―――色彩の定まらない街並みが、電伝虫の受信不良を思わせるノイズを抱えて映った。
『やーい化物鳥~!』
『鳥猫にんげーん!』
子供たちのはやし立てる声が混ざる。道理を知らない子供たちの、自覚のない悪意。
『――うるさいっ!』
遠巻きに浴びせられる雑音に耐えきれなくなった少女が怒鳴った。見る見るうちに五指が鋭利な爪と化し、背には翼が広がり、スカートの下の両足は鉤爪を備えた獣毛に覆われる。わっ、と子供たちが散るように逃げだした。残されるのはぶつけどころのない怒気と、少女一人。
ページを捲ったように風景ががらりと切り替わる。見えたのは暖炉の火と、父親らしき男性の膝に座る少女の姿だった。
『父様。海には化物みたいな能力者がたくさんいるって、本当?』
『いいや、それはデタラメだよ。化物みたいな人間ならたくさんいるけどね』
娘の幼い問いかけに、優しげな風貌の男性は偽りなく答えた。少女は難しそうな顔で、唇をへの字に曲げる。
『……能力者は、化物じゃないの?』
縋るような響きを察して、しかし男性は取り繕わない。真実を告げるだけ。
『化物であることもあるし、化物じゃないこともある。優しい化物だっているし、悪いことばかりする化物じゃない人もいる』
『……』
『そうだね。ユエルにはまだちょっと、難しかったかな』
『そ、そんなことないっ! ちゃんと分かってる!』
愛娘が必死に反論する様子を、男性は目を細めて眺めていた。
また、風景が切り替わる。次に映ったのは、船のタラップから降りてくる女性に飛びつく少女の構図。
『母様っ!』
『元気そうだな、私のユエルテ。いい子にしていたか?』
刃物のように鋭い印象の女性が、口元を緩めた。すぐ傍で、それを見た部下らしき男が愕然と目を見開く。信じられないような視線を向ける部下に、女性は迷わず蹴りをくれてやった。悲鳴と、落下音。水柱が一つ。
『フン……私を何だと思っている。これでも母親だ。娘に甘い顔をして悪いか?』
いいえ中将閣下!! と悲鳴だか絶叫だか区別不能な叫び声で海兵たちが敬礼。ならばいい、とマントを翻した女性は少女に向き直る。
『さて、久しぶりの帰宅だが……ユエルテ。私が以前、上から賜り、結局口にしなかった悪魔の実を食べてしまったというのは、本当か?』
『うん。本当』
ほら、と人獣型、鳥獣型へと姿を変えてみせる。甲板の海兵たちにどよめきが走り、しかし女性のひと睨みで即座に直立不動の体勢へ移行。
少女は横を向いてしまった母親の袖を引いて、必死な表情でアピールする。
『私、お空も飛べるし、普通の人よりずっと強いし、絶対、絶対絶対役に立つから……だから母様、次の航海には、私も一緒に連れて行って!』
甘え盛りにある幼い娘の必死さは、悲壮と置き換えられる程。だがそれを見る女性の眼差しは柔和さを忘れ、厳しく、険しい。
『……ユエルテ、お前の気持ちは分かった。しかし、それでも私はお前を連れて行く気はない』
『な、何で!? どうして母様と一緒にいられないの!?』
『能力者となったお前は確かに普通の人間より強いかもしれん。だが私が言うのは強さや弱さが理由ではない。海兵にとって、海は戦場だ。戦場には無論敵が出る。そして私は敵と戦い……捕縛できなければ、殺すだろう』
『わ、私だって――!』
『殺せる殺せない、戦える戦えないの道理が問題なのではない。……私が、人を殺す姿を、お前に見せたくない。そんな私のどうしようもないエゴが、お前を船に乗せたくない理由だ』
『分からない……分からないよ! 私、母様と一緒にいたいよ……っ!』
幼子が泣き、母が娘を腕に抱く。背後の甲板では、兵士たちがもらい泣きをして。
―――暗転。全ての景色が闇の渦に呑まれて消え去る。
“夢”が、覚める。
「うぶっ……!」
身体を起こした途端腹の奥から猛烈な吐き気に襲われ、アゼリアは手洗い場に駆けた。便座に屈み饐えた吐瀉物を吐き散らす。胃液が、口腔を苦く焼いた。
「げほっ、がほっ、げほっ……! ……ぜ、はっ……ふぅ……」
全身に鉛を流し込まれたような疲労感が、アゼリアの膝を折る。タイルの床に、ずるずると座り込む。
「今の、“悪夢”は……応えたな……。いやしかし、誰の夢だと、愚考してみ、よう……」
