誰かに声をかけられたような気がして――瞬間、微かな明かりが瞼を通して伝わってくる。
何が、と思うよりも早く、俺の意識を浮上させた声が再び囁かれた。
「兄さん、朝だよ」
「……ああ、おはよう」
呟きつつ目をこすり、寝ぼけ眼を声がした方へと向ける。
そこにいたのはフェイトだ。どうして、とは思わない。
数日前に俺が口にした約束。一緒に暮らそうという言葉を受けて、フェイトは俺の家で生活を始めた。
そんな彼女が、俺の家で役目としているのは――
「おはよ。朝食はトーストで良かったかな?」
「うん、大丈夫だ」
俺の言葉に、うん、と頷くフェイト。
朝食の準備を行った彼女は、俺よりもずっと先に起きたのか。
既に表情からは眠気が感じられず、夢うつつ状態な俺に苦笑する。
彼女は黒いエプロンを着けている。キッチンからそのまま俺の部屋へときたのだろう。
その格好から分かるとおり、俺の家へと彼女がきてから朝食の準備は――というか、家事はフェイトの役目となっていた。
別にやらなくても良いし、もしやるのだとしても当番制でかまわないと云ったものの、彼女が強く希望したのでそうなっている。
初日はまだ気にしていたものの、俺自身、ここ数日で慣れてしまったのか。
目覚まし時計よりもフェイトに起こされることが当たり前となりつつある日常に、思わず苦笑した。
一足先に俺の部屋を出たフェイトを追って、俺は裸足のままぺたぺたとフローリングを歩く。
シグナムは既に起き出していて、パジャマ姿で食卓へとついていた。
「おはようございます、父上」
「おはよう」
言葉少なく席について、早速、並べられた朝食に手を付ける。
そんな俺を見ながら、フェイトも同じように食事を始めた。
言葉少なく三人で黙々と食べる状況。だが別に、雰囲気が悪いわけじゃない。
シグナムと二人っきりだとしても普段からこの調子だ。朝から会話に華を咲かせても、出勤時間までそう余裕がないのだから仕方がない。
ごちそうさま、と平らげて、再び自室に。
ハンガーにかけてあった制服、スラックスとシャツ、最後にネクタイを締め、上着と鞄を脇に抱えながら部屋を後にした。
次に目指すのは洗面所。顔を洗って、歯を磨き、寝癖を直すのもかねて整髪料で髪を整える。
仕事柄、あまり髪型を派手にはできないのがネックと云えばネック。それでも手を入れないのは我慢がならないので、形を作り、納得いったところで手入れを終えた。
べたつく手を洗って、さあ行くか、と洗面所を後にする。
どうやらシグナムは自室で準備を終えたらしく、既に玄関先で待っていた。
待たせちゃ悪い、と上着に袖を通してボタンを締め――
「あ、待って、兄さん」
「ん?」
「ネクタイ、微妙に曲がってるかも。
直すからじっとしてて」
「別にそんな神経質にならなくても良いよ。
曲がってるなら曲がってるで、歩いてる最中に直すさ」
「駄目」
そんな風に却下しつつも、楽しそうにフェイトは俺の首もとへ手を伸ばす。
玉になっている部分の形を整えて、首を傾げながらネクタイを締める。
そうして満足いったのか、よし、と頷いた。
「できたよ。いってらっしゃい」
「いってきます」
手を挙げて踵を返すと、シグナムと合流して俺は歩き出した。
廊下を歩いてエレベーターを降り、マンション前に通っている道をゆっくり進む。
そうしていると、思い出したようにシグナムが口を開いた。
「……そういえば叔母上、今日はお弁当を作らなかったのでしょうか」
「……ああ、そういえば」
シグナムに云われ、思い出す。
今までは職場の食堂を使っていたが、フェイトが俺の家で生活するようになってからは弁当だ。
そんな習慣が今までなかったため、云われなければすぐに忘れてしまう。
が、それも慣れれば当たり前のように思ってしまうのだろうか。
「もし作って頂いたのなら申し訳ないですね。
念話で聞いて、あるようならば取りに行きますか?」
「……いや、今から戻ったら電車に間に合わない。
魔法を使えば余裕だろうけど、事件も起こってないのに街中で使うわけにもいかないからな。
変に警戒させちゃ悪いし」
「ですね……っと、どうやら叔母上も渡すのを忘れていたらしいです。
困りましたね。んー、叔母上には悪いですが、夕食に頂くことにしますか?」
早速念話をフェイトに送ったのだろう。
シグナムはやや困った顔をしながら、俺に聞いてきた。
「そうだな」
頷きと共にそう云って、俺たちは緩んでいた足並みを再び早めた。とは云っても、普段の歩調に。
「それにしても、驚きました」
「何がだ?」
「何をするかと思えば、同棲とは」
「……悪かったよ。窮屈な思いをさせているのは謝るさ」
「いえ、そうではありません。
叔母上が家にいてくれるのは、私だって嫌ではありませんから。
それはともかく……共に暮らす、というのが父上の答えなのですか?」
「……ああ。とは云っても、あくまで兄妹として、だけどな」
「何故そうした答えに至ったのか、聞いてもよろしいですか?」
遠慮がちに放たれた言葉に、俺は頷きを返す。
なんだかんだでシグナムを巻き込んでのことだ。蚊帳の外にして事情を何も話さないというわけにはいかないだろう。
が、声に出してそれを云うのは憚られるので、俺は会話を念話に切り替えた。
『フェイトは俺を兄ではなく、一人の男として見ている。兄さん、って呼び名は今まで通りだけどな。
そんな彼女からしたら今の状況はもどかしいって分かってる。
けど俺は、フェイトを一人の女として見ることができないんだ。
……少し、違うか。女として見ることができても、同時に、妹として見てしまう。
だから、完全に一人の女性として見ることができない』
『……分からなくもありません』
相槌を打たれ、俺は頭の中、否、感情を整理しながら、それをゆっくりと言葉にする。
『妹として見れば、フェイトの気持ちに応えられない。
女として見れば、お前を含めた皆に申し訳がない。だって馬鹿げてるだろう? 自分の妹を恋愛対象として見るだなんて。
俺がそう思っていなくても、他人は違うからな。どうしても厳しい視線を受けることになる。しかもそれは俺だけじゃない。
……どっちも嫌なんだ。
フェイトを悲しませたくないと思う一方で、皆に嫌な思いをさせたくないとも』
『だから妥協点として、叔母上の欲求を満たしつつ、一線を越えないように、と?』
『そうだ。……それだって、フェイトの望みを完全に叶えてるわけじゃないけどな。
時間稼ぎでしかないのは分かっているよ。
けど、それ以外に方法が思い付かなかった。
極論の二択なんてすぐに選べるわけがないだろ』
『……では、今は?』
問いかけ、シグナムは歩みを止める。
どうしたのかと見て見れば、彼女は真摯な瞳を俺に向けて、じっと、答えを待っているように立ち尽くしていた。
『父上がすぐに答えを出せなかったのは分かりました。
では、今は? 妥協点を探り当てて、そう時間は経ってないとは云え、考えるだけの余裕はあったと思います。
今の父上は、どちらを選びたいのですか?』
云われ、俺は思わずシグナムから視線を逸らしてしまった。
先延ばしにした回答。それは一体、どういう形になったのか。
……恥ずかしい限りだが、俺はまだそれに至っていない。
皆が幸せに、など幻想だ。その言葉を自分自身で口にしたのだとしても、やはり諦めることなどできない。
だからと云って取捨選択をしなければ先に進むことはできず、答えはいつまで経っても出ないだろう。
……日だまりが永遠に続けば良いと思っていた。
勝ち取った日々が終わって欲しくない。いつまでも夢の中で微睡んでいたい。
いつか終わると、分かっていても。
ただの幻想でしかないその理屈。
戦っている最中はその目標に迫るため走り続け、今は辿り着いた日だまりで止まっていたい。
己の核とも云えるその信念に、俺は未練たらしく縋り付いている。
分かっている。俺が大切にしているものは、壊れかけの玩具だ。
何か一つの答えを出せば、瞬間、砕け散ってしまうほど儚く脆い。
その引き金を――自分自身で弾く勇気が、まだ俺にはない。
そう思った瞬間、ああ、と気付く。
妥協点として探り出した今の状況。
だがそれは――忌々しくて誰にだって云いたくないけれど、きっと、それは。
