27:『雨と雲』****** ざあ。 テレビの砂嵐にも似た、しかしはるかに柔らかい音。 そんなBGMが、常夜灯が微かに照らす廊下を包んでいる。 夏だというのに、ほの寒い空気。 立ち止まって、窓の外の暗闇を眺める。 星明りどころか、月明かりすら無い空。 暫く前から降り始めた雨は、勢いを弱めることなく依然として基地に降り注いでいた。 そんな空間を、一人カートを押しながら歩くというのは酷く現実味の薄い行為の様な気がして。 今この瞬間、世界には自分ひとりしか存在していないのではないか、なんていう感覚が沸きあがってきていた。 ……まぁ、そもそも自分の置かれている現状が異常に非現実的だ、というのは何度も繰り返してきた自問自答だったのだが。 使い込まれた鋼色の簡素なダイニングカートの上には、湯気を立てる白いポットと幾つかのマグカップ。 ポットの中身は蜂蜜を溶いたホットミルクだ。 ミーナさん達を護衛していたサーニャがネウロイに遭遇した、ということで起きていた娘さんたちは皆出撃して。 まぁ即応できないオレが地上に残ったというわけだ。 皆ユニット穿いてから10秒20秒で出撃できる中、一分二分かかるオレの遅さよ。 マジ遅いです。 遅いからといって、そして何も起こらないことを知っているからといって。 何もしなくて良いわけじゃない。 サーニャとの交信で雨が降る、というのはわかっていたし、そもそも皆が緊急出撃していった時点でぱらついていたのだ。 ならば、何かしら娘さんたちを迎える準備は必要だろう。 濡れて帰ってくるだろうし。 冷えた身体には暖かい飲み物が一番。 個人的には葛湯とかいいと思うんだけどカールスラント的じゃないからな。 そんな訳で、気を取り直して。 カートの車輪が立てる微かな軋音で雨音を乱しながら、レクリエーションルームへと突き進むオレであった。 風流さとはかけ離れてるね。 習慣は、暗い廊下でも自分が何処へ向かっているかを教えてくれる。 やがて、予定通りに辿り着くレクリエーションルームの扉。 輪郭をなぞるように、暖色の光が縁取っている。 カートの前に回り、背中で押すようにして扉を開いた。 手伝いがほしい、と少し思うが。 まぁ一人だけ苦労してないし? よっこらせっと。 ……そういやよっこらしょとか言い始めたらおっさんの始まりだとか聞いたような気が――「――ふふん、幽霊みたいな似たもの同士、仲良くなれるのではなくて?」 小さく扉が軋む音と、廊下のそれよりも暖かい空気が頬を撫でて。 そんな揶揄が耳に飛び込んできた。 発言者はペリーヌ。 対象者はまぁ、サーニャだろう。 ピアノに備え付けの椅子に座りうつむいているサーニャと、それを呆れたような目で眺めているペリーヌ。 ついでに、そのサーニャの背後から睨み付けているエイラを見れば一目瞭然である。 一目瞭然ついでに、何人かの娘さんがたが下着姿なのが目に入る、が――予想していたので別にドキドキすることも無い……うん。 ない。 ないっ! とりあえずペリーヌかエーリカ見ておけばいい。 つるーんぺたーんは守備範囲外なので。 「あら、ヴィルヘルミナさん、それは?」「ホット……ミルク」「ああ、ありがとう、ヴィルヘルミナさん」 二脚あるソファにそれぞれ座っているカールスラント組プラス美緒さん、芳佳とペリーヌとリネット。 少し離れた椅子で寝こけているルッキーニと、それをあやしているジャージ姿のシャーリー。 そして、パジャマ姿のエイラとサーニャ。 ウィッチーズ隊勢ぞろいなレクリエーションルーム。 ミーナさんのお礼を受けながら、カートを部屋の中央へと勧める。 そのやり取りによって皆の注意がこちらに向いてくるのを感じた。 とっさに立ち上がって給仕の手伝いをしようとするリネットを――あの乳でワイシャツ一丁+ニーソとか人が殺せそうな格好だった――手で制してから、マグカップにホットミルクを注いでいく。 立ち上る湯気と、ふわりと漂う独特な甘い匂い。「あら、この匂い……ジンジャー? 