蛍光灯に照らされながらも薄暗い部屋の中に、二人の男がいる。
充分に広いと云える部屋を照らし上げるには、光量が足りないのか。
否、中途半端な灯りが窓の外より差し込んできているため、それに灯りが攫われているのだ。
壁にはめ込まれた大窓には、忙しなく雨が打ち付けている。勢いは強く、もし窓が開け放たれていれば五分と経たずに執務室はずぶ濡れになるだろう。
今、クラナガンには台風が上陸していた。
珍しいことだ。気候操作によって雨が降ることすら稀なクラナガンに台風が上陸することは、数年に一度あるかないかといった具合。
もし外に出れば、騒々しい雨音に音という音が攫われるだろう。
今日ばかりは管理局も、犯罪者の逮捕よりは台風への対応に駆られている。
場所は時空管理局ミッドチルダ地上本部。その最上階付近に位置する、防衛長官の執務室。
両脇を巨大な書架に挟まれたその一室で、レジアス・ゲイズとエスティマ・スクライアは顔を合わせていた。
「何事もなかったな」
「そう、ですね。
申し訳ありません。読みが外れました」
「……まぁ良い。気にするな。
交換意見陳述会の襲撃は、結社の設立が行われてから懸念されていたことだ。
何も起こらないことに越したことはない。奴らの襲撃がなかったことは、素直に喜ぶべきだろうよ」
微かに口元を緩めながら、レジアスは微かな疲労を滲ませた声を上げる。
申し訳なさそうにエスティマは苦笑すると、それにしても、とマルチタスクの一つを思考に割いた。
昨日から今日にかけて、地上本部では交換意見陳述会があった。
レジアスの言葉通り――とは云ってもエスティマが彼へと毎年忠告を行っていたのだが――結社の襲撃を警戒して六課が中心となり警備に当たっていたのだが、今年もその予想は外れることとなったのだ。
エスティマの読みとしては今年こそ、と思っていたのだが、どうやら外れてしまったようだ。
既に地上本部へと集結していた部隊は、各々の勤務地へと戻っている。
今の状態で結社が襲撃してくる可能性も捨てきれないが、そこにあまり意味はないだろう。
空になった城を攻め込んだところで、それを実行した兵士の有用性を示すことはできない。
スカリエッティの目的は管理局を潰すことではなく、自分自身の生み出した兵器の強さを示すことなのだ。
故に、今のタイミングで奴らが攻め込んでくる可能性はゼロに近い。
そう、エスティマは考えている。
「……しかし、読みが外れてしまったな。
奴らの主力を引き込むことで、戦力を一気に削ぐ……その手はずを整えて空振りでは、なんとも拍子抜けだ」
「ですね。廃棄都市での戦闘でやつらの主力を捕らえることができましたし……もし次の戦闘があれば、それが決定打になると予想していましたから。
正直、次の手をどうしようかと思ってしまいます」
「そうだな。……しかし、こうは考えられないかエスティマ。
奴らにはもう、我々と敵対する余裕が残っていないと」
「……中将、それは」
甘い、という言葉をエスティマは飲み込んだ。
冗談だったのだろう。それを示すように、レジアスは似合いもしない微笑を浮かべていた。
「だが、そんな風に考えたくもある。
出だしこそ悪かったが、六課は奴らに確かな打撃を与え続けているのだ。
……我々地上部隊だけの力でそれができなかったのは口惜しいが、しかし、ミッドチルダの平和が守られるのは喜ぶべきことだろうよ。
事は順調に進んでいるのだ。お前も少し、肩の力を抜いたらどうだエスティマ」
「……いいえ、中将。
勝って兜の緒を締めよ、という言葉もありますから」
「……お前という奴は」
エスティマの反応にレジアスは再び苦笑する。
それには頑固な息子に苦笑するような父親めいた調子が混じっていた。
口元の髭を一撫でし、レジアスは唐突な言葉を彼へと投げかけた。