……俺が、皆よりもフェイトを選びたいと思う瞬間までの助走距離だ。
ならば最初から俺がフェイトに抱いていた感情など、たった一つだったのだろう。
やっぱり未練が――こうしてシグナムと共にいる日々、職場に出向いて仕事をして――この毎日を続けたいと思っているから、やっぱり口には出せないけれど。
『……まだ、答えは出てないよ』
自分の気持ちに気付きながらも、俺はシグナムにそう嘯く。
そんな俺の胸中を知ってか知らずか、そうですか、と彼女は頷き、止まっていた歩みを再開した。
『……父上』
『……なんだ』
『……前にも云ったことを、再び。
父上がそう思ってくれているように、私も、父上を一人にはしません。
……一人には、しませんから』
『シグナム?』
言葉の調子に、何か決意のようなものが滲んでいた気がして、思わず彼女の名を呼んだ。
しかしシグナムは返事を寄越さず、ただ黙々と足を動かす。
そんな彼女から言葉の意味を問い質すことなどできず、俺は、小さく溜息を吐いた。
リリカル in wonder
―After―
エスティマとシグナムを送り届けたあと、フェイトはよしと頷いて家事を開始した。
とは云っても、三人暮らしの家だ。朝食に使った食器や、そう多くはない洗濯物などすぐに終わってしまう。
家事に一区切りをつけて時計を見れば、時刻は九時を少しすぎたぐらいだった。
今頃、彼とシグナムは地上本部に着いているのかな。そんなことを考える。
これからすることを考えて、フェイトは少し困ってしまった。
掃除はこの家にきてから毎日している。初日こそ気合いを入れて掃除をする必要があったものの、掃除を欠かしてない今、無理をして綺麗にする場所などそう多くはない。
無論、毎日掃除をすることに意味はあるだろうけれど。
吐息を一つ、フェイトはリビングの椅子へと腰を下ろした。
二人がいなくなってしまった今、この家にいるのは自分だけ。
朝食を囲んでいた影はなくなり、部屋の中は静まりかえっている。
そういった状況になる度、フェイトは言葉にできない焦燥感を抱いた。
自分に何か、できることはないだろうか。
管理局員ではない以上、エスティマの仕事を手伝うことはできない。
嘱託魔導師ではあるけれど、フェイトの手が必要になるほどミッドチルダは危険な状態でもなし。
地上本部から見れば必要と云えば必要だろうが、しかし、それはエスティマが必要としているわけではない。
彼女が手持ち無沙汰となっているのは、することがないからではなく、彼のために出来ることが分からないからだった。
シグナムはいるもののエスティマとの同棲が始まって、しかし、二人の関係が進展したわけではない。
エスティマが云っていたように、これはその場しのぎの時間稼ぎ。
フェイトが飽きるまで、とエスティマは云った。
しかしフェイトにその気は微塵もなく、彼に出来ることはないか、と考えていることが、彼女の恋慕がより一層強くなっていることを示しているだろう。
……この時間稼ぎは、果たして誰のものだろう。
フェイトは既にエスティマへ気持ちを伝えている。この恋慕が揺らぐことはない、と思う。
人の心は移ろいやすい。未来に絶対はない。だからもしかしたらこの感情が薄れてしまうことだって、あるのかもしれない。
だが、今のフェイトは真っ向からその常識を否定したい気分だった。
何があったって、私は――と。
エスティマへ云ったように、彼が自分を選んでくれるその時まで待つ気がある。
故にフェイトにとってこの同棲生活は嬉しい反面、酷くもどかしかった。
すぐ近くにエスティマがいるのに、触れ合うことは一切ない。
恋人らしいことは何一つとしてやらず、一緒に住んでいるというだけで、距離感そのものは兄妹だ。
エスティマの側にいたいとフェイトは願ったし、彼に縋った。
けれど、この状況はフェイトが満足できるものなんかじゃない。
フェイトがエスティマに望むものは兄妹ではなく恋人。
欲しいものは兄妹愛ではなく異性に向ける愛情。
抱擁は軽いものではなく、お互いが混ざり合ってしまいそうな強いものを。
……分かってる。それは、間違いなんだって。
普通の兄妹なんかじゃない。普通の兄妹ならばまず抱かない感情を、フェイトは抱いてしまっている。
自分が抱く感情を、兄も抱いて欲しい。そんな身勝手な願いは酷だ。
だがそれを分かっていても尚、フェイトはエスティマに抱きしめて貰いたい。
自分だけを見て欲しい。特別な女の子だと思って欲しい。
他の誰よりも価値があって、何よりも大切なのだと愛を囁いて貰いたい。
……間違いなのだと、分かっていても。
そんな風にエスティマのことを考えていたせいだろうか。
ずっとフェイトの胸に宿っている、エスティマと共にいたいという欲求がじわじわと広がり出す。
それを押さえつけることは叶わない。ただでさえ彼に向ける感情は強烈で、今の生活が始まってから常に燻っているようなものだから。
けれど、とも思う。
局員でもない自分が地上本部に顔を出しても迷惑なだけだろう。それが分かるだけの分別は――
「……あ」
ふと、テーブルの上に並べられている包みに目が向いた。
中に入っているのはエスティマとシグナムの弁当だ。中身は特に凝ったわけではないものの、冷凍食品は一切使っていない手作り。
忘れられてしまって少し悲しかったけれど――
「……届けても、別におかしくないよね?」
呟き、誰かから肯定の意が返ってきたわけではないが、フェイトは立ち上がるとエプロンを外して、身支度を整えるために準備を始める。
家事をしやすい格好ではなく、少しだけ気合いを入れて。けれど下品にならないよう、気合いを入れてると気付かれないよう、化粧は薄めに。
「よし」
準備を終えたフェイトは、トートバッグに弁当箱を詰め込んで家を出る。
エスティマから渡された鍵を閉めて、それを大事にポケットに入れて、浮ついた調子で歩き出した。
喜んでくれるかな。もしかしたら困ってしまうかもしまうかもしれない。
怒りはしないだろうけれど、照れ隠しに小言は云われるかも。
急に行ったら迷惑かもしれない――ううん、急に行って驚かせてみよう。
そんな風にエスティマの反応を考えるだけでも、フェイトにとってはそれだけで楽しかった。
午前中に行った仕事は、難易度で云えばそう難しくもないものだった。
クラナガン、廃棄都市付近で起こった火災の救援。災害救助部隊が辿り着くまでやや時間がかかるということで、手の空いていた俺たちが急行することとなった。
シグナムがアギトと協力して発生した火災を抑え、俺が建物の中に突入して逃げ遅れた人々を救出。
その役割分担で救助が困難だろうと思われた人々を助け出した頃に部隊が到着し、一件落着。
建物は使い物にならなくなったものの、人的損害はほぼゼロだ。喜んで良いことだろう。
この事件が放火か否か――を調べようとしたら現地の部隊にお帰り願われたので、俺とシグナムはやや早め、十一時頃に地上本部へ帰ってくることになった。
これも縄張り争い意識かねぇ。
「早く上がれたと思えば、まぁ、良いだろう」
「それもそうか」
「腹立たしくはありますが、まぁ、良いでしょう」
未だに納得のいってないシグナムに、俺とフィアットさんは笑う。
そう。もともと協力的な姿勢を見せていたこの人は、結社との最終決戦を境に管理局の仕事へ駆り出されることが稀にあった。
そしてどんな偶然か火災現場へ呼び出しを受けたようだ。
久々とは云わないまでも、彼女と顔を合わせるのは一週間ぶりぐらいか。
お互いに六課が解散して次の配属先が決まるまで、とのことでバタバタしていたため、前のように毎日会っているわけではない。
そもそも普段の彼女は海上収容施設にいるのだ。こっちから出向かなければ会う機会すら少ないのだけれど。
だから、というわけではないが、フィアットさんと一緒に昼食を取ることになり、三人で地上本部の食堂へときている。
配膳台で俺は日替わり定食、彼女はパスタ、シグナムは丼ものを。俺とシグナム、食べるの逆じゃないだろうか普通は。
ともあれ、料理を受け取った俺たちは適当な席を見付けると腰を下ろす。
俺とフィアットさんは対面。シグナムは隣に。
「フィアットさん、最近はどうしていますか?