色落ちした黒髪が床に広がり、タイルの冷たさを頬に感じるより早く、アゼリアの意識は深い眠りの底へ誘われた。
手洗い場で死んだように眠るアゼリアの姿が発見されるのは、この一時間後のことだった。
・
・
・
岩が動いている。ゆっくり、ゆっくり。規則正しく、上下に。並の大人では抱えきれないほどの大岩が、動く。
それを、地面と平行に保持しているのは二本の細い腕だ。伸ばした腕の間で、手の平を上に向けて挟み、固定。棒のように頼りなさげな手のどこにそれほどの筋力があるのか、鬱血もせず支えている。
「っ……、…………はっ……!」
荒い呼気と共に、大粒の雫がぽた、ぽたと。乾いた地面に吸い込まれる。喰いしばった歯の奥で、獣が唸るような低音が漏れていた。
居住区から少し離れた岩場である。大小様々な岩石が無数に転がり、あるいは積み重なった危険地帯。岩の下には蠍や大蜘蛛などお近付きになりたくない生物が潜むため、人が余り寄りつかず、少年にとっては気兼ねしないで済む環境だった。他人の存在など毛ほども気にかけないが、注目を浴びるのは煩わしい。
大岩が動く。腕の支えに従い、腕に続く肩に連れられ、肩に繋がる腹背に抱えられ、腿、膝、足首の動きに連動して。それは持ち上げられている。見るからに華奢な少年の、一人の力で。
(…………あと……十回)
見えた終わりに向けて気を引き締める。達成できなくとも実害はないが、自分で決めた目標を果たせないのは悔しい。
(七…………六…………)
ひゅうっと肺を膨らませ、肩幅に開いた膝を沈めていく。膝裏が直角になったところで数秒耐え、全身の力を込めて今度は足を伸ばしていく。
(二…………い、ち……!?)
最後の一回、と膝を落とした時、上空に差す影が。
辺りに響き渡るような鋭い鳴き声を伴い、優雅に風を切って舞い降りた。
……持ち上げた岩の上に。
「……う…………!?」
しかもあろうことか、ぐんぐんとその体躯を膨らませてどっかと座り込んだ。それまでずっと耐えてきた手足が急激な荷重に悲鳴を上げる。そしてとうとう、少年の身体は重量に屈して岩を取り落とす。
ずん、と地響きが伝い地面が軽く砕けた。
唐突に重さを失って勢い余った身体が後ろに倒れ尻持ちをつく。眠たげな無表情で、しかしどことなく恨めしげに、ファンはじろりと下手人を見据えた。
「…………エル」
「エル……? それはもしや私のことか?」
と悪びれた風もなく、当たり前のように謝罪もせず少女は首を傾ける。
そこにあるだけで威圧感を覚えるような獅子鳥の巨躯は翼のはためきと共に一瞬で消えた。代わりに、鳶色の眼をした少女がそこに座っている。顎のラインで切り落とされたやや長めのボブを、吹き抜ける乾いた風が静かに揺らす。
問われたファンが頷きを返すと、少女は思案する素振りを見せ、やがて口の端をにっと曲げた。
「なるほどな。安直だが分かりやすく、かつ音も綺麗で呼びやすい。有り難くその名を頂戴してやるから感謝しろ」
「…………」
好きに呼べ、と言われたからファンはそう呼んだだけ。しかしどうやらエルの中では、昨夜の遣り取りは名前を寄越せと言ったつもりらしい。しかも有り難くとか言いながら全然有難みがないのはどうしてだろう。
「…………それ……より」
ぐいぐいと全身の関節を伸ばすエルから、礼儀として目を逸らすべきか悩みつつ、指摘する。
「…………服は、着た方がいい」
「服?」
きょとん、とまるで何を言われたのかさっぱり分からないと言うようにエルは眼を丸くし、次いで自分の姿を見下ろして、「ああ」とたった今気が付いた素振りで納得する。
何一つ隠す所のない裸身が太陽の下、ありのままに曝け出されていた。
十五、六歳の外見に即した膨らみの乳房に始まり、本来秘すべき陰唇さえも惜しげなく――惜しむ意識すらなく隅々までを見せつける。けれど、卑猥さはなかった。だからファンは、目を背けるべきか迷った。
「人型…………取るなら、服は…………必要」
「……ふん、あんな物動きを阻害するだけだろう。草やら枝やらに引っ掛かるばかりで、邪魔だったから捨てた覚えがある」
「…………ここは、エグザルじゃない」
知るか、と吐き捨てかけたエルはふと、思い当たった表情でファンを流し見る。
「なあファン・イルマフィ、私を見てどう思う?」