気が利きますわね」「……そう」「ヴィルヘルミナ、ペリーヌの分は別にいらないぞ」「む、そんな事ありません。 何を言うんですかエイラさん!」 いや、まぁ気持ちは判らんでもないが、そんなあからさまにペリーヌに敵意を向けるなよエイラ。 そんな、ベーッ、とかせんでも。 まぁ、少しキツい気はするがね。 ペリーヌだってそれなりにサーニャの事考えてんだろ……考えてんだよな? 多分。 内心、溜息をつきながら。 とりあえず五月蝿そうな人の口をふさぐ為に、湯気を立てるマグカップを皆に配っていった。 手渡すときに触れた何人かの指が冷たかったのを感じて。 この選択は正解だったかな、なんて取り留めの無い思考が浮かんだ。 しばし、娘さんたちがミルクを飲む音が部屋に満ちる。 満ちる、というほど音を立てて飲む人は居ないが。「しかし……なんだったのだろうな」「恥ずかしがり屋の……ネウロイ……とか」 ないですよね、やっぱり。 と、尻すぼみな回答をしたのはリネットで。 もともとの質問は美緒さんのものだ。 マグカップを両手で抱え俯いてしまったリネットを励ますように、何かを囁いている芳佳をぼっと眺めて。 自分のマグカップを傾ける。 あー五臓六腑に染みるわぁ。 でも、ちと生姜が強すぎたな……身体暖まるからと入れすぎたか。 大体の展開は知っているし、とくに介入するつもりも無いので、若干離れた場所で壁に持たれかかりながらそのままホットミルクを楽しんでいると。 エーリカとトゥルーデの下着姿二人組が美緒さんの疑問に続く。「というかさー、本当にネウロイだったのかー?」「確かに、姿も見せず、此方に気づいていてなおろくに攻撃も反撃もせずに撤退するネウロイなど……聞いた事が無いぞ」「なんだよ、サーニャの事疑うのかよー!」「そういう訳じゃないけどさぁ」「俄かには信じがたいさ。 ネウロイと出会えば戦いになる、というのが常だからな」「カールスラントでもそうだったし、スオムスでだってそうだったでしょ?」「そりゃ、そうだけどさ……」 二人の言――ともすればサーニャの能力への疑問とも聞こえるそれに、エイラが反応し反論するが。 皆――特に、多くのネウロイと戦ってきたヨーロッパ組にとっては、どうにも今までの経験とかみ合わない相手の行動に違和感を覚えているようだった。 オレからすれば、相手は未知の存在だから何をやってもおかしくは無いだろう、という感覚が大きいんだけれども。 あそこまで非人間的な存在である。 人間の哲学が通用しなくたって、何の不思議も無いのだ。 勿論、大まかな展開を覚えているから、というのもある。 というかそっちの方が影響力は大きいだろう。 大筋は兎も角、小さい部分が――十中八九オレの所為で――変わってきているから、あまり信頼しすぎるのも良くはないのだろうけど。 「あれは」 か細い声。 彼女にとって、あまり気持ちよいともいえない空気の中。 今まで黙っていたサーニャが、口を開いた。 ペリーヌが、あるいは彼女と似たような違和感を抱いてあるであろう娘さんたちが、疑問を多分に含んだ眼差しで、サーニャを見つめる。「……あれは、確かにネウロイでした」「だから、それが勘違いだったのではないか、と聞いているんですわ」「――いや、サーニャがそうだというのなら、そうなんだろう」「坂本少佐?」「夜の空の警戒をサーニャにずっと任せてきたんだ。 そのサーニャが言っているんだ。 なら、あれはネウロイだろう」「ぅん……坂本少佐がそう仰るなら……」 神妙な顔でサーニャの意見を肯定する美緒さんに、詰問にも似たペリーヌの気勢が殺がれる。 ペリーヌ弱っ! 意思弱っ! っていうか美緒さんの意見に左右されすぎだろうこの信者め。 両手でマグカップ握って引き下がってんじゃねえよ。 可愛さアピールしやがって可愛いぞ畜生。 まぁ、微妙に納得のいかない表情をしているので、違和感が解消されたわけではないのだろうけど。 「それにしても、目的は何なのだろうな……」 という、トゥルーデの台詞に集約される。 