更正プログラムも一足先に終わったし、もう現場に出てもおかしくはないでしょう?」
「日替わり定食、と云ったところだ。
ほぼ毎日違う部隊に借り出されてる状態だよ。
おそらく、どの部隊に私が合っているのか計りかねているだろう。
保持しているISも物騒だからな、私は」
「そうですか。俺も似たようなもんですよ。
まぁフィアットさん……というか戦闘機人は魔力ランクがないのが強みみたいなものですからね。
魔力や練度の低い部隊に突っ込まれるようなことは早々ないでしょう。
あるとしたら、そこそこ強い部隊の補強、ってところじゃないですか?」
「そうか。そう云ってもらえると、少しは安心できる。
……私としては、お前のいる部隊に入りたいとも思っているが」
云いつつ、どこか悪戯めいた視線をフィアットさんは流してくる。
それにどんな反応をして良いのか分からなくて、俺は苦笑するしかなかった。
「引っ張れるなら引っ張りたい、とは思っています。
戦闘機人の裁判担当、ってことで強権発動できることはできますけど……ちょっと強引ですからね。
やるにしても、もう少し落ち着いてからに」
「そうか……」
あらら、と残念そうにフィアットさんは苦笑する。
が、すぐにその表情を打ち消すと、フォークで昼食を突き始めた。
気を遣ってくれたのか、あまり期待はしていなかったのか……いや、考えるまでもないな。
自意識過剰と云われるかもしれないが、そう思うなという方が無理ってもんだ。特に、この人に関しては。
……なんだ、これ。
二股かけてるようなもんじゃないか。
実際は違うと云っても、状況はそれそのもの。
言い逃れをするつもりはないが、だからと云って開き直れるわけでもなし。
居心地の悪さを感じながら、俺は手元の日替わり定食へと視線を落とす。
あんなことを考えたからか、胃があまり元気じゃない。
油物を避けてサラダへフォークを伸ばすと、隣のシグナムに視線を流した。
「シグナムは、気になる配属先とかあるか?」
「私は父上が選んだところならどこでも」
「……嬉しいことは嬉しいんだけどさ」
「駄目だぞ。この男についていくと、ロクなことにならない」
「その心は?」
「そのままだ。無理無茶無謀に付き合わされてはこっちの身が保たないだろう?」
「そういうのはもう卒業したんです」
少し憮然としながら返事をする俺。
対し、フィアットさんは控えめな笑みを浮かべた。
「冗談だ。そう気を悪くするな、エスティマ。
……まぁ、今の私はお前の力になれる立場だ。何かあったら呼ぶと良い」
……それはきっと、嘘じゃないんだろう。
いつか交わした約束、彼女を俺が捕まえて罪を償ったら――という代物を、彼女は覚えているのだろうか。
決められた贖罪の時間は短いとも長いとも云えない期間。その間、やはりフィアットさんは――
「しかし、魔力ランク制限に私たちが引っかからないとなると、恐ろしいことになるな。
残存しているナンバーズが一つの部隊に集まれば……」
「人、それを地獄の軍団と云う。
まぁその内、新しい制度ができるでしょう。
量産型の子たちも含めて、戦闘機人は増えすぎましたから」
そうですね、と首肯して俺は止まっていたフォークを進めた。
喋っていたせいで揚げ立てだったフライも冷めてしまっている。
これ以上食べながら喋るのもなんだし、先に片付けてしまおう。
そう思い、フォークで一気に昼食を片す。
味わって食べるほどのものじゃない、ってのは流石に作ってくれた人に失礼かもしれないが、味を確かめることもせず俺は手を進めた。
そうしてトレーとにらめっこをすること数分、ふと顔を上げ――視界の隅、食堂の入り口に、見知った影を見付けた。
見間違えるわけがない。腰にも届く長い金髪なんて、そうそうお目にかかれるものじゃないから。
けど、どうしてこんな所に?
『フェイト、どうした?』
『あっ、その……ちょっとクラナガンに用事があって、立ち寄ったの』
返ってきた念話には、気のせいか元気がなかった。
何かあったのだろうか。朝家を出たときは変なところはないと思ったけれど。
そんな疑問を抱きつつ、俺は続けてフェイトへと念話を送る。
『……あんまり口うるさくは云わないけど、関係者以外が入っちゃまずいんだぞ、ここ。
まぁ、フェイトは嘱託魔導師でもあるけど……』
『ごめん、すぐ帰るから』
『ああいや、今日ぐらいは良いさ。
一緒に飯、もしもう食べてるなら、お茶でも飲んでいけば良い』
フェイトの声が沈んでいることが気になって、ついついそんなことを云ってしまう。
俺も大概甘いな。そんな風に自嘲して。
『……それじゃあ、お邪魔するね』
『そんなに畏まらなくても良いだろ。
ほら、早くこいよ』
『……うん』
遠目にフェイトが頷いたのが見えたが、やはり、彼女の声は沈んだままだった。
一体どうして、と考え――ああそうか、とようやく気付く。
それもそうだろう。フィアットさんが敵であるという状況は変わったと云っても、今度は……まぁ、俗に言う恋敵という関係になったのだから。
……自分が鈍感だとは分かっていたつもりだったけど、ここまでとは思わなかったよ、本当。
なら、フェイトが気落ちしているのもそれが原因なのだろうか。
俺がフィアットさんと話していて、と。
それは少しぐらいあるかもしれないけれど、少し、フェイトの落ち込みようは過剰な気もする。
妹が繊細だってことは分かっているけど、それでも。
……考えたって駄目だな。フェイトの気持ちを、俺が完全に理解することなんてできないんだ。
だから言葉を交わすしかないし、そうするのが最上と分かってもいるけれど――気まずさが邪魔をして、聞くことなどできるわけがなかった。
「久し振りだな」
「はい、お久し振りです」
気さくに声をかけてくるチンクに対して、私は笑えているかな。
そんなことを考えつつ笑顔を装って、フェイトは内心では苦々しい思いを感じていた。
ベルカ自治区から出て地上本部にたどり着き、兄が現場から帰ってきていると聞いて食堂にきてみればご覧の有様。
持ってきた弁当は無用の長物と化して、エスティマは戦闘機人のⅤ番と一緒に昼食を食べている。
傍目から見たらその光景は微笑ましくて、長年の付き合いがある異性の友人というだけではなく、見ている者に微かな恋慕を連想させるだろう。
――そんな二人の様子にフェイトが何も思わないわけがない。
怒り、だろうか。無力感かもしれない。喜んでくれたら良いと思って持ってきた弁当が無駄になったという徒労。
嫉妬、だろうか。罪悪感かもしれない。彼女がどんな気持ちを向けていると知っていながらも、同じ気持ちを自分も抱いて。
普段ならばエスティマを独占しているという愉悦がフェイトにはあった。それは隠しようもない事実として存在している。
特別な存在としてではないのが残念ではあるけれど、他の誰よりもエスティマの側にいる。それはフェイトの独占欲を確かに満たしてくれていた。
世間一般には浅ましいと云われるその感情。しかしそこから目を逸らすことはできない。そもそも生まれ出た愉悦すらも、エスティマに抱く恋慕から零れ落ちた感情の一つだから。
そして――そんな風に正と負を合わせて強烈な感情を抱いているからこそ、エスティマが戦闘機人と一緒にいる状況が予想以上にショックだった。
以前まで、エスティマと同棲を始める前までならば、奪い返してやる、なんて見当違いな苛立ちを抱いたのかもしれない。
しかし今は違う。エスティマの側がどれだけ心地良く、ここが自分の居場所だと声を大にして叫びたい――けれど叫べない――からこそ、自分の居場所と定めた場所に他人が入り込んでくる状況へ、フェイトは怯えを覚えていた。
エスティマを信じていないわけではない。何よりもフェイトが大切と云ってくれたことを疑うつもりはない。
何があっても意固地になって約束を守ることが彼の美点でもあり欠点でもあるけれど、信じられるという点では絶対だ。
だから何があってもフェイトとの問題を片付けるまで他の女を見ないとは分かっているけれど――
そう、戦闘機人は他人。血の繋がりも何もない、赤の他人。
だからこそエスティマと恋に落ちる資格がある。自分よりもずっと。
元犯罪者という烙印はあるものの、罪を償ったあとに添い遂げればきっと祝福されるだろう。
けれど自分は、誰からも祝福されない。ややネガティブに考えすぎている気がするものの、その反応が当たり前だとも思う。
……場違い。局員でないことも相まって、今の自分にはそんな表現がしっくりくるような気がした。
「それにしても、どうしたんだ?
