終章 『それでも貴方とわたくしは』 3/16
バッっという布が擦れる音と共に、俺の背後から砂混じりの強風がテントの中へと吹き付け、目の前にある囲炉裏の炎がパチパチと音を立てて揺らめいた。
疲労と空腹で、振り返るのも正直面倒臭い……。だが、ようやくカシラ達が帰って来たんだろう、と思いつつ振り向いた俺は、驚愕のあまり呆然と口を開いた。
「なっ!?」
ダンッっと凄まじい勢いで入り口を蹴り、大型の猛禽のように飛び込んできた赤い眼鏡の女。全身を包むように覆ったベージュと茶色の柄のマントを、怪鳥のようになびかせ、炎をものともせずに跳躍。凄まじい速度、電光石火の勢いで俺の横を通り過ぎる。
そして、女の背後から全く気配を感じさせず、素早い体捌きで姿を見せる大男。俺の太もも並みのサイズはありそうな腕に、大木の根っこのように隆々たる首筋。紺色の自治人の制服が分厚い胸板ではちきれそうに膨らんでおり、そして、がっしりとした顔はブタそっくりに醜くい……!?
「て、てめぇ……、ウ、ウジアブかっ!? 何でここにっ!?」
「アバラッ!!」
低く呟きつつ、豚男が恐ろしい迫力で俺との間合いを詰める。右手に掴んだ警棒が、座り込んだままの俺の頭部へ、はるか頭上より打ち下ろされるように動くッ! ビュオッ!! と空間を切り裂く音と共に、一切の手加減無しでッッ!!
「クソがッ、ぐがぁっっっ……」
とても座ったままで回避しきれない。咄嗟に転がろうとしたものの、俺の右肩上部、鎖骨の辺りへと思いっきりぶち当たる。ゴギッ……と鈍い音がカラダの内側から全身へと広がり、凄まじい痛みと吐き気、衝撃が俺を犯す。
「アバラッ!! やだっ、きゃぁ、カハッ……」
ぼんやりと聞こえるゾウムシの泣き声……、が、そちらを見る余裕などこれっぽっちも無く、ウシアブの履いたブーツのつま先……鋭く尖った岩のように見えるソレが、まるでハンマーのように俺の腹へと迫るッッッ!!!
「ぐぎっっっ……」
ドンッっ!! と冗談みたいな勢いで、俺のカラダが二メートルほど中を舞う。軽々と空を吹っ飛ばされ、テントの外、砂だらけの大地までゴロゴロと転がっていく。
痛い、痛い、痛い……。何も食っていない俺の口から、黄色い胃液とドス黒い血がゲロのようにあふれ出す。喉に込み上げる酸っぱい味と鉄の匂い。
思いっきり蹴り上げられた腹部の激痛で、身動きする事も難しい。痛みのあまり、失禁してしまい、履いているジーンズが湿っていく。
「うぐっ……、くそっ、何が」
ブルブルと震えながら、俺は必死に砂の上を這いずり回る。とにかく時間を稼ぐ事……。きっと、工業エリア『ハグレ』の護衛役たちが気付いてくれる。折れた左肩の鎖骨、腹のわき腹の骨も何本かイッちまってる感触。小便を垂れ流しつつ、俺は必死に遠くへと逃げようと這う。ザラザラした砂地へと爪をたて、力の入らない下半身を無理矢理に引き摺るように……。
「ぐっ……」
が、努力も虚しく俺の髪ががっしりと大きな掌で掴まれる。ブチブチと何本もの髪の毛が抜ける音と痛み。
クソ……今朝、せっかくゾウムシにカットしてもらった髪が……。こんな事態なのに、のんびりそんな事を思う自分に、少し苦笑が込み上げる。
激痛で震える瞼を無理矢理に開き、俺の髪を掴んでいるウシアブの豚面を見ながら、俺は血が混じった唾をその制服へと飛ばす。
紺色の制服へ、べっとりと付着した俺の赤い唾液が、ナメクジのようにゆっくりと地面へと這い落ちていく。
「アバラ……」
低く不吉なウシアブの声が聞こえ、それと同時、俺の顔面へと恐ろしい勢いで迫り来る岩のような拳。
(ち……、痛てぇだろうな。最悪だ……いや、そうでもねえか……)
どうやら此処で俺は捕まるだろう。しかし、追っ手がウシアブで良かった……。コイツはゾウムシにどうしようもなくイカレている。
俺には容赦しねえだろうが、ゾウムシには、優しくしてくれるだろう……。
