エグザルは緩やかな楕円形をしている。島を長く割るように二本の大きな川が東西に流れ、ファンの降りた浜辺は東の端だ。ここから川に沿って枝葉を広げる広葉樹の森を抜け、西へ進めば木々もまばらな高原地帯が待ち受け、最後に高所であるためか植物自体が少ない山岳地帯へ至る。
山の傾斜は進むほどに険しくなりそうだ。森の入口で見つけた味気ない果実をかじりながら、ファンは浜辺の岩に腰かけ遠望する。縮尺のおかしくなりそうな巨鳥が数羽、火山の中腹付近を旋回していた。傾斜だけでなく、脅威の度合いも高そうだった。
「…………」
芯だけとなった拳大の果実を放り捨て、今は必要のない筆記具を袋から取り出し、座っていた岩の“中”にそれらを押し込む。余程のことがない限り安全な隠し場所だろう。
麻袋は紐を使って背中で固定。たすきにかけた形で背負い、肉厚のナイフは付属のベルトで右太腿に留める。
完成。小さく呟き、ファンは森へと歩みを向ける。入口近くで果実を見つけたから、まだ入ったとは言えない第一歩を踏み出す。
修行の開始。サバイバルの始まりだ。
日光が葉に遮られ、草があまり伸びない硬い地面を踏み締め進む。モモンガが樹上を優雅に飛び移り、小鳥の鳴き声がのどかな田舎の自然を思わせる。
本当に、猛獣なんているのだろうか。猛禽は見かけていたけれど、そんな疑いが鎌首をもたげて仕方ない。
ゆらりゆらゆら、のんびりと、赤紫の少年は森の奥へと歩いて行った。
そして、数分後。
「…………」
右を見る。
左を見る。
そして前に向き直り、ポリポリと頬を掻いて一言。
「…………困った」
ぐるるる、と唸る野犬の群れ十数匹に、ファンは扇状に取り囲まれていた。
体躯は、小さい。中型犬より一回りほど。毛並みは大体黒で纏まっているが、模様は様々。しかし一様に、明確な敵意を向けてくる。
赤い服は失敗だったかな、と危機感なく思う。こんな森の中じゃ目立って仕方ない。雪山に挑む登山者は遭難用として目立つ色の服を着るらしいけれど、年中気候が安定している春島で雪山に挑戦する機会はないだろう。そもそも、雨が降らないのだから。
おん! うぉん!
威嚇のつもりか、数匹が吠える。一斉に吠え立てないあたり、作為的な物を感じる。
動いた。二匹が助走し左右から猛然と向かって来る。他は動かない。様子を窺っている。知能はそれなりにあるようだ。知能がある。つまり狙いがある。だとしたら、左右から襲う二匹の狙いは。
「――――」
すぅっと腕を動かした。だらりと下げた状態から、前に突き出す。二匹の首がつられてそちらを向く。手首、あるいは腕を噛もうと牙を剥き、あわやという寸前で引っ込めた。ガチン!と牙が噛み合わさる。空中で身を捻ろうとして、躱しきれず衝突する。地面に落ちてきたところを、適当に蹴りつけた。きゃんきゃん呻いて、後退する。
群れの警戒感が増した。どことなく漂っていた余裕が消え失せた。
赤紫の少年は、ほんの僅か眼を側める。野犬の動きに、慣れが見受けられた。熊か猿か知らないけれど、二足歩行可能な動物と戦った経験がある。そんな気がする。肉食動物が牙を立てるとすれば喉だというのに、真っ先に腕を狙って行動を封じようとした。かなり、頭がいい。
「…………」
こいつらは間違いなく島の最下層に当たる獣で、こいつら程度に手間取っていたら先はない。
決めたはずだ。
多大な無茶を、押し通す。無理だ何だ、リスクがどうだ。そんなことを考えて、レベルアップは不可能。
そこまで考えて、ふと、気付く。気付いて、しまう。
「…………くふ」
と、嗤う。くふふ。と、口角を吊り上げる。
エグザルは無人島。自分以外に人はいない。
だったら―――人じゃない不満はあるけれど、
「赤く…………なれ♪」
我慢の必要は、皆無。