ん? と首を横に傾け、腰かけた岩の上で足を組む。
「あの小娘と比べて、私は綺麗か? キサマの率直な意見を言ってみろ」
自信たっぷり、得意げに訊ねる少女は傲慢なまでに自分の容姿を疑っていなかった。
じぃ、と言われるままつぶさにエルを眺め、本心から。
「綺麗は…………綺麗」
エルは当然とばかりに胸を張り、しかしファンは続ける。
「でも………ラナの方が…………好き」
「……」
一瞬で勝ち誇った笑みは鳴りを潜め、むくれる鳶色の少女。ゆらりと怒気を立ち上らせ、瞳が剣呑な光を湛える。が、率直にと言った自らの言葉までは曲げないらしい。舌打ちして、そっぽを向く。
「……で、キサマは地味に基礎トレか?」
強引に話を変えた。
白けた目を向けるが、それ以上に白々しくエルは毛づくろいなど始める。
「…………エルが、邪魔した」
「心外なことを言う。こんな軽い石ではつまらんから手助けしてやっただけだ」
……軽いらしい。
純粋に身体能力が強化される動物系だからにしても、自分と同じレベルを他人に求めるのは酷を通り越して無理なのだが。
「…………鳥頭」
「は?」
ぼそっと呟いた声を聞き咎められ、何でもないとファンは首を振る。ただの鳥と思っていた頃ならいざ知らず、人間となれば些細な口論も面倒くさい。それに同じ理由で、ドラゴンに話を通さなければ思うと今から溜息が出そうだった。
人間が一人増えるのとペットが一匹増えるのでは、意味するところがまるで違う。何とか話さないで済む方法を考えてみても、黙秘という名の悪あがきぐらいしか思いつかない。
話すのは苦手。説明はもっと。
無表情に悩みながら、ファンはもっと休ませろと呻く身体を敢えて起こし、持参していたタオルに水をかけてびっしょりと濡れる汗を拭った。
「……む?」
遅れて反応したエルはぴくりと眉を動かし、瞬く間にツミの姿へ身を変える。
「おい、キサマの気配察知は敏感で済まされんぞ。私より早いとは何様のつもりだ」
「…………負け、惜しみ」
答え、ファンはぶるぶると首を振る。赤紫の髪と頭皮に付着していた汗、汚れの類が透過し振り落とされる。便利だな、と言いたげなエルの視線を受け流しつつ、着衣を整え終わる。
足音がした。
「……あ、ファンこんなとこにいた」
積み上がった岩の陰から、ひょっこり黒髪の少女が顔を出す。携えたバスケットから、美味しそうな香り。
「はい、お昼ごはん。修行もいいけど、栄養補給忘れちゃダメだよ?」
「…………あり……がと」
にっこり笑ってラナがバスケットを差し出し、それを受け取ってファンは眠たげに礼を言う。
「どういたしまして。それじゃ私、これからイーゼルさんと服作らないとだから、また後でね」
「…………うん」
「エルも、暴れるのはお昼の間に終わらせてね。部屋の中で騒いじゃダメだから」
「ピィー……」
不満げなエルの鳴き声に取り合うことなく、少女は手を振ってあっさりとそこから立ち去った。帰り際にカサコソ這い出してきた小型犬ほどもある蠍は、少女が握るトンファーの一閃でべしっと弾き飛ばされる。無駄のない一撃である。
取り合えずピクピクと痙攣する蠍の尻尾をナイフで切断しておき、ファンは害虫が寄ってこない高さの大岩を選んで腰かけた。
手巾の覆いを取ったバスケットの中身は、パンよりも具の方が厚いサンドウィッチだ。芳醇な香りに唾が湧く。
「ふん……美味そうじゃないか」
早速食べようと手を伸ばし、突如ずっしりと肩にかかった重みで目標を逸れる。頭越しににゅっと突き出た手が今まさにファンが取ろうとしていたサンドウィッチを掴み上げ、あんぐりとその口に含んだ。
「あむ、んむ……これは、なかなか・……っと」
狙っていた獲物を奪われて一瞬愕然としていたファンは、更に伸びようとする魔の手からぱっと昼飯を逃がし、両肩に乗しかかる素足へ向けてナイフを突き刺す。が、紙一重で躱された。肩が軽くなる。
「物騒じゃないか。食事中にそんな物振り回すな」
「…………」
「昨夜今朝と食い損ねて私は腹ペコだ。半分で我慢してやるから寄越せ」
横柄な言い様でほら寄越せ、そら寄越せと催促する少女の姿に、ファンは軽く吐息。自分の隣を指差す。
「ふん、ほら座ったぞ。だから早く食べさせろ。私を待たせるなファン・イルマフィ」
