「傷の具合は?」
「数日あれば完治するだろうと」
常より沈着な声には拭い切れない硬さがあった。左右橙白の衣服の下で、患部に当てられた圧布を包帯がきつく縛っている。外傷のない内傷に、果たしてこの治療で問題ないのかと、船医自身疑念を払えなかったらしいが。
「……初めて、本気で死ぬかと思いました」
言って、グラスに口を付ける。ワインを楽しむのではなく、今ばかりはアルコールに逃げている感が見られる。半ば、自棄酒に近い。
奇妙でない能力の方が珍しい悪魔の実にしても、更に輪をかけて少年の能力は奇天烈だった。
超人系ユラユラの実の、波人間。生き残りの少女から得た情報だが、彼女は悪魔の実に関する知識を、全くと言っていいほどを余裕で踏み越えて完全な無知であり、名称以上の話は聞けなかったが。西の海の最辺境に等しい島となれば、それも致し方なしかもしれないが。
イナズマを伴い、船内を居住区に向けて進む。わざわざ用意した個室の扉をノックすると、少女の声で応答が返され、中へと押し開ける。
――瞬間、余りにも純粋過ぎる壮絶な殺意が部屋を満たし、
「ファンっ!」
「…………」
少女に叱られ、不満そうに縮んでいった。
背後のイナズマが、呼気と共に緊張を吐き出す。
警戒や防衛反応にしては、いささか心臓に悪い殺気で、過剰だ。
「俺はドラゴン。少年、先程は済まなかった。君たちの名を聞かせてくれるか」
「……………………ファン・イルマフィ」
「ラナ・アルメーラ……です」
ほう、と小さな驚きを胸中で。名が先、姓が後とは珍しい。
少年――ファンは寝台の上で上半身を起こし、眠りと覚醒の中間を彷徨うような瞳で、こちらをじっと見つめている。寝台に腰掛けた少女がその腕を握っていなければ、すぐさま牙を剥いておかしくない、危うげな光を双眸に湛えながら。
「警戒するな、と言う気はない。だが俺も俺の仲間も、君たちに危害を加えるつもりがないことは理解してほしい」
「……………………………………………………………………」
……。
いくら待っても、返事はなく。申し訳なさそうにに、少女が口を挟む。
「あの……すみません、無口なんです。喋る時は、結構いろいろ喋るんですけど、その時も大抵言葉少なで……」
背後でイナズマが軽く傾いた気がした。コホン、と軽く咳払い。
「…あ、でも、返事は多分はいだと思います」
「そう……か?」
肯定や否定の動作どころか、瞬きの感覚すら一定に思えるのだが。
「えっと、慣れれば何とか、分かる……ような」
疑問の答えもまた要領を得ない物だったが、一先ず理解されているという前提で話を進める。
自分たちがどういう存在で、どういった目的を持ってこの島を訪れたのか。
そこから、始めなければならない。
吹き付ける風は強いけれど、立っているのに支障はない。
丘を越えた森の入口に、何十もの墓石が並んでいる。盛り上げた土に小石を積んだ、簡素だけど一目で墓と知れる、埋葬地。砂浜で見つけてきた綺麗な貝を、土の上に供える。外界では花が主流らしいけれど、この島で死者に送るとすれば、打ち上げられた貝だ。一年、墓の上で風雨に晒され、獣や風に持って行かれることのなかった一握りの貝には、死者の魂が宿るとされていて。最後にその貝を海へと流すことで、弔いを終える。
生と死の循環。海からもらった命を海へと返す、葬送の儀式。
「一年経ったら……また来ないとね」
「…………」
悲しそうな声だったけれど、ラナの黒い瞳から涙は流れない。昨夜、自分が流させたものを除けば。
そっと横目で見れば、黒い感情が渦巻く。哀感を身に秘めたラナは、今にも儚く消えてしまいそうで。そんなことは有り得ないけれど、波間に浮かぶ泡沫のように弾けてしまいそうで。
悲哀は人を美しくする。
それはきっと、悲しみが純粋な心だから。
