偉大なる航路の中ほど、凪の海に隣接する海域に今や無用の長物と化した孤島が、ひっそりと海面にその顔を覗かせている。
島の名はエグザル。インペルダウン建立以前に能力者専用の流刑地として、数多くの屍を飲み込んだ島。ロギアほか危険な能力を保有する犯罪者を捕らえ続けるために海楼石が発見されるまでの間、能力者を無力化する不思議島として重用を受けた。
現在では採掘可能な海楼石の鉱脈を掘り尽くし、その残り屑が地表付近に堆積している。完全な無力化、無効化するほどの効力は失われ、能力者の活力を奪うには至らず、その力を半減させるだけに留まった。
かつての流刑地、島流しの場に、ファンは相も変らぬ眠たげな面持ちで降り立った。
「この浜辺だけは波に攫われたのか、海楼石の影響がない……。避難場所に使うといいだろう。俺は定期的に様子を見に来るが、もしもの時はそれで知らせてくれ」
出立前にドラゴンから渡された袋には、直通専門らしい電伝虫が一匹、にやけ面で搭載されていた。他には頑丈なナイフと、救急セット一式、火打石、なぜか白紙のノートとインクに羽ペン。前半はともかく、筆記用具の類に首を傾げる。日記でも書けということだろうか。
ファンはゆらりと顔を上げ、目の前にそびえる巨躯へ頷いた。ラナから話は聞いていたけれど、前回は結局会えずじまいで、今日初顔合わせとなった巨漢――バーソロミュー・くま。今朝会ってからここへ来るまでの配慮も細やかで、あだ名が“暴君”であるとはどうにも信じがたい印象。
「……身体には気をつけろ。お前の身に何かあると、あの少女が悲しむ」
その上、ラナをなぜか気に入っているらしかった。ちょっとしたお話と早とちりがあったとしか聞いてないのだけれど、何がどうなっているのやら。
六メートルもの体躯が背を向けて、最後に励ましの言葉を残したくまは忽然と、空の彼方へ掻き消える。能力を使った、超高速での瞬間移動。テレポートと違って壁の向こうには行けないらしいけれど、使い方は幽歩と大差ないように思った。くまみたいに長距離を移動できるかは別として。その意味でも、限界を知る必要があるけれど。
「…………」
絶海の孤島に一人残った少年は、ゆらりと背後を振り返る。島の中央で遥か昔に活動を停止した死火山が、今なお雄大にその威容を晒している。
エグザルの気候は温暖な春島、かつ雨の少ない乾燥した土地。自然と飲み水は湧水に限られ、多くの流罪者を抱えていた頃は真水の確保で諍いが絶えなかったという。島の動物――猛獣にしてもそれは同じく、島を流れる二本の川、それも上流の綺麗な水場ほど厄介で凶暴な獣が闊歩しているとのことだ。
その川を登りきると、死火山の頂上に存在する火口湖へ到達するらしい。
そしてファンがドラゴンから与えられた課題が、それ。
{一年以内に、死火山の山頂へ至ること}
「…………」
なるほど、と思う。水を得るためにも川からは離れられず、川の周りには肉食草食問わずあらゆる生物が集まり、かつ先へ進むごとに危険度は跳ね上がる。ある程度の誤差はあれ、段々と獲物の強さが増していく。一人で修行するには最適の土壌。
ふいに鳴き声が聞こえた。天空で、一羽のタカが舞っている。緩やかに円を描き、軽やかに飛翔している。
タカは縁起のいい鳥だ。無表情に腕を上げて、手で掴む仕草をする。
もちろん届くはずはないけれど、いつかは届かせたいと、決意も新たに。
……さて。
まずは食料調達だ。
「フォークが動いてないぞ」
真正面から指摘する声に、黒髪の少女がはっと我を取り戻す。慌てて朝食のサラダを口に運び始め、アゼリアは自身としても珍しく嘆息を零した。まだ一日どころか半日すら過ぎてないのにこの有様。先が思いやられるというものだ。
「こんなことで何カ月もやっていけるのやら……」
「……声出てますよ、アゼリアさん」
ラナの突っ込みに「む」と唸る。ごまかしも込めてスープを啜る。
「ふむ、なかなかの味だな。心のお気に入りに追加してみよう」
「わざとらしすぎるんですけど……」
「そうは言ってもだなラナ娘、寝てる間に男に逃げられた女をどう慰めればいいのか私としても悩みどころでね。逆のパターンならたまに聞くんだが」
「………………ううううぅ、ファンのバカぁ……っ!」
可愛らしい少女がザクザクと涙目でパンにフォークを突き刺していく光景は、微笑ましいのか猟奇的なのか甲乙付けがたい所であったが、フォローのしようもなくアゼリアは頬を掻く。
朝起きたら、ベッドにいなかったらしい。大慌てで甲板に行ったら丁度ドラゴンと出くわし、たった今出発した所だと告げられたらしい。
面倒がったな、とアゼリアは内心呟く。照れたのか煩わしかったのかは当人しか知りようがないが、別れの見送りが面倒で逃げたのだけは間違いない。
「しかし、お詫びのプレゼントはあったんだろう?」
「ほとんど嫌がらせのプレゼントでした!」
涙混じりにバシバシテーブルを叩き、
「何でっ、あの猫の着ぐるみファンが持ってるの!?」