「……血気盛んなことは上司として頼もしいが、少し心配でもある。
なぁ、エスティマ。もしこの戦いが終わったら、お前はどうする?」
「……は?」
いきなりな問いかけに地を出し、エスティマは眉根を寄せた。
が、すぐにそれを打ち消して表情を改めると、レジアスの言葉を頭の中で噛み締める。
……この戦いが終わったら。
別にどうもしない、というのがエスティマの素直な感想だ。
宿敵をもし捕らえても、時空管理局の執務官として戦い続けてゆくだけだろう。
それ以外の自分を想像できない、というのもある。
それをレジアスも分かっていると思っていたし、望まれていると思っていたが――
「……十代になったばかりの頃からお前を見ている身としては、これからどうするのかが心配でしょうがない。
青春を苛烈な戦いに費やして……仕方がなかったとも云えるがな」
……今日はいやに感傷的だな。
微かな疑問が脳裏を過ぎる。
死亡フラグか何かかなんて失礼なことを思いながら、少しだけエスティマは三佐の仮面をずらした。
「……まぁ、灰色というわけではありませんでしたから。
仕事こなしつつ一人の人間として生きますよ。普通にね」
「お前が普通を語るか」
何かのツボに嵌ったのか、レジアスは破顔する。
楽しげにくつくつと笑い声を洩らすと、悪い、と云って無理矢理に落ち着いた。
「……少し、安心したぞ。
てっきり、戦うことしか頭にないと思っていたからな」
「……俺はベルカの騎士じゃありませんから」
この時になって、ようやくエスティマはレジアスが妙なことを言い出したことに納得がいった。
レジアスはおそらく、ゼストと自分を重ねているのだろう。
レジアスの理想のために戦い続けるベルカの騎士。レジアスの騎士とも云えるストライカー。
そんな彼と自分が同じように見えて心配だったのだろうか。
しかし、何故心配などされたのだろうか。
その一点がどうしてもエスティマには分からない。
あり得ないとエスティマも分かっているが、もし、自分がゼストと同じような人間になったとしてもレジアスが喜びこそすれ困る必要はない気もする。
何を考えているのだか、とエスティマはこっそり溜め息を吐いた。
「……む、もうこんな時間か」
ぽつりとレジアスが言葉を洩らす。
釣られてエスティマが胸元のSeven Starsに視線を落とすと、その表面には午後五時と表示されていた。
もうそろそろ六課に帰還し、警備についていた隊員たちの報告書に目を通さなければならない時間だ。
レジアスも分かっているのか、深々と息を吐いて目を伏せた。
それがどこか残念そうに見えて、再びエスティマは眉根を寄せる。
……こんな人だっただろうか。
もしかしたら結社と管理局の天秤がこちらに傾きつつある状況で、余裕ができたからなのかもしれない。
「余裕があったらオーリスを誘って夕食でも食いたいと思っているんだがな」
「……それはまたの機会ということで」
……本当、こんな人だっただろうか。
敬礼をして執務室を後にすると、エスティマはそのまま一階を目指してエレベーターを下る。
ガラスを通して見える外――既に暗くなりつつあるクラナガンの街並みを眺めながら、レジアスに問われたことを思い出していた。
……この戦いが終わったらどうするか。
レジアスにも云ったように、別に特別なことをするつもりはないのだ。
普通に働き続け、並の人間と同じように生きて。
それで良いしそれで充分だとエスティマは思っている。
が、周りの人間はそうでないのか。そう思い、当たり前かと苦笑する。
似合っていないと本人ですら思っているが、エスティマ・スクライアはミッドチルダ地上部隊のストライカーであり、今は次元世界の中心とも云えるミッドチルダを脅かす結社を専門に相手取る部隊の長だ。
俗に云う英雄というやつなのだろう。
