その部屋は寝具と机、クローゼットの他にハンモックが一つ、壁際に釘で留められていた。部屋の主が度々航海に同伴するせいか、とても殺風景だったけれど、スプリングの利いたベッドはそれなりに地位のある者しか持てない贅沢品。革命軍は資金面に困窮しているわけではないが、潤沢とも言い辛い。全員に満足のいく品を与えるのは、どうしても無理があった。
そんな部屋に間借りさせてもらい――あまつさえ、ベッドまで使わせてもらうなんて――とラナは恐縮する思いだったけれど、アゼリアは至極真面目な顔で言うのだった。
――――私は男と寝る以外にベッドを使用したことはない。何故ならベッドに対し失礼だからだ。
何が失礼なのやらさっぱり分からなかったけれど、とにかく普段から使わないのならありがたく貸してもらうことにラナは決め、それから二ヵ月経った現在。
ラナはベッドの上で、黒く艶やかな髪をアゼリアに弄られていた。
「なるほど、カーツがな」
銃か剣かは分からなかったけれど、硬いタコのある両手が髪を撫で、すっと櫛を通した。
髪の毛を梳く感触が意外にも繊細な手つきでラナは驚く。服装や生活態度から失念しがちではあったことだけど、アゼリアだって女性なのだ。櫛の使い方が上手くておかしな所はどこにもない。今日も今日とて女海賊さながらの格好からは、そんな女性らしさがまるで見当たらないのも事実なのだけれど。
「あれに女の扱いを仕込んだのは私だが、全く困ったものだと嘯いてみよう。思春期が始まるには遅すぎるぞ」
「あの、仕込んだって、なにを……」
興味半分、怖々とラナは訊く。傾けた手鏡の中で、飄々とした笑みがニヤリ。意地悪く歪む。
「ラナ娘も興味があるか? そうだな、少年が帰って来た時に備えその手の技を一つ二つ教えて」
「全身全霊でお断りしますっ!」
「……少年は悦ぶぞ? きっと」
褐色女性の囁きはある種の甘美を伴いぐらりと心を傾かせた。
『ファン……どう?』
『ん…………気持ちいい。…………でも』
『?』
『ラナ…………どうやって練習した?』
『え、ど、どうやって、って……』
『…………そう。言えないんだ』
『ちちち違うの! ファンが思ってるようなことは全然なくてっ』
『別に、いいよ? ………………赤くする、だけだから。……念入りに』
くふ。
「っきゃぁあああああっ!! だめっ、だめです絶対! 教えてもらうのはファンじゃないとだめーーーっ!」
「……ほう、少年にか」
アゼリアの静かな指摘にはっと我に返った少女は、口走った内容を思い返し、瞬く間に頭が熱暴走を起こす。
「ち、違うんですっ。わひゃ、私とファンは、そんなふしだらな関係じゃなくて!!」
「慌てまくってる様子も可愛いなラナ娘は。しかし少年の前でそのセリフが吐けるなら信じてみよう」
「ぅ……う、ううう~~~~!」
言い包められ、言葉にならない感情。空回りして、でも何か言わないと、反論しないと。なのに動転するばかりで、脳みそがぐるぐる回る。ぐつぐつ煮える。ラナは精一杯口を開こうと努力し、そう、一応努力はした。が、やがて力尽きたようにベッドへ倒れる。ぽふ、と前のめり。梳きかけの髪がシーツに散らばるのも気にならない。
「……アゼリアさんのいじわる」
呟きは拗ねた響き。真剣に涙ぐみながら恨めしげに、ラナは肩越しに後ろの女性を睨み上げる。
黒く潤んだ瞳と、頬は朱に。白いシーツに、濡羽色の長い髪が対比して。同性愛を嗜好しないアゼリアでさえ、ゾクリとした何かが脊髄を通り抜けるのを止められない。
今ほど、彼女は男に生まれなかった自分を悔やんだことはなかった――などと、あらぬ思いが数瞬去来する。
(この娘を……少年は好きにしているのか)
そして、一人で待たせているのか。
本当に……罪な男だ。……悪い、男だ。
いたいけなくも艶を纏い、がんぜなくも色香は匂い。未成熟がため、不完全故の完成されない美しさ。