獣のように身を低く、地を駆けた。爆発的に肥大する殺意が充満し、野犬の群れが飛び退る。おんっ!とひと鳴き。群れの動きが半円から円の構えに移る。一番最初に吠えた、恐らくは群れのボスを視界に捉え、他は無視して一直線。突貫を阻害すべく、数匹が牙を剥き、
「くふ、ふ……!」
低い姿勢から一転、力強く地面を蹴った。全力疾走からの跳躍。少女を背に乗せて不足なく疾走できる脚力で、二メートルばかりの高みへ到達。しかし着地点で待ち構えていた一匹が体当たりを敢行した。真っ直ぐに腹を目指し、頭から突っ込んでくる。
必中の突進だ。翼を持たない生物が空中で身動きを取ることは不可能。
―――そのはず、だった。
嗤う少年の身体が支えなき宙で不自然に揺れる。波に弄ばれる漂流物の如く、ぐっと上に持ち上がった直後、打ち寄せる波濤となり落下する。犬の背を踏みしだき地面との緩衝剤に使い、体重のまま潰す。その結果も意識せず、走る。
「僕は…………波人間」
ナイフを抜く。逆手のそれを順手に持ち替え、再びの跳躍。離れた位置の、けれどさっきよりも近いボスを見据える。
「…………僕自身が、波」
投擲。風を裂いて鋭利な刃物が飛び、咄嗟にボスは逃げた。軌道から外れた。
だが逃げた方向に――ベクトルや慣性を無視してナイフが弧を描き、曲がる。
「僕が触れた物も…………波になる」
哀れな絶命の唸りが、森に木霊した。
仕留めた群れのボスからナイフを回収し、血糊を拭い、頭を失い散り散りに野犬が逃げたのを確認して、
「…………」
ぐったりと、崩れるようにへたり込んだ。今更のように噴き出る汗がうざったくてたまらない。
眠たげな無表情で浅く早い息を整える。はっはっ、と呼吸を繰り返し、額の汗を拭う。
何か、無茶な能力の使い方をしたらしい。疲労の仕方が、おかしい。
波であるならば、波の如く上下に、そして前後左右に、動くことが可能だという考えは立証されたけれど、この異様な疲れは何なのか。
「……っ…………」
木の幹に手を付いて立ち上がる。チラッと茶色い木肌を見つめて、いつものように透過を試みる。―――失敗、する。透過、できない。
軽く落胆の息を吐く。島の話を聞いた時から予想していたけれど、やっぱり、できない。透過可能なのは、あの浜辺だけ。
海楼石の残り屑。行動に支障なく、けれど能力の半減。それらの事実に、小さく二つ目の吐息を零す。
透過とは、そこに居ながらにして物質的に存在しなくなるということ。どういう状態なのかと聞かれても、少年は解答を持ち合わせていないけれど、なぜすり抜けられないかぐらいは分かる。
能力が半減している現状、透過能力もまた半分。ならば半分だけ透過するのかと言えば、そんなことは起こり得ない。物質をすり抜けるとは、ゼロか百か、存在するかしないかで可否が別れる。
透過は物質的な存在の有無で決定され、半分が無であろうと有の半分が残る限り、この島では少年の無敵性が剥奪されるのだ。
とは言え無敵で安心完全無欠な状態で修行して得られる物などないから、まさしくこのエグザルはファンの修行にうってつけなのだろうけれど。
ともあれ、考察はさておき、図らずも新鮮な肉をゲットしたファンである。貴重な食料に、果実だけじゃ足りなかったお腹がぐぅと鳴く。
持ち歩ける分だけ捌くべくナイフを取り出した。毛皮も毛布や敷物の代わりになるから、重要だ。犬を捌いたことはないけれど、魚と同じように腹を裂けばいいだろうか。
犬を裏返し柔らかい腹の肉に刃を添わせ―――木立の向こうで何かが動いた。
はっと面を上げたのと同時、全くというほど音を立てず、秘めやかに忍び寄っていたそいつが顔を覗かせた。
巨大な、小さなボートに匹敵するほど巨大な、トカゲ。感情のない真っ黒な目でこちらを見つめ、細く長い舌で臭いを嗅いでいる。血の臭いを嗅ぎつけて、やって来ている。
「……!」
ダッと地面を蹴る。巨体に見合わず俊敏な動作で迫ったトカゲの口が、バクン!と犬の死骸を丸呑みにした。
喰われた。
横取りされた。
…………僕の、お肉……!
トカゲが爬虫類の無感情な顔をこっちに向ける。ちろちろと、長い舌が蠢く。
せっかくの戦果が奪われショックを受けていた少年の胸に、怒りの火が灯る。眠たげな眼差しは変わらず、けれど戦意も高らかにナイフを抜き放つ。
よくもやったな、そんな感情をぶつけるつもりで睨みつけ、けれど巨体が突進してきて慌てて逃げる。トカゲの牙が幹に突き立った。バキバキと噛み砕いた。
ちょっと待て。少年は冷や汗を流し身を引いた。何だその顎。ワニか。いやワニと同じ爬虫類だけれども。
頭の中だけ焦りつつ、目の前を横切る尻尾に向かって斬りつけた。
キン。
「………………」
金属に斬りつけたような、甲高い音。苔の生えたような鱗には傷一つなく。
ゆらぁり、とファンは回れ右。脇目も振らずに、脱兎。背後からガサガサと追いかけてくる気配があるけれど、とにかく振り向かずにひた走る。
取り敢えずナイフ以外の攻撃手段が必要だと、痛切に思った。
大トカゲとの命がけの鬼ごっこは、ファンが浜辺の無敵ゾーンに逃げ込むまで続いたのだった。
「…………」
一日目、夜。
パチパチと、砂の上で火が爆ぜる。火打石で苦労して付けた焚火を、疲労に曇った瞳でぼんやり見つめる。
トカゲからは逃げ切ったけれど、結局新しい肉は手に入らなかった。透過が使えるこの場所まで逃げて、でも透過を使用して勝ったところで意味はなくて。大きな岩の中に隠れ、やり過ごした。
その後は水だ。大量に汗をかいたから、水分補給に川へ行った。けれど運悪く満ち潮の時間帯で、河口付近の水は塩辛く、とてもじゃないけど飲めなかった。場所を移し、隠れながら川沿いを上り、潮が引いて真水を口にできるまで相当な時間を浪費した。
水ってこんなに美味しいんだ、と無表情に感動する中で分かったことがある。
ここの川はどういう地形の影響か、満ち引きの際に真水と海水が混ざった範囲が大きく変動するのだ。満潮時にはざっと一キロ以上、海水が川を遡る。常に二種類の水が混合される範囲を推測すると、最大で二キロ近くにも渡り入り混じっているのではないだろうか。
改めて、ファンはこの島における飲み水の重要さを思い知った。水源競争が過酷となるわけだ。
「……………………お腹すいた」
くぅ~、と胃が肉飯野菜と訴える。
以前なら――悪魔の実を食べる前だったなら、浅瀬に素潜りして小魚を捕まえるぐらい、わけないことだったけれど。
今じゃもう海は鬼門、水は天敵。川縁で水を救う行為にさえ戸惑い、手間取ってしまった。
シャキシャキと果実をかじる。無味に近く、水気ばかり多くて果肉の少ない果物。量を口に入れた所で余り足しにはならないけれど。水の代わりになる分、貴重であることに変わりないけれど。
明日は絶対肉をゲットしないと。ファンはコクコクと頷く。絶対絶対ゲットしないと。自分に念を押して決意も新たに。
だけど―――そのためには、
「二つ…………何とかしないと」
その一、攻撃手段。
その二、殺気の抑制。あるいは、飼い慣らし。
岩から筆記具を取り出し、インクを付けてそう記す。
一は手探りで行くしかないけれど、二は早急な見直しが必要だった。
今日の夕刻、日の入り時。
当たり前のように世界は茜色が支配して、殺意の天秤も外へと傾いた。これが町や人のいる場所なら大惨事になっていただろうけれど。
ここは無人島。
自分以外に、誰もいない。
殺意の対象となる、人間がいない。
代替物として求めた獣は、純然たる殺意の前に姿を隠した。
そしてその殺意さえものともしない猛獣に、透過を封じられた自分は勝てない。
赤く、できない。
半刻に満たない時間。