確かお前は嘱託……呼び出されでもしたのか?」
「いえ、近くまで用事があって、そのついでで兄さんに会おうかなって思って」
「そうか。兄妹仲が良いのは悪いことじゃない。
……私の妹たちも、もう少し素直になってくれたら嬉しいのだが」
「他の子たちはどうしていますか?」
エスティマから問われると、チンクはフェイトと話していたときとは違い、表情を輝かせた。
露骨にではなく自然に。ああこの人が好きなんだと、薄々勘付かせるような。
「ディエチとウェンディは外に出たいとうずうずしているみたいだな。
セインはどうだろう。ノーヴェも難しい。
オットーとディードは、あまり興味がないようだ」
「ウェンディはともかく、ディエチがそうなのは少し意外ですね」
「そうか? 表情は乏しくても、あの子が感情豊かなのは知っているだろう?」
「はい。伊達に更正プログラムの担当をしていませんでしたからね。
けどそこまで、って。まだ何をしたいのかはっきりしないものだとばかり思ってましたから」
「……そうか。まぁ、そう思われても不思議ではないかもな。
あの子はあの子でなかなかに人見知りだ。
身内以外に見せない顔をあるのだろう」
「心を許されてるわけですね、お姉ちゃん」
「当たり前だ。私は姉だぞ?」
得意げに胸を張るチンクに、エスティマは苦笑する。
そこは照れてくださいよ、誇るところだろう、いやぁ少しぐらいの恥じらいは見せても、お前にそんなところを見せてたまるか!
勝手に進む漫才を、苦笑を張り付かせた表情で眺めながら、苦々しい気持ちが大きくなってゆくのをフェイトは自覚した。
二人のやりとりは恋人同士というほどに甘いわけじゃない。それでも、心を許し合った者同士の気さくさがある。
そんな風に私も、と飢えとも乾きとも云えない欠乏をフェイトは覚える。
どんなに近くにいても、周りに見せ付けることができない。
それは十字架、ペナルティとも云うべきものなのかもしれない。
『叔母上』
『……何?』
『こんなことを云うのは酷かもしれませんが、我慢を。
父上も悪気があってやっているわけではないのです』
『分かってるよ。分かってるけど……辛くないかどうかは、別』
『はい。分かっています』
今見せ付けられているのは、自分が彼から奪おうとしているものの再確認。きっと、それなのだろう。
もし神様がいるのだとしたら、これはきっと、自分の成そうとしている罪から目を逸らすな、ということなのかもしれない。
そしてもし罪悪感に押し潰されそうならば、諦めてしまえと。
……それだけは嫌だ。
兄に恋をした。兄に抱きしめて欲しい。自分だけを見て欲しい。
胸に抱いた感情は、ああ、やっぱり間違いなのだと目の前の光景に、心の底から痛感する。
けれど間違いなのだとしても――間違い、というだけで否定なんかされたくない。
困ったことに諦めの悪さは兄から見て学んでしまったし、すぐ感情を優先させる癖も同じように。
だから、この光景をいずれは踏み越えなければならいのなら、私は目を逸らさない。
彼が抱くであろう痛みの万分の一でも共有して、少しぐらいは背負いたいから。
――そんな風に考え込み、もはや自分の心に嘘を吐かないと決意するフェイト。
彼女を、シグナムはじっと、観察するように眺めていた。
あまり空気が良いとは云えない昼食が終わって、フェイトやフィアットさんと別れると、俺はシグナムと一緒に仕事へと戻った。
が、午前中に起こった火災事件のような事件がそうそう起こるはずもなく。
戦闘機人関連の事務作業に終始して時間は過ぎ、気付けば就業時間がすぐそこまで迫っていた。
今日の仕事は終わり、と後片付けをして、シグナムと一緒に地上本部を後にする。
フェイトは先に帰って、家で待っているはずだ。
そう思い、昼のことをどう詫びようか、と考える。
……フェイトが目の前にいて、朝、シグナムと言葉を交わして彼女にどんな感情を抱いているのか気付いたというのに、未だ俺は未練たらしくフィアットさんと言葉を交わしていた。
別にそれが悪いというわけでもない。他の女と口を聞いたら、なんてことを云うほどフェイトは地雷女というわけではない……と思いたい。
問題は、俺が彼女との会話を楽しんでいたということだろう。
フェイトはおそらく、それに気付いていただろう。繊細な子だ。だから今、彼女がどんな気持ちで一人になっているのか考えると、俺の気分まで沈んでくる。
現金、だとは思う。フィアットさんが目の前からいなくなれば、次はフェイトのことを考える。
どちらも大事、なんて理屈はこの期に及んで口には出せない。
取捨選択を迫られている立場なら、ちゃんとした答えを出すべきだろうに。
そんなことを考えながら、だからか。
ふらふらと歩いて電車に乗って、普段よりもずっと早くベルカ自治区へと辿り着いた。
駅から出てシグナムと共に家路へ――と、思ったときだ。
改札口を抜けたところに見知った姿があることに気付き、俺は思わず足を止めた。
今の状況で顔を合わすのは避けたかったものの、そんなワガママを云って逃げるわけにもいかない。
それに、こんなところにアイツがいるのは、十中八九俺かフェイトに用事があるから。そして俺が帰ってくるのを待っていたということは、俺に用事があるのだろう。
「……よう、どうした」
「ああ、お帰り、エスティ。
ちょっと話があってね」
近付き、声をかけるとユーノは背中を預けていた柱から身を離し、顔を上げた。
そして、ちら、とユーノはシグナムに視線を送る。
それを受けたシグナムは、表情を微塵も変えずに頷いた。
「父上、私は先に帰っています」
「……ああ、分かった。
少し遅くなるってフェイトには伝えておいてくれ」
「分かりました。それでは」
小さく頭を下げて立ち去るシグナムの背後を見送り、彼女の背中が見えなくなると、行こう、とユーノは促してくる。
ユーノに誘われるまま後を追う。繁華街から横に逸れて、住宅地を通り過ぎ、更にユーノは進む。
一体どこまで行くつもりなのか。そんなことを考えながら、何故ユーノがここへきたのかに俺は考えを巡らせた。
云うまでまでもなくフェイトのことだろう。
急なことを云ってフェイトを俺の家で生活させ始めて――もしかしたら、そのことでスクライアに何かあったのかもしれない。
云うまでもなくフェイトはオーバーSランクの魔導師だ。その彼女が抜けてしまえば、スクライアとしては大きな痛手になるだろう。
管理局よりもスケールが小さい分、フェイトが抜けた穴は大きいのかもしれない。
ストライカーとは、木っ端がどれだけ集まっても敵わないからこその名称なのだから。
そんなことを考えていると、ユーノは近くの公園へと入った。
住宅街の中心にあるような小さい場所ではなく、街の外れに存在しているような森林公園。
時刻はもう夜も更け始める頃。そんな時間に公園で時間を過ごそうとする人はそう多くもない。
わざわざこんなところにまできて……どういうつもりだ?
