「…………」
ほとんど寝息も立てず泥のように眠る少女を見つめていた。疲労の色濃い寝顔はけれど、未だ悦楽の海を漂っているかのように陶然として、明け方まで演じられた官能の余韻を残す。
うつ伏せに枕へ沈む少女の頬に手を伸ばし、落ちて来ていた黒髪を耳の後ろへ払ってやる。うなじの白さが眩しい。
「…………ラナは、すごい」
ぽつん、と呟いた。もう一度口の中で繰り返す。ラナは、すごい。
何度少女が絶頂し、果て、絶え絶えの息で愛撫を加えられ、休むこともできず喘ぎ、幾度気絶の縁へ追いやられたか。それでも意識を失うことなく最後までファンと向き合い続け、二人一緒に朝日を迎えた。カーテンから射し込む柔らかな曙光の中で、少女はそっと微笑んで見せた。そして一言だけ口にして、深い眠りの底へと吸い込まれていった。
『本当に、朝まで愛してくれたから……許してあげる……好きに、していいよ』
論より証拠とはそういう意味だったらしい。己の言葉を逆手に取られたような気がして、ファンは初めてラナに対し舌を巻く思いを味わった。より一層、手放す気もなくなったけれど。
眠りに落ちた少女とベッドの汚れを透過で清め、淫臭籠もる部屋の換気をしたファンは、眠気はあるが何となく眠れないまま少女の隣でその寝顔を見続けていた。窓の外が緩やかに活気で満ちていく気配を、感じながら。
目覚めるまで傍で見ていよう。そう思っていたが、ふと部屋の扉へ視線を向ける。
同時に―――ドアを殴り飛ばすようなノックの音。
「少年、ラナ娘! もう昼だというのに起きてこないとは余程爛れた生活らしいと想像してみよう! 現在男のいない私に対する当てつけかそれはっ?」
「…………」
答えるのも面倒というか馬鹿らしい。アゼリアの声にも反応せず昏々と眠る少女の隣へ、ゆらりと身を寄せて温もりを抱く。扉の向こうから聞こえる騒音は無視。
「……そうかそうかそういうつもりか。籠城ならこちらにも考えがあると実力行使に訴えよう」
……無視したかったのだが、言葉尻に不穏な響きを乗せられ、仕方なくファンは暖かいベッドから降りた。床に散らばる衣服を掻き集めて簡単に纏い、何やらガチャガチャと鍵穴の鳴っている扉へ向かう。
「む……はて、おかしいぞ。ピッキングとは確かこうしてここをこう……」
回る気配はなかったが、可能性を考えて鍵を押さえる。ベッドで何も知らず眠るラナは何一つ身につけていないから、例えアゼリアであろうとこんな場面で見せるのは腹立たしい。
突然ビクともしなくなった鍵穴に「む? む??」と混乱する声。意地になったのかガチャガチャガチャガチャ力任せな扉の向こうへ、ファンはぬっと首を突き出した。
「――のぅわっ!?」
盛大にアゼリアがひっくり返り、すっぽ抜けた針金が甲高い音を立てて床に落ちる。
が、裏返った亀のような姿から、アゼリアはすぐさま起き上がり叫んだ。
「しょ、しょしょ少年っ! 生首とはいきなり驚かすなと気を付けてみよう!」
大いに言葉が乱れていた。言語野が崩壊するほど驚いたらしかった。首から上だけが透過しているため、見ようによっては木製の扉に生えた生首に見えなくもない。すぅっとファンは扉をすり抜け、片手を差し出す。
いつものバンダナを頭に巻いた女海賊姿、アゼリアはやれやれと手を借り立ち上がった。
「全く、肝が冷えた……。おかげで背中の辺りがアオミドロだと愚痴ってみよう」
「…………それは、汗みどろ」
「そうとも言うな」
そうとしか言わない。
一つ息を吐き、ファンは何の用か視線で問いかけた。アゼリアの調子に合わせていたらいつまで経っても話が終わらない。
「そうだな……ラナ娘はまだ寝てるのか? 少年と一緒にちょっと来てほしかったんだが」
「…………そう」
頷き、
「…………おやすみ」
「待て待て待てっ、本当に寝てしまっていいのか少年!? 話も聞かず? それは少々無益どころか不利益だと脅してみよう」