少女は、既に一人の男の手で手折られている。男とも言えない少年に摘まれている。
なのになぜ、少女はこうも清らかく、清冽なのだろう……。
――カーツのために一計を案じている自分が、薄汚く思えるほどに。
ふと気づけば、少女がこちらの顔を窺っていた。
「アゼリアさん……? どうかしました? 変に顔が真剣ですよ」
「……変とは失敬千万だなラナ娘。そのような口を利くとは私もやむを得ない。パイナップルヘアーにしてくれよう。……待て、冗談に決まっている。三つ編みで勘弁してみよう」
本気で距離を取りかけた少女を宥め、改めてベッドに座らせたアゼリアは、再び櫛を手に髪を梳く。
背を向けたラナは、褐色女性が表情に浮かべる微かな澱に気付かないまま、さっきの悶着を強引に頭から追い出し嘆息。
「こんな馬鹿やってる場合じゃないのに……。アゼリアさん相手だと何でいっつもこうなっちゃうんだろう」
「ふふ、照れるじゃないか」
「これっぽっちも褒めてませんっ!」
どうどう落ち着け悪かった、と噛みつかんばかりの少女を宥め、前に向かせる。口調を、真面目なものに切り替えて。
「……カーツの話だったな。私はあれが幼いころから知っているが、今と昔を比較してもその性格はほとんど変わっていない。誰に対しても冷淡、何に対しても淡泊……。これは決して極端な例えではないのだが、あれは自分の命にさえ興味を持ってないのだ。死ぬ理由がないから、惰性で生きているに過ぎん」
ラナの長い髪を二つに分け、どこか遠い目をしながら。
「そんな人間が他者と円滑な人間関係を築けるはずもない。自然、カーツは孤立していったよ。……本人はどうでも良さそうだったがな、母親の方が、放っておけなかった。当時は私もまだ革命軍に入っておらず、流れの心療医としてぶらついていた。そんな折にロドリー親子と出会い、イーゼルに頼みこまれ、街に腰を落ち着けた」
「………イーゼルさんが、頼み込んだんですか?」
表情は見えないが、信じられないという顔をしているのだろう。アゼリアはそうと知られないよう静かに笑む。
「その通りだと高らかに言ってみよう。まあ一週間もすれば互いの性格も掴め、遠慮無用容赦不要の今みたいな間柄になったが、取り敢えずそれはどうでもいいと切り捨てよう」
「はあ……」
吐息のような相槌のような声を漏らす少女の髪を取り、丁寧に編み込んでいく。
「カーツの治療は難航を極めたよ。何せこちらに興味を持ってくれないのだからな、最初のうちは対処療法しか手がなかった。……それでも、やらないよりは効果があった。焼け石に水程度でも、寡少の成果はあったのだ。その甲斐あって、他人の話を聞く程度には回復した。……数年がかりの治療だったから、単に年齢的に成長しただけかもしれんが」
「あの」
「ん?」
「……カーツさんは、その、孤立したままじゃいけなかったんですか? 独りでいるのが良いとか悪いとかじゃなくて……なんていうか、カーツさん自身が気にしてないなら、孤立してたって」
「ラナ娘」
ピシャリと打つように、アゼリアは言葉を遮る。
「ラナ娘、それは違う。ファンとカーツは違う。二人の状況は確かに似ている。共に疎まれ、疎外され、孤立の幼少期を送ったように見える。だが、二人には決定的な“違い”があるのだ」
「二人の……違い?」
「そう。その“違い”とは、自らの“意思”で孤立したか否か。……以前話してくれたな。少年はいつも独りで行動し、仕事の時以外は何処で何をしているかも分からなかったと。それがどういった目的であれ、少年が何らかの目的を持って動いていたことは確かだ。……しかし、カーツは、目的も、意志も、興味も、何もない。何も言われなければ、丸一日椅子に座っていたこともある」
深く、吐息して。