いや、なんだっけ、確か歌を歌うネウロイだっけか? 訳わからんよね……歌なんて覚えたければラジオとか傍受すれば幾らでも聞けるだろうに。 再び、若干の沈黙に包まれる空間。 それを打ち破るように、ミーナさんが口を開いた。「なんにせよ、ネウロイが何とは明確に解っていない以上、この先どんなネウロイが現れても不思議ではない」「そうだな。 それに、一度仕損じたネウロイが連続して現れる可能性は経験から言っても極めて高い」「そう。 だからね」 トゥルーデの指摘に対し、一つ頷いてから。 突然、あるいは予想通り二人はオレのほうを向いた。 えー。 これはやっぱりアレですか。 アレなのか。 魔導針使えるってあたりで大体予想付いてたけどやっぱりそうなんですか「当面の間、夜間戦闘を想定したシフトを組もうと思います。 サーニャさんと――ヴィルヘルミナさん」「はい」「……ん、……はい」 続く言葉は、ある程度覚悟していたので驚きは無い。 が、それでも若干の緊張と不安は勝手に湧き上がってくる。 若干不思議そうな表情を見せた連中――主にペリーヌとシャーリーには、トゥルーデが小声で魔導針がどうの、と伝えていた。 あと、そこのエイラ。 なんでそんなにオレを気に入ってるのか解らんがいちいち嬉しそうな顔をするな。 お前が夜間哨戒班に立候補するつもりなのは良く解ってるから。「これから暫く、貴女達を夜間専従班として任命します」「――ああ、ミーナ。 宮藤もだ」「ふぇっ!? わ、私もですか」 そして、唐突に美緒さんに指名された芳佳が情けない声を上げて。 驚いたように声の主を見つめた。 そんな芳佳の抗議の視線を無視しながら、ある意味予定調和の言葉を放つ。 あと、そこのエイラ。 露骨に難しい顔をするな。 オレの立ち位置からだと普通に観察できるんだぞ。「お前は今回の戦闘の経験者だからな」「えぇっ!? でも、私ただ見てただけで――」「それに、お前夜間戦闘訓練はまだだったろう。 いい機会だとおもうぞ」 実戦に勝る訓練は無いからな、はっはっは、と笑うわれらが戦闘隊長殿。 いや、その考え方は正しいように見えて大分危ういと思うんですけれど美緒さん…… そんなオレの考えを他所に、ミーナさんはふむ、と一息考えて。 結論は一瞬で出たようだった。「……そうね、それじゃあこの三人で」「あ、あの、でもむがぐっ」「はいはいはいはい! 私もやる!」 抗議を続けようとした芳佳の頭を押さえつけるように、背後からエイラが乗り出して挙手と立候補。 つぶされた芳佳は若干可哀想だったが、まぁ、諦めてくれ。 隣のリネットが慰めてくれてるから。「四人……昼間の層が薄くならないかしら」「三人でも編隊は一応組めるからな」「四人! 四人ならシュバルムも組めるし、ペアで二交替だってできる! それに、本格的な夜間哨戒をやったことがあるのがサーニャだけじゃ負担が大きいだろ?」 珍しく、鼻息を荒くして主張をするスオムス娘に、指揮官組はふと、顔を見合わせ。「……ふむ、それもそうだな。 では昼間が八人――丁度二個小隊か。 編成はどうにでもなるんじゃないか、ミーナ」「そうね……じゃあ、エイラさんも含めて四人で」 ソファーに手をつきなおしたエイラの真剣な顔が若干の笑みに変わる中、解散が宣言される。 トゥルーデとシャーリーが保護者よろしく、寝こけているそれぞれの担当を担いで退室して行ったり、各々の行動を取る中。 オレは皆のカップを回収しながら――どうやら飲み残しは無い様で、安心した――とりあえず居残る様子の芳佳達の方へと歩み寄る、と。「すみません……私がネウロイを取り逃がしたから」 そんな謝罪と、それに合わせて申し訳なさそうな表情のサーニャに迎えられた。 いや、別にあやるような事は無いと思うぜ? というか一人でネウロイと相対するとか結構厳しいと思うんですけどね、オレとしては。 事前にそうじゃないかなぁ、と予想できてたから夜番に選ばれたのも驚くことではないし。 