ガチャリと開く音が何やら新鮮で、ラナは開いていたカタログから顔を上げる。珍しく、ファンはドアを使って部屋に入ってきた。
「ラナ」
「……な、何?」
しかも少年の側から声をかけてきて、戸惑った。腰かけた姿勢で、上擦った応えを返す。
昨夜はいろんな疲れを取るため泥のように眠り、今日は掃除や洗濯などの一日ぶりの仕事にまた従事して、顔を合わせる機会はあったけれど、赤紫の少年と余り話せてなかった。今だって何やかやと世話を焼いてくれる姉御肌の女性から服のカタログを借りてきて、流行のファッションなんかを調べてた。
何となく機会を逸して、一日経ってないのに会話が久しぶりのように感じるのは、きっと、もっと傍にいたいから。少年の近くで、同じ時間を過ごしたいから。
勿論そんなこと、面と向かって言えないけれど。面と向かって言わないけれど。でも、ちょっと遠まわしに頼もうか、なんて画策する。
ファンが眠たげな無表情で、ベッドに腰掛ける自分の隣に座って、じぃっと見つめてくる。
……近い。距離が。えっと、十センチ? 五センチ?
跳ね始めた鼓動を悟られまいと、ちょっと身体を離そうとして、ファンに機先を制される。すぅっと伸びてきた両手が頬を挟んで、逃げられなくなる。耳裏に指が擦れて、普段ならくすぐったいそれが、いけない気持ちに薪を足していく。
キス――だと、思った。でも、キスじゃなかった。それ以上、ファンは動こうとせず、ただ見つめるだけ。赤紫の瞳に、戸惑う自分の黒瞳が映り、それから数分もの間、ファンは口を開かなかった。後になって、それが躊躇いの時間だと思い至った。
そして、ファンの口から出た言葉に理解が追い付かず―――理解、したくなくて、嘘だと言ってほしくて、聞き返した。
「…………三か月から半年ぐらい。………無人島、行ってくる」
修行、と最後に付け足された言葉が、酷く寒々しく聞こえた。
ゆらり、ゆらり、ゆらめいて。
ずっと前からそこにいたと錯覚してしまう草木のような自然さで、赤い影が現れる。千切れた雲の破片が月に舞い、上弦の衣と彩る。
寝ずの見張りが佇む少年の姿に首を傾けた。いつ甲板に出たのか把握できなかったけれども、問題なしと仕事に戻る。それを意識の端で捉えながら、ファンはいつもの無表情で、けれど静かに思案する様子で夜空を仰ぐ。
「――肉体的な強度が低すぎる」
耳元に蘇るのは、ついさっき聞いたドラゴンの言葉。
「体力と筋力が全く足りん。無理して半年……最低一年は身体造りに使うべきだろう。目指す到達点にもよるが、鍛錬とは長い時をかけて行うものだ」
時。時間。歳月。
けれど、自分たちを脅かす敵や障害が今この時やってきたらどうするのだろう。船が西の海から偉大なる航路へ向かっているという現状、海軍の主戦力とぶつかってしまう可能性はゼロではない。
…………時間をかけちゃ……だめ。
黒々とした夜は少女の髪と瞳の色。そこには無限と思える星の宝珠が輝いている。
今頃は船室にいるはずの、たった一人の同郷を思い浮かべ、小さな吐息。
背負うとは。
守るとは。
こんなにも、重い。
押し潰されるような神経はないけれど、決して軽くはないそれを実感し、腹に据える。
自分のために。
少女のために。
強さを―――力を。
「…………うん。やっぱり…………目安は三カ月」
最低でも―――半年。
ドラゴンの想定を、前倒し。
多少の無理なんて甘っちょろいことは考えない。多大な無茶を、押し通す。
決して不可能ではないはずだ。肉体強化は年単位を見据えるにしても、能力の修行はまた違うはずだ。
…………ユラユラの実の、波人間。
発現した能力が透過である理由は、依然として不明だけれど。
まだ、悪魔の実を食べて十日経っていない。自分にできることが何か、まだ把握しきっていない。瞬間移動だって、意図して行ったわけじゃない。
ただ、助ける。
少女を、救う。
それだけを想い―――気付けば、跳んでいた。空間を、距離を、すり抜けていた。
“幽歩”
話を聞いたドラゴンが、そう名付けた。幽世を歩く――と、いう意味らしい。
けれど名前を付ける意味があるのか分からなくて、率直に訊ねた。
意識するかしないか、極論すればそれだけの違いだと、ドラゴンは何でもないような顔で答えた。
「空手、拳法、柔道……いずれも、一つ一つに名前が付けられている。能力者の技も然り。攻防の繋ぎに使うただの突きや蹴りにまで名付ける必要性は皆無だが、本命の一撃に名を付ける意味はある。……抽象的な話になるが、あらゆる事象、現象、存在は、名を持つことで初めて正確な認識が可能となり、倭という国では、これを言霊と言う。……まあ、俺は専門家じゃないからそこは間違っているかも知れんが、名は体を表すという言葉通り、技の名を意識することで技そのものがイメージされ、染みついた動きを無意識にトレースできるようになった結果、戦闘中ほかのことに思考を割ける余裕が――――」
