光陰矢のごとし。そんな言葉を残したのは誰なんだろう。
「もう、二カ月……」
月日が経つのは早いなぁ、と、ラナは作業台で両手を枕にして感慨深く。
それでもやっぱり、遅いようにも感じてしまうのは。もう七十日以上、顔を合わせていない人がいるから。
「……ファン、どうしてるのかな」
くまさんが定期的に様子を見ているらしいけれど、いろいろな立場や都合が重なって、頻繁にこの島と連絡を取るのは危ないと聞いた。だから最後に、ファンの話を聞けたのは、何年も昔のように思えるたった二週間前のこと。
怖いぐらい順調だと、平坦な声音に感嘆を混ぜて、電伝虫の向こうでくまさんは言ってくれた。
『だが、ここから先が真の難関だろう』
先へ進むほど手強くなる猛獣たち。上流になれば川幅も水流も嵩を減らし、水場の争いは一層苛烈になる。
そんな環境で、命がけで頑張っている、赤紫の幼馴じみ。ファンに会いたいと、ファンの声を聞きたいと、そう思う自分はきっとわがままなのだろう。相部屋となったアゼリアさんに言わせれば、わがままは女の特権らしいけれど。そして甲斐性を見せるのが男の義務らしいけれど。
ファンに甲斐性。似つかわしいような、縁遠いような。守ってはくれる。でも赤くされる未来も違和感が無い。
「ファンが後悔しないなら……殺されてもいいって思うのは、重症かも」
「否定。それはただの気狂い」
すぐ耳元で突然声がするものだから、椅子ごと床に転げかけた。
「……っか、カーツさん!?」
危ういところで立て直す、ラナの慌てふためいた挙動の一部始終鑑賞し、温度差のない鈍色の眼をした青年一歩手前なカーツは、別段気にすることは何もなかったというようにさっさと対面へ座る。
人をこかしかけて、謝罪の一つもなく。……多分、悪いことをしたとも思っていないのだろうけど。
「えー……こんにちは」
「朝会ったばかりだ、姫」
「……何度も言いますけど、姫って呼ばないでください。そして謝ってください」
「謝罪? 誰に、如何なる理由で」
零度の顔を本気で傾けるからカーツは質が悪い。アゼリアやファンと同じで。
「私が、転びかけたことに対してです。女の子はいろいろ繊細なんですから、怪我しそうなことにならないよう気を付けないとだめです」
「……理解。努力しよう」
何が悪いかちゃんと指摘すれば直そうとする分、二人よりましだけれど。ちゃんと言葉で、明確に理由づけしないと、全く聞かないけれど。
でも、姫という呼び方だけは、何度指摘しても治らない。
二カ月のうちに日常と化した会話を交わしながら、今日もまた授業が始まる。
先生役は、独学で被服学を学んだというカーツだ。
「……皮革、毛皮。綿、麻、絹。服の生地は多彩。糸の質も大いに関係。デザイナーはこれに色と柄の組み合わせまで思考。装飾文字、服に合わせたアクセを任されることもある。故に肝要。着るのは顧客。その目に合わねば服は売れない」
駆け足で進む講義に必死で付いていく。カーツの口調はアゼリアとも違うけれど、独特であるという部分だけ似通い、意外と多弁だ。
広い作業場から扉を二つ抜けた先にある、服飾長イーゼルの個人的な仕事部屋が、ラナに貸し与えられた勉強のための一室。被服学に関する資料が山と積み重なって、こんなに至れり尽くせりでいいのかと、初めて入った時はなんだか恐縮してしまった。
……先に恩を売ってモデルの依頼がどうのという独り言を聞いてしまって以来、気にしないことにしたけれど。
あっという間に一時間が過ぎ、休憩に入る。
「……時に。姫。ファンというのは?」
「あれ? 話してませんでしたっけ」
お茶なんて贅沢な真似はせず、コップに井戸水を注いだだけ。
大半が机と資料棚で埋められた広くもない部屋で、カーツと差し向かい、一口喉を湿らせ、悩む。
バルティゴに暮らし始めて早二ヶ月。この二つ年上の青年がどんな人間であるか、知り得たことは余りない。
最初、ファンに似ていると思った。温度差なき瞳と、零度の表情。それは赤紫の少年とどこか通じるところがあって、けれど決定的に違うのだと、話すうちに理解した。
この人の感性は、まともだ。会話の端々から、ラナは確証を感じ取った。
健常から逸脱した思想の少年に恋するラナが思うのだから、間違いない。
ロドリー・カーツは、感情を表すことが苦手で、相手の心情を理解するのが極めて不得意なだけの、正常な人間で。