するすると後ろのドアへ消えかけて、言葉通りの脅し文句にファンは迷惑そうな目を向けた。
「最悪少年だけでも構わないが……やはりラナ娘を外しては後々まずかろう。というか私に被害が及ぶ……」
だから何だ、ラナにいくら怒られようと僕の知ったことではない。と、ファンは無情かつ無表情に視線で告げる。
「……常々思っていたが、少年は私に対して恨みでもあるのか? ラナ娘のようにとは言わんが、もう少し年上の女性に対する配慮をだな」
「…………年増に、興味は」
「は、は、は。なんだ少年そんな理由か。――――死ね」
ダァンッ、と轟く銃声。屋内にも関わらず発砲された銃弾はファンの額をすり抜け、木材の扉を貫通して背後の壁に埋まる。……逆に言うと、ファンでなければ確実に死んでいた弾道。
アゼリアはにこにこと笑みを浮かべながら次弾を装填する。
「なあ、少年? 女の年齢に関する話題は少女時代までだ。そこから先は当たり外れが激しい。つまり、今私に言っておくべきことがあるんじゃないかと伺ってみよう」
ジャキ、と撃鉄を上げた拳銃に額を照準されたファンは、真実眠たげな瞳で高い位置にあるアゼリアの顔を見上げると、
「…………若年増?」
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
更に三つ穴が空き、余りの騒々しさに眠っていた少女が目を覚ました。
・
・
・
乾いた白土から一歩敷居を潜ると日差しが途切れ、ラナはほっと一息する。
「最近、何だか暑いですね」
「夏季に入ったせいだな。バルティゴの夏はこれからが本番だぞ? なんせ一年の半分が猛暑酷暑残暑と熱には事欠かない気候だ。ラナ娘たちは丁度過ごしやすい季節にやって来たのだと羨んでみよう」
背後の扉を閉めながらアゼリアが答え、その隣で聞いているのかいないのか、ファンが赤紫の瞳を眠たげに瞬かせる。
……うん、私も眠いから頑張って。
ぽん、と励ますように肩に触れ、先導するアゼリアの後ろに二人して続いた。
つい先ほど銃声によって叩き起こされたラナは大急ぎで着る物を身に付けると、ファンに向かって一方的な口論――口数が少なすぎて一方的に聞こえるアゼリアのセリフを、思いっきり足の指を踏みつけて中断させた。屋内で銃乱射とか何考えてるですか!? と。
違う、違うんだラナ娘少年が――と口走りかけた反論は唸るトンファーの前に切って捨てられる。有無を言わさず、ラナは笑顔で片付けと扉の修理を要請。実質は命令。アゼリアはその背後に鬼女の影を見、慌てて資材置き場へ走るのだった。
眠れる鬼姫を叩き起こしてはいけない。寮で一部始終を目撃した住人からそんな話が燎原の如く広がっていたのだが、この時点のラナには知る由もないことであった。
「……アゼリアさん。それで、私達に用事って何ですか?」
前を歩く背中に問いかける。扉の修理が終わった後、若干の疲労を滲ませたアゼリアから自分達の部屋を訪ねた本来の理由を聞いたのだ。
「司令官室――ドラゴンさんの部屋に来てほしいって、話でしたけど」
「さっきも言ったが、詳しいことは部屋についてからだ。急いては事をし損じる、急がば回れ。焦ったって何もいいことはないぞラナ娘」
「……それは急いでる時のことわざであって、事前に説明をしないための例えじゃありません」
「はっはっは。もう少しだから我慢だ。とは言え、少年の方はもう分かってるようだが」
え? とラナは隣を見る。赤紫の少年はそう指摘されても表情を変えぬまま、小さく欠伸した。
……悪いことじゃないのかな。
緊張してない――のはほぼいつものことだが、というかファンが緊張するような事態を想像したくないが、何か大変なことが起こったとかそういう話ではないようだ。
……じゃあ、何の話?