「少年は自分で周りを下位に置き、目的を上位に置いた。だがカーツには、自分自身にさえ価値を見出さないあいつには、この世のどこにも優先すべき事柄がなかった。……それが、絶対的な、二人の違いだ」
「…………」
「だから三年前、年頃になったカーツが異性に対し僅かなりとも興味を覚えたことに愕然としたよ。それが当然で、当たり前のことなのに、な。色々とひと悶着あって、その時もう私達は革命軍の厄介になっていたが……様々な事情で集まった大勢の人間を見て、私は閃いたのだ。……男と女の関係から、カーツに他人への興味を喚起できないかとな」
――故にアゼリア自ら女を教えた。男と女の差異。その交わり。
「結果は上々。それまでに比べれば飛躍的な進歩だったと誇ってみよう。その意味では、カーツにとって男娼は天職だったかもしれん。まあ、今回はそれが裏目に出たわけだが」
「アゼリアさん……」
自嘲気味な笑顔を押し隠し、努めて笑い、手を速める。
「よし、完成。三つ編みなど久方振りだったが、なかなか上手くできたと自画自賛してみよう」
「簡単に、ポニーテールでもよかったんですけど」
「ふふふ、ラナ娘の幼さを強調した結果だ。カーツにロリ属性はないから、まあ気休めにはなる。というか、髪に触れる、頭を撫でるという行為は心理的に安心感をもたらすのだ。と、偶にはカウンセラーらしいことを言ってみよう。……さて、私は所用でしばらく空けるが、女子官舎から出るなと警告しておこう。ここにいる限り、男は手が出せんよ――」
飄々とした笑みを残し、アゼリアは日の暮れた薄闇へと出かけて行った。それがもう一時間は前のこと。ラナは食事と入浴を済ませ、ほかの入居者から誘われた団欒も断って、独りベッドで枕を抱えていた。
ランプの投げかける光が、不思議な陰影を天井に這わせる。ぼんやりとラナはそれを見つめ、思う。
「……カーツさんは、悪い人じゃない」
ある意味、純粋過ぎるだけ。哀れなまでに、純粋なだけ。健常から外れたベクトルの、とてもファンに似た方向性。
だからあの鈍色の瞳に、ファンとの共通点を感じてしまったのだ。いろんな意味で、良くも、悪くも。
「っ……」
丸めた身体を抱き締めるように、ラナは枕へ顔を埋めた。
ファン……。たった二つの音が、こんなにも強い力で胸を締め付ける。
会いたい。その声で、その指で、安心させてほしい。
「ねぇ、ファン……。ファンは私に会いたいって、思って……くれてる……?」
―――さあ…………わかんない。
幻聴……のはずだった。ラナの空想が生んだ、虚ろな言葉のはずだった。
けれど現実味があった。現実味があり過ぎて、いつもなら溜息で流せるのに……今日だけ、今だけ、重くて、苦しくて。
くしゃくしゃに歪んだ顔から、嗚咽と、熱い水滴が、枕に吸い込まれる。
寂しくて、寂しくてさびしくて――会いたくて。
「今だけ、帰って来てほしいよ…………ファン……!」
静かに響くすすり泣きは、しばらくの間、止まらなかった。
壁際に詰め込まれた資料の半分は、自らより汲み出した図案の数々。
未練の象徴。
「……アゼリア。木偶みたいに突っ立ってるだけなら帰りな。目障りだよ」
「そう邪険にしないでくれイーゼル。今日の私はまるでハリネズミの如く傷心中なんだ」
「………そりゃ傷心じゃなく葛藤だろ。ハリネズミのジレンマ」
「そうとも言う」
そうとしか言わないんだよ……いかん、頭痛が。イーゼルは米神を押さえた。
「で、何の用だい。酒なら付き合わないよ。明日は久しぶりの非番だからね、二日酔いなんざごめんだ」
「なに、大したことではない。私はまさしく葛藤と傷心を味わっているさなかで……少しばかり、吐き出したくなったと偶には弱音を漏らしてみよう」
「……気味が悪いね全く」
付き合いの長いイーゼルでさえ、殊勝なアゼリアという珍現象を目にしたのはこれが二度目だ。息子であるカーツに碌な治療法も提示できず、頭を下げた時が、最初だったか。