――グシャッッ!! というタマゴの殻が粉々に砕けるような音が、俺の顔面から響き渡る。ブチブチと髪の毛が抜け、殴られた俺は受身もとれずに、ゴロゴロと砂の大地の上を転がる。痛み……は感じない。ただ、ひたすら顔が熱いだけ……、そして、血が食道に入り込み、メチャクチャに息苦しい。
そんな事を思いながら、俺はグニャリとした暗闇へと……、一気に滑り落ちていく…………。
◆
サラサラとした極上の絹の手触りのような銀の髪。私の膝蹴りを腹部へと受け、ぐったりと気絶している『天使』の体を右肩に担ぎつつ、私はテントの外へと出て行った部下、ウシアブの背中を追う。パチパチと音を立てている囲炉裏の炎を飛び越え、赤い眼鏡の上からゴーグルを装着。
とにかく急がねば……。焦る気持ちを懸命に抑えつつ、テントの入り口から外へ出た。
『グシャッッ!!!』
砂が吹き荒れる外へ出た瞬間、私の目前でウシアブの大きな拳が、標的『アバラ』の顔面に思いっきりヒットしていた。
月が照らし出す闇の中、平凡な男、アバラが前歯を空中へとぶちまけつつ、ゴロゴロと砂地の上を転がっていく。
ノーマルが着るような黒いジャケットにジーンズ姿のまま、顔面はつぶれたトマトのように真っ赤。
「ウシアブッ、アバラを担いでっ!! すぐに離脱するわ。巣から離れましょう。急いで清掃所まで戻るわよ」
突入直前、ウシアブが言っていた事は杞憂に終わった……。安堵を感じつつ、危険だ、不思議な男だと言われていた標的『アバラ』を見つめた。
部下の打撃を受けて鼻が折れたようで、無様に横を向いており、唇は裂け、真っ赤な血と、黄色い膿のような汁を垂れ流している。
瞼は紫色に腫れ上がり、小便でも漏らしたのか、ジーンズの股間部分に染みが出来ていた。
「ふふっ、当分流動食ね。まあ、姫がどういう処罰を下されるか……によるだろうケド……」
軽々とアバラの体を担ぎ上げる部下の姿を見つつ、私は『姫』の事を少し考える。このアバラを瞬時に夢人殺害犯人だと断定し、さらに私に夢武器を授け、さらには『自己遠距離再構成』までも夢武器へと仕込んでいた『姫』。
不思議だ……と、何度目になるか解らぬ疑問を抱く。
『姫』は日々、恐ろしいほどの激務に追われ、しかもその最前線に立って膨大な仕事をさばいていらっしゃる。だから、自治人の中でも1、2を争う検挙率を誇る私へと依頼したのだろう。しかし、だ……それにしても、いささか回りくどい、と感じる。
『姫』が本気で動けば、歓楽街で出来ぬ事などほとんどあるまい。私に授けた夢武器へ転送の夢を仕込むくらいなら、ご自身で動かれたほうがずっと素早くこの『アバラ』も確保出来たのではないか? 勿論、姫にお仕事が沢山ある事は承知しているが……、まるで……、そう、まるで、『アバラ』に会いたいのに、でも会うのを恐れているような。
―― 勘だが、それはまるで……、離れ離れになったかつての恋人に、本当は心が焦がれるほどに会いたいのに、変わってしまった自分を知られる事が恐くて会いたくない、そんな矛盾した想いを抱く乙女のようで……。
私、一等自治人、サキモリ=ハガネの勘がそう囁いて止まらない。コレには何かとてつもない裏があると……。平凡な男『アバラ』、そして『姫』とそっくりの顔を持つ『ゾウムシ』。
ゾクリ……と何故か身震いをしつつ、私はウシアブへと目配せを行って砂地の上へブーツを踏み出していく。今は考えない。とにかく安全な場所へ退避する。バチバチとゴーグルに当たる砂の音を聞きながら、私達は飛ぶように砂地の上を駆け出した。
――工業エリアの地虫の棲家、その真っ只中を影のように疾走していく。肩に担いだ『天使』が時折苦しそうに呻きながら、身動きをするが、まだ気絶している様子。ジリジリとした焦燥感を感じつつ、背後からピッタリとついてくるウシアブと、何度も無言のまま手でサインを交換する。
(これは……、何かトラブルでもあったのかしら?)