「当たり障りなく言うと……ファンは私の幼馴じみで、命の恩人、かな」
だから――少年を理解できないだろうから、ラナは要の部分だけを口にする。
あの狂気を説明するのは難しいし、そんなに踏み込んで話したって、意味がない。
理解も共感も、呼ばないのだから。
それに…………少しだけ、辛いから。
ゆらり、ゆらゆら、揺れ惑い。赤紫の少年はまるで幻が佇むようで、肌を重ねている時さえも、ふとした瞬間に実在が信じられなくなる。触れる温もりが泡のように消えてしまう夢を、何度も見た。
特にここ最近、その頻度は高い。自分がどれだけファンに依存し、甘えていたか、思い知らされる。
小さく唇に、微笑と自嘲を刻んでいると、若干の間を置いて、カーツが言った。
「………女の顔を、しているぞ」
「……え?」
「寂しがりな、女の表情だ」
そう口にするカーツの、鋼色の瞳は凪がず揺らがず、けれど刺すような眼差し。
何かの流れが変わった。それまで部屋に漂っていた安穏とした空気が、気付かないうちに入れ替わり、停滞している。
酷く、不安を、誘った。
「ここでの仕事以外に一つ、俺は役目を請け負っている」
唐突な話題の転換。
椅子に背を預けていたカーツが、身体を机の方へ、前へと、乗り出す。
「何か分かるか、姫」
「……」
「女相手の、男娼だ」
え、という呟きは、続く鋼色の声音に潰される。
「革命に参加する人間は、大なり小なり、政府から切り捨てられた立場。家族と分かたれ、友と離れ、その地から追われた老若男女。彼らが胸に抱くは、怒りか、あるいは悲しみに準じる感情だ」
「……」
「憤る者は革命に身を焦がす。しかし悲嘆に暮れる者は、拠り所が必要。……俺は、そんな女を相手に、一夜の温もりを与えている。故に感得。心に隙間風を吹かせる女が、それとなく分かる」
善意だったのか、義務感だったのか。
「――推奨。俺が、暖めてやろう。寂しそうな姫」
すぅっ、と。その長い指先が、頬に触れた。
※※※
艶やかに黒く、長い髪を持つ少女は、自らをラナ・アルメーラと名乗った。
背は小さい。発育不全とは違うのだろうが、平均よりも小さく、細い。
しかし、思いもがけずしなやかだった。束ねられた糸のように強靭な一面が、時折のぞく。
例えば、母、ロドリー・イーゼルの本心から惜しむモデルへの誘いを、再三再四袖にして、しつこいときは実力行使に訴える。まずここが普通の女と違う。
例えば、母の悪友(母は認めない)、カウンセラーアゼリアが事あるごとに繰り出す、無意味な言葉の羅列。本気と冗談の境が不明確なそれを、少女はいちいち生真面目に訂正させる。偶に手や足が出る。無駄骨に終わってもまた繰り返す。あのアゼリアと正面から付き合えるだけでその特異性は窺える。
そして。
極めつけが、先日の一件。
少女性愛を嗜好とする男が、非番の夜に酔った勢いで偶然通りかかった少女を、酩酊のまま後先考えず強引に連れて行きかけた。普段は紳士的であるのだが、アルコールの威力は恐ろしい。低い声で恫喝し、刃物まで取り出したのだから相当だ。
が、しかし。
少女は、ラナ・アルメーラは。
怯えも、媚びも、恐怖もせず。
酔っ払い相手に、懇々と人道を説き始めた。
穏やかに話しかけ、道端だというのに正座し、何をどうしたのか相手も座らせることに成功し、膝を突き合わせて実に三十分以上、柔らかく刺激しない語りで男を諭した。半ばあたりで男の眼に涙が溜まり、おいおいと泣き始めた時は開いた口が塞がらなかった。
後で聞いたことだが、男は先日、海軍との乱戦で看護師として同行していた妻(十五歳)を亡くしたばかりだったらしい。途中で踏みとどまったことと、情状酌量の見地から、その後丸一日の営倉入りで罪を許された。出てきた男が真っ先に向かったのは、当然ラナ・アルメーラのいるところ。
他人の目も気にせず土に膝をつけ何度も謝るものだから、むしろ少女の方が居心地悪そうにしていた。
変な女だ。おかしな女だ。奇妙な女だ。
どこか螺子の外れた、狂った女だ。
なぜ怯えない。なぜ怖がらない。なぜ誰にも助けを求めない。
俺は見ていた。ずっと見ていた。一から十まで見続けていた。
そしてあの女は、少女は、俺に気づいていた。一瞬だけ、目が合った。なのに助けてとも言わず、逃げもせず、真っ向から男と向き合った。
男が、聞く耳持たぬほど酔っていたら、行為に及ばれていたその可能性は、頭にあったのか。
―――ええと……この布は、水洗い……できる!