「う、ううん、違うの、そういう意味で言ったんじゃないから」「ん……、問題、無い」 と、芳佳さんものたまっておいでですし。 とりあえず頷きながら同意しておく。 それでも、若干晴れないサーニャの表情と空気。 それを誤魔化すかのように、エイラが不満げな表情と溜息と共に、文句を吐いた。「それにしても、なんだよツンツンメガネ。 幽霊みたいだなんて酷いよな」「うん、私もちょっとそう思う」 ペリーヌさんって時々意地悪だよね、と眉根を寄せて同意する芳佳さん。 ああ、最初の台詞ですか。 確かに静かで影薄いかもしれないけど、ああいう言い方は無いとはオレも思うがねぇ。 あの子はなんていうかその辺で人間関係苦労してそうである。 日本人だからそう思うのかも知らんけれども。「ううん、気にしてない……私、昔からよく言われるから」 もっとも、揶揄された当の本人はそんな事を仰っているのだが。 よく言われるからって気にしないってのもどうかと思うぞオレは。「それに、クロステルマン中尉はきっと、私にもっと積極的にならないと駄目、って言ってくれてるんだと思うの」「えー? そうかな……」 二人――特にエイラは同意しかねるのか、難しい顔をするが。 サーニャ本人はそう信じているようだった。 えー……流石に良い子過ぎませんかこの子。 なにこの聖人君子。 天然記念物指定して保護してあげなきゃいかん気がする。 結局その後も、当たり障りの無い会話が続いて、その晩はお開きになったのだが。 はてさて、夜間哨戒か。 どうなることやら。****** 山盛り一杯の――リネットの実家から送られてきたという――ブルーベリー、といった健康的な朝食の後。 夜間専従班に指名された四人が、戦闘隊長である坂本美緒から受けた最初の任務は、至極簡単なもの、すなわち――「夜に備えて寝ろ!」 ――であった。 もっとも、就寝時間が若干遅れたとはいえ。 一名を除き、緩いながらも軍隊という環境下で健康的な昼型生活を続けてきた彼女達である。 その一名も、昨晩は何時もより大分早い時間にベッドへと入ることが出来たのだ。 すぐに眠れる訳が無かった。 結果として、夜間専従班詰め所として指定されたサーニャの部屋に篭ることとなる。 閉め切られたカーテン。 隙間からは光が入ってこないように、呪符めいたシーリングが施されていた。 面積は他の部屋と似たようなものの、チェストや机、数は少ないものの少女らしい小物などがシルエットとなって浮かび上がる薄暗い室内。 押しかけてしまい、その上部屋を閉め切ってしまった事を芳佳が気にしたものの。 当のサーニャは何時もと同じだから、と気にも留めては居なかった。 カーテンとシーリングの隙間から微かに光が差し込む窓の脇。 柔らかなカーブを描いたフレーム以外に飾り気の無い、パイプベッドの上に寝転がったエイラは、床に敷かれた毛足の長いカーペットの上、クッションを抱えて座り込んでいるヴィルヘルミナを胡乱気に見つめていた。「――なあ、ヴィルヘルミナ」「……ん」「もっと脱げよ。 見てると暑いんだけど」「……断、る」 そう、何時ものぶつ切りの言葉と共に睨む様な視線を返し、すぐにまた虚空へと視線を戻した当人は。 流石に何時ものブレザーは脱いでいたものの、依然として黒いタイツや長袖のカッターシャツを着ており、露出肌面積は最小限である。 時節は八月も中ごろである。 海沿いであるために極端に暑いということも無いウィッチーズ基地周辺であったが。 それでも、天気のいい真昼間に閉め切った部屋は、四人の体温の所為もあって、単純に言えば蒸し暑くなってきていた。 ヴィルヘルミナを除く三人は、それぞれエイラがパーカーじみた寝巻き、芳佳が作務衣、サーニャが下着に黒いキャミソール一枚と言った格好である。「……任務、中」「妙なトコばっかカールスラント人だな、お前」 不満げな小さな鼻息と共に、エイラがそんな悪態をついて。 暇そうに視線を泳がせた。 そらしたその視線の先。 