ドラゴンに呼ばれる理由が全く思いつかない。ファンだけならともかく、二人揃ってというのが特に。
そうこうする内、建物の最上階にある部屋の前にたどり着き、アゼリアが不敵な笑みで振り返った。
「ではラナ娘、心の準備はいいな?」
またそんな不安がらせるようなことを言う。恨みがましく見つめるが、アゼリアは素知らぬ顔でノブに手をかけた。
何度も開けたことのある扉が軋み、開いたその向こうで、
―――鳶色の羽を背に生やした少女が、ふっとこちらを顧みた。
「ぁ……」
と、その姿に見惚れ、自失する。
朝の日差し降る窓を背景に、一対の翼は少女の背で燦然と光の雫を浴びて煌めく。纏う衣服は、大きく背中の空いたドレス。足首までを覆うヴェールのようなプリーツから、覗く素足の爪先が卑猥とは逆向く色香を匂わせて。
「天、使……?」
口を衝き、零れた言葉を天使が聞いた。翼と同じ色合いの瞳が丸くなり、そうかと思えば、不機嫌そうに唇を引き結びぷいっと顔を背ける。
……?
小さな疑念が胸に湧き、ラナは内心首を傾げ隣を見る。天使と見紛う少女は最初にラナを驚いた目で見つめ、次いでラナの隣――赤紫の少年に視線を移した途端、ぱっと避けるようにそっぽを……。
「――!」
電撃的に連想が繋がりラナは猛然と少女を振り返った。
鳶色の翼持つ、ラナでさえ綺麗だと感じてしまう少女。
名前も知らない、彼女。けれど。
――少女の頬が微かに紅潮している様を、ラナは己の目で、見る。
……この人が。
こんな綺麗な人が。
ファンの…………“もう一人”……!
「…………」
誰もが奇妙に口を閉ざし、止まってしまった部屋の空気を、ファンの一歩が引き裂いた。
カツン、と普段静かな靴音が響き、はっとしてラナは現実に立ち返る。気付けば少女のすぐ傍に、少年がたどり着いていた。
赤紫の瞳が少女の鳶色と交錯し、なぞるように身体を下る。
「…………その服」
「……そこの大女に、着せられたんだ」
短く聞いた少年に苦い口振りで少女が返す。ラナが隣を窺えば、アゼリアが得意そうにイーゼルの所からかっぱらって来たと言うので、服飾長の為に脛を蹴飛ばしておいた。ぐおぉっ、と飛び跳ねるアゼリアを無視し、気になって仕方がない少女と少年の遣り取りに意識を戻す。
「…………」
ファンはゆらりとした足取りで少女の全身を色んな角度から眺め、うん、と一つ、眠たげに頷く。
「そっちのが……いい。…………似合ってる」
「そ、そう……か?」
褒められて嬉しいというよりむしろ戸惑った様子で、少女は落ち着かなげにドレスの裾を摘まんだ。
「正直、こんなひらひらした服は昔を思い出して嫌なんだが」
「…………似合ってる」
「う……まあ、お前がそう言うなら、着てやらないでも……ない」
眠たげでありながら心の奥の奥まで見透かすような、赤紫の茫洋とした眼差しに圧され、嫌そうな顔をしつつ――けれど照れ臭そうに少女は首肯していた。
そんな二人の様子をラナは静かに見つめる。つきん、と痛んだ胸を押さえて。
……いつの間に、知り合ったんだろう。
少女の顔に見覚えはなかった。それ以前に翼を生やした人なんて見たことがない。一目でもしていたら絶対に忘れられない特徴と気配を少女は持っていて、息が詰まる。
猛々しい雰囲気の中にいたわしさがあり、爪の鋭さだけではない羽毛の柔らかさがある。人と獣の性質を兼ね備えれば、こんな空気が出来上がるのかもしれない。
……でも、この子なら……きっと私が補えられない部分で、ファンを助けてくれる。