そんな英雄が次に何をするのか。どうしても気になってしまうのだろうか。
……否。
それとも少し違う。レジアスからの問いかけは、父親が子供に将来のことを尋ねるのに似ていた。
そう考え、馬鹿馬鹿しいと嘆息する。
疲れているのかもしれない。そんな風に中将が自分のことを見るはずがないだろうに。
エレベーターが地上に到着する。
フロアを進んで、顔見知りに会釈をしつつ真っ直ぐに外を目指し、自動ドアをくぐった。
瞬間、激しく雨が打ち付ける音が耳へと押し寄せる。
「……酷い雨だな」
『まったくです』
バスでも使って帰ろうと思っていたが、これではバス停まで行くだけで濡れ鼠になるだろう。
運が悪いことに、傘を忘れてしまったのだ。
少しばかり考え込み、エスティマはタクシーを使うことにした。
迎え――フェイトかはやてを呼ぼうとも思ったが、流石に悪い。
ラウンドシールドを頭上に展開して雨を弾きながらロータリーに進むと、タクシー乗り場にたどり着く。
既に本部から移動しようとする者は少ないのか、タクシー乗り場に人影は少なかった。
常駐しているタクシーの数も少ない。その中の一つに駆け寄ろうとして、
……水溜まりを盛大に吹っ飛ばしながら、ドリフトでエスティマの前に割り込んできた一台に足を止める。
「……客に餓えてるのか?」
『運転技術は確かなようです。過激ですが』
「乗りたくねぇ……」
などとSeven Starsとやりとりをしていると、タクシーの後部ドアが開いた。
「お客さん、どうぞー」
車内から届いた女の声に、おや、とエスティマは眉を持ち上げる。
女性の、それも若いタクシー運転手とは珍しい。
微かな好奇心から、エスティマはさっきまでの気分を忘れて車へと乗り込んだ。
「お客さん、どこまでですか?」
「湾岸地区にある管理局の隊舎まで」
「ああ、六課の人ですか? 了解了解ー」
扉を閉めるのもそこそこに、タクシーは発進する。
さっきのドリフトから打って変わって、酷く丁寧な運転だ。
揺れも荒々しさとは無縁な穏やかなもので、疲れていれば眠気を誘いそうな具合。
そうしていると、だ。
タクシーは横道に逸れて、六課まで伸びているルートから外れてしまう。
しかしまぁ良いかとエスティマは諦めると、シートに背中を預けて窓の外へと視線を移した。
別に金に余裕がないわけではないのだし。短いドライブと思えば、まぁ、と。
そんなことを思っていると、今度はタクシーが停車した。
信号で止まったわけではない。不意に路肩へと車を寄せたのだ。
何事だよとエスティマが思っていると、何かの影が街灯の明かりを遮って、タクシーの車内に暗闇を満たした。
相傘をした一組の男女。顔まではっきりとは分からないが、薄明かりに浮かぶ上がる身体のラインでそれだけは知ることができた。
が――
「失礼するよ」
ドアが開かれ、車へと乗り込んできた男の声に、顔に、エスティマは目を見開く。
後部座席には男が。助手席には女が。
間近まで二人が迫り、ようやくエスティマは彼らが何者か気付くことができたのだ。
こんなことになるだなんて想像できなかったというのもあるが。
「こんばんは、エスティマくん」
エスティマの隣へと乗り込んできた男。
薄笑いを浮かべた狂気の科学者、ジェイル・スカリエッティがそこにいた。
リリカル in wonder
「――ッ、Seven Stars!」
「ああ、待ちたまえ」
咄嗟にSeven Starsを握り込み、セットアップを行おうとしたエスティマをスカリエッティが手で制す。
「私に争う気はないよ。
そもそも、君と至近距離で顔を合わせることは私にとっての敗北だ。
武闘派の君に勝てるだなんて、微塵も思ってはいないからね」
「……まずはその余裕を消してからほざけよ」
「ハハ、それもそうだ。失礼したね」
「仲が良いねー、ドクターにエスティマさん。