着ぐるみ?とアゼリアは瞳を瞬かせるが、その答えを知っているだろう少年はここにおらず、これまたフォローのしようがない。
悲しみよりも怒りが勝り、叫ぶだけ叫んだラナはヤケ気味に朝食を掻き込んだ。長々と落ち込んでもいられないのだ。
無人島での修業を終えて戻ってきたら、ファンは今よりも絶対に強くなっている。きっと誰にも負けない実力を備えて帰って来る。その時自分だけ立ち止まっていたら、少年に合わせる顔がない。だから少女もまた、猫のことは取り敢えず忘れて決意する。
「アゼリアさん!」
「残念ながら私はアゼリアではない。双子の妹のロゼリアだ」
「真面目に聞いてくださいっ!」
少女の剣幕に褐色の女性は目を丸くし、次の瞬間、ニヤリと笑った。
くるくると指でフォークを回し、
「いいだろう。他でもないラナ娘の頼みとあらば、たとえ火の中水の中……。直ちに手配しようじゃないか」
「……あの、私まだ何も言ってませんけど……」
「服飾を習いたいんだろう? 安心するがいい。革命軍は大所帯、人材の宝庫だ。被服学を学んだ先達ぐらい紹介して見せよう」
口でそう言いつつ、昨夜のうちから伝手をたどっていることはおくびにも出さない。
「とは言え船内では人員も資源も限られる。実際に習えるのはバルティゴに着いてからだろう」
「それは、いいですけど……。えっと、ありがとうございます」
「ふふふ、そんなお礼よりも即物的な物が欲しいな。例えば……ラナ娘の八重歯とか」
ボロボロになったパンを咀嚼する途中でラナはむせた。咳き込み水で流し呼吸を落ち着けて、
「……百万が一生えたら抜いてあげます」
「む、生意気な」
突っ込みを期待していたアゼリアへ、ちょっと進歩した様子を見せるラナだった。
進歩の方向性がおかしいことは、さておいて。
ラナが乙女のプライド的に恐怖の眼差しを送る着ぐるみ、その発端となるブティック“仔猫の鈴”。こじゃれた内装の店内は今、従業員総出による荷造りで戦争じみた気配を漂わせていた。
「そっちの服はセールに出して! 箱に油紙は敷き詰めた? 敵は潮風と塩水、隙間に麻で防水するのも忘れないでよ! ああそこっ、看板は向こうで発注するから下ろすだけでいいわ!」
「……あの、キティ店長。今さらですけど考え直しません?」
「何、怖気づいたの? だったら貴方はここに残りなさい。私は一人でも行くわよ」
「だから無茶ですって! グランドラインへ“移転”するなんて! それも昨日の今日でっ!」
そう。男が訴える通り、キティ・ベルは店じまいと移転の準備に奔走していたのである。
社員たちは――フロアオーナー含め店長以外の全員が、寝耳に水の話に唖然とした。その尻を蹴っ飛ばして付いてくるか否か一日の猶予を与えたキティ店長は、ただの一晩で移転先の物件を押さえていた。
前々から目を付けていたとの説明を受けても信じがたい速度である。その上海軍の捕らえた犯罪者護送に便乗して、大型軍艦のエスコート付き。どんな手品を使ったのかと、誰も彼もが目を剥いた。話を取り付けた速度も手腕も、驚愕のレベルを超えている。
『ちょっと臨時収入が入ったのよ。投資のつもりはなかったけど……うん、一億三千万ベリー。この額を利子で済ませるなんて、ホント律義というか欲のない子だったわ……』
社員一同の率直な疑問をその一言で薙ぎ倒し、悲鳴にも似た絶叫が辺りを貫いたのは言うまでもない。
交渉の結果、一時的に移送用の軍艦一隻を借り受け、かつ物件購入後手元に残った額が一億三千万。なかなか高く買い取ってくれたと、キティはご満悦。
「夢なのよ」
と、未だ再考を具申する男に向けて、子供のように目を輝かせ。
「世界中の、誰もが憧れるブランドショップを作る……小さい頃から思い描いてきた、夢。私のデザインした服が、世界の頂点に立つのよ」
生き生きと、語る。
「その夢が叶う第一歩なのよ? このチャンスをふいにしたら、私は後悔してもしきれないわ」
「……」
何も言えなかった。
呑まれた。そして夢想する。目の前の人が夢を叶えた姿を。
――――世界中に猫の衣装を配りまくっている様子を。
「ぷっ……!」
「あ、酷い。笑ったわね?」
「いえその、す、すいません」
「……まあいいわ。とにかく、私に付いて来なさいフロアオーナー。貴方の力が必要よ」
美人店長の誘いに、男は苦く笑った。
「もちろん、昇給してくれますね?」
「愚問ね。経営が軌道に乗るまでただ働き……は可哀想だから、これまで通りお給金は出すわ」
さらっと拒否されたことは蒸し返さず、苦笑の色を深める。
ゴールドオフの髪をアップでまとめ、キティはダンッと床を踏みしめる。
「行くわよ。目指すはグランドライン、キューカ島!!」
……のちに移転したこの店と再会することになろうとは、少年を含め誰一人として知る由はなかった。
が、今この時間軸においては、蛇足に過ぎない。
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今回短め。次回から修業開始。