶色の少女を受け止める構えでいる。だけどラナは、男のファンと違って女で、翼持つ少女とはこれからもきっと恋敵で、だけど約束したから、許したから、争うばかりじゃいられない。
そのためには、知らなければならない。これは何も知る気のない恋人の代わりに、ラナが請け負う義務。
ラナは拳を握って、声に言った。
「……教えてください、アゼリアさん。エルのトラウマ、過去、どうやってファンと知り会ったのか、全部」
満足そうな気配が、返った。
《いいだろう。だが私はナレーションだ。悪夢の物語を語る解説者に過ぎない。ラナ娘が全てを知るためには、舞台の登場人物が演じる悲劇を見なければならない。それでもいいか?》
「……はい!」
《分かった。では開幕だ》
アゼリアの宣言を皮切りに、世界の歯車が動き出す。肌で察せられるほど何かが変わって、ラナは静かに息を呑んだ。
そして不意に、背後から軽い足音が響いた。
「――!」
雑踏の真ん中で立ち尽くしていたラナの傍らを、鳶色の小さな影が駆け抜けていく。
それは上品なスカートを穿き、艶々の長い髪を翻す、六歳前後の幼い少女。顔を興奮と喜色に上気させて、風のような速度でスカートの裾をはためかせ、あっという間にその背を小さくさせていく。
背に翼はなく、蔭のない笑顔は柔らかくて、鋭くない。けれど一瞬見た横顔は、紛れもなく面影があった。
「今の……」
《エルだ。いや、トゥム・ユエルテと言うべきか》
耳元で、声が促す。
《追え、ラナ娘》
ラナは、走り出した。