ベッド脇に座り込んでいる芳佳と、その傍らに居るサーニャは、ふたりで床に広げられた本を覗き込んでいる。 脇に置かれたもう一冊の本。 扶桑語で記されたその題名は、それが数学の教本であることを主張していた。「それにしても、お前も真面目だよな」「私、此処に来る前は学校に行ってたから……先生に宿題出されちゃって」 困ったように眉根を寄せつつも笑う芳佳を見て。 大変だな、と感想を漏らしてから、彼女が今取り組んでいる問題を眺めた。 勉強してると眠くなってくるから、という芳佳が始めたそれ。 ノートには幾つかの数字と、直線で構成された三角形。 傍らには定規やコンパス、分度器。 今やっているのは一片と二点から、三角形の最後の一点を求める問題。「ま、数学や図形は航空歩兵の必須科目だかんな。 一人で飛んでて迷子になんないためにもちゃんとやっとけよ」「うん。 えーっと、で、交点を求めるにはどうすればいいんだっけ」「さっきもやったとおり、コンパスを使って二点から同じ半径の円を描いて……」 隣に座り込むサーニャは教師役で。 つまりサーニャを芳佳に取られた形になっているのも、エイラが暇そうにしている原因の一つになっていたのだが。 彼女達がやってること自体は至極まともかつ真面目な事であるし。 邪魔したところで何か有意義な事を代わりに提案できる訳でもない。 よってエイラは一人ベッドでごろごろしている訳なのだった。 それでも手持ち無沙汰な事には変わらず、シーツに顔を埋めながら声にならない唸り声を上げて――ふと思いついたように顔をあげる。「なぁ、ヴィルヘルミナ、暇だったらタロットでもやろう」「……タロット……?」「ああ。 占いだよ。 私の魔法は未来予知だから――ま、ホンのちょっとの先だけどな」 ベッドへと近づく、カーペットが擦れる静かな音を聞きながら。 ベッド脇においてあった彼女の小物入れから、角がすりきれつつある、長方形の紙箱を取り出す。 大きさは掌よりも若干大きい程度。 魔法陣にも似た複雑な模様で飾られたその中から取り出したのは、箱とほぼ同サイズのカードの束だ。 その束を手馴れた手つきで大小二つのデッキに分け、多いほうを箱に戻した。 ベッドの上に置かれたカード。 片面には、紙箱と似た点対称の模様が描かれ、逆面には人物画が描かれているのが見える。 大アルカナと呼ばれる、一般にタロットカードとして広く認知されている物だ。 箱に戻したほうは小アルカナである。「本格的にやってもいいんだけど、組み合わせたカードの解釈とか面倒くさいからな」 そんな呟きを対面、ベッドの上に腰掛けたヴィルヘルミナに零しながら。 流れるようにデッキをシャッフルする。 鉛筆の音に加え、紙と紙が擦れる微かな音が部屋に暫く満ちて。「よっ……と。 じゃ、一枚引けよ。 引いたカードによって、どんな未来か来るか解るかも知んないぞ」 そう、目を薄い笑みの形に歪めながら、切り終わったデッキをベッドの上に置いた。 ん、と何時ものとおりの肯定の呼気を零したヴィルヘルミナは、そっと指先をデッキに伸ばす。 体重移動がベッドのスプリングを微かに軋ませる。 ただの遊びと解っているためか、その流れに躊躇は無い。 そうして、山の一番上から引かれたカード。 眼前へと持って行き、確かめた絵柄は――「――白、紙」 静かに呟いて、ヴィルヘルミナはシーツの上にそっとカードを置く。 そこには、言葉の通り、何も描かれていなかった。 覗き込んだエイラの目に映るのは、まっさらで、真っ白な無地。「え? あれ、ごめんごめん。 それ予備のカードだ」 一瞬首を傾げたものの。 原因に思い当たった彼女は、そのカードを取り上げて、さらに一瞬思案。 そのまま、カードを持った手を対面に座る少女へと差し出した。 「やるよ。 要らないし……それに、未来が解んないとかちょっとカッコいいかも知んないぞ?」 何でも出来るって事かも知んないしな、と続ける彼女の言葉を受け止めて。 