対面の椅子に腰かけたアゼリアを見やりながら、イーゼルはカーツとよく似た、鈍色の目を側める。
若干の沈黙を経て、切り出したのはアゼリアだ。
「私は今、天秤を支えている。どちらも大切な物が乗った天秤だ。しかし、片方を諦めなければ、もう片方が救えない……そんな状況だ」
「念のため聞くがね……それは例えかい、それとも現実の話かい?」
「例えでもあり現実でもある、とぼやいてみよう。私にとっては重要なことだ。現実だとか幻だとかに貴賎はない」
アゼリアは一息し、
「それに、だ。片方は不安定で、不確実で、そちらを選んだとしても救える保証がない……。かと言って、切り捨てるような真似は……できない」
「……アタシゃ賢者でも愚者でもない、ただの衣装描きだよ。人生相談なら余所当たりな。大体カウンセラーがカウンセリング求めてどうすんだい、ったく……」
「私はカウンセラーではないぞイーゼル」
「知ってるよ。だから色々困ってるのも知ってるさ。飄々とした笑顔の裏で悪戦苦闘してることなんざ百も承知だよ」
「……」
「アンタの本業は――セラピスト、だからね。外科内科はともかく、心療医なんてもん、今の時代にゃ滅多にいない。……そんなアンタに、うちのバカ息子を治してほしいなんつぅ無茶言ったのは、アタシだよ。……重々、承知してるさ。………本当、感謝してる」
「……」
「アンタの悩みがどんなもんかイマイチ掴めないんだがね……アタシにゃ上手い助言はできそうにない……って、アンタ愚痴りに来たっけか? 助言欲しがってたんだったか? ん?」
「…………ふ、ふふ、ふ」
くっくっ、と堪えきれぬようにアゼリアが喉奥から笑声を漏らした。笑いはやがて、尻上がりに高まっていく。
「ふ、ふふふ、はっ、ははっ、ははははははははははっっっ!!! そう、その通りだ。何をやっていた私は! 元々無茶なんだ、ここからさらに無茶を重ねて何が悪いっ!」
生気を双眸にみなぎらせ、アゼリアは勢いよく席を立った。拍子に椅子が倒れるのもお構いなしに。
「イーゼル、やはりお前は私の友だ。助かったと心から礼を言ってみよう! ああこうしてはいられない、無茶を無理と知りながら無謀を通すにはタイミングが重要だ。失敗は覚悟の上、ならばそれを踏まえ最善を蹴倒そう!」
狂騒に等しいアゼリアの気炎に呑まれ、イーゼルが一言呟いた時には疾風の如く駆け出した彼女の足音が、遠く彼方へ消え去ろうとしていた。
「……最善を蹴倒しちゃ、ダメなんじゃないかい……?」
飄々とした態度はどこへやら。ほとんど躁状態のアゼリアはイーゼルから見ても、最早怪現象。
それから優に十分はポカンと呆けていたせいで、イーゼルは友呼ばわりを否定し忘れたのだった。
「……っくしゅ!」
忍び寄って来た寒気にブルリと身震いして、ラナは夢から覚めた。夢であると悟り、現実でないと知って、無用な感情が迸りそうになるそれは、赤紫の幻夢。
(………寝ちゃって、たんだ)
目は開けずに寝返りを打ち、落胆の吐息がせり上がりそうになるのをこらえた。
どうしてだろう。
せっかく夢で会えたのに、自分は悲しんでる。夢を、残念に思ってる。それはもちろん現実じゃないから、多少残念に感じてしまうのは当たり前だけれど。傍にいない少年を、より恋しがってしまうのは仕方がないことだけれど。
例え夢でも、素直に喜んでいいはずなのに。
自己否定的な感情しか湧かないのは……どうして………?
(……寒い)
冷たい風は海が近いせいだ。バルティゴの季節は春だけれど、最も隣接する島の季節は冬で、陽の差さない夜間に潮流が寒さを運ぶのだと、イナズマさんが言っていたのを思い出す。柔らかいベッドでうつ伏せになっていたラナは、冷涼な風が肌をさするのに我慢できず、押しのけていた毛布に手を伸ばし、
……窓。
………………いつ………開けたっけ…………?