喜悦は欲望を付帯させ、怒りは憎悪を付随させ、気楽は虚無を引き連れる。
悲しみは絶望と似ているけれど、似て非なるものであって、相異なるものだから。
人は絶望すると、涙も出ない。悲しめない。
悲しむことができるなら、その人は絶望していない。
故に、悲しみはもっとも純粋な気持ちで。
純粋だから――汚したくなる。壊したくなる。悲哀に、別の色を混ぜたくなる。
「……ファン?」
後ろから抱き寄せられた少女が、首を巡らせて少年を仰ぐ。こちらを向いた朱唇に、触れるだけのキス。
一瞬、少女の息が止まる。たじろいだように、身を離そうとするラナを背後から抱きすくめ、肢体に手を這わせた。
「ファン……!?」
少女の声に咎めが響く。死者の眠る前で、神聖なる墓所で、家族の、恋人の眠る前で、そんなことはしてはいけないと無言の内に語る。それを無視して、少年の手の平は膨らみを撫で、持ち上げるように指の腹が動く。ぴくっ、と少女の肩が跳ねる。それでも今だけはダメだと、少年を止めさせるべく肘を曲げ伸ばした手は、ただ虚空だけを握った。
少年の手は変わらず少女を刺激して、なのに少女は掴めない。触れない。止められない。
あ、ん、と声がくぐもって、少女の横顔に罪悪感が差す。その目が墓に向けられて、そこに埋められた恋人へ向けられて。赤紫の瞳が、暗く光る。見せつけるように、ワンピースの裾を捲り上げた。
「だ……ダメ……っ」
聞かず、うっすらと染みのできたショーツを引き下げる。隠そうと、あるいは下着を戻そうともがいた少女の腕は、胸の前に集め裾と一緒に押さえつける。
無毛の秘裂に、触れた。くちゅりと音を立て、指が埋まる。
いやぁ、と零れた悲痛な声に、ぞくぞくと背筋が震える。掻き回せば、少女の熱い液体が滲み、溢れる。
「ひうっ……あ……はっ……あ、あっ……あっ……!」
少女が哭く。悲しみを情欲に染められた少女が啼く。
作られたばかりの墓地で指姦され、恋人や家族が眠る前で喘ぐ。
「……くふ」
流れた一滴の涙を舐め取り、目を細める。しとどに濡れた秘所から指を引き抜く。あ、と未練の込められた視線が指に送られ、恥じ入るように背けられる。
声なく笑い、少女の蜜が糸を引く二本の指を口に含んだ。甘いような、苦いような。敢えて言うなら、『ラナ・アルメーラの味』。表現し難いけれど、美味。
ハンカチではなく、ただ肌触りがいいだけの布で滴った愛液を拭い、ショーツを上げさせると、驚いたような、意外そうな目で見られる。
「……されたかった?」
凄い勢いでぶんぶん首を振る少女を解放し、まるで何事もなかったかのような足取りで丘へと足を向ける。少し遅れて、躊躇した様子で、ラナが付いてきた。
したいのは自分も山々だけれど、少女の中を真っ白に染めてしまいたいけれど。
残念なことに、人を待たせている。
「…………まだ、シュリオが好き?」
背後で止まったラナに合わせ、ファンもまた足を止める。
応えないラナに、構わず続ける。
「ラナが、誰を好きになっても……僕は、ラナを犯す」
舐め取った少女の味を思い出す。
「ラナを犯して、ラナを汚して、ラナを辱めて」
振り返った先にいる黒髪の少女、ラナ・アルメーラの下腹部を指差し。
「ラナを、孕ませる」
直截な物言いに、怯んだ少女が、顔を俯ける。
今すぐに白くできないのが、酷く残念でならないけれど。
「…………もう、逃がさないよ?」
くふふと笑ったのも一瞬、すぐまた夢見るような表情になって、動かない少女の手を引き丘を登る。
登りきると、民家を数件呑み込むほどに巨大な帆船が港にそびえ、橋桁へと続く道に一人の男が待っている。
「挨拶は、終えたな?」
外套を纏う男が腹に響く声で言った。頷きを返し、船首に竜を象った巨船へ乗り込むべく、桟橋からボートを漕ぎ出した。
――小遣い……稼ぎ?