衝動のぶつけどころを失って。
気が狂うかと思った。
螺子が一本か二本か何本か。
どこぞへ飛んでいった気さえする。
辛い……時間だった。
嗚呼。
「…………赤く」
したいなぁ―――と、言いかけて。言いそうになって。
ハッと我を取り戻し、ぶんぶん首を振って今のナシ、と発言撤回。
とにかく、殺意をコントロールできなければ話にならない。何よりも先に頭が赤く染まっていては、これから先出逢うかもしれない強者を赤くすることなど、夢のまた夢。
よし、と気を取り直し、赤紫の少年はノートに書き書き。
『仮想ドラゴン~目指せ暗殺!』
「…………」
自分で書いておいて何だけれど、まだ豚を空に飛ばす方が現実味がある。
ともあれ、方向性は間違ってない。
海軍大佐、“人喰い”バリズ。
あの男を殺した時のように、手を下すその瞬間まで完璧に、殺意を殺す。
赤い衝動を、押し殺す。
赤い本能を燃やしながら、鎮める。
酷く難のある作業だけれど。
長時間できるようになれば、問題はクリアだ。
羽ペンを置き、焚火の爆ぜる音、波の寄せては返す音を聞きながら、砂の上に寝転がった。
星空。小さな炎を黒く押し潰さんとするような、夜空。星々は目映く散らばっているけれど、それ以上に夜が深く感じられる。
何となく、あの日を思い出した。どことなくシチュエーションが似ているからだろう。
身も心も奪い、犯し、辱められて、なのに自分を好きだと言う少女。
たとえ好意を向けられなかったとしても、手放すつもりは毛頭なかったけれど。
「……………………」
赤紫の瞳を閉じ、胸裏にて思う。
―――“好き”って、なんだろう。
時は少し進む。ファンが旅立ち、三日が過ぎた。
その間何があったかと言えば……思い出したくもないことだと、ラナはベッドに転がり、天井を仰いで嘆息する。
まず、お皿を割った。
せっかく洗った洗濯物を、海水に浸してしまった
綺麗に掃除した甲板に、バケツの汚水をぶちまけた。
アゼリアさんがフォローしてくれたけれど、他にもたくさんポカをやって、今はこうして自己反省中。
『ラナ娘……疲れてるんじゃないか? いいから休め。何、うちは規律には厳しいが戒律まで雁字搦めなわけではない。ミスというのは補い合うものだ。元気になったら取り返してみようじゃないか』
……よく分からない台詞が入るのは相変わらずだったけれど、申し訳ない気持ちでいっぱいで、俯いたまま頷くことしかできなかった。
一歩を踏み出すことを決意したのに、身が入らない。何をやっても、上の空。
「………ファン」
恋を、したのだ。
炎を孕む嵐のような激情はなかったけれど、じんわり胸いっぱいに広がる温もりは、疑いようもなく恋と呼べるもの。すやすやと寝息を立てる無防備な寝顔や首を傾けるちょっとした仕草に思い馳せるだけで、心臓が甘く飛び跳ねる。
分不相応なほど幸せで、こんなに人を好きになっていいのか逆に不安を思えたりもしたけれど、やっぱりというかあの赤紫の少年らしいというか、底の見えない遠大な落とし穴が待ち構えていた。
恋した少年はあっという間に手の届かない場所へ行ってしまって。広大な海を隔てた向こうじゃ、話すことも触れ合うこともできなくて。
遠距離恋愛は船乗りの宿命と言えるかもしれないけれど、故郷の島は沿岸漁業ばかりで、自分がそれを味わう羽目になるなんて想像だにしなかった。
「……いっそのこと、私も修行に行けばいいのかな」
無謀な思いつきが脳裏をよぎる。そんな考えにたどり着いてしまうくらい、少女の心は赤紫の少年に侵されていた。心の隅々にまで、少年への想いが根を張っていた。
