ぱしゃり、ぱしゃぱしゃ。水の音。
綺麗に澄んで透明な、ゆっくり流れる沢の中。冷たい清水に腰までつかり、少女は小さく身震いする。寒い、に限りなく近い冷たさ。眠気覚ましには強力過ぎて、黒髪の先が水面をくすぐり、波紋を生んだ。
波紋の中に、自分が映る。動きを止めて、少女は自分を見つめる。
胸元や首筋に、ほんのり赤い跡が残っていた。――キスマーク。
「…………」
そっと自分の唇に触れる。ふれて、なぞる。……熱い。寒いからそう感じるのかもしれない。でも、熱い。
ファーストキス、だった。シュリオという恋人はいたけれど、互いに恥ずかしがって、手を握るだけで精一杯の間柄だった。彼とはもう、手を繋ぐこともできない。
ファン。赤紫の髪と眼をした、隣家の男の子。小さな島だから、誰も彼も知り合いで、同年代の子供はみんな幼なじみと言えてしまうけれど。ファンだけは、島の中で唯一浮いた子供だった。
まず喋らない。笑わない。いつも夢を見てるような、まるで夢遊病者のような表情で、なのに不思議と要領がいい。うまく面倒事を避けて、仕事の手伝いは最低限。それ以外の時、どこで何をしていたのか完璧に把握できるのは、きっと本人しかいない。当たらず障らず、遠巻きに。彼の両親を含む全員が気味悪がって、なのに嫌悪までは行き着かない。微妙な境界線を、ゆらゆらと曖昧に、歩いていた。
その彼が――人を殺した瞬間の貌は、多分一生忘れられない。
悪魔が笑っていた。悪魔のように嗤っていた。
ファンが初めて見せた笑顔は、悪鬼や悪魔そのものだった。
「…………」
肌を撫でる。ファンの指が触れ、舌が這った跡をたどる。
今まさに少年にそうされているような、昨夜の残像を見てしまう。
「あ……」
足の間から、何かが流れる感触。水の中を、白い塊が流れて行って、指ですくう。
粘ついた、白い粘液。少年に注がれた、精液。
若干の躊躇いを覚えつつ、秘所を指で探った。あ、と電流が流れたような感覚に身を竦ませ、恐る恐る木立の向こう――少年がいるだろう丘の方角を確認した。来るなと言って頷いたから、多分近くにはいないだろうけれど。
水の下だから、音は聞こえない。でも身体の中だから、くちゅりと湿った音が響くような気がして。
「ぁ……ん……!」
くちゅりくちゅりと、掻きまわし。込み上げる声を、噛み殺し。ぴくりぴくりと震えながら、溜まっていた白濁液を掻き出した。
「はっ……は……っ!」
荒く呼吸して、自分のナカから溢れた液体を眺める。普通と比べて、これが多いのか少ないのかは分からなかったけれど、思っていた以上の量が、注がれていた。子宮を白く、満たしていた。
流れに浚われて下流へ消える、少年の溶液。ないことが自然なのに、喪失感が胸を襲う。
きゅ、と下腹部に力が入った。掻き出された子宮が、熱を持つ。熱を持って、更なる灼熱を欲する。疼く。
少年に貫かれて、少年の白熱液を思うさま注がれたいと、脈打ち始めた鼓動が脳髄を突き刺し、抉り、女性の本能を焙り―――
「っ――」
冷水に、ラナは頭から沈んだ。気泡が幾つも生まれ、酸素が足りず苦しくなってもぎりぎりまで耐え、水しぶきを散らして水面に出た。
「えほっ……えうっ、けほっ……こほっ!」
……咳き込むまで我慢する必要はなかったかも、と思いつつ、暴れまわる心臓を宥める。
求められるのはともかく、自分から求めたくはない。
でないと……恋人の告白に応えた自分を、裏切り者のように感じてしまう。
ファーストキスも、処女も、子宮の中さえ、奪われ、汚された後だけれど。
少年との性行為に、意識をやるほど応えてしまった後だけれど。
死んだ恋人の気持ちを、裏切りたくはなかった。