「…………ファン」
「ん?」
首を傾げた鳶色の少女を指差し、
「…………エル」
次に自分を示して、もう一度ファン、と言う。
「……ああ。分かった分かった、キサマはファンで私はエル。これで文句ないだろう。……ファン」
「…………ん」
頷いたファンがバスケットを差し出し、はしないが、並んで座る二人の間に置いた。
喜び勇んで食べ始める鳶色の少女を横目にしつつ、ファンもサンドウィッチを口に運ぶ。肉汁の味が口内に広がった。
しばらく、咀嚼の音だけが競うように会話する。
じりじりと照る陽光を煩わしいとでも言うように、エルが翼を広げて影を作った。満足げに、食事を再開。
「…………」
翼。
少女自身の背丈ほどもある、肩甲骨の辺りから生えた巨大な両翼。
「…………そう言えば」
「んむ?」
「ラナには…………姿、見せなかった」
ついさっき黒髪の少女が来た際、エルはわざわざラナの目がある間だけツミの姿に戻っていた。そうしてラナが見えなくなってから、再び人型を取ったのだ。
……避けるように。
むぐむぐと口を動かし、エルは中身を飲み込んだ。
「私は、キサマ以外にこの姿を見せる気はない」
指についたソースを舐め取る。少女の眼差しは、険しい。
「ただの能力者だった頃でさえ色々とあった。両親がそこそこ街の中で発言力があったから、石を投げられこそしなかったが……からかいの的になるのはしょっちゅうだ」
「…………」
「……やめよう。昔の話は嫌いだ。悪魔の実と同化しすぎて成長の遅いこの身体も忌々しい。ボケれば少しは忘れられるだろうに……」
「…………でも」
すっと、見上げた空は青い。たなびく雲に、ファンは目を細める。
「故郷は…………大事。…………多分…………親も」
似ている境遇。失くした故郷と、帰れなかった故郷。二つは違うけれど、本質はきっと同じ。
ぽつ、ぽつとファンは口を開く。昨夜聞いた身の上話の返礼に、苦手な説明を唇に載せていく。それはとある島のお話。平和な島を襲った赤い夜のお話。
話す間も、話し終わっても、眠たげな赤紫の瞳は変わらない。
「……なんだ。キサマの殺戮趣味は生まれついてじゃないのか」
くっくっと喉を鳴らして猫のようにエルは笑い、笑われたファンは話し疲れて、籠に入っていた水筒で渇いた喉を潤す。
結構長い時間が過ぎていた。真上近かった太陽が少し長い影を作り、エルが翼の位置を変える。
「…………残念?」
「さあな。ずっと生存競争に明け暮れていた私にはよく分からん。……正直、あの島から出ることは一生叶わないと諦めていた。それでも心のどこかで、ずっと誰かが来るのを待っていたんだと思う。そしてキサマが――……お前が来た」
深く射竦めるように、鳶色の眼差しがファンを捉えた。投げ出していた右手に、少女の左手が重ねられる。激しい気性の、闊達な少女に似つかわしくない、互いの距離を測るような手つきで。
「昨夜は取り乱したがな……本当に、嬉しかったんだぞ?」
切れ長の瞳が見せる微笑みに、小さくトクンと波打った心鼓をファンは押し隠す。逃げるように、視線を外し前を見た。
その瞬間、霞むほどの速度で伸ばされたエルの両手がファンの頬を挟んだ。完全に意識の間隙を縫われ、透過の暇もなく強引に少女の方を向かされる。
――柔らかいものが唇を塞いだ。
いっぱいに見開いた赤紫の瞳が、至近で伏せられた瞼に見入った。驚愕の余り、指先一つ動かせなくなる。
奪うばかりで、奪われることに慣れていないファンの唇は、やがて両者が離れた後でさえ、何を紡ぐこともできず呆然と少女を見つめていた。
「喜べ。私のファーストキスだ」
「………………」
瞬き、一つ。遠く離れていた意識がようやく帰還して、自分のものではない唾液に濡れた唇をなぞる。
「私の唇を奪ったんだ。当然、責任は取ってもらう」
「…………え……」
続け様に告げられ、会話の苦手な少年の言葉は形を成す前に絶句へ追いやられる。
破顔した少女の、静かで澄みきった声音が耳朶を打った。
「私のものになれ、ファン」
・
・
・
ハーブの香りが臓腑に染み込み、澱のように凝る疲労感が脳髄に突き抜ける鮮烈な刺激に洗い流されていく。大きく息を吐いて、アゼリアはカップを置いた。