んじゃ、出発しますよー」
剣呑な雰囲気を割り裂いて、運転手が声をかけてくる。
今になって気付く。タクシーを運転しているのはセインで、助手席に座っているのはウーノだ。
……勝てる、と判断するのは早い。
まだ外に他のナンバーズがいるかもしれない。
スカリエッティがいるから車ごと吹き飛ばされることはないだろうが、油断はできないだろう。
いつでもセットアップを行える状態を維持しながら、エスティマはスカリエッティへと突き刺すような視線を注ぎ続ける。
が、当のスカリエッティは涼しげな顔で、むしろ愉快そうでもあり、エスティマが向ける敵意を含んだすべてを流していた。
「……どんな茶番だ、これは」
「少し君と話がしたくてね。
それで、今後の方向性を決めようと思っているのさ」
態度をそのままに、スカリエッティは云う。
奴が何を考えているのか分からない。
元々別の世界を覗き見ているような狂人の思考を理解することはできないが、今はそれが輪をかけて酷い。
際限なく湧き上がってくる苛立ちを自制しながら、エスティマはスカリエッティの一挙手一投足に注意を払う。
「では、話を始めようか。
実はね。ずっと君の戦いを見てきたわけだが、最近になって私は君のことが分からなくなってきたのさ。
……なぁ、エスティマくん。君は何を考えているんだい?」
「……抽象的な問いかけすぎるだろ。
それに、お前にそんなことを云う義理はない」
「……ふむ、残念だ」
言葉に嘘偽りがないと示すように、スカリエッティは表情を曇らせる。
そして仕方がないと呟いて、白衣のポケットからおもむろに、一つの物を取り出した。
それは――
「お、お前、何をやってるんだ!?」
薄明かりを放つ、赤い結晶体。レリック。
暴走を抑制するためのケースに入っているわけでもない。
抜き身のまま、スカリエッティはそれを掌で弄んでいた。
もし僅かでも魔力で刺激を与えれば、どうなるか――
怒り一緒に染まっていた思考が、一気に冷やされる。
「冷静になれたかね? 俗に云う脅迫というやつだ。
死にたくなければ、私の問に答えたまえよ」
「……お前も死ぬぞ」
「だからどうしたというのかね?」
レリックの灯りに照らされたスカリエッティの顔。
紅色の光の中に浮かび上がった笑みには、狂気の色が混じっている。
が、それはスカリエッティにとってなんら特別なことではない。
楽しんでいる。自分の命がかかっているというのに、だ。
それだけではない。ここにはエスティマの他に、部下であり娘でもあるナンバーズが二人。
そして街中でレリックを爆発などさせたら、一般市民に甚大な被害が出るだろう。
エスティマだけは稀少技能を使って離脱できるかもしれない。
しかし、自分だけが助かったところで、自分以外のことを考えれば――
「……クソマッドが」
「褒め言葉として受け取っておこう。
……では、話の続きだ。うむ、私の聞き方が悪かったね。すまない。
では、再び問おう。
エスティマくん。君は、どうしてあんなことを――"自らの身を省みた戦い"をしたのかな?
私には、それが不思議でしょうがないのだよ」
「……当たり前のことだ。誰だって自分の身は可愛いさ」
「そう、当たり前だ。常識だね?
……その常識がつい最近まで欠けていた君が云って良いことではないなぁ、エスティマくん」
「……お前」
「そうだろう?」
エスティマの言葉を遮って、スカリエッティは笑みを深くしながら言葉を続ける。
楽しくてしょうがないのか、呼吸することすらも忘れている有り様だ。
こほ、と小さく咳き込んで、彼は先を続ける。
「自分の身を省みず巨悪を打ち倒さんとする英雄。
聞こえは良いかもしれないが、そんなものは真性の狂人だ。そして、君はそれだった。
……もしや自分が真っ当な人間だと思っていたのかね?