奇妙な確信。理屈も抜きにそう感じた。ファンに『説得』されたせいでもあるけれど、この少女を迎え入れるに不都合はない。ラナ自身の独りよがりな感情を除いて、そう思ったのだ。
が。
「ところで、ファン」
ドレスの裾をふわりと舞わせ、切れ長の瞳に微笑を刻み、少女は出し抜けに言い放った。
「私のものになる準備は、できたか?」
「………………………………え?」
ずっと、二人の会話に入るまいとしていた唇が、介入する。
少女に、少年に、交互に目を走らせ、聞く。
「なに……何の、話……?」
「なんだ、聞いてないのか」
初めて、少女がラナに対し言葉を放った。挨拶でも自己紹介でもない第一声は、刃の鋭さで斬り込んでくる。
「昨日、私はこいつに」 と、後ろのファンを親指で差し「……求愛した。いや、求婚か? とにかく愛の告白だ」
聞いてる周りが恥ずかしくなるようなセリフを濁すことなく少女は言い切る。堂々と、自らの言に恥じる箇所などないかの如く。
そうして瞳を、鋭く輝かせ、少女の生気が溢れ行く。
「ファンは、私のものになる。私のものにする。当然、キサマとも別れてもらう」
「そんな、勝手なこと……!」
「ふん……この世は弱肉強食。強い男に釣り合うのは強い女だ。私こそがファンに相応しい」
傲然と言い切る少女は、眼光鋭くラナを睥睨する。
「それとも、キサマは私より強いのか?」
「……強くなんか、ない」
「だったら」
「でも、私があなたより強くないといけない理由は、どこにもない」
横からしゃしゃり出て、勝手なことを言う少女に叩きつける正論。
強い男に釣り合うのは強い女。その理屈に異論はないけれど、必ずしも腕っ節で強さが決まるじゃない。
……ファンを好きな気持ちなら、誰にも負けない……!
想いを胸に、睨み返した。
「く……くっくっく……!」
失笑? 嘲笑? 少女が笑い、唇が吊り上がり、ギラギラと剣呑に瞳が輝き。
ぶわっと翼が広がった。狭い室内で弓を引き絞るようにたわめられ、敵意の赴くまま突進!
……しようとして、ゆらりと伸びた右手が少女の耳を引っ張った。
「いっ!? 痛っ、痛い痛いってバカ本気で痛いから離せ、離せっ!!」
「…………偉そう」
「分かった謝る! 謝るから離せっ、ほ、本気で千切れる――!」
ぱっと指が離され、少女は耳を押さえて蹲る。
「うう……くそ……おのれ……いつか後悔させてやるからな……!」
「……あの、涙目で言っても怖くな」
「黙れっ!!」
「ひゃんっ?」
争いに発展しかけた直後だが、何だかどうしようもなく可哀そうに見えて、慰めるつもりで近付いたラナはべしっと羽で叩かれる。それが丁度鼻の頭だったから、ラナもまた鼻を押さえて蹲る。
「……酷い。耳千切れてないか見てあげようとしてたのに」
「千切れてたら自分で分かる! 赤くなってるか見てあげるだろうがこのド天然!」
「ど……そ、そんなのあなたに言われる筋合いないよ! 初対面なのに勝手なこと言わないで!」
「いーや何日も前から言いたくて仕方なかったんだっ、キサマ外面は確かに見れるし可愛いが、それを利用して男の心を弄ぶなど悪魔の所業だぞっ!」
「もっ、もてあそ……何それ!? 言いがかりも甚だしいよっ!?」
「ふん、私は知っているぞ。昼時に男たちから貢物を受け取るだけ受け取っておいて、さあ一緒に食べましょうと誘われたらすげなく切り捨てるキサマの本性をな! キサマのような悪女にファンは渡さんっ!」