……何日耐えられるか、自信は全く、ない。
時は少し戻って、毛布の中。
ラナの方が、自分よりも幾らか早く起きていたようだった。
僅かな身じろぎに重い瞼を持ち上げると、腕の中で少女の黒い瞳に見上げられた。心なしか、その頬が赤い。寝起きの頭で理由を考えるが、碌に回らない。掠れるような声が聞こえて、意識を戻す。
「ファン……その、服を着たいの」
「…………」
余程ダメだと言いたくなったけれど、着衣を許したくないほど少女のカラダに触れていたかったけれど、夕食を抜いた腹が訴訟を起こしそうだったので諦める。
もぞもぞと毛布から抜け出て脱ぎ捨てた服を拾いに行き、下着も纏めて少女に渡す。手渡した時に何か言いたげな顔をされたけれど、結局溜息だけ吐いたラナに首を傾げた。
「……着替えるから見ないで」
「?」
「いいから見ないで!」
怒られた。裸を見るより恥ずかしい行為をしたはずなのになぜだろう。分からないけれど、分からないなりに後ろを向いて、簡素な衣服を身につける。「もういいよ」と許可が出るまで考えて、何でだろうと疑問符ばかりがふよふよ巡る。
薄茶色のワンピースを着たラナは、長い黒髪を手櫛で整えていた。胸元を持ち上げる膨らみと、細い腰にどうしても目が行ってしまう。視線に気付き、朱を昇らせた少女はすぐさまそっぽを向いてしまったけれど。
それでも臭いと汚れが気になるようで、ラナは沢に水浴びしに行った。付いて行こうとしたら、「ファンは食事の準備!」と怒鳴られた。女の子の怒るポイントは不可解すぎる。
大体準備と言っても、バスケットから保存食を出すぐらいしかないのに。
膝を抱え、ぐぅぐぅ腹を鳴かせて待ち続け、ようやくラナが水浴びから戻ってきた。
「もしかしてファンって……すごい律儀?」
空腹虫の大合唱に、申し訳なさそうな、驚いたような顔で少女が言う。取り敢えず、違うとだけ答えておいた。他意はない。
もぐもぐと、硬いパンをチーズで味付け。ラナが汲んで来た水で干し魚を流し込む。十分とかからず、食べ終わる。味気ない食事だったけれど、このレベルの食事が贅沢になるのはそう遠くない。村は焼けて、ほぼ例外なく焼け落ちて、無事な食糧はどれだけあるか分からない。
「ねえファン。……お墓、作ろう?」
朝食を終えた丘の上。一晩で燃え尽きてしまった村を眺めていた、少女がそう口にした。
後は野となれ山となれ。自然に任せるが一番。
とは、答えられなかったけれど。放っておきたかったのは山々だけど。焼けなかった死体もあるだろうし、腐れば臭いも酷い。……そんな数秒の勘案を経て、ファンは頷いた。
「…………」
そうして、少年は村外れで穴を掘っている。災禍を免れたスコップで、繰り返し土を掘り下げる。
楔形の先っぽがするりと地面を通過して、力を込めればあっさり持ち上がる。心臓を掴み出したように、土くれを掘り出す。
何をやってるんだろうと、自問。墓を掘っているのだと、自答。
赤くも白くもない作業は、どうしようもなく退屈だった。十三年と少し生きてきた日々のように、つまらなかった。
「……赤く、したいなぁ」
死体運びを、自分から買って出た少女を、赤くするわけにはいかないけれど。心でしてはいけないと思うからこそ、赤くしてしまいたくなる矛盾的な衝動はあるけれど。
ゆるゆると息を吐き、穴掘りを再開。交易船が来るのは半年周期で、つい先日来たばかり。だからこそ海賊は昨日を狙ったのだろうけど、タイミングの悪さを罵りたくなる。最低半年は、たった二人で生き抜かなければならない。
悪魔の実を食べた能力者であろうと、子供の知識ではこの島で生き残るのも難しい。平和過ぎた島の経験は、外海で生きる助けにはならないはずで。