何か一つの性質を追求すれば、人間らしさは失われる。
だがしかし、狂人の性質を保有しながらも人間らしさにしがみついて生き続ける、その矛盾。
その葛藤と紙一重の危うさが実に人間らしい。そのみっともなさが君の魅力だと思っていたが……さて、どうだ。
廃棄都市、そしてトーレとの戦いで、君はフルドライブをなしに戦い抜いた。
身を削ることを由とせず、バランスが完全に唯人へと傾いてしまっているじゃあないか。
私にはそれがどうしても不思議でしょうがないのだよ。
今だってそうだ。なぜ戦わない? 怨敵が目の前にいるのだよ? レリックの暴走などに目もくれず、私やウーノ、セインを吹き飛ばしてしまえば良い」
「ドクター、物騒ですよー」
「悪いね」
セインの冗談めかした言葉に、スカリエッティは軽い調子で応えた。
……意味が分からない。
この問いかけにどんな意味があるのだという。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、エスティマはスカリエッティが何を考えているのか必死に思考する。
狂人の思考を理解できるわけがないと思いながらも、この状況がどうして生まれたのか。
意味さえ分かれば、何かとれる手段はあるはずだ。
そんなエスティマに気付かず、スカリエッティは会話を再開した。
「さあ、答えたまえ。
どのような返事であっても、私は喜んで受け容れるよ?」
「……お前を喜ばせる趣味はない」
云いつつも、エスティマはスカリエッティの問に答えるべく、口を開く。
「……お前に改造されたこの身体。戦えば戦うほどに傷付いてゆく不良品。
それで戦い抜いて……そして駄目になるのが怖くなったんだよ。
……こんな俺のことを心配してくれている人がいる。
その人の気持ちを裏切りたくはないから、俺は二度と無茶はしない。そう決めたんだ」
「……なるほど」
口元を手で隠しながら、スカリエッティは俯く。
が、すぐに顔を上げると、曇った表情でぽつりと呟いた。
「……君は私を倒すのではなかったのかね?」
「倒すさ。皆の力を借りてな」
「自分一人の力で私を倒せるのだとしても?」
「倒せたところで俺が潰れちゃ意味がない」
「今までそれをしてきたというのに?」
「……大事なものが自分以外のすべてというのは、今も昔も変わっていない。
けれどその大事なもの――人が俺を大事だと云ってくれるのならば、俺は彼女たちの気持ちを裏切りたくない。
心を裏切るのは屑の所業だ。想いを弄ぶ人間なんざ、死ねばいい」
「だからそんな自分を殺して、新しい自分に生まれ変わったと云う訳か。
……小さく纏まってしまったね」
最後の言葉は、スカリエッティに似合わない、寂しさを滲ませた調子で呟かれた。
が、それをすぐに打ち消して、満足したようにスカリエッティは頷く。
「理解はできないが納得はしよう。
今も昔も根底の、他人が大事という点は変わっていないと見える」
「いいや、違う。俺が皆を大事にしたいから、そうしただけだ。
結局は俺の自分勝手だよ」
「……狂人の思考は理解できないね」
やれやれと頭を振るスカリエッティを見て、お前にだけは云われたくないとエスティマは思う。
そもそも狂人呼ばわりされている時点で気に入らない。
自分は当たり前のことを当たり前にこなしているにすぎないと云うのに。
人は誰かを思いやらなければ生きてはいけない。
一人で生きて行けるほど自分は強い人間じゃないと、エスティマは思っている。
だから――と彼は考えているが、彼の場合はそれが行き過ぎているのだ。
……一種の呪い。
いつか、かつて相棒と呼んでいたデバイスにかけられた呪縛はそれに似ている。
自分が幸せになるためには、皆を守らなければならない。皆がいなければならない。
ずっと無茶を押し通そうと思っていたのは自分一人を犠牲にして皆を守るためである。
そして今。僅かに柔軟性を帯びたように見えるエスティマだが、その根底は変わっていない。
結局はその守りたい人々に願われて妥協するその有り様は、実に彼らしいと云える。
が、自分以外を守りたいと思い、自分以外を大切に思っている彼の様子に異常な部分は見られない。
それは何故か。