と、ラナが聞き返したのを思い出す。聞き返した声の震えを、思い起こす。
「小遣い稼ぎって……何ですか」
ファンの腕を握る手に、力が籠もった。黙ってそれを眺め、男へと視線を送る。
船室の空気は、悪くない。船の構造もそうだが、窓も作られているから。
けれど空気は、酷く重い。ラナ以上に、ドラゴンの放つ空気が沈痛で。
「そのままの、意味だ。この島を襲った海賊は……貴族が、ちょっとした金を稼ぐ為だけに結成された、合法的な非合法船だ」
その目的は各地の島や街を襲い、略奪する。略奪した物資は闇に流れ、金に換えられ、一部が貴族に届く。否、貴族が海賊に分け与える。
そういう、システム。
「で……でも! 船を維持するのってお金がかかるし、海賊が満足するぐらいに分配したら、儲けなんてほとんど……!」
「だから、そう言った」
奥に怒りを秘めた男の声が、少女の反論を押し潰す。
「小遣い稼ぎだと」
「っ……!」
息を呑んだラナの顔が泣きそうに歪む。震える少女の肩に、そっと手を置いた。
小遣い。子供が、小遣いを稼ぐ程度の感覚。貴族なんて話に聞くことも滅多にないけれど、彼らにとってはした金だというのはわかる。
そして村は襲われた。ドラゴンの口振りでは、きっと幾つもの街が被害に遭っている。
彼らにとって取るに足りない僅かな金銭を、稼ぐためだけに。
たったそれだけの理由で……村は焼かれ、家族は死んだ。
両親を思い出す。お互い口もほとんど聞かなかったけれど、愛されてなかったと言えばきっと嘘になる。自分を愛し育て、けれどどうすれば息子とまともに接せられるのか、夜中に二人で話し合っていたような覚えがある。今この瞬間まで、忘れていたけれど。
それが、いわゆるまともな人間であるラナであればどうなのか。……考えるもでもないのだろう。
ただ理不尽なだけなら、良かったのだろう。下手に村が襲われた理由など知らなければ、憎悪にも似た遣る瀬無さを感じることはなかっただろう。
これが幸運なのか、不運なのか。意見は分かれるだろうけど。
ドラゴンの説明は続く。自分たちを至上とする貴族や王族、それらを打倒せんがために集う反逆の徒――革命家。
故に、貴族の手による海賊を追ってきたのだと、そうドラゴンは締めくくり、
「村人が、君たちの家族が殺されたのは俺の責でもある。……代わりになれるなどと思い上がりはしない。だがもし望むなら」
研ぎ澄ました名刀の如く、真剣な口調で男は言った。
「ファン・イルマフィ。ラナ・アルメーラ。君たち二人が巣立てるまで、全力の支援を惜しまない」
さして驚きも感慨もなく、話の流れから察してはいた。無関係な村の危機を見捨てられず、こんな辺境まで船を出すのだから、そう提案されることは予想していた。ただ少女は違ったようで、絶句しているけれど。
まあ。
五年か十年かはともかく、見も知らぬ子供を二人も面倒見ようと申し出る奇特な人間は、そうそうお目にかかれるものではない。と、そんな思考ができるぐらいに、自分にとってはどちらでもいいことだけど。悪魔の実を食べた自分は、街まで行けば大概の所で生き抜けるだろうけど。
そうもいかないラナには、まさに渡りに船の話だ。
以上を、踏まえて。
「…………一年後」
と、口を開いた瞬間驚きの視線が飛んでくるが、慣れた反応なので気にしない。
「一年後、またこの島に、来れるなら」
「……容易いことだ」
一年という区切りに、ラナが敏感に意図を察したような表情で自分を見るのを目の端で捉えながら、もう一つ、と指を立てた。
「僕は………ドラゴンを赤くしたい」
ラナが、凍りついた。真っ青に冷えた表情で、音の出ない口を開閉させる。
ドラゴンもイナズマも、数秒言葉の意味を考えるような素ぶりだったが、次の瞬間には大鋏が、加え込むようにファンの喉を捉えていた。
「……下がれ、イナズマ」
「しかし……」
「ラナ・アルメーラも連れて、廊下に出ろ」