そして、今後の苦労をありありと表現した嘆息は、前置きなしの突風に吹き飛ばされた。
「なに……!?」
心臓が、跳ね上がっていた。ただの風。海辺に突風は付き物。なのにバクバクと、鼓動が暴れ狂う。冷や汗が流れ、脳裏をじりじりと焦がす“何か”を、感じて。
背筋が震えた。津波を前にしたような絶対的な猛威に、震え上がった。
「………………くふ」
くふ。くふふ、くふ。くふふふふ。
嗚呼。
これを赤くしたい。
カラン、とスコップの落ちる音が響く頃には、駆け出した後。
少年はまだ知らないことだけれど。気付いてもいないことだけれど。
悪魔の実には自然界を超越する力があり、当たり前ながらそこには悪魔の実だけの法則がある。動物系なら肉体を。自然系なら森羅万象を。超人系ならその力に見合ったモノを。それぞれ操り従える法則がある。
それら既存の法則を塗り替える時、誰にも観測できない波動が生まれている。
音は空気の振動。火の燃焼は化学変化。ならば悪魔の実の力にも、仮に説明不可能だとしても、現象を発生させるための原因と起因とを有するのは、自然の摂理。
波人間、量子人間たる少年は、その波動を知る。感じる。感知する。
悪魔の実の反応を、感じ取ることができる。
今はまだ、弱く微弱に脆弱だけれど。
――今は、まだ。
惨状という言葉が分からなくとも、辞書を引いて調べる必要はなかった。
具体例が、目の前にある。
「悲惨な……」
痛ましい呟きは背後から。いついかなる時も持ち歩くグラスに、葡萄色の液体は注がれていない。このような場でたしなむには不謹慎と、自分で戒めているのだろう。
「……妙だ」
問うような視線を感じ、男は続ける。
「なぜ、船番一人いない」
戦勝パーティに浮かれているのかと、最初は思った。まだ朝も早く、陸で寝入っているのかとも考えた。だが、海賊の命たる船を見張る者がいないなど、明らかに過ぎる異常事態。
「……まさか」
突拍子もない思いつきに足を速める。背後の気配は無言でそれにつき従う。
焼け落ちた家々の間を進むと、焦げた臭いが鼻を突く。そこかしこで斬られ、あるいは火に巻かれた村人たちに黙祷を捧げつつ、広場へ到達する。そこに想像通りの――否、“想像以上”の光景を見つけ、鋭く息を呑んだ。
海賊たちが、死んでいた。地勢の影響か、大部分が焼けることなく、亡骸を晒していた。
点々と、道なりに。一様に恐怖と痛苦で顔を歪め、まるで何かから逃げるように絶命していた。こんなはずではなかった、助けてくれと訴えるような、死んで当然という思いを持っていてさえ憐みを誘われる、凄惨な死相。
だが、しかし。何より際立つのは、死んだ海賊の顔でも、その数でもなく、
――死に方だった。
胃腸を、肺腑を、心臓を、あるいは脳髄を、引きずり出され、千切られ、潰され、命共々散らされて。どんな自殺志願者でも二の足を踏むような、徹底的に最悪な、例えようもなく怖気を震う、醜悪な死に様。
「これは……一体」
「……一つだけ言えるとすれば」
険しい目で、“傷もなく引きずり出された内蔵”に視線をやり。
「とんでもない化物が、この島にはいる」
それは能力や、力の脅威を言っているのではなく。
同じ人間に、これだけのことができるという精神性。
インペルダウンの看守も真っ青な、残虐なる殺人手法。
恐れなど知らない男の背に、一筋の汗を流させる程には。
ずず、と地面を引きずる音に、二人の意識はそちらへ向けられた。広場の反対側を横切る形で、十を幾つか過ぎた少女が、焼け残った板きれを引きずっていた。その板に、真っ黒な焼死体を乗せて、引きずり運んでいた。