「そ、それはだってファンとお昼ご飯一緒に食べる約束してたから! いきなり現れて掠め取って行こうとしてる泥棒猫に言われたくないっ!」
「何だとキサマ……!」
「ひゃっ!? こ、このぉ……!」
わーわーと上を下への取っ組み合い。ごろごろ床を転がって掴み合い罵り合う。ファンの手前直接打撃を暗黙の了解として禁止しているのか、むしろそうしては負けだと思ったのか、騒がしい口喧嘩が幕を開けた。
その原因となっている少年はゆらりと椅子に座り、何食わぬ顔で皿に並べられていたトーストを摘まむ。
部屋の奥から、それまで沈黙を保ち成り行きを見守っていたドラゴンが口を挟んだ。
「……止めんでいいのか、ファン」
「…………お腹すいた」
もぐもぐと後ろの騒動を無視して朝ごはんを食べ始める少年に、ドラゴンは深く嘆息する。
それはつまり、俺が止めなければならんのか、と。
・
・
・
「…………」
右を見る。ラナが自分の腕を握って反対側をう~っと睨んでいる。
左を見る。エルが抱きつくように腕を絡め、尊大な態度でラナを威嚇している。
「ふふふ、まさしく両手に花だなと羨んでみよう。むしろ少年を妬んでみよう」
斜め向かいに座るアゼリアがうざったい。
二匹の子猫――と呼ぶにはやや凶暴なキャットファイトは、ドラゴンも放置を決め込む壮絶なくすぐり合いに発展し、共倒れで終わった。が、さっきまでぜいぜい息を荒げてグロッキー状態だったのに、デザートをのんびり食べようとしていたファンに気付くや否や、エルが隣の席を陣取り腕を絡めて来た。負けじとラナも奮起して反対側の腕を取り、ファンを間に挟んで威嚇合戦開始。
おかげで両手が塞がってしまって、フルーツヨーグルトが食べられない。
「――む。ファン、そのスプーンを貸してみろ。ありがたくもこの私が食べさせてやる」
「ファン、渡しちゃダメだよ。そういうことなら、私がしてあげるから」
散る火花。嫉妬の花咲き、対抗心は際限なく。ファンの持っていたスプーンにまで狙いが定められる。
…………邪魔。
あ、という声二つを置き去りに、拘束されていた腕をすり抜ける。ファンはデザートの器を保持したまま、まっすぐテーブルを縦断して反対側の椅子へ。アゼリアの隣はこの際仕方ないと諦め、座る。
当然残った空席を確保すべく少女二人が慌てて立ち上がった直後、
「―――お座り」
一言、命令した。ラナがビクリと硬直し、腰を抜かしたように座り込む。かぁっとその頬が赤く染まる。
(あう……思わず座っちゃった。お座りって、私犬じゃないのに……朝までファンにずっと、その、可愛がれてたから? つい条件反射で言うこと聞いちゃった……うう、恥ずかしい。アゼリアさんニヤニヤしてるし……)
一方、咄嗟に反応できなかったエルは歯噛みせんばかりに隣で縮こまる少女を睨んでいた。
(く…小娘め、なんたる従順さだ……! ここは私も雌らしいところをアピールするべきか? いや、こいつと同じことを、しかも遅れて実行して何になる? くそ、何か失点を取り戻す策は……っ)
「伏せ」
ずざぁっ! と床石が削れるほどの勢いでエルが床に伏せた。四つん這い、どころかぴったり顎まで床に着けた見事な伏せだった。
(……え? なに? 伏せ……って、え? 私もした方がいいの?? ファンの命令聞いた方がいいの???)
混乱するラナをよそにエルは内心勝ち誇る。
(ふ……勝った。どうだ小娘、これで私の方が従順でファンに相応しいことが分かっただろう!)