単純な話――当たり前の日常を送ることが彼にとっての宝物であり、それを自ら壊さないために、無意識下で普通を装っているからだ。
誰も気付かない、本人が気付かせようとしていない部分。
その危うさが芽生えた当時は、誰もが心配をしていた。
しかし今、時が経ち――そう、エスティマ・スクライアは擬態が上手くなりすぎたのだ。
故に、誰も気付かない。彼に身近な者で唯一気付けているのは八神はやてぐらいだろう。
その彼女ですら、完全にエスティマのおかしな部分が何かを把握しているとは云えない。
そして皮肉にも、それに気付いているのはエスティマと同類のスカリエッティだけであった。
そのスカリエッティは、
「よろしい。
納得がいった。肯定しよう」
「……何?」
「私は君を認めよう、エスティマくん。
その有り様。その衝動。その渇望。
成る程、私は君の敵であり続けたわけだが、既にそれはノイズでしかないのだね。
今日、君の前に現れたのはその確認だ。
……もう私では、君を輝かせることはできない」
「……何を云っているんだ?」
スカリエッティの言葉に、エスティマは首を傾げた。
云っている意味が分からないのだ。
が、それは当然のことである。
エスティマはスカリエッティがどんな感情を向けていたのか知らない。
彼からすれば今のスカリエッティは、理解のできないご託を並べて一人納得しているようにしか見えないのだった。
愉快犯の狂人。欲望を満たすためだけに動く者。
エスティマの抱くスカリエッティの印象はそれだけなのだ。
故に、
「私、ジェイル・スカリエッティは――
これより自首をしようと思う」
「……えっ」
続いた言葉の意味が分からない。
今、この男はなんと云った?
「下ると云っているのだよ、時空管理局にね。
もう結社など必要はない。私は君を眺めさせて貰う立場に――」
「ふざけるな……ッ!」
スカリエッティが最後まで云うのを待たず、エスティマは爆ぜるように掴みかかった。
レリックがどうのということは頭からこぼれ落ちている。
一瞬で沸点に達した怒りのまま、スカリエッティのスーツ、その胸元を握り締めていた。
血管が浮かぶほどに握り締められた拳に、生地がぎちりと悲鳴を上げる。
間近で視線を交錯させながら、二人はまるで対称的な表情を向け合っていた。
満足したかのようなスカリエッティ。
混乱を瞳に浮かべながら、憤怒一色に染まった顔を見せるエスティマ。
「ふざけてなどいないのだがね」
「もう一度云ってみろ……! お前、今、何を云った!」
「聞こえなかったかね?
自首をする、と云ったのだよ」
「それがふざけているって云ってるんだ!
それ以外のなんだって……!」
ギリ、とエスティマは奥歯を噛み鳴らす。
またか。またこの男は――!
「何か裏があるんだろう。
そうに決まっている!」
「そんなことはない。
言葉の通りだ。私はこれから一人の観客へなろうと思う」
「ふざけるな、歌劇でも見ているつもりか……!
お前がそんなだから、俺は……!」
今までスカリエッティから受けた仕打ちが脳裏を駆け巡る。
その時その時に感じた怒りは深く、蓄積した憎悪は眼前の男を八つ裂きにしてもおつりがくるだろう。
自分は時空管理局の執務官である、という自負がそれを水際で防いではいるが、しかし、そのせいで行き場を失った激情は胸を焦がす。
「……ついたようだね」
そんなエスティマとは対称的に、スカリエッティは呟く。
いつの間にかタクシーは六課の隊舎へと到着していた。
軽い音を立ててタクシーの扉が開く。
先に外に出たウーノは傘を広げると、スカリエッティへと差し出した。
エスティマの手を丁寧に解くと、一足先に彼は外へと出て、ウーノの隣に並ぶ。
張った布に打ち付ける雨。アスファルトが叩かれる音。
車のアイドリング。強い風がそれらを攫う。
それらの騒音が混ざり合った中へと、エスティマも出た。
降りしきる雨がすぐさま髪を濡らして、金糸が水に湿る。
制服が雨を防いでいたのは僅かな間で、すぐに染みが全体へと広がっていった。
じわじわと、蝕むように。
前髪に水を伝わせながら、俯いたエスティマはゆっくりと顔を上げる。
眼前にいる男は自首をすると云っている。
何故? 何故今更そんなことを云う?