それから延々もう十分ほど続いたけれど、結論、名前はあった方が便利らしい。どうでもいいような気もするけれど、それは追々考えることにする。
修行。
当然、サバイバル。船の上で行うわけにはいかない。
そして誰かに付きっきりで教えてもらうわけにも、いかない。その点では、都合のよい島があるらしいけれど。
「…………」
星空を仰ぎ、頭を掻く。
この話を聞いた少女の反応だけが、懸念要素。
独り置いていくことに、心配がないほど薄情なつもりはない。
……そして予想通り、部屋に戻ってそのことを伝えると、黒髪の少女は捨てられた犬のように萎れて、眉根を下げて。絶対に行ってほしくないことは明らかなのに、何も言わずに唇を噛んだ。
やり辛い、と思う。真っ直ぐな好意を向けられることに、慣れてない。
慣れてなくとも、関係ないけれど。どんな好意も、悪意も、無関係。やることは変えない。変わらない。
「……いつ、出発するの」
「…………明日」
俯いていた顔が勢いよく上がる。早すぎる、と少女の目が訴えかける。
少女の想いを聞いて、まだ二十四時間と少し。少女が思いの丈をぶつけて、二十四時間と、少し。
恋とか、愛とか、難しいことは分からないけれど。少女に触れられなくなるのは嫌という気持ちだって、ある。
だけど、でも。
「…………僕は強くなる」
未だ少女の腕を隠す包帯へと、思い返すように手を置く。
「どこの海でも……敵はたくさん。…………だから強くなって、ラナを守る」
静けさが、幕を下ろす。ランプの火が、ジッと音を立てる。
ラナの顔を挟む両手に、少女がそっと片手を添えた。
「私のこと………好き……?」
ファンは、一言で答えた。
「赤くしたいぐらい」
時が止まったような静寂ののち、魂まで抜け出るような溜息を聞いて、ファンは首を傾げる。自分なりに最高級の親愛を示す言葉は、お気に召さなかったらしい。
「そうだよね……ファンってそういう人だよね……」
何やら悟りを開いたような声。もう一度、首を傾げる。言葉の意味を考える。
……。
…………。
……………………。
意味不明という結論に落ち着いた。嘆息と落胆を零す少女のすべすべとした頬を、何となく引っ張る。
「ふぁうっ!? ふぁ、ふぁなひてよ!」
ガン無視。ぐにぐに無表情に引っ張る。伸びる。柔らかい。楽しい。
ひとしきり唸って、少女が反撃に出る。眠たげな少年のほっぺたを掴む。引っ張る。ぐにっと無表情が横に広がって、触れたことに驚いた直後、予定調和のように指がすり抜ける。スカスカと無駄な行為を何度か繰り返し、うぅ~、と悔しげに。
お別れの夜に何をやっているのかと思わなくもないけれど、しばらくそのまま、ファンは少女で遊んだ。
コツコツ、と靴を鳴らす。フードを下ろし、刺青に半面をのたうたせる男がデッキに上がる。身軽に梯子を登り、見張り台へ手をかける。そこに先客を認めて、眉をしかめた。
「これはこれは司令官殿。こんな夜分にいかがした」
色落ちした黒髪をバンダナで縛った、褐色の女。アゼリアはピーナッツの袋を漁り、殻を割って咀嚼し、敬意の欠片も見当たらないようで敬っている笑みを浮かべた。複雑すぎる女の笑顔に、ドラゴンは眉間のしわを深くする。
「……アゼリア、見張り場で物を食うな」
「そんなことを言いにわざわざ来たわけじゃないだろう? 堅くて歯応えのある物は大好きだが、堅苦しいのは嫌いでね。司令官殿も偶にはざっくり叩き割って適当に過ごしたらどうだい?」
ニヤリと笑い、ピーナッツをガリガリ奥歯ですり潰す。相変わらず無駄にセリフが多い上、妙な言い回しをする女だ。今の言葉も、遠まわしに休養を取れとせっついている。
が、そういうわけにもいかない現状を思い、嘆息。聞かなかったことにして、流す。
「船内の様子はどうだ?」
「司令官殿が思う以上に重畳だと答えてみよう。ひと月前に加わった連中も、貴族の横暴がもたらした悲劇に決意と結束を固くしている。離反や裏切りの心配はないと見ていい」
「……そうか」
革命軍。つまりは革命を強行する軍隊。その構成員は大半が貴族や王族の振る舞いに異を唱えた者たちであり、身の危険に晒され、住処を追われた者たち。真に大義を持ち世界政府を打倒せんと思う者は、少数だ。末端であればある程、恨みと私怨を持ってして志願した人間が、多数。
だが私怨に走る者は私情に走ると同義。公を軽んじ私を重んじれば軍が成り立たない。