「…………そのまま、待て」
「「……」」
更なる命令で引くに引けず、動くに動けなくなった少女二人。方や椅子に腰かけ、方や床に伏せたポーズ。
そんなある種異様な光景を作りだした張本人はその一切を無視して、静かにデザートへ手を付ける。
もぐもぐと、美味しそうに。
「何をやってるんだお前達は……」
付き合いきれない。眉間を揉みほぐしつつ、ドラゴンが疲れた様子で背もたれに寄りかかった。
「ふざけるのも大概にだ。ここを遊び場と勘違いしてないだろうな」
「遊び? 馬鹿を言え、私は果てしなく大真面目だ」
「……床に這いつくばって言われても説得力が皆無だ、エル」
緊張感を返してほしい。せめて座って話を進めてほしいと願うドラゴンだった。そうして全ての原因たる赤紫の少年を見やるのだが、本人は細かい経緯など気にも留めてないらしい。
エルが人の姿を見せていることも、昨夜ドラゴンとアゼリアとエルの三者で交わした会話の内容も、エルがラナに向ける敵愾心も、視野にすら入れてない。だがどうでもよいのかと聞けば、恐らく否定の言葉が返るだろうとドラゴンは読んでいる。
どうでもいいのではなく。
どうであってもいいのだ。
それはエル自身の問題で、エルとドラゴン達革命軍の問題で、エルとラナの間にある問題で。必ずしもファンが知る必要のある事柄ではない。とは言え知りたくなるのが人というものなのだが、鳶色の少女に関することには余り興味がないようだった。今も放置した少女より、ドラゴンの前にあるデザートの器を物欲しげに眺めていることからして明らかだ。
取り敢えず木製の器を少年の方に押し出してやり、ファンが無表情ながらも嬉々としてスプーンを握るのを視界の端で捉えつつ、未だそれぞれの姿勢体勢で硬直する二人の少女へ口を開いた。
ひとまず自己紹介でもしたらどうだ、と。
今更過ぎる提案に二人揃ってきょとんと目を見交わし合うのは、ご愛嬌と取るべきだろうか……。
・
・
・
「……え?」
黒真珠みたいに目を丸く、零れそうに見開くラナの前で、一羽の猛禽類がバサバサ。
ファンはどうということもなくぼうっとして、アゼリアは一人でニヤニヤ笑い、ドラゴンはやれやれと言わんばかりに首を振る。
「……え?」
繰り返し疑問符を発したラナへ、鳥の顔が明らかにからかいを含んだ笑みを浮かべた。
肩に留まれるほどの矮躯が飛び立ち、中空でその身体を爆発的に膨張させ、ドレスの裾が翻る。
「――さて、先程キサマが言った初対面と言うのは取り消してもらおうか」
素足もまばゆく床に降り立ったエルが、傲然と腰に片手を当て余裕たっぷりに言い放った。
……ラナとしては、もう驚きすぎて声も出ない有様なのだけれど。
見兼ねたドラゴンが補足する。
「エルはトリトリの実を食べた悪魔の実の能力者だ。ファンが修業先から連れ帰った時は、まだ人間であることを隠していたらしいがな。細かいことは本人に聞け」
「投げやりだな司令官殿。そんなことで保護者役が務まるのかと憂慮してみよう」
「これっぽっちでも憂いているなら少しは口を貸してみろ。保護者役はお前も同じだろうが」
大人二人、いつもの遣り取りいがみ合い。それさえ今のラナには他人事だった。
エル。翼持つ刃の鋭さを秘めた少女。その正体があのやかましかったファンのペット。
(言われてみればただの鳥にしては賢過ぎたけど……)
だからって人間だなんて誰が思うだろうか。
ふふんと胸を張る少女から視線を外して対面の少年へ。赤紫の瞳は普段どこを見ているかも判然としない茫洋としたものなのに、こういう時だけ目聡く見返してくるのがずるい。
大きく息を吸い込んで、それから胸を空っぽにする。言いたいことは色々ある。でもそれは全部飲み込み、ラナはエルに向き直る。一瞬何と呼ぶべきか迷って、いきなり態度を改めるのも変だしそのままで行く。
「ねえ、エル」
「ん?」