聞かれたくない話をするなら念話だけでも良いだろうに。
そんな疑問を抱きつつ尚もユーノのあとを着いて行くと、ようやく足が止まった。
遊歩道から少し離れたここは、周りを木々に囲まれながらもぽつんと小さな空間が空いている。
子供だったら秘密基地に選びそうだ。つい、そんなことを考えてしまう。
「こんな場所まで連れてきて、どうしたんだ?」
「うん。あまり人には聞かれたくない話がしたかったんだ。
けど、念話でするのも嫌でね。直接、エスティの口からどんなつもりか聞こうと思って」
「……そうか。
フェイトのことは、悪いと思ってるよ。
もしスクライアの方で何か――」
「違うよエスティ」
フェイトのことだろう、と思っていた俺は、遮ったユーノの言葉に眉を持ち上げる。
じゃあ、一体なんの話をするためにこんな場所へ呼び出したんだ?
訝しげな表情をしたのが伝わったのだろう。
木々の合間から差し込む、遠い街灯の明かり。それに浮かび上がったユーノの表情は朧気だ。
しかし、まったく分からないわけじゃない。少し目を凝らしてみれば――ユーノが、燻った怒りを抱いていることに気付く。
「フェイトのこと、ってのは間違いじゃない。
けど、僕が聞きたいのはそういうことじゃないんだ」
云い、どこか躊躇うように――そう見えたのは俺の錯覚か――息を溜め、
「――今続けてる茶番は何?」
茶番、と言い切ったユーノ。
それが指すところは云うまでもなく、同棲のことだろう。
わざわざ話をするのならば、必然、どういう経緯でフェイトと共に暮らすようになったのかも関係してくるはずだ。
が、何故ユーノがそれを知っているのか分からず、俺は答えに窮してしまった。
それをユーノは悟ったのか、呆れたように溜息を吐く。
「アルフとフェイトは精神リンクで繋がっているんだよ?
だったら、彼女と僕が知らないわけないじゃないか」
「……覗き見かよ。趣味が悪いぞ」
「エスティほど趣味は悪くないさ」
自分たちだけの問題として起きたかったからか、思わず不機嫌な声が出てしまった。
が、ユーノはそれを軽く受け流す。大した問題ではないとでも云うように。
……落ち着け、と一瞬で吹き上がってきた怒りを押さえつける。もしかしたら羞恥心だったのかもしれない。
他人に自分の都合を覗き見られて、平気な顔を出来る奴がいないように。
「じゃあ最初の問いに戻るよ。
今続けてる茶番は何? エスティ、分かってるの?
フェイトと君は兄妹だよ? それも血が繋がった、なんて濃さじゃない。同一人物のクローンだ。
なんて云うか、常識外れにも程があるよね」
「……云われなくても分かってるよ。
だから俺は、お前が茶番って云った風にフェイトと一緒に過ごしてる」
「なんで? 常識的に考えて、駄目だって分かってるでしょ?」
「……分かってるよ」
ユーノの一言が、いちいち勘に障る。
分かってる。それは図星だからだ。いずれ誰かに云われると考えてはいたが、いざその時がくると気分が重くなって仕方がない。
動悸は乱れっぱなしで、嫌な汗が出てきそうだ。
それでも俺は言葉を濁すことなく、ユーノへと声を放った。
「けど俺は、フェイトを悲しませたくない。
あの子が俺を好きと云うなら、その気持ちには応えてやりたかった」
「だから同棲? 馬鹿なの?」
「……なんだよ。今日はやけに一言多いな」
「一言多くもなるよ。
馬鹿な弟と馬鹿な妹が、お花畑じみた夢見て勝手に突っ走ってるんだから」
……いやに言葉尻の荒い原因は、やっぱりそれか。
分かっているし俺に非があると理解しながらも、やっぱり苛立ちは止められない。
が、それを押さえ込んで、唇を舌で湿らせ、気分を落ち着かせる。
「……お前が云うお花畑は夢に過ぎないって俺も分かってるさ。
けど、しょうがないだろう?
それ以外の方法を、俺は思い付かなかった――」
「嘘だね。お花畑に浸っていないのなら、フェイトの気持ちを断れば良かったんだ。
エスティ、もともと君のお花畑は、皆が仲良く笑ってる状態だろ?
なのに、それを自分でぶち壊しにして……ああ、お花畑なんてもんじゃないか。
君が今いるのは閉じた箱庭だ。妥協なんかじゃないよ。毒が蔓延すれば君も染まっちゃうだろ?
……それが分かっていながら、なんで。
目を覚まそうよ、エスティ」
「……目を覚ますってんなら、もう覚めてるさ。
考え抜いて、今の状態が最上だって思ったんだ。
俺は、俺を取り巻くすべてを失いたくない。
……だから今の状況を引き延ばして、いつか、皆が俺たちのことを認めてくれるまで」
「エスティ、正気? 戦いすぎて頭のネジが吹っ飛んだんじゃないの?」
「だから、頭から否定せずに放っておいてくれれば……!」
「ああ、そう。じゃあエスティが意固地に振る舞えないよう、分かりやすく云ってあげるよ」
駄目だ、と云わんばかりにユーノは頭を振る。
「……八神さんが許すと思う? 君が助けた戦闘機人はどんな気持ちになると思う?
僕らはどうなるの? 君ら馬鹿兄妹が近親相姦万歳って云うなら止めないけど、その価値観を押し付けられる僕らの立場は?
それにそもそも、君は執務官でしょ? 階級だって人の上に立つものだ。
そんなことで仕事を続けて行くことできるわけないよね?」
「……それ、は」
分かってる。分かってたんだ、そんなことぐらい。
ユーノに云われずともしっかり理解していた。
……理解していた、けど。
「ねぇエスティ、もう良いじゃないか。
どっちが大事かなんて、考えなくても分かるよね? どっちが丸く収まるかも。
君が望んだ平穏は、引き返せばすぐそこにある。
だったら、優先するのがどちらかぐらい、分かるよね?」
「そうかもしれないけど、じゃあ、フェイトはどうなるんだよ。
俺ばっかり日だまりに戻って、フェイトには感情を押し殺せって?
……ふざけんなよユーノ、お前そんなこと平気で云える奴じゃないだろ!?」
「ああ、そんなことを気にしてたんだ。
エスティが云いたくないなら、フェイトには僕の方から云っておくよ。
罪悪感なんて、どうせ時間が経ったら薄れるじゃない? 思い出すことはあっても、それは一過性。
どちらを取ったらより幸福になれるかだなんて、火を見るよりも明らかじゃないか」
俺が云った最後の一言を無視して、ユーノは淡々と言葉を紡ぐ。
こいつの云っていることは間違いじゃない。間違いじゃないが――
「そうかもしれない。確かに幸せにはなれるだろうさ。
けど、その影で誰かが悲しんでいるのだとしたら、俺は幸せになんかなれない」
「……だから、今の状況を維持したいって?