じっとその差し出された手とカードを見つめていたヴィルヘルミナは、頷きとともに白紙のカードを受け取った。 その所作を確認してから、エイラはデッキを再度きり始める。 一番最初に引いたカードの絵柄の解釈で先を見るのである。 ならば、引きなおすにはもう一回シャッフルしなければならなかった。 そうして、やり直しの結果引かれたカードは、雷に打たれ砕け折れる石造りのタワー――”塔”、それも逆位置。 通常、アルカナは逆位置であれば、正位置のほぼ反対の意味を持つが、この絵柄だけは違う。 それは、簡潔に言えばなにをどう解釈しようと、もうどうしようもないほど悪い運勢であることの示唆だ。 絵柄を確認した二人の動作が硬直し、お互いに顔を見合わせる。「……最、悪?」「ええと……まぁ、あれだよ。 占いってのは、良い結果が出たら強気に行って良くて、悪い結果が出たら気をつけるもんなんだ。 ヴィルヘルミナは変な悪運の持ち主だから気をつけてればそんな悪いこと起きないってば」 毎回無茶してるけど、取り返しのつかないことには一度もなってないし? そんな精一杯のフォローを受け止めて、ヴィルヘルミナは目を閉じて小さな溜息一つ。 と。 その溜息をかき消すかのように、隣から声がかかった。「あれ、占い?」「何だよ宮藤、もうギブアップか?」「えへへ……ま、まぁ、今日の分はサーニャちゃんのお陰で終わったから」 苦笑するその表情からは、それが本当かどうかは読み取れなかったが。 まぁ、どうせ後で苦労するのは芳佳である、と結論付けて。「サーニャにきちんと感謝しとけよ?」「うん、ありがとうサーニャちゃん」「いいえ、宮藤さんの飲み込みが早かったから……」「ううん、そんな事無いよ。 とっても解りやすかった!」 明るく笑いかける芳佳に見つめられ、サーニャは微かに頬を染めて俯いてしまい。 そんなサーニャを見られるのがあまり面白くないエイラは、とりあえず注意を逸らせようと、ベッドを軽く叩いた。「なぁ宮藤、お前もやるか?」「いいの?」「減るもんじゃないし、どうせ暇つぶしだからな」 そう言いながら、再びデッキをシャッフル。 ヴィルヘルミナと入れ替わるようにベッドを軋ませた芳佳の前に、デッキを置いて。 その彼女が引いたタロットの絵柄、正位置のそれは、馬に跨った女性二人とそれを照らす大きな太陽――つまり、”太陽”のアルカナだ。 覗き込んだエイラは、それを見て一瞬思案。「んー……宮藤、今なんか凄く会いたい人とか、手に入れたいものとかある?」「えっ……うん、会いたい人なら、居るけど」 その問いに、思わず芳佳の頭の中に浮かんだのは父の顔と、此処に来るきっかけとなった手紙の内容で。「じゃ、よかったな。 もうすぐその人に会えるって」「そうなの?!」 続く言葉に喜んで、若干身を乗り出してしまったものの。 やはり無理だと理性が告げる。 それはやはり、彼女の父親が、すでに他界しているためだ。 いくら魔法という奇跡の力があるからといって、覆すことの出来ない事実というものが存在する。「……でも、やっぱり無理だよ」「なんでだよ?」「だって、私の会いたい人って……」 疑問に答える、尻すぼみに消えて、続かない言葉。 そして、それを反映する、いつもより下がった眉尻。 芳佳の出自を思い出したエイラが、大きな溜息をついて上体をベッドに投げ出す。「そんな事言われてもなぁ……違う解釈にも取れるけどさ」 そのまま、目を閉じてしまう。 その耳に、クッションを抱えなおしたヴィルヘルミナの欠伸の音が届いて。 噛み殺したものの、やはり隠しきれるものでもなく。 それを眺めていたサーニャも、つられた様に小さく欠伸を漏らした。 誰が最初に眠りに落ちたのか、誰が最後だったのかは誰にもわからない。 ただ、カーテンの隙間から差し込む光が朝日ではなくなってきた頃。 何時もの一人分、極稀の二人分ではなく、四人分の寝息が、サーニャの部屋に静かに響いていた。****** オレの眼前。 真っ暗な空間に、ぽつぽつと白い光がともり始める。 