「落ち着いたか?」
「ああ、楽になった。やはり精神の鎮静化はハーブティーが最良、アロマなんか目じゃないと勝利宣言してみよう」
「……俺からすればどっちもどっちだがな」
苦笑しつつ、ドラゴンは空になったカップにポットの中身を注ぎ足してやった。一言礼を言って飲むアゼリアは今でこそ平気に振舞っているものの、ついさっきまで土気色の顔でうんうん唸っていたのだ。
こうしてケロリとした表情を見ていると、詐術にでも遭ったような気分になってくる。
「で、俺は革命軍司令官としてお前の話を聞いた方がいいのか、それとも心療医の領分か。どちらだ?」
そのどちらにしても機密かプライベートになり得る話であるため、司令官室にしばらく近付かないよう部下には伝えていた。
ず……とカップを啜り、しばし考え込むようにこめかみをぐりぐりもみ込むと、アゼリアは真面目な話をする顔つきで答えた。
「どちらも、だな。司令官殿に話した上で、私も私の意義に則り行動すべきだろう」
「緊急性は」
「ない、と思う。いささか古い記憶だった。心底に根付いたトラウマと言うべきか。……しかし、“夢”の中で少々聞き捨てならない単語がいくつか聞こえたと宣告しておこう」
残りを一飲みに干したアゼリアの瞳が、微かな警戒と戸惑いを含んでドラゴンを見据えた。
「ユメユメの実の能力で私は誰かの“悪夢”を体感した。葛藤と渇望が槍衾の如く私の無意識を突き抉り、自分のものではない感情に翻弄された。その共感させられた“悪夢”の持ち主……ユエルテと呼ばれていた小さな少女。まず間違いなく動物系の能力者で、そしてこれが最大の問題なのだが……母親が海軍の中将らしい」
カチ、と部屋の時計が大きな音を立てた。
「……確かか?」
「確かだ。が、それは少しおかしいだろう?」
「おかしいとかそういうレベルではない。……今の中将に女性で、かつ子持ちの人間などおらんのだからな」
そもそも女の海兵自体が稀だ。戦闘職である海軍に入隊する人間には死の覚悟と正義が求められ――女性の場合は、そこに敵陣で一人取り残された時の恐れを、身の内に刻んでおかねばならない。
即ち――無法者共に犯され嬲られる覚悟。
故に女性の海兵は数が少なく、余程腕が立たなければ入隊を認められないケースもあるという。
その苛烈な環境の間で中将に上り詰める程の人材となれば、革命軍を率いるドラゴンの耳に届いていないはずがない。
「……実はただの夢だったりしないか? お前の“夢見”、的中率は百ではないと聞いた覚えがあるが」
「そこを指摘されると弱いのだが……と頭を掻いてみよう。ユエルテという名にも心当たりはないし……しかしあの“悪夢”の感触は明らかに能力の発露だったように思えてならない」
「ならば、この一件はしばらくお前に任せる。独自に内偵を進め、何らかの手がかりを掴み次第報告を――」
唐突に、ドラゴンが口を噤んだ。何事かとアゼリアの見る前で、しまったとでも言いたげに額を叩く。その視線がじろりと壁を向き、
「……責めはせんから姿を見せろ。人払い程度で気を抜いていた俺が悪い」
「…………」
やがてすぅっと壁際に幽霊の如く少年の姿が浮かび上がり、アゼリアもまた脱力したように頭を抱えた。
「あー……うむ。これは配慮しなかったこちら側の責任だと投げやりに愚痴ってみよう。少年に来るなとは伝えてない以上、注意すべきは私か司令官殿だった」
「…………」
聞いているのかいないのか、赤紫の瞳はぼんやりと眠たげに虚空を彷徨い、ゆらゆらとテーブルに腰掛ける。
アゼリアとドラゴンは互いに目を合わせた。普段なら瞳で反応ぐらいは示すのに、今日のファンは無反応に過ぎる。
「ファン、何か……あったか?」
名前を呼ばれて、赤紫の瞳がようやく二人の方を向いた。パチリ、と瞬き。それすらもどこか、遅い。
具合でも悪いのかと真っ当な心配を始める保護者組の前で、赤紫の少年はのろのろと口を開く。
「…………ドラゴン」
「あ、ああ。どうした? どうも、元気がないようだが」
「…………ドラゴン、は……」
そこで数瞬、迷うように間を置いて、ファンは問いかけた。
「……………………浮気したこと、ある……?」
「「………………」」
室内に凄絶な沈黙が生まれたのは、言うまでもないことだった。