エスティ、自分で云ってること把握してる? さっきから矛盾ばかりだ。
誰も悲しませたくない。けど、フェイトを取ったら皆が悲しむ。君がやっていることはそれだよ?」
「だとしても、何か丸く収まる方法があるはずだって俺は信じてる!
ああそうさ、今の状態じゃ誰からも祝福されないだろうよ、分かってるんだよそれぐらい!
けど、すぐに答えを出す必要があるわけじゃないだろう?
時間が経ったら薄れるって云ったよな、ユーノ。
だったら俺たちのことだって、時間をかければ良いだろう!?」
「……そう。分かったよ。参った、降参だ」
困った風に笑い、ユーノは肩を竦めた。
表情には心底からの苦笑が張り付いて、足下の雑草を踏みしめ、俺へと一歩を踏み出す。
「本当に参った。困ったよ。
エスティが意固地なのは知っていたけど、ここまでとはね」
「……ユーノ」
穏やかさすらあるその言葉に、俺は変な期待をしてしまう。
もしかしたら、と思って、こちらからも一歩踏み出し――
「――いつまでも八方美人が通るわけないだろ!」
そんな風に甘いことを考えていたから、跳ね上がった右拳に反応することができなかった。
堅く握り込まれた拳が、俺の頬を強かに抉る。
頭が揺れる衝撃と突き抜ける痛みにたたらを踏みながら、俺は目を見開き、ユーノの視線を向けた。
歯が抜けるほどじゃないにしろ、衝撃は強烈で、ユーノの本気を言外に伝えてくれる。
瞬間、怒りを押し込んでいた鍋の蓋が軋みを上げた。それを必死で押さえ込み、歯を噛み鳴らす。
「ユーノ、お前……ッ」
「怒った? まったく、誰にも彼にもいい顔して、あれは嫌だ、これは嫌だ、って。
その上、持ちかけられた話にも乗らないって?
馬鹿か君は。
なんでもかんでも大事大事って、そんな風に自分よりも周りに価値を見出すから、重荷にしかならないんだよ。
溺れて身動き取れない癖に大丈夫なんて云われても、信じられるわけないだろ!」
「なんだと……?」
「こっちだって良い加減、頭にきてるんだよ!
仲良くやってた弟がどっかから捨て犬拾ってきて、それに情が湧いてさぁ……。
なんでもかんでも抱きかかえるから何もできなくなるんだろ、馬鹿野郎!」
一喝と同時に、再びユーノが拳を振るう。
それを左の掌で受け止め、軽快な音が夜の公園に響き渡った。
ユーノの拳を握り締めながら、至近距離で翡翠の瞳を睨み返す。
「大事にして何が悪いってんだよ……!」
「加減を知れって云ってるんだよ僕は!」
叫び、再びユーノは腕を振ってくる。
今度は左。頭を傾げてそれを避けると、苛立ちを乗せて俺は頭突きをお見舞いする。
が、思った以上にユーノは石頭で、やったこっちが痛くなる始末だ。
視界を明滅させながら、俺はユーノの胸ぐらを掴み上げて右腕を振り上げる。
対し、ユーノも同じように俺の胸ぐらを掴んできた。
「人のやり方にケチつけんなよ、この野郎!」
「それに付き合わされる立場にもなってみろよ、この野郎!」
叫びと同時に、お互いの拳が頬を抉った。
クロスカウンターなんて綺麗なもんじゃない。力任せにぶん回された腕が激突して、目先に火花が散る。
それで掴んでいた胸元を離してしまうが――
上等、とばかりに俺たちは歯を剥いた。
型も何もない、泥試合じみが殴り合いが始まる。
お互いに避けるよりも先に殴ろうと気が急いて、手加減なんか一切ない殴り合い。
拳が当たれば骨の歪む感触が返ってくる。が、お返しとばかりに叩き付けられた蹴りでアバラが軋んだ。
痛みが蓄積してゆく毎に、お互いが溜め込んでいた何かがぐつぐつと沸き立ってゆく。
それを理解しながらも尚、俺とユーノは手を止めようとは思わなかった。
「大体、君は、事ある毎に厄介事を背負い込んで、僕にそれを手伝わせてばかりで……!」
「悪ぃとは思ってたよ! その代わり、どれも丸く収めてきただろうが!」
「そういう問題じゃないんだよ馬鹿が!
何から何まで大事大事って、君はオウムか! 脳味噌が鳥にでもなってるのか!」
「うるっせぇクソ兄貴が! 好きでやってんだから別に良いだろ!」
「ああもう、君は――」
瞬間、ユーノが笑ったような気がした。
が、それはきっと幻か何かだったのだろう。
すぐに憤怒に塗れた表情に戻ると、俺の服を掴んで引き寄せ、空いた手を叩き付けようとしてくる。
俺はそれを避けようとは思わず、むしろ好都合だと、ユーノと同時に腕を振るった。
頬に再び熱い感触、次いで痛み。奥歯が嫌な悲鳴を上げた。
けどこっちは鼻っ柱を叩き折ってやった。ざまあみろだ。
「……好きで、やってる、ね」
ユーノは溢れ出てきた鼻血に咽せ、手で鼻を抑える。
が、無駄だと分かったのか血塗れの拳を握り締めると、まだ立ち塞がってくる。
「その割には一人で抱え込んでさぁ、助けてくれってのが見え見えなんだよ、云わなくても態度に出てるんだよ!
それが鬱陶しくてしょうがなかったんだ、ずっと!」
「うるせぇ、嫌ってんならこんな泥仕合だってやりたかねぇんだよ!
それをさせてんのはどこのどいつだ!」
「原因は君だろ!」
「知るか、そんなこと!
余計な厄介事放り込んでくるのはいつだって外側の奴じゃねぇかよ!」
「最初に首突っ込んだ人間が云って良い台詞じゃない!」
言葉を重ねながら、それでも俺たちは殴り合いを止めようともしない。
口の中はとっくの昔にずたずたで、返り血で見えないけれど、拳の皮だってめくれている。
力加減なんか忘れて殴り合ってるもんだから、骨だってイっててもおかしくはないだろう。
「駄目だって分かってるならそうすれば良い!
答えが分かってるなら躊躇するなよ、エスティ!」
「ふっざけんな……どんだけ馬鹿にされようと大事なもんは大事なんだよ!
それでも俺はやり遂げる! 今まで無理だったのを何度だって覆してきたんだ、今回だってやれるさ!
だからお前もいつも通りフォローに徹してくれよ、そうすりゃ楽勝だ!
最初っから諦めてるんじゃねぇよ!」
「だから、それが無理だって云ってるだろ……!?
いつもいつも、そんな風に眩しくて……ッ!
嘘臭いんだよ!」
「騙されたと思って信じてみろよ!
フェイトだけじゃない、お前だって側にいて欲しいと思ってるんだ大事なんだ!
それを諦めることなんか出来るわけないだろ!?
目指すんなら皆が笑ってるのが一番だ、そうだろユーノ!?」
「君って奴は――!」
渾身の回し蹴りがユーノの脇腹に。ユーノの拳が、俺の鼻っ柱に。
ギ、と同時に苦悶を漏らして、最早言葉もなく、それでも泥仕合は続く。
それでも――何か、心に迫るものがあるのはどういうことなのだろうか。
まだ話し足りない。この馬鹿とはとことん腹を割って話す必要がある。
――本当、いつまで経っても変わらない。
どんだけ世話焼きなんだよお前。兄貴にしたって人が良すぎだろう。
こんな馬鹿げた殴り合い、する必要なんかどこにもないだろうが。
フェイトを切り捨てるって? 認められるかよそんなこと。
地味に諦めが早くて決断を急ぐ。ガキの頃から本当に変わっていない。
――本当、いつまで経っても変わらない。
どこまで世話焼きなんだよ君は。他人にかまけるにしたって限度があるだろ。
こんな不毛な殴り合い、付き合う必要なんかなくて、君なら軽く避けれただろ? どこまで馬鹿なんだ。
目を覚ませよ馬鹿。今まで頑張ってきたんだからいい加減に報われても良いだろ。
いつもいつも諦めが悪くて、ギリギリまで決断をしない。その結果自分が馬鹿を見る羽目になるのは子供の頃から変わっちゃいない。
ああ、本当に――
「俺はフェイトが好きだよ文句あるかこの野郎!