「っっっ―――!!」
魂を氷の手に掴まれるような衝撃を受け、少女の意識は一瞬で覚醒する。
ランプの灯が消えた室内。月と星の光がささやかな明かり。
遮るように、立つ影は。
「カー……ツ……さん………」
冷たい鋼の表情が、肯定を示して上下する。
「目は覚めたか? 姫」
そこに、微かな熱を滾らせて。
「―――待ち侘びた」
長い腕が、パタン、と窓を閉めた。
悲鳴を上げようとした瞬間に押さえこむ用意はあった。
黒髪の少女は、窓際に立つ自分に気付いて瞠目し、
「……っ」
それだけだった。俯き加減に唇を噛み、ゆっくり体を起こす。
チリリとした不快感が脳を引っ掻き、カーツはほんの僅か眉間にしわを寄せた。
目の前の、見目も可憐な少女と話をするようになって、ずっと付きまとっていた不快感。それが何なのか、カーツ自身捉えられず、今尚身を苛んでいる。
苛々する。
少女の明らかに異常な反応を見る度。
……苛々、する。
「疑問……。悲鳴しない理由は、何だ」
すぐさま襲わず、問いかけたことが意外な様子で、少女は驚いたようにカーツを一瞬見上げ、また俯き。
「本当の戦闘訓練にも参加してるカーツさん相手じゃ……叫ぼうとした途端、口を封じられますから……」
ヂリ、と不快が増した。アゼリアか誰かに聞いたのだろう少女の言は、正しい。確かにカーツは戦闘訓練を――調練を、受けている。それも、高度に実践的な物を。傷つくことも傷付けることも意に介さないカーツは、その方面に適性があった。簡単な護身術を学んだ程度の少女一人、容易く取り押さえられる。
少女の判断は正しい。彼我の力量を常識的に測った正論。正し過ぎる、正論。
……否。
どこが常識なものか。
寝室に男が忍び込んだ状況で、悲鳴を上げない心理のどこが常識だ。
カーツは、だが、そこで思考が止まる。その先は嵐に酷似した何かで塞がれ、覗けない。不明だ。一寸先も見渡せず、濃密な闇がへばりつくように思索を妨げる。疑問。不快。己のことが判らない。故に苛立つ。苛立ちのまま、足が勝手に動いた。気付けばここ。少女の部屋に自分がいて。
……不可解。
……不可思議。
煩悶とした情を抱いたことなどかつてなく。
個人にこうも執着したことなど記憶になく。
「………」
俯く少女と、一瞬、視線が絡む。
敵意。
拒絶。
悲哀。
織りなす、それらの色が、黒瞳に、見え。
「っ……!」
思わず握り締めた椅子の背が、握力に負け砕けた。
少女が目を瞠る。その様子も置き去りに、呆然と、己が少女の眼差しに何を見て聞いて感じ悟り察し理解し。嵐の晴れた心の水平線に、カーツは『それ』を見つけた。
「俺は…………嫉妬している」
「……え?」
「姫の話す“ファン”に、俺は恐らく、嫉妬している……」
嬉しそうに、寂しそうに。少女の語る“ファン”という男に。
「……姫は、卑怯だ」
「ひ、卑怯?」
戸惑いも露わな少女にカーツは首肯する。
「ああ、卑怯だ。ずるく、卑劣だ、悪女だ」
「カ、カーツさん!?」
余りの言われよう。憤然とラナは口を開きかけ、
「なぜ……姫に好きな奴がいるんだ………」
……続く一言に、押し黙った。
双方が口を閉ざせば、室内は静まり返る。夜半を過ぎて、ほとんどの住人は眠りの中。耳が痛くなるような、静寂。
「………ラナ」
ビクッ、と。名を呼ばれた少女が、ベッドの上で後ずさる。姫という呼び名で己自身に誤魔化していた青年は、数歩の距離を詰める。ベッドに手を乗せる。スプリングが、軋む。
「来ない、で……」
「……承服不能。“ファン”がいつ帰ってくるか分からない。俺には、今しかない……」
体重を支えるのとは別の腕を伸ばし……かけて、止まる。止められる。
少女の手の中に、鈍い輝きがあった。
「……用意がいい。だが無駄。ナイフを奪う程度、造作も……」
不意に、少女が微笑んだ。カーツは口を噤んだ。怖気のようなゾクリとしたものが、背筋を走った。
微笑したまま、少女は、握っていたナイフを突き付けた。
――自分の、首筋に。
「…………な……」
凍りつくカーツの目を見て、少女は告げる。
「ファン以外の人に、乱暴されるぐらいなら……死にます」
「ラ……ナ……」
「カーツさんは……生きてる私じゃなきゃ、嫌ですよね……?」