お前が簡単に捕まってしまって良いと思っているのか?
そんな簡単に――簡単に――
そんな簡単に今までの努力が――
報われるなんて言葉は勿体ない。こんな達成感もない有り様で――
こんな――こんな――
「……っ、うぅ……!」
呻き声が漏れ出す。
形を持たない思考を胸より這い上がってきた激情が焦がす。
そんなエスティマを、スカリエッティは眺め、僅かな愉悦を見せる。
「君は、意義のある闘争がずっと続けば良いと思っていたのかな?」
「……そんなわけない」
「ならば、私の自首を喜ぶべきだ」
「……そんなこと、できるわけがない!」
雨音を引き裂いてエスティマの怒声が響き渡る。
が、それはすぐに掻き消されて、周囲には再び騒々しさが舞い戻る。
まるでお前の意志など関係がないと嘲笑うように、だ。
這い上がってきた激情が遂に脳を焦がす。
こんな結末は許さない。納得できない。
大勢の人がこの男のせいで苦しんだのだ。
翻弄され、こうあるべきであった人生を歪まされて、変質した。
そんな元凶とも云える存在が、微塵の苦しみも見せず、こんな――
フィアットと送るはずだった長い時間も。
おそらくは友人たちと馬鹿をやれた長い時間も。
ナカジマ家が送るべきだった団欒も。
逃げ出したいと思って、けれど耐え、戦い抜いた長い時間も。
そして――この男の手によって砕かれた、相棒の命が。
これでは、まるで価値がなかったと云われているようではないか。
「何を苦しんでいるのかな?
……良いのかね?」
そうして、スカリエッティは、トドメと云うように最後の言葉を吐き出す。
「ここで私を捕まえないということは、今の状況と平和を天秤にかけて前者を取ると云うことだ。
望んでいたのだろう? 皆が笑い合える日々を。
だというのに迷うということは、君自身がそれを否定――」
「――ッ!」
黙れ、と。
言葉ではなく行動でエスティマはそれを伝えた。
跳ね上がるように右腕を振るい、過剰に握り込まれた拳がスカリエッティの頬を抉る。
酷く不快な感触。それに一拍置いて、雨に塗れた地面へとスカリエッティが転がった。
泥に白衣を染めて、不様に跪く。
しかし、その姿を見ても感慨は微塵も湧き上がってこない。
「俺は……!」
「く、くは、は……!」
「俺は一体……!」
「はは、ははは……!」
「俺は一体、なんのために……!」
「ハハハハハハハ――――!」
雨空へと登る二つの声。
朗々と響き渡るスカリエッティの哄笑に、エスティマの叫びは打ち消される。
納得するべきだ。できるはずだ。
この男を捕らえるために戦い続けてきたのだから、これは喜ぶべきことなのだ。
そう頭では分かっていても、納得などできるわけがない。
スカリエッティを殴り付けた拳がじくじくと熱を持つ。
握り込んだ手はそのままで、爪が皮膚を破って血が伝う。
しかしそれもまた、流れ続ける雨に攫われて無かったかのように消えゆく。
雨が頬を伝った顔を上げ、エスティマは、
「ああぁぁぁああっ……――!」
声にならない声を上げて、行き場を失った感情を吐き出した。