けどな、お前らだって好きなんだよ!
良いじゃねぇかよ夢見たって、実現できるよう足掻く甲斐があるってもんだろ!?」
「それが無理だって云ってるのがまだ分からないのか!
嫌だよ僕は痴情のもつれでエスティが刺殺されるとかさぁ!」
「あり得るかよそんなこと、だったら見てろよ鼻を明かしてやるから!
納得させてやるよ、認めさせてやる、それで満足だろこの野郎!」
「そこまで人間、頭がおめでたく出来てないんだよ!
ほざくんだったら案出してみてよ、駄目出ししてやるからさぁ!」
「だから、さっきから云ってるだろうが――!」
「それは答えって云わないんだよ――!」
激情に任せて――それはユーノも同じだったのか、渾身の力でお互いの顎を撃ち抜いた。
ぐらり、と身体が傾げる。立っていないと、と思っていながらもそれは無理だ。
砕け散った平衡感覚を取り戻すことはできず、俺とユーノは同時に尻餅をついた。
馬鹿みたいに息を荒げて、血まみれになって。
青春するにしたってやりすぎだろ、これは。
自分自身の血で噎せ返りながら、ぐらつく視界の中心にユーノを納める。
野郎はまだ立ち上がろうとしているのか、地面に両手を着いて息を整えようとしていた。
まだやるなら、と意地になって俺は歯を食いしばる。
だが――
「……エスティなんか、大嫌いだ。もう顔も見たくない。
どこへなりとも、行けば良い」
「お前――」
「フェイトが好きだって云うんなら!」
どこにそんな力が残っていたのか、ユーノは大気が震えるほどの大声を上げた。
思わず呆然としてしまう。どれほどぶりだろうか、コイツがこんな声を出すなんて。
「……幸せになってよ、頼むから」
瞬間、ユーノの足下に翡翠色のミッドチルダ式魔法陣が展開する。
それが何かを理解する暇もなく、俺の身体はユーノの魔力光、その残滓に包まれて――
一人、何をするわけでもなくリビングの椅子に座っていると、鍵の開く軽い音が耳に届いた。
エスティマならばインターフォンを押すし、とフェイトが思っていると、ドアが開いてシグナムが姿を見せる。
「ただいま帰りました」
「あ、おかえりなさい」
言葉少なく、物音を立てず、シグナムは我が家へと上がり込む。
そして玄関に鞄を置くと、そのままリビングへ。
何か様子がおかしいとフェイトは思いながらも腰を浮かす。
「あ、今、晩ご飯よそうから。
兄さんは?」
「父上は、帰ってきません」
「……え?」
「……もう、ここには帰ってこないでしょう」
どういう意味、とフェイトが問いかけるよりも早く、シグナムはフェイトの向かいに腰を下ろした。
そして切れ長の相貌を間髪入れずに、フェイトへと向けてくる。
その瞳に宿っているのはなんだろう。敵意、だろうか。
いやに場違いな感情を向けられたことで、フェイトは言葉を失った。
「叔母上。叔母上は、父上を本気で愛しているのですか?」
「え、あ、何をいきなり……」
「答えてください。もし言葉を濁すようなら、即刻、ここより立ち去っていただきます」
出会い頭になんでそんなことを、と思わなくもなかったが、シグナムの異様な様子に気圧されて、フェイトは小さく頷いた。
そして僅かに目を瞑り、息を整え、彼女の目を真っ直ぐに見詰める。
「……うん、好きだよ。私は兄さんを愛している」
「……それが報われない感情なのだと分かった上で?」
「うん」
「誰も祝福しないかもしれないのに?」
「うん」
「父上の負担になると分かっていても?」
「……うん」
最後の問いには僅かな逡巡を見せたものの、やはり、フェイトは頷いた。
それを見たシグナムは、苦々しい表情を隠しもせずに表情に浮かべる。
今まで積極的にこの問題へと――少なくともフェイトには――絡んでこなかったシグナムが、こんな風に絡んでくることがフェイトには驚きだった。
エスティマがフェイトの同棲を告げたときも二つ返事で了承していたし、今浮かべているような敵意は、共に生活していたときに一度も向けられていなかったから。
それが何故今、という疑問はあるものの、これが、この表情こそがシグナムの本音なのだろうか。
……当たり前なのかもしれない。
守護騎士であると同時に娘でもある彼女が、父でありマスターでもあるエスティマの幸せを願わないわけがないだろう。
幸せのようであり、その実、彼の幸せを粉砕しようとしているフェイトを彼女が苦々しく思うのは当然なのかもしれない。
が、今までそれらしい態度を見せていなかった分、シグナムの態度はいやに響いた。
彼女は数少ない、自分たちを祝福してくれる人だと思い込んでいたから。
「血の繋がった妹が兄に恋をする。なんとも嫌な冗談です。
嫌な冗談ですが、それを悪夢にしてるのは、父上もあなたのことを好きだという点ですか」
「……え?」
シグナムが不意に呟いた言葉に、フェイトは目を見開く。
兄が? そんなはずはない。確かに大切と云ってくれていたけれど――
「……何を驚いているのですか。
父上は妹として、異性として、あなたのことを愛しています。
何よりも大事だと思っていますよ」
「……けど、それは」
「どちらとも云えない? いいえ、両方と云っているのです、父上は。
妹であり女でもあるあなたが好きなのだと、云っています。
だから、何よりも大事で……」
瞬間、シグナムは悔しさを表情に滲ませる。
が、それはすぐさま打ち消され、彼女は再び表情を引き締めた。
「だがしかし父上は、大事な物、とラベリングしたものを何一つ捨てようとしない欲張りです。
だから今の状況となっている。祝福されるどころか、非難されるであろう状況の一歩手前に。
……問います、叔母上。あなたは父上を幸せにできますか?」
急な方向転換に、フェイトは目を瞬いた。
話題が次々と転がって行くのはどういうことか。
もしかしたら話の主導を握っているシグナムも、頭の中では整理できていないのかもしれなかった。
が、それはどうでも良い。
今何よりも大事なことは、シグナムから問いかけられた答えだろう。
「するよ。私は兄さんと幸せになりたい。
けど、兄さんが幸せじゃなかったら、私は幸せになれないよ。
だから、兄さんも幸せにする。どこまでだってついて行く」
「……ならば、良いでしょう」
これを、とシグナムはポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。
そこに書いてるのは世界名と大雑把な地図に、住所。そして一本の鍵がセロテープで貼り付けてあった。
「今すぐ身支度を調えて、そこへ行ってください。
そして、二度とこの世界に帰ってこないで欲しい。
……父上が、待っていますよ」
「……ちょっと待って、どういうこと?」
「そのままの意味です。
……私たちは、否、私は父上の幸せを望む。
しかし今のままではそれを手に入れることは難しいでしょう。
……もう、危うい綱渡りを、私は父上にして欲しくないのです。
だから、逃げてください。その先で父上と幸せになれば良い。
あなたたちがその世界にいることを、私たちは生涯口にしません」
私たち――シグナム以外に自分たちの幸せを願ってくれている人がいる?