疑問の形を取った確認。カーツは動けない。一センチ手元が狂えば、目の前の少女は喪われる。そしてラナは、儚げな笑みを崩さず、でも、と言葉を継ぎ足す。
「ファンはきっと、私が死体になっても………可愛がって、くれます」
だって。
ファンは私を、殺したがってますから――
「――――――――」
ただ、絶句。
言葉も、ない。
理解、不能。
手を伸ばせば届くはずの少女が、何万キロも彼方に居るような錯覚。
「う、あ……!」
呻き、弾けるようにカーツは飛び離れた。可憐な少女が刹那の内に怪物へ変貌してしまったような、訳の分からない恐怖を抱えて。
その、直後。
「ふむ。素晴らしいタイミングだと称えてみよう」
「え……」
「な……」
二人してギョッと振り返った瞬間、長身の影がカーツに躍りかかった。反応する間もなく頭を鷲掴まれたカーツの身体が一度跳ね、ガクリと倒れ伏す。
唐突にも程がある登場。呆然と、ラナが言う。
「アゼリア、さん……?」
「その通りだラナ娘。間に合ってよかったと心にもないことを言ってみよう」
ニヤリとアゼリアは笑うが、ラナの頭は混乱真っ只中だ。
「え、でも、何で。ドア開いてないし、窓も……あれ? ずっと、部屋に居たんですか??」
「それは違うと断言してみよう。……まあ、とにかくだラナ娘」
ぽん、と頭に手を置き。
「今日はもう、休め」
「え―――」
クラッと、視界が回り、眠りの底へラナは吸い込まれていった。
すやすやと眠る少女を慈しむように撫で、アゼリアは一つ息を吐く。
「正直……胃が捻じ切れる思いだったと告白してみよう。上手く事が運んで何よりだ。……本当に」
カーツと、ラナ。
大切な患者と、妹のように思う少女。
アゼリアは二人を選べなかった。どちらか片方だけを選ぶことなど、できなかった。故にこんな、博打めいた手段に打って出た。
結局、これが最善だったかは分からない。やるだけはやった。カーツの心理は何がしかの影響を受け、少女に危害はない。……一歩間違えば、全てが崩れていたかもしれない、危うい薄氷の出来事だったが。
「……協力、感謝する。よく、カーツを殺さないでいてくれた」
いつの間にか。
小柄な影が、佇んでいた。月明かりを避けるように、窓際の闇へ、身を置いて。
影が、弄んでいたナイフを太腿のベルトに留めた。どうでも良さそうに床に倒れるカーツを一瞥し、興味をなくしてアゼリアを見る。次いで、ベッドの少女を。
「私はこれからこいつを保護者の所に引きずっていくが、どうする? ラナ娘は、多分朝まで目覚めないぞ。良い夢を、みているからな」
影が首を傾げ、アゼリアに視線を戻す。すっと指差し、能力者、と呟く。
アゼリアは豪快に笑った。
「そう、私はユメユメの実を食べた幻夢人間。頭に触れれば、一瞬で夢の世界へ送れる。……まあ、それ以外はかなり大雑把な能力で、戦闘には不向きなんだが」
そんな説明も聞いているのかいないのか。フードに隠れた表情からは読み取れない。
沈黙をそのまま体現した影に肩を竦め、アゼリアはカーツを肩に担ぎ、扉の鍵を開けて廊下へ出た。それを黙って見送り、影はゆらり、と歩を進める。
空から降る幽かな光が、鮮やかな血色の上着を照らした。穏やかな寝息を立てる少女の、黒く滑らかな髪を指ですくい、たわむれる。
「……………………ラナ」
眠たげな赤紫の瞳が、寝顔を見守った。じっと、床に膝を突き、夢にたゆたう少女の傍で。
どれだけそうしていただろう。少年自身、時間の感覚が分からなくなった。何か、懐かしい思いに、取り憑かれて。
「…………」
静かに立ち上がる。今夜の帰還は、謂わばイレギュラー。ナイフの調達と、能力の実験。二つが重なってできたこと。
くまを、待たせている。もう、行かないと。
一度目を伏せ、踵を返した。少年はけれど、たった一歩で止まった。
袖を引く手が、あった。
「……ファン」
二ヵ月と、少し。
久しぶりに名前を呼ばれて、すり抜けようとするのを、やめる。
振り返った。少女が、自分と同じような夢見るような目で、見上げていた。
「…………アゼリアは、目を覚まさないって………言ってたのに」
ゆっくり、身を起こした少女が首を振る。至福のような夢だった、それは間違いないけれど。
「夢より…………現実のファンが、いい……」
起きた時に、寂しく、ならないから―――