アバラとゾウムシを強奪してから、約30分。ずっと駆け続け、ようやく列車が遠くに見えてきた頃……、私はため息をつきながら足を止めた。
歓楽街エリアだろうと工業エリアだろうと、『地虫』の中にはガード役が存在するはず。自治人による数々の『地虫』研究レポートには確かにそう記されていた。『カシラ』を最優先に守護し、そして『地虫』を守る任務を持ったガード役。
地虫が守る絶対の戒律の一つ。
『助けられそうな仲間は助けろ』
を実践する為の戦闘部隊。『今』に固執し『明日』の事など考えない『地虫』のガード役の戦い方は、相打ちでさえ厭わない。その戦闘能力は並みの自治人に勝り、自爆を覚悟しているが故に恐ろしく厄介。絶対に気付かれたと思い、必死でここまで逃げてきたのだが、未だに襲われる気配が無い。
もしかしたら、工業エリアの『カシラ』に今夜、何かトラブルでも起こっているのかもしれない。だから、今回、棲家のガードが手薄になっていた……。
(なんにせよ、幸運ということね)
遠目に見える清掃ポイントの小屋。そこで待機しているであろうシャーロットお嬢様と、監視役の獣人を思いながら、私は足元に『天使』の華奢なカラダを横たえた。大理石のように真っ白な肌、苦しそうに閉ざされた瞳から伸びる美しい睫毛。単純な白い布をまとっただけの姿ながら、ゾウムシの容姿はゾクゾクするほど美しい……。
「サキモリ……、どうした? 早く小屋へ……」
私の背後から部下、ウシアブの焦ったような囁き声。醜い豚そっくりの顔が苦悩しているように歪んで見える。早くシャーロットお嬢様に会いたいのか、それとも私の足元で気絶しているゾウムシが気にかかるのか? 肩に軽々と担いでいるアバラを持ったまま、小さくてつぶらな瞳で私の顔を見つめる。
「いい? ウシアブ……。今から、この天使の顔を、輪郭が解らなくなるまでボコボコに潰すから。邪魔しないで」
「なっ!?」
驚愕したように小さな瞳を大きく見開く部下。その瞳を強く睨み、これは任務だと、命令なのだと、はっきり理解させる。
――問題は、監視役のユキなのだ。当初の計画では、この天使の顔を見られても何の問題もないハズだった。しかし……、ゾウムシはあまりに『姫』に似すぎている。『姫』は髪の色が紫である事、瞳が翡翠のように濃緑である事……、その二つを除けば『姫』と『ゾウムシ』は双子であるかのように瓜二つ。
夢人の顔や姿形は、その夢人本人が願った通りに具現化されるという。そして、『天使』は夢で再現されたとおりの外見になる。
ならば、『姫』と『ゾウムシ』の相似はどういう事なのか?
この『天使』には何か秘密がある……と、『妖精』の従者である獣人は判断するだろう。そうなった場合、すんなりと歓楽街エリアへ私達を解放してくれるだろうか? 最悪、なんらかの手段で獣人が『妖精』に連絡をとった場合、私には打つ手がほとんど無い。
妖精が降臨した場合、私に出来る事……それは夢武器を使い『姫』を召喚する事だけ。しかし、そうなれば工業エリアと歓楽街エリアの抗争が始まるかもしれない。そんなリスクはとても背負えない……ならば……。
「ウシアブ、貴方は『姫』のお顔を見たのが一瞬で、あんな修羅場の後だから気付かなかったんでしょう。でも、これは絶対に必要な事です。繰り返すわ、絶対に邪魔をしないで」
強く言い捨て、私は足元で横たわっているゾウムシの顔を見つめる。本当ならこういうプレイはもっと後にしたい。快楽を十分すぎるほどカラダへと染み込ませた後、泣き叫び、「やめて下さい」と哀願を繰り返しながらも、後のアクメに期待している顔へ、思いっきり暴力を振るうのが最高なのだ。
だが、今回は仕方ない……。
カサカサに乾いた唇を舐めつつ、私はゆっくりとブーツのつま先で、ゾウムシの美しすぎる顔を、蹴り上げた。
◆◆
「……ぎゃうっ」
ぴくん……と俺の指先が震える。何か……聞こえてはいけない悲鳴が、俺の耳へ届いたような……。相変わらず、俺の口からダラダラと血、そして胃液があふれだし、ウシアブが着ているクソッタレな紺の制服を汚していく。
顔にバチバチとあたる砂がうっとうしい。瞼がブクブクに腫れあがっちまってるようで何も見えない。
「サ、サキモリっ……、もう、もうっ、許してやってくれっ!! 十分だろうっ」
豚男、ウシアブの怯えたような、怒りを抑えたような声が響く。何だ? 何をやってやがる?