誰だろう、と思うのは愚かかもしれない。そんな人、そう多くはない。そしてここまで世話を焼いてくれる人物も。
思わず目頭に熱が登ってくる。嬉しさと、それを凌駕する申し訳なさ、情けなさに。
けど――
「……シグナムはどうするの?」
「私はこのままミッドチルダで、父上の代わりとなり戦い続けます。
……それが、あの人の娘として、側にいたいと願った私の、唯一できることだから」
「……ありがとう」
「礼はいりません。
あなたにそんなことを云われると、罵倒の一つでも吐き出したくなる」
「……それぐらいなら、甘んじて受けるよ」
「――では」
深呼吸をし、シグナムは目を伏せる。
彼女の肩を震わせる感情はなんだろうか。フェイトに、それは分からない。
「私は一生あなたを許しません」
微かな涙に瞳を揺らして、シグナムは言葉を叩き付けた。
誰もいなくなった森林公園の木陰で、ユーノは冷たい地面に転がっていた。
開けているこの場所に転がれば、見えるのは天に瞬く星々だ。
が、ユーノはそれを見ることができないでいた。
湿っぽい視界は煌びやかに輝く光を、何一つとして正しく見ることができない。
鼻を啜り、唇を噛んで、目元を拭い、彼は吐息を吐く。
……これで、良かったんだ。
そんなことを胸中で呟きながら。
「……お疲れ様」
ガサリ、と物音が上がった。
しかしユーノはそちらへ目を向けない。
この場所を知っているのは自分と、アルフと、シグナムの三人だけ。
そしてシグナムがフェイトと顔を合わせていることを考えれば、ここにくるのは一人だけだ。
視線を向ければ、案の定、そこにはアルフがいた。
しかし彼女の姿は子供のものではなく、大人となっている。
どうして、と声に出さず問いかけると、彼女は照れくさそうに笑った。
「……その、なんだ。
やっぱり男を慰めるのは、こっちの方が良いだろう?
話し合いって予定になってたけど、どうせこんなことになってると思ったのさ」
苦笑しつつ、よいしょ、とアルフは腰を下ろした。
そして倒れ伏したユーノの頭を膝に乗せ、そっと前髪を払う。
指に絡んだ血はエスティマのものか、ユーノのものか。
それが判別できないほどに、ユーノの顔は凄惨なことになっていた。それは無論、エスティマもだろう。
「あーあ、馬鹿だねぇ。
いい歳なのに男ってやつは。
どうして大人しく話し合いができなかったんだい?」
「……だってエスティ、いつまで経っても本音を云わないから。
信じられる? 散々殴って殴り返されて、フェイトのことを好きって云ったのは一度だけなんだよ?
感情的な癖に自制心が強いから、本音を聞き出すのに骨が折れた」
「あれも照れ屋だねぇ」
「まったくだよ」
そこまで云って、ユーノは口を閉じる。
アルフはただ黙って、ユーノの髪を手櫛で整えるだけだ。
云いたいことがあるなら云いな。そう、言外に云われているような気がして、ユーノは喉を震わせた。
「……誰かが、背中を押してやらなきゃいけなかったんだ」
「ああ、そうだね」
「……誰かが、ババを引かなきゃならなかったんだ」
「ああ、そうだね」
「……僕はエスティとフェイトのお兄さんだったから、せめて僕ぐらいは、二人の味方でいてあげたかったんだ」
「……うん。
ユーノ、誇って良いよ。あんたはちゃんとやり遂げた。
これでフェイトが不幸せになったら、そりゃもうエスティマのせいさ。
そうなったら、今度はアタシがあいつを殴り飛ばしてやるよ」
そんなアルフの言葉が、言葉に滲む優しさが胸に染みて、一度は止まった涙が再び目尻に湧き上がってくる。
あんな物騒な弟と妹、いなくなって清々する。どこへでも行けば良いんだ。
そうして僕らの知らないところで幸せになって――
「……うっ、く」
どれだけ憎まれ口を上げようとしても、やはり、駄目だ。
あの二人が大好きだった。その気持ちに間違いはない。
エスティマが抱え込んだすべてを守りたいと願ったのとは違い、ユーノは、自分の家族とも云うべき者たちを守りたかった。
守りたいからこそ、遠ざける。わざわざ嫌われるような大喧嘩までやらかして。
矛盾しているようでいて、けれど、それしか彼は方法を思い付くことができなかった。
彼らはもう二度と自分たちの前に姿を現さない。
もう二度と、笑い合って遊ぶことはない。
ああ、クロノに謝らないと。ホームパーティー、無理になった。
そんな有り触れた――けれど、当たり前のように行っていたことが潰える。
……辛くないわけが、なかった。
だからこそユーノは願う。この痛みが、せめて二人の幸せに反転して届きますようにと。
そうでなければ報われない。本当に誰一人として報われなくなってしまう。
だから幸せになって、と。
柄にもなく、ユーノは星空に望みを呟いた。
「……ん、兄さん?」
「起きたか?」
ずっと視線を落としていたアルバムを閉じ、顔を上げて、すぐ側にいるフェイトへと目を向けた。
白一色のベッドで横になっている彼女は、目を擦りながらも俺へと瞳を向けてきた。
俺と同じ緋色の瞳。これと向き合う度に、忘れようもない俺たちの罪悪を思い出す。
慣れてしまったとしても、それは微かな痛みとなっていつまでも残り続けるだろう。
思わず、小さな溜息を吐いてしまう。
そして吸い込んだ空気に混じった、病院独特の香りに、一人咽せた。
その様子にフェイトはくすくすと笑って、俺の手元にあるアルバムを見て目を細めた。
「……アルバム、見てたの?」
「……ああ。少し、懐かしくなってな。
そんな歳でもないのに、昔を振り返ってたよ」
「そっか。
……私もね、少し、懐かしい夢を見たんだ。
兄さんと二人っきりになる、少し前の夢」
云いながら、フェイトは布団の下から手を伸ばしてきた。
俺のところまで、それは僅かに届かない。が、俺の方からも手を伸ばして、指をそっと絡ませる。
そうして一言も話さず、どれぐらいの時間が経っただろう。
五分かもしれないし十分かもしれない。二十分ということはないだろう。
そうしていると、フェイトはきゅっと指を強く絡め、伺うように口を開いた。
「ねぇ、兄さん。少し歩こうよ」
「……身体、大丈夫なのか?」
「平気平気。さ、行こう?」
そう云ってフェイトは布団をゆっくり退けると、リノリウムの床に並べられたスリッパへと足を通す。
彼女に腕を貸して立ち上がらせ、覚束ない足取りのフェイトと一緒に病室を出て、ゆっくりと歩みを進める。
散歩、とは云っていたものの、向かう方向からフェイトがどこに行きたいのかはなんとなく分かった。
俺は黙ってそれに付き合い、彼女に無理をさせないよう、歩調に気を付けた。
「ねぇ、兄さん」
「……ん?」
「兄さんは、幸せ?」
「……聞くまでもないだろ」
「それでも聞きたいの。
ねぇ、幸せ?」
「……そうだな」
新生児室、と書かれたプレートの下で進めていた歩みを止め、硝子の向こうにいくつも並べられた小さなベッド、その一つへと視線を向ける。
おそらくフェイトも同じ所を見ているだろう。そう、思いながら。
――結局俺は、取捨選択なんてしたくないと云いながら、それを行ったのだろう。
フェイトとの幸せを取って、俺たちの背中を押してくれた皆を振り切った。
おそらく、もう二度と振り返ることはない。そう願われたから、絶対に。
その代償として手に入れたものは――
「……ああ、幸せだよ」
――間違いなく幸せだろう。
残されたフェイトと、あの子。残された二つの幸せを、俺はずっと守っていこう。
俺自身の在り方は変わってしまったのだとしても――この日だまりを守り続けたいという願いは不変。
間違っていたのかもしれない。
けれど、手にした幸せは虚勢でもなんでもなく、確かな現実としてこの手に掴んでいる。
俺は、これを永劫手放さないと誓おう。
「兄さん」
「ん?」
「大好き、愛してる。
これからも、ずっと……ずっと」
そう云って、フェイトは組んだ腕をぎゅっと抱き込んだ。
END