「……」
不承不承、といった感じで左右で違う色の男が命令に従う。
扉が閉まる寸前、ラナが不安げな表情でこちらを見たが、目は合わせなかった。
パタン、という音がして、扉と廊下とが切り離される。
「ファン・イルマフィ。俺を殺したいと言ったな?」
「………………」
無言を肯定とすると、ドラゴンはそうか、と呟き、瞑目した。その刹那、
――ファンの心胆は絶対零度の世界に放られた。
「っ……!?」
喉が干上がるどころではない。心臓が張り裂けるどころではない。
じっと見つめる男の双眸は例えようもなく怜悧な色を帯び、殺気ですらないただの威圧は途方もない強大さを含み。
気が付けば、ドラゴンは部屋からいなくなっていた。自分は荒い息を吐いて、ベッドに倒れ込んでいた。
……ムリだ。
アレは、無理だ。
あれは赤くできない。津波や台風を赤くできないのと同じだ。
桁が五つ六つ、違う。
「…………。……………………残念…………」
そうして、一人マストに登ったドラゴンは。
遠く、遥かな遠く。世界の裏側を覗くように、東を眺めていた。
「………覇気に、耐えるか」
危うい線では、あったが。悪魔の実を食べただけの、一般人と変わらない子供が、覇王色の覇気に耐えた。
その事実はそれだけで驚嘆に値する。
だが、それは恐らく、瑣末なことだ。
「覇気を受けて……笑うか」
あの瞬間。
自暴自棄でも諦めでもなく。
ファン・イルマフィは、笑った。
……否。
哂い、嗤った。
「……目を留めておく必要があるな」
憂慮の末、ドラゴンはそう結論付けた。
そして勿論、ファンは自然災害の如き男の独り言など聞けるわけがなく。
意識は現実に帰還して、下ろされた縄梯子を登る。
村の広場ほどもあるデッキには、手隙の人間が大勢詰めかけていた。
全員が、革命家たるドラゴンの賛同者。ただ世界を打倒するために集った同士。
これだけの人間の上に、男は立っている。海のように雄大な男の背は、大きい。
「――唱和せよ!!」
ドンッ、と殴られるような大音声に、ラナと二人して転びかけた。いつの間にか近寄っていたイナズマに支えられ、男を見上げる。
「俺たちはこの村を忘れてはならない!!」
「「「俺たちはこの村を忘れてはならない!!!」」」
「九十三名の犠牲を忘れてはならない!!」
「「「九十三名の犠牲を忘れてはならない!!!」」」
「彼らに報いるため、世界を打倒せよ!!」
「「「世界を打倒せよ!!!」」」
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッッ!!!!
「……普段は、ここまでしませんが」
余りの大喚声に圧倒されていた二人は、その声で我に返る。
「この島を助けられず悔しく思っているのは、ドラゴンだけはないということです」
ドゥン……と空砲が火を噴く。弔いの砲が、長く余韻を引いて海の彼方へと響き渡っていく。
錨が巻き上げられ、強風を孕み船が出る。船尾へ。ラナと一緒に島を、徐々に遠くなっていく生まれ育った島を見る。
隣で、ラナが唇を噛んだ。その胸中は自分のような異端に推し量ることはできないけれど。
手を握るぐらいは、できる。
まるで慰めるような行動に――慰めているつもりなのだが、まあ昨夜のことを考えれば不思議でもない――驚いたような気配で、視線を向けるラナには目もくれず、口を開く。
「……さっき言った言葉は、撤回しない」
でも、と付け加え。
「ラナに酷いことする奴は……僕が、潰す。徹底的に、無慈悲に、無残に、赤く塗りつくす」
繋いだ手からラナの震えが伝わる。ファンって勝手過ぎる、と耳に透き通る声もどこか震えていて。
寂しさ、哀しさ、悔しさ。一体どの感情が一番なのか、分からないけれど。
一晩で赤く染まった島から、少年と少女は旅立った。
世界最悪の犯罪者、革命家ドラゴンの船に揺られながら。