誘導灯。 それが描き出すのは滑走路の輪郭だ。 昼間は晴れていたらしいものの、夕方から増え始めた雲は消え去ることは無く、結局夜には昨日から続いての曇天。 最後に点いたハンガー脇の照明によって見える滑走路の周囲に広がる海は見渡す限り真っ黒で。 夜の海が凄く怖く見えるのは体験済みだったから驚きはしなかったが、やはり忌避感の様な物を覚えてしまう。「……っ」 四人分のストライカーユニット、それぞれ個性のあるエンジン音に混じって。 左から、息を呑む音。 月明かり、星明りも何も無い暗闇を見て、明かりに満ちた格納庫から出てきた芳佳は立ち止まってしまったようだ。 まぁ、初体験なら怖くても仕方ないかもしれない。 見れば、肩が小刻みに震えている。「ふ、震えが止まんないよ……」「なんで?」 疑問の声と共に、右に立つエイラが芳佳の方を眺める。 何時もの夜間飛行組にとってはありふれた光景なのだろうが。 芳佳の目線の先。 近くに大都市があるわけでなし、光源の殆どない空は、文字通り暗黒といって差し支えないだろう。「夜の空がこんなに暗いなんて知らなかった」 ……ああ、まあそうだろうねぇ。 夜の峠も最初は超怖かったからね。 急カーブとかマジ怖かったからね。 昼間にリハーサル走行しててもお先真っ暗感が半端無かったからね。 それと比べれば、夜の空を飛ぶというのはあまり恐怖を感じないというのが本音である。 崖やガードレールはないし、対向車は来ないし、スピード違反しても捕まらないし。 峠より百倍は気分的に楽そうです! 慣れれば楽しかったしね。 だが、それを知らない年頃の少女にはちょっと厳しいかもしれない。「ああ、そっか、夜間飛行初めてだっけ」「無理なら、やめる?」 エイラと、その向こうから問いかけるサーニャの声は、何時も以上に心配気だ。 流石にこれだけ怖がってるとオレも心配になってくる。 だから、というわけではないが。 芳佳の前に手を差し出してやる。 「……手」「え?」 オレ自身、どうしてそうしようと思ったのかは解らない。 どうせ、サーニャとエイラ、二人に手をつながれて飛ぶのはわかっているのだから、何も、自分から動かなくてもいいはずなのに。 ただ、なんとなくそうしても良い様な気になってしまっただけのことだから。 「手……繋ぐ」「あ……うんっ!」 差し出した手が、オレのそれよりも幾分温かい芳佳のそれに握られる。 震えを誤魔化すように強く握ってくるその手を感じながら、まぁこれもいいかな、等と思っていると。 回転数を上げたエンジン音と、エイラに催促されてしまった。「む……ほら、ヴィルヘルミナも芳佳もそろそろ行くぞ」「え、あ、もうちょっと?!」「なんだよ……ヴィルヘルミナは良いか?」「ん……魔導針、出す……から」 慌て喚きながらも手を離さない芳佳を放置して、目を閉じる。 意識を集中して、今まで何度も繰り返してきた通りに脳裏に描き出すのは、魔導針の幾何学模様。 ここ二週間ほどしっかり練習したため、発動自体は慣れたものだ。 心中に現れる、湖面のような、視覚聴覚にも似た感覚。 それが焦点を結ぶと同時に目を開けば、視野の隅には緑色の光が微かに浮かんでいた。 相変わらず送信は上手く出来ないけれど、受信帯域の調整は随分と楽に出来るようになったから、過度の雑音に悩まされることもない。 ふと、仮想の湖面、中央右側がすこしだけ揺らぐのを認識する。 それは、サーニャからの信号だ。 チャンネルは何時も使っているそれと変わらないし、それを使うことを確認するのも何時ものことである。「……あ、ヴィルヘルミナちゃんもそれ使えるんだ」「ん」 仮想の湖面に意識を取られたため、芳佳の言葉は軽く受け流す程度になってしまったが。 気にしてない様なので……まぁいいか。 とりあえずサーニャに頷きを返して、了解の意を伝える。 そのやり取りを確認してか、エイラが再度エンジンの回転数を上げた。 離陸用の魔方陣が、滑走路に描き出される。