Episode 5 Over the Rainbow26:「彼女と夜」****** 何時だったか、問われたことがある。 ――夜の空を飛ぶのが怖くないの? それは夕日の差す魔女の訓練校の廊下。 ネウロイと交戦状態に入ったオストマルク、サーニャにとって第二の故郷ともいえるウィーンから逃げ出すようにオラーシャに帰国して。 陸軍に志願兵として受け入れられ、その適正を買われてナイトウィッチとしての訓練を始めてからしばらくした日のことだった。 不思議なものを――あるいはもっと直接的に、自分には理解できないものを見る目で、自分よりも年上の魔女に投げかけられたその問いに、サーニャは少しだけ狼狽したものだ。 怖い、と感じたことも確かにあっただろう。 寂しいと感じたことも。 だけど、問いを放った先輩の魔女には、否定のただ一言だけを返した。 まだ幼いサーニャにとって怖いのは、両親と離れて空を飛ぶこと。 寂しいのは、両親と離れて空を飛ぶこと。 暗闇を飛ぶことに関して、初飛行の際の、初心者にありがちな緊張以外に、恐れを感じたことはほとんど無かったと言ってよかった。 別にそれは、愛する父母を護りたいという彼女の未熟な正義感による誤魔化しなどではなく、ただ、本当にそうだっただけの話である。 夜の空が怖い。 情報としては理解できるが、感覚として理解できない彼女が返した短い答えに、先輩の魔女はなんとか自分の理解できる概念を引き出そうとしