『夢の国、地虫の話』 第八話
ひんやりと冷たく、水気を含んだ布のようなモノが、俺の汗だらけの体を拭いている。
気持ちがいい………… 足の先から、ゆっくりと、優しく、丁寧に。
何ヶ月も風呂に入っていない汚れた俺の体を、まるでひどく貴重なものだというように、丁寧に拭いてくれている。
なんだか……、とても、懐かしい。
おぼろげな意識の中、閉じたままのまぶた。体はあいかわらず熱く、気だるい。何だろう。意識が……、朦朧と…………
「にひひ、よく寝てる。ねぇ、アバラ……、大好きだよ………… ドラッグの所為だって解ってるんだ。それでもね、あれが間違いだったとしても、アバラからキスして貰えて…… すごく嬉しかったよ……」
ぼわんぼわんと、耳に誰かの言葉が届く…………。アバラ……? 誰だっけ…………?
好意……、人に好きなんて言われるのは、何年ぶりだ……。キス、キスってなんだっけか。
ぐちゃぐちゃの脳は暴走を止めず、俺の思考はユラユラと勝手にさまよっていく。好意、好意のある声…………。
閉じられたまぶたの裏で、俺の意識はまだクリアにならない。砂嵐のようなザラザラした風景だけが脳裏にながれる。なにか、遠い記憶が……
――― ばしゃんっと音を立ててボクは汚い色をした下水へと、たおれ込む。体全体が、まるで凍えているようにガクガク、ブルブルって震えている。
ボクの頭の中はグシャグシャ。ただ夜が来るのが怖くて、怖くて怖くて……。きっと今夜も天使さんや人形さん達に…………、もう耐えられなかった。
だから、体のアチコチからのズキズキとした痛みを我慢して、なんとか逃げ出したけれど、ここで終わりみたいだ。
お腹すいたなぁ……。おとといの晩、命令通り宿のゴミを持って、ゴミ捨て場に行ったときに、やっと捕まえたライケゴキブリが最後に食べた物……。倒れこんだ下水は冷たくって、臭くって、さっきから耳元でピンクネズミがちゅうちゅうって鳴いてる。ああ。今からボク、ネズミに食べられちゃうのかな。きっと痛いんだろうな。でもいいや、もう……。
ばしゃばしゃと水の音が聞こえる。
(こんな所に……っ!?この子ッ!!大変……だわ、あなた!あなたっ来て!!)
女の人の声。力なんて、もうどこにも残ってないハズなのに、ビクッってボクの体が震える。
なにもかも諦めて、せっかく落ち着いていた胸の中が、またムカムカとしてくる。嫌だな。また、いじめられる。毎晩、毎晩、色んな事を僕にさせる。男の人も嫌だ。女の人も嫌。でも、人形さん、天使さんはもっと嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!もうやめて。そんな事させないでよ。死なせて。
フッっと、体が軽くなる。下水で汚れ、つめたい僕のからだ。でも、そんな体をこの人は優しく抱きしめて……。ああぁ……。柔らかい。こんなに、優しく、ぎゅううってされたのって初めてだ。なんだろう、すごくあったかい。
(こ、この子、裏通りにある売春小屋の子だわ。私、よく見てたもの。ッ!?見て!この子の体。なんてっ……!! ねえ、あなた、もし、あの子が生きていたら丁度この子くらいの年齢だわ。私、そう思いながら、この子が辛そうに雑用をこなす所を見ていたの。あの子の代りに、幸せになって欲しいなって。で、でも、この体…… そんな、ひどい、酷いわ。ねえ!!きっと、きっとこれは――― が引き合わせてくれたのよ。この子を助けてあげてって)
(お、おい。いや、しかし、――― それはこの子の為になるかは解らねえぞ。俺達は『地虫』なんだ。それに助ける事がまず厳しいかもしれん。今、軽く『ヨミ』をしたが、この子の体には、異常なほどぎっしりとジャンクデータが詰まっている。無理矢理に詰め込まれたのか解らんが、狂っていてもおかしくない量だ。しかも……、ただのジャンクじゃあ無いようだが…… 待てっ!!これは――― この子は――― )
懐かしい声が頭の中に響く。ああ、とても懐かしい。ゆっくりと体を濡れた布が這い回る。時折温かく、柔らかい手が、俺の力の抜けた体を支える。
(あなた腕利きのヌキ屋でしょう!! お願いですから、助けてあげて。この歳で、この子は毎晩天使や人形の相手をさせられ嬲られて、見て、この体!!こんなに、こんなにも、ガリガリに痩せて…… それにこの傷……、ハグレよりよっぽど酷いわ!! もう、もう、きっと死んでしまうわ……)
(そうだな……。お前の言うとおり、――― が引き合わせてくれたのかも知れん。この子が――― だとしても―――― しかし無理に『ヌキ』をすると記憶が――― それにだ…… )
(そんなの解ってるわ!!こんな境遇の子が他にも沢山いるって事は。でもそれでも、それでも、私のエゴでもいい。この子が――― でも関係ない。私は地虫だけど、偶然めぐり合ったこの子だけは、きっと立派に育ててみせる。死なせたくない。ええ、絶対に死なせないからっ!! )
「か、母……、さん…………」
俺の喉から、ゴボゴボという音とともに、ゆっくりと言葉が吐き出される。それは小さな、本当に小さなささやき声。でも、なぜか、絶対にこの声が届くと確信がある。
「ん、あ…… えへへ……。アバラが寝言なんて、珍しいねぇ……。でも、ゴメンね……、お母さんじゃなくて…………、わたし、わたし、こんな事しかしてあげられなくて……ほんとにゴメンね……」
小さな、本当に小さな囁き声と熱い水滴……、俺の体にポタポタと、熱い雫が落ちてくる。ナンダ、なんだろう、涙声…………?
「荷物ずっと持ってくれてたよね。それに、本当ならワタシを助ける必要なんてなかったでしょ。なのに……。でも、最初っからそうだったね。ワタシがハグレの性処理係になりそうな時から……、ごめんね」
頭の中に蟲がいるような羽音が響く。ぼわん、ぼわんと大きくエコーのかかった声……。ポタポタ、ポタポタ、と熱い雫だけが……。俺の体に。
「カシラが言ってた。本当はね…… アバラに抱かれて、すっきりさせてあげるのが一番いいって。そのカシラの言葉を聞いたとき、すっごく興奮したんだよ。だってアバラ、いっつも優しいけど、絶対に抱いてくれないもんね。だからね、今ならって思ったんだ……」
熱い……、落ちてくる雫が熱い。なんだ、どうして、泣いているんだ。俺は、お前の笑顔が…………。
「でも……、でもっ!!そんなのアバラ、イヤでしょ。ワタシみたいな、ばっ、化け物じゃ、イヤ……だよね……、うっ、アバラ…… ご、ごめんね…… いっつも役に立てなくて…… ワタシが、ワタシがっ!!普通の女の子だったら…………、こ、こんなカラダじゃなかったらっ!!そしたら、そしたらっ!!うっ…… それでも好きなの…… ゴメンね…… ゴメンなさい、うっ…… 」
ポタポタと相変わらず、熱い雫だけが、リズムよく俺の体へと落ちてくる。誰かの涙声が、脳の奥で膨らむように響く。頭の中で、ハエが動き回るような音が聞こえる。
どれくらいの時が流れたのか、いつのまにか熱い雫が止まっている。代りに近くで、布を水に浸し、絞るような音。
そしてまた、体が優しく拭かれ始める。浮き出る汗を丁寧に拭き取り、体をすみずみまで綺麗にしていく。髪の毛一本一本まで、優しく拭かれる。丁寧に、丁寧に。ああ…… 気持ちがいい……。
「ぐすっ、に、にひひ……、こんなんじゃ駄目だよね。明るくなくちゃね。さて、もうすぐワタシお仕事なんだ。もう、夜が明けそうだよ。アバラ……、コレくらいは、許して、ね…………」
甘い、甘い香り。そして、柔らかいナニかが俺の唇に一瞬だけ触れる。まるで、鳥の羽のように。風に吹かれた花びらのように。
「じゃあね。今夜、会えたらいいなぁ。そしたらすっごく甘えるからっ!!だって、アバラのせいで一睡もしてないんだよ。それじゃあ、ね……」
甘い香りを残し、布が床に擦れる音。体にふわりと柔らかい布がかけられる感触。そして、誰かが立ち去る気配……。俺の唇に柔らかさの余韻が残る。あんなに辛かった熱が、すっきりと無くなっている。
どこからか、爽やかな朝の空気の匂いを感じる。柔らかく、温かだった。もっと側にいて欲しかった。
脳の中が、少しずつ整理されていく。俺は夢を見ない。夢を見れないはずなのに。
(この子の名前、『アバラ』にしましょう。ううん……、あの子の代わりって訳じゃないの。これは……、これは私の誓いなの。この子が、――― だろうと何だろうと、自分の子供として、大切に、大切に育てるっていう誓いなの。こんな時代だけど、私、きっとこの子に『生まれてきて良かった』って思って欲しいの。いいかしら、あなた…………)
(全く、解った、解った。なら、まず巣に戻ろう。そこで『ヌキ』だ。その後、此処のエリアを出る。この子、いや……、アバラ……を、探されると面倒だ)
「オヤジ、オフクロ……」
呟いて、俺は毎度おなじみの暗闇へ落ちていく。夢の無い、クソッたれの、『ハグレ』にぴったりな場所へ、ただ落ちていく。
◆
「おい、そろそろ起きろ。この腰抜け。もうすぐ昼だぜ。起きねえと、てめえの役立たずのチンポ切り落とすぞ、おい」
低い声。そして、かるく肩を蹴られた衝撃で飛び起きる。
「ぐおっ!!」
光が眩しい。いや、それだけじゃねえ。鼻も、耳も、凄まじいほど鋭敏になっている。体の底から、こんこんと湧き出る水のようにエネルギーが全身、隅々まで行き渡る。叫びだしたいほど、圧倒的な万能感。脳の中もしゃっきりと冴え渡って……、
「あ、お、おいナット。こ、ここは、いや、俺達はどうなったんだっけ。確か、そう、メシと住居の変わりに仕事をしろって言われて」
広いテントの中。外からは明るい太陽の光が差し込んでいる。俺の体には白い布。テントの奥あたりに、水が入った桶が置いてあり、そこに布が浮いている。体がすっきりとしている。まるで、風呂に入った後のように。
いや、そんな事は後だ、エネルギーに満ちた体で立ち上がり、入り口に立つナットを見る。
くっくっくっという笑い声。立ち上がった俺を、さらに高みから見下ろす身長差がある巨漢ナット。猛犬のような笑い顔を見せる。
「てめえはその後、『ストーマー』でバッドにイッちまったんだよ。憶えてないのか?腰抜け」
『ストーマー』 思い出す。いや、しかし、鼻にイれた所までは覚えているが、そこから先は全く覚えていない。気付けば『今』だ。
しかし、『ストーマー』 一夜明けたあとでも、ものすごいエネルギーがある。今なら、歓楽街エリアまで全部走っていける自信すら沸いてくる。
「まあ、いい。アバラ……。お前等はめでたく畸形だらけの俺達の一員だ、ファック野郎。さあ、とっととその服に着替えてくれ。カシラが待ってる」
床を見る。そこには、まるで普通人が着ているような、ジーンズ、白いシャツ。そして黒いジャケットが置いてある。
「なんだよこれ、ゾウムシに死ぬほど笑われちまうぞ……って、おいゾウムシはどうした!」
慌ててテントの中を見回す。俺のストーマーで鋭敏になった嗅覚に、ゾウムシのあの優しい甘い残り香が届く。一緒にいたハズだ。いや、俺達がバラバラになるなんて無い。強くナットを睨み、言葉を吐き出す。
「おいおい、まるでママを探すガキみてえだな。落ち着けよ、あの天使は共同作業所だ。女たちと仲良く、布を織ってるよ。しかし、そんなに大事なら、なんで昨日、いやまあいいか、とっとと急げ」
頷きを返しながら、目の前の洋服を手に取る。なんとなくしか着方が解らない。まあ、間違っていたら、指摘されるだろう。
あきらめて、ジーンズに足を通していく。
しかし、なんとなくだが、オヤジとオフクロの夢を見たような気がする。馬鹿げている、俺は夢を見ないのに……。
それでも、懐かしい気持ちになる。
生まれてすぐに、流行り病にかかった俺。記憶は全くねえが、その死体のような状態のまま、オフクロからずっと看病されて続け生き延びたらしい。
やっと全快し、動き、言葉が喋れるようになったのが六歳の頃。それから、過保護気味のオフクロ、無口な親父とのありふれた生活。
流行り病のせいで、ガキの頃の記憶は無いが、動き出せるようになってからオヤジの仕事を習ったり、オフクロを罵りながら食材集めを手伝ったり、クソだらけのごく平凡な少年時代だった。懐かしい。
「ふん、少しは見れるようになったじゃねえか。まるでクソッタレのノーマルみたいだぜ」
ハグレの布に比べ、首周りが締め付けられるように苦しい。さらに、ジーンズの圧迫感がわずらわしい。こんな服をつねに着ているノーマルは、そうとうイカレてるとしか思えない。よほど布のほうが楽だ。ヤリたい時もすぐヤレる。
「黙れ、犬くせえんだよ。てめえ、可笑しいんだろう。はっきり笑えよ。隠してるつもりだろうが、てめえ声が笑ってんだよ。ちっ、こんな格好、まるでアホみたいだぜ。で、俺はこれからどこに行くってんだよ」
テントを出て行くナット。ディスクを上着のポケットに放り込み、あわてて後をつける。
外に出たとたん、強風が勢いよく砂をぶつけてくる。顔にバチバチと当り、ビリビリとした痛みが走る。
「喜べ。お前は今から地下都市に潜入だ。あそこはすげえぞ。老女のマンコより臭く、そして危険だ。頑張りな」
ナットの声。地下都市……。昨日のフラックスの言葉を思い出す。
セカンドワールドの『転生者』と『夢人』が、シノギを削っているという場所……。
ため息を吐きながら歩く俺。勿論、悪い予感しかしない。いったい、どんなクソが待っているのか。
そう思いながら、ふと自分の唇を触る。そういえば、なにか……、今朝、柔らかいものが……。
いや、気のせいだろう……。頭を軽く振り、俺は足を進める。危険に溢れているという。地下都市へと向かって。