―――不可。その繊維質はドライクリーニングが必要。覚え直しだ、姫。
すげなく不合格を出された少女は、テストの内容よりも、最後に付け足された姫という呼称に頬杖しながら不満を漏らした。
子供っぽい仕草。事実子供で、しかし大人を叱りつけたりする。
常識の鬼。しかし鬼ではその可憐さに相応しくない。ならば鬼姫だ。最初に言ったのは誰か、知る由もないが、この二カ月で定着を見せ、俺もまた姫と呼ぶ。
酔った男の事件から、少女は妙な尊崇を抱かれている。普段は可愛い。怒らせると怖い。馬鹿な話にも真っすぐ付き合ってくれる。
当人の知らないところで人気を集める、常識の鬼姫ラナ・アルメーラ。
その“常識”がどんなに“異常”で、その“常識”的行動がどれほどに“非常識”なのか、理解する者は驚くほど少なく。
顔と身体と、一夜限りの温もりを目当てに寄ってくる他の女と比べて、芳しく興味をそそられた。
だが。
「………………」
対面の、空っぽの席を眺めやる。ついさっきまで、そこに少女が座っていた。
今はいない。青ざめた表情で、俺の手をはたき落とし、一目散に逃げていった。
余りにも普通な反応に、行動に、むしろ安堵を覚えた俺は馬鹿だろうか。
「………………」
自分の指を見つめた。一瞬触れた指には、熱が残っている。
ペロ、と指先を舐めてみた。が、やはり感じられるのは、自分自身の体温だけ。
惜しいことをした。久しぶりに、残念という感覚を味わう。もう、あの少女が来ることはないだろう。それが自分の行動の結果、選択された意思の反映。
だと、いうのに。
「………………」
この、腹の奥から湧き上がる、ささくれ立った感情は何だ。腹から胸を頭を席巻する、苛立ちは何だ。
少女は逃げた。逃げた。自分から。すり寄ってくる女と違って。
顔がいいのだと女が言う。身体がいいのだと女が言う。世辞のつもりで稀に投げる、優しい言葉がいいのだと女が言う。
「今までに……俺から誘ったことは、なかったな。そういえば」
受身であり、受動であった。能動的に動いたことなど一度もなかった。
やはり、今日の自分はどうかしている。
『私っ……好きな人がいるの!』
去り際に―――残された叫びが、胸の内を掻き乱し、荒くヤスリにかけられているようで。
ぎしっ、と噛み締めた奥歯が、軋む。
「理由は、不要……。これは俺の、仕事……!」
――――寂しがっている女を暖めることの、何が悪い――――
※※※
「…………」
血と、争乱の匂いがたなびき、消えていく。
獣の死骸に腰かけ、赤紫の少年は決断を迫られていた。
「………………壊れちゃった」
ぼそっ、と困ったような言葉。眉根も、心なし下がっているよう気がしないでもない。
悩みつつ、電伝虫の受話器を取る。
「…………もしもし。…………くま? ……うん、身体は大丈夫。………でも」
チラリと、視線を落とし。
「ナイフ…………壊れた。スペアとか、頼める? ………頑丈なのが、いい」
折れるのではなく、バラバラに砕け散ったナイフの残骸。
刀身どころか、柄さえも細かく粉々にされて。
奇妙な壊れ方に、“暴君”が眉を寄せるのは翌日の話。
「……………………………くふ」
交信を終えた電伝虫が、その小さな笑声に震え、怯えて、殻の中に頭を引っ込める。
赤く燃える空を、眺め。瞼を、閉ざし。沸き立つ殺意を想像の彼方へ放逐し歓喜に転じさせ。
ゆるゆると、細く長く、息を吐く。
「こっちは………楽しい。…………ラナは、どう?」
巨大な――馬も踏み潰すほどの、“角ごと頭部を抉り取られた”犀を尻に敷き、ファンは遥かな少女へと、問いかけた。
くふふ、と笑い。
「浮気したら…………どうしよう、かな」
暮れゆく空の中、飛翔するタカが見る空の下。
少年の赤い微笑が、森に木霊する――。
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かなり遅れた。申し訳ない。
だがしばらく、このペースが続くと思う……。