「ごめんね」
「………は?」
ぽかんと口を開けた少女に言葉を連ねる。
「だから、そのね。今までずっと動物扱いして、ごめんねって」
真摯にごめんなさいと頭を下げる。本当は人なんだとしたら、今までラナがエルにしてきた仕打ちは酷いことだ。人に対してペットの躾をするなんて失礼なことだ。
そう口にして説明すると、エルは酢でも飲んだ顔でまじまじと。
「……お前、真性のバカか?」
「真剣に謝ってるのに何で!?」
「真剣に謝っているからだろうが! 隠していたのは私なのにキサマが頭下げる意味が分からんっ!」
ラナがガタンと立ち上がり、再燃しかけた喧嘩の空気をアゼリアが手を開いて静止する。
「まあ落ち着けラナ娘に羽娘。これ以上の騒ぎとなれば私が相手をしたりなかったりしないでもない」
「どっち!?」
「誰が羽娘だっ!」
「どっちでもいいに決まってるし羽が生えてるから羽娘は事実だ。言葉尻を捉え枝葉末節にこだわってばかりでは先が思いやられると諦観してみよう」
面白いように食いつき喰ってかかる少女二人を素知らぬ顔で、アゼリアは飄々と言ってのける。
「それ以前に、二人とも話を進める気があるのかと疑ってみよう。喧嘩するほど仲がいいを証明するのは構わないが、しかし時間は有限と決まっている。更に言えば私も羽娘も司令官殿もほとんど寝ておらず全員寝不足だ。これを早々に解消するためにも迅速な説明と理解が求められているわけで――」
「……アゼリア」
「む?」
「既にお前が長広舌だ。短く纏めろ」
うんざりした様子のドラゴンにたしなめられ、アゼリアはひょいと肩を竦める。
「了解だ司令官殿。さてそもそもの始まりは……とある猛獣だらけの無人島に、幼い少女が漂着した。その話から始めねばなるまい」
ゆったりと語り始めたアゼリアにラナは隣の少女を窺いつつ、不承不承浮かしていた腰を下ろした。
「あの……それは聞かないといけないお話なんですか?」
「ふむ。羽娘の生い立ちが混ざる話だが、少年との馴れ初めも含む予定だ」
じゃあ聞きます。即答してラナは前のめりに傾聴の態度を取る。敵の情報は多いほどいいのだ。ラナと恋人の会話や関係は、鳶色の少女に筒抜けであったことだし。
しかし――主役の一人であるはずの少年は、逆にゆらりと席を立った。
「……ファン?」
「…………朝の、鍛練」
果てしなくマイペースな答えを返され、ラナは溜息して行ってらっしゃいと手を振る。ファンの行動を阻害できるのはごくごく限られた人間だけで、それにしたところでファンが本気で逃げに入ったら相当苦労する。
けれど赤紫の少年が扉に向かうのを見て、隣の少女まで立ち上がったのは計算外だった。
「……ふん。なら私も行かせてもらう。これ以上ここにいても退屈だ」
「エルも!?」
「何だ、私がファンに付いて行ったら不満か?」
「そ、それもあるけど……エルの話なのに、本人が居なくていいのかなって」
こういう話は当人に確認を取りつつ話すものではないだろうかとラナは思うのだが、そんな考えにエルは眉を吊り上げる。
「私はもうキサマらに話すことは何一つない。安全管理の名目で全て吐かされたからな!」
いっそ忌々しげにエルが睨む先で、革命軍の司令官と心療医はそろって白々しく被った鉄面皮を崩さない。
「えっと、何されたの?」
「ん? そうだな……」
ラナが聞くと、それまで吊り上っていた眉がふと下がり、猫のように細まった瞳が上座のドラゴンを捉えた。子猫が無邪気に獲物をいたぶる眼とよく似ていて、不吉な予感に襲われたドラゴンはとっさに身構えたが――遅かった。
「裸に剥かれたな、そこの司令官とやらに」
深い、深い沈黙が下りた。刺すような沈黙だった。
「……ドラゴンさん」
「待てラナ、事情を説明させろ」
「却下です」
額に冷や汗浮かべた司令官へ、ラナはにっこりと、寒気がするほど綺麗な笑顔を見せた。