自室のベッドで花が萎れたように元気が出ない。たった三日水がもらえなかっただけで、早くも枯れてしまいそうだった。しょんぼり肩を落として、少年の使っていた枕を抱き締める。スンスンと鼻を鳴らし、残り香を胸一杯に吸い込む。
両想いのような、片想い。一方通行の中、思い出したように手が差し伸べられる。その手に縋って、ゆらりとまた引っ込められる。恋人関係にはなくて、好きとも言ってもらえなくて。言葉も触れ合いもなしに、自分たちの関係は続けられるのか、少年に忘れられてしまわないか、不安と寂しさ、恋しさばかりが募っていく。
「……」
部屋の隅で存在を主張する紙袋に、目が向いてしまう。中身は顔の部分に穴のあいた白猫の着ぐるみ。ブティックの店長さんは趣味にお金を費やす人なのか、贅沢な素材で素材で作られてる一品。舞台で使うならまだしも、日常生活で着用するには凄まじい勇気を必要とする代物。
ファンからの贈り物で、あるけれど。
「……着ない。絶対着ない……っ」
ふるふると首を振って、でもまたそこに目が吸い寄せられてしまう。悪魔じみた吸引力。そしてはっと我に返れば、気付かないうちに袋を両手で持っていた。本気でファンの呪いがかかっているんじゃないかと怖くなった。
背筋に冷や汗かきつつ、袋を開ける。怖いもの見たさという言葉がある。
三日前と変わらない折り畳まれた猫の衣装が現れ、ほっと息を吐く。遠く離れてるのなお少年に振り回されているような気がして、ちょっとだけ苦笑いする。
「プレゼント自体は、嬉しいんだよ?」
猫の衣装を取り出して、枕でそうしていた風に、顔を埋める風に抱きしめた。
もう少し、贈り物の方向性はどうにかしてほしいけれど。それはそれで、高望みかもしれないけれど。
―――カサ。
「……?」
布越しに、紙を触ったような感触。白猫の衣装を探ると、首のあたりで何度も折ったような紙が仕込まれているのを見つけた。もちろん、衣装に穴を開けることなく。
こんな芸当ができる人物に、心当たりは一人しかいない。
「ファン……?」
急いで鋏を探し、悩みに悩んで目立たない所から刃を入れる。切りにくい。裁ち鋏が欲しいと思いつつ、苦労して数センチの切れ目を作った。隙間から、二つ折りにされた半紙が顔を覗かせた。
待て。焦るな。自分に言い聞かせる。これはただのイタズラで、からかいで、自身が望むような物ではないかもしれないのだ。
……開けたくない、と思った。でも、見たいと思った。
取り出した紙を、震える指で開いた。
『恋人と愛人、どっちがいい?』
「………………………………………………………………」
軽く五分は固まっていたと自負できる。頭の中が、真っ白だった。
「………………え…………っと………」
再起動を果たした少女が、ようようそれだけ呟く。
これがジョークの類なら、怒ればそれで済むけれど。
……ジョーク?
あのファンが?
ない。太陽が西から昇るくらいあり得ない。
つまりこれは真剣にまじめな質問……だと思う。
でも、いや、だからって。
「……私が決めることかな……?」
ん?と首を傾ける。何か今、引っかかった気がした。
……私に、ファンが訊ねた。
二人の関係を、どちらがいいか訊ねた。
「私が……決めていいの?」
恋人か、愛人……というのは、言葉が見つからなかったからだと思うけれど。思いたいけれど。
でも、この紙切れに書かれたたった数行の文字が、とても重要で、とても大切な物だと感じられた。
「ねぇ……ファン」
遥かな距離を隔てた少年に、心の中で問いかける。
―――私、ファンの恋人で、いいの……?