腹部からの激痛、嘔吐感、顔面が燃えるように熱く、ガンガンと耳鳴りがして、堪らなく気持ちが悪い。クソ……、もう暴れないから、さっさと寝かせて欲しい……。
どうやら、俺はウシアブの肩へ担がれている様子だ。どれくらい気絶していたのか、さっぱりわからない。
「まだよっ、黙っててウシアブっ!! そうね、歯も何本か折っておきましょうか……ねッ!!」
「あうっっっ!!」
バチィッ!! と鈍い音……、そして、俺の心にズキンッと響く悲鳴が聞こえる。全く力の入らない体、腫れあがって塞がった瞼に気合を入れ、俺は必死で目を開こうと足掻く。
何か……、絶対に許せない事が起こっているという確信。その衝動が俺のカラダを突き動かそうとする。
「ふふっ、泣かないのね? 偉いわぁ……そうよねぇ、泣いたら、アナタの大事なアバラの顔、もっと蹴るって約束したものね。さ、それじゃあ、もう一回イクわよッ!!」
ぐちゃ……という肉がつぶれるような音。そして、必死に何か、苦痛を堪えているような声……。
ズキズキと頭の奥が痛い。今すぐに目を覚ませと、何かが俺の耳へと囁いている。
「うくっ……、アバラ……大好き……だよ……」
誰の声……。この苦痛に耐え、心の底から搾り出すような声はダレの声だ? あふれ出す鼻血が口内へと溜まり出し、それを俺は何度もゴクリと飲み込む。
指先から全身にゆっくりと黒い何かが広がっていく。熱い……熱い……、さっき思いきり殴られた顔面が、蹴られた腹が、折られた鎖骨が、燃えるように熱く俺を焦がす。
「そんな顔になってまで……、タフね……。素晴らしいわ、ゾウムシ」
ゾウムシ……、聞こえてきた単語が、カッっと閃光のように全身を貫く。さっきから耳に聞こえる悲鳴、苦悶の声はダレの声なんだ?
まさか……、まさか!?
胸の奥から黒いモノが、凄まじい勢いであふれ出し、俺を喰い散らかしていく。ビクンッ、ビクンッとくたばった直後の死体みたいに、俺の手足が痙攣を繰り返す。全身に黒い衝動が血の様に巡り、圧倒的な暴力への衝動が高まっていく。
「ゾウ……ムシ……?」
瞼を開く……。遠くにボンヤリと見えるのは、列車清掃ポイントの灯りだろうか? いつの間にか、こんな所まで運ばれちまった……。
そんなどうでもいい思考を垂れ流しつつ、俺ははっきりとソレを見た。
「アバラ……」
俺が美しいと何度も思った銀色の髪、ニコニコとアホみたいに笑いながら、俺を下水道の巣でいつでも出迎えてくれたアイツの顔。
それら全てが、真っ赤な血でドロドロに汚れている。
すっきりと整った鼻筋、薄くカタチの良かった唇がボロボロに潰れ、細い顎がボコボコに歪んで……。
――――ニコニコとボクの目の前で微笑んでる彼女。紫の髪をして、翡翠の瞳をもったボクの友達。「今日ね、わたしに妹が生まれるの」ニコリと微笑む彼女をボクはとっても可愛いなって思った。「じゃあ、二人ともボクが守る。ボクがずっと守ってみせる」それは何て、バカバカしい約束。でも、ボクは真剣だった。そしてボクの言葉に彼女も、すごく嬉しそうに微笑む。「絵本の中の騎士さまみたいに?」はにかみながら恥ずかしそうに囁く彼女。朝日に照らされた紫の髪がとっても綺麗で……「うん、騎士と、姫みたいに」「永遠に?」「うん、永遠に」
「ゾウムシッ!!!」
脳裏に浮かび上がるフラッシュバック。そんな風景を無視しながら、俺はただ絶叫する。驚いたように、俺を肩へ担いだウシアブが痙攣……。
がっしりと俺の胴体を抱え込むウシアブの右手。身動きできないように、凄まじい力で、その太い腕が俺の腰を締め付ける。
「ア、アバラ……、こっち、見、見ないでっ」
俺から必死に顔を背けるゾウムシ。細く繊細なガラス細工のように、美しかったアイツの輪郭。何度もネコのように頬擦りしてきたアイツの顔。
それが……それが……。
「ウシアブッ!! アバラを黙らせてッ!!」
どこからか聞こえる女の叫び声。同時にギリギリと腰が締め付けられる。身動き出来ない俺のカラダ……、顔面へと新たに拳が飛んでくる。
そして、グシャリ……と熟れきった果実が潰れるような音が、夜の砂漠へ、鳴り響いた。