「よし、じゃー、行くぞ」「あ、その、こ、心の準備が!」「宮藤待ってたら夜が明けちゃうぞ……ほら、ヴィルヘルミナも宮藤なんて放っておけよ」「ん」「あ、えぇ、ああっ?!」 エイラの言うとおり、心の準備が決まるのを待ってたら朝が来そうなのでとりあえず加速を開始する。 芳佳を引っ張る形になっているが、どうせ加速自体は彼女の零式の方が上なのだ。 繋いだ手を離さないで、芳佳を引きずるように滑走路を走れば、すぐにそれは併走へと変わり、やがて両足が大地から離れる何時もの感覚が訪れた。 少しだけ先行するサーニャとエイラの翼端灯を見失わないように、黒い雲目掛けて、空を駆ける。 夏も半ばとはいえ、肌を撫でる潮風はシャワーを浴びた後だと言うことを差し引いても涼しく感じられた。////// 手の平に芳佳の体温を感じながら、雲の中を昇っていく。 肌に粘りつくような、濃密な湿度。 急速に湿っていく、肌と髪の毛。 まぁ、雲の中に居るのだから当たり前なのだが。 視界はゼロだ。 どこが上で、どこが下なのか。 本当に昇っているのか、本当は落ちているのか。 空を飛ぶという独特の浮遊感が加わり、自分の感覚が信じられなくなってくる。 それでも、オレの頭には魔導針がある。 曖昧とは言え、若干距離をとって周囲を飛ぶサーニャ達との彼我の位置関係が確認できる事実は、自分が正しい軌道を飛んでいるということを確信させてくれた。 芳佳にはそれがない。 だから、少しでも安心させてやろうと、手を強く握り返してやると、必死に握り返してきた。 案外可愛いかもしれん。 それにしても、芳佳さん、もうちょっと早く飛べませんか……怖いのは解るけど、貴女に速度あわせるの超しんどいのですが。 さっきからフレームアウトしそうでドキドキなんですが。『もうすこし我慢して……もう、雲の上に出るから』 イヤホンから響く、サーニャの静かな声。 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、急に視界が開ける。 雲を抜けたのだ、と理解するよりも早く。 眼前に広がる光景はオレの意識を圧倒した。 ――視野いっぱい、見渡す限りの白い雲の海原。 中天に輝くほぼ満月に近い月が、太陽のそれとは違う柔らかい光で世界を映し出す。 響くのは、自身の呼吸と、魔道エンジンの唸りだけ。 彼方まで広がる穏やかな雲海と、天球を埋め尽くす数の星星が、そこにはあった。「わ……わぁ」 オレの手を握る芳佳の力が抜けて、するりと解かれて。 仄かに青く輝くきらめき――エーテルの残滓が上昇していく彼女の軌跡を空に描いた。「すごいなぁ! 私一人じゃ絶対こんな所まで来れなかったよ!」 あんなに怖がっていた様子など何処吹く風とばかりに、そのままくるくると宙返りやローリング等を始める。 そのたびに、ストライカーユニットの整流翼、翼端につけられた緑と赤の夜間灯とエーテルの光がその残像を残した。 「まったく、あんなに怖がってたのにな。 現金な奴だ」「……ん」 いつの間にか、サーニャと共に寄せてきていたエイラが、獣耳の方にについた水滴を弾きながらそんな呟きを漏らす。 同意はする――でも、この光景を見れば、あんな風になる理由も解らないではない。 煌々と輝く月光にも関わらず、地上で見るよりもはるかに鮮明に見える星空と、今度は八の字飛行を始めた芳佳を見ながらそう思う。 オレも、もっと若かったら一緒になってはしゃいでいたかもしれない。「ヴィルヘルミナちゃん、サーニャちゃん、エイラさん、ありがとう!」 一通り飛び回って多少頭が醒めたのか、芳佳がこちらに速度を合わせて併走する体勢に入って。 両手を広げて、満面の笑みを浮かべた芳佳の嬉しそうな声と共に、夜間哨戒の一日目は過ぎていった。--------一人称書くのが超辛いんですけどだれか助けてくだちぃあと、寝室でのサーニャの服がスリップなのかキャミソールなのか解らなかったから調べた。さりげなく一番エロい服装だよこの子!