故に、引き締めが必要となる。恨みを晴らすことと世界政府へ反旗を翻すことはイコールでないと、新たに入った者たちへ教え込む必要がある。こうして西の海の辺境へと出向いたのも、その一環。貴族に雇われた海賊が、とある島を狙っている情報を掴んだのは偶然だったが。
「ならば当初の目的は達したな。イワンコフが動けなくなったのは痛いが、潜伏したと思えばいい。……アゼリア、何だその目は」
「ふふん、何だろうなぁ? 素直じゃない司令官殿には教えてやるまい。しかし司令官殿が折れるのであれば考慮してみよう。さあ、後悔は先に立たずと言うがいかに?」
にやつくアゼリアは空になった袋をぐしゃぐしゃと丸めて、ゴミの袋に突っ込んだ。一人で全部食ったらしい。腹を壊すぞ、と余所に流れかけた思考を修正。ドラゴンは眉間をほぐした。
「……人の思考を先読みする術にかけては、一流だな」
「そうでもない。先刻外したばかりだよ」
「…………ファンとラナの様子が聞きたい」
待ってましたとばかりに、アゼリアはそれまで組んでいた胡坐を解き立ち上がる。ドラゴンとまではいかないが、充分に長身な上背。
「最初からそう言えばいいだろうに、これだから見栄に拘る男は解しきれん」
軽薄に口を開き、しかし褐色の女は直後軽薄さを切り捨てる。
別人のような目つきが、ドラゴンを見据えた。
「……手の出しようがない、というのが結論だ。あの子らは私達が思うよりも遥かに成熟している。方向性に異なりはあれ、一つ二つ問題と課題をクリアすれば手を離しても構わんだろう」
「問題と、課題か……」
「ラナ娘は――ラナは、大して苦労せんさ。手に職を付ける努力を既に始めた。そちらはのちほど伝手を紹介するとして……問題は少年だ」
「治らないか」
「治らないな。あれは根っこの部分が腐りきっている。治したいなら切り倒すよりほかはない」
殺す以外に治療法はないと、アゼリア。
ただの例えではあるが、ドラゴンは嫌そうな顔をする。
「……まあ、外からの治療という前提ではあるがな。後は当人次第さ……と、期待に応えられず申し訳ない」
「元より望み薄だったこと。気にするな。……飼い慣らせと、昼にもう教えた。ファンは明日、エグザルに送る」
束の間、沈黙がわだかまった。
「……すまない、聞き取れなかったようだ。少年を何処に送るって?」
「エグザルだ」
アゼリアは額に手を当て、うろうろと狭い見張り台を歩きまわり、一度天を仰いでドラゴンへ向き直る。
「正気か? いや正気じゃないとしておこう。だが自殺行為だと警告しておこう」
「さっき、俺達が思う以上に成熟していると言ったのはお前だったはずだが」
「それとこれとは話が違う。あそこは大昔の、対能力者用の流刑地だぞ?」
「採掘され尽くして、現在は往時の半分も効力はない」
「司令官殿、そのセリフは透過の意味を理解しての言葉だろうな?」
火花こそ散らなかったが、無言の圧力が互いの視線に乗せられた。
しばらくして、先に目を逸らしたのはアゼリアだった。
「……感情的になったようだ。すまない、と謝罪してみよう」
「弟……だったか」
「両方だ。弟妹が生きていれば丁度…………いや、今更無意味なことだ。ただ、私はあの二人に私情を重ねるつもりであることを覚悟しておいてくれ」
「……仕事をこなせば、何も言わん」
そうか、と返し、褐色の女は背を向け、見張り台の縁を掴む。喪われた家族を回顧し、悔恨する。
空はいつも変わらない。ただ、世界を見下ろす。悲劇も、喜劇も、ただ平等に眺めるだけ。
それを憎らしいと思っても仕方がない。だが見下ろされているのが、見下されてるようで。
無意味に、しかしやたらと、悔しかった。
波が砕ける音を聞いた。夜明けを待たず、少女は潮騒に揺り起こされる。
薄ぼんやりとした天井に覚束ない視線を向け、眠っている間に汗ばんだ肌が涼しさを求めて、うつ伏せの姿勢から起き上がる。肩からブランケットが滑り落ち、白い素肌が夜明け前の薄闇に浮かんだ。
「……」
すぐ隣から聞こえた寝息に目を向けて、赤紫の少年が寝静まっているのに意識を向けて、ラナは無衣の少年に身を寄せる。結局なし崩しに服を取られて、抱かれて、またナカに出されて。これから何カ月も離れ離れになることを思うと、無理に拒絶できなくて。
拒絶しても、少年が聞いてくれたかなんて分からないけれど。
「…………ん」
小さく、ファンが身じろぎする。寝返りを打った身体が近い距離をゼロにして、肌と肌が触れ合い、ラナは少年の胸に顔を埋め、足と足とを絡ませた。少年の熱を、匂いを、気配を、忘れないように。
「強くならなくても、いいから……」
……ずっと傍に、いてほしい……。