少女が汗を拭った拍子に、こちらを視界に入れた。一瞬で、少女の顔が恐怖にひきつっていく。
「――待て! 俺たちは海賊とは違う!」
「……え」
走り出しかけた足を止めるが、その表情には警戒心しかない。
止むを得ない、と思う。少女は突然やってきた見知らぬ男たちに、村を焼かれ、家族を殺されたのだから。
「海軍の……方ですか?」
「それも違う。だが、約束しよう。俺たちは君に一切の危害を加えるつもりはない」
少女の黒い瞳が戸惑いに揺れる。信じるべきか、疑うべきか、迷いの狭間。
……この子は、違う。
「他に、生存者はいないか?」
「あ……その、もう一人……同い年の男の子が――」
と、答えかけた時だった。
ぞくっ、と全身の毛が総毛立つ。濃厚で、濃密で、混じり気なく純粋な、殺意。
音もなく、一人の少年が燃え尽きた家の中から飛び出した。赤紫の髪を振り乱し、炯々と、爛々と。マゼンタの双眸が狂的な殺意に濡れている。
「―――くふ……!」
その唇が笑みの形を作り、全く何の躊躇も逡巡も迷いも躊躇いもなく、制止の声を上げた少女すら無視して、襲いかかって来た。
ダッと背後から前に出た仲間に一言、傷付けるなとだけ言い添える。
頭頂からつま先まで、髪と衣服とサングラスの全てを左右で白く橙に分割した、風体だけは奇妙な男。その指先が、にょきりと伸びる。左右それぞれ二本の指が、園芸鋏よりも長く、鋭く。
ショキショキショキ、と切り裂かれた地面がリボンの如く捲れ上がり、さすがに驚いた様子の少年が足を緩めた直後、檻と化してその身体を囲う。巻く。蓋をする。
土くれの牢に閉じ込めた少年を落ち着かせるべく、傷付ける意思はないと告げようとした、矢先。
まるで壁などないかの如く、牢を“透過”した少年の指先が色と色の中間に差し込まれた。
「――イナズマ!」
「ッ――!」
パンッ――! と少年の眼前で柏手が打たれ、意表を突かれる。掴み損ねる。それでもぶちぶちと、イナズマが飛び退ると同時に血管が幾本か引き千切られ、服を赤くする。
「無事か!?」
「……幸運にも」
胸を押さえ膝を突いたイナズマなどまるで眼中にない様子で、細い血管を放り捨てた少年は、真っ直ぐに男へと襲いかかり。赤く、赤く、赤く染めて濡らし塗りつくさんと腕を伸ばし、
「――すまない」
全身を隠すようなローブの中に、刺青を顔に入れた男の声を聞いた。
「一撃だけ、許せ」
刹那、鳩尾を突き上げた衝撃に痛みよりも息を詰め、ぐらりと暗転した視界を最後に、意識を落とす。
「ファンっ!?」
くずおれた少年に信じられないような面持ちで、少女が駆け寄る。必然的に、男と距離を縮める行為でも、躊躇なく力の抜けた少年を支える。
こちらを振り仰いだ少女に、気絶させただけだと告げ、拳に残る後味の悪い感触に顔をしかめた。
「生き残りは、君とその少年だけか?」
じりじりと距離を取ろうとする少女に手を上げ、それを留めた。
少女の肯定を受け、男は目を側める。
二人。たった二人。百近くの村人がいて、残ったのはただの二人。
胸の奥で煮え滾った憤怒を押し隠し、努めて冷静に、冷静を務めて、男は名乗る。
「――俺は、ドラゴン。君たちさえよければ、寝場所と食糧を提供できる」
どうだ、と訊ねられた少女は、必死に状況を判断しているようだった。腕の中の、ファンというらしい少年を見、唇を噛む。やがて決然と顔を上げ、よく通る澄んだ声で答えた。
「お願い、します……!」
あ、でも……と続いた言葉を促し、
「お墓を作った後で……いいですか?」
「……手伝おう」
協力を申し出ると、ほっとした様子で、少女は礼を述べた。
――ありがとうございます。
感謝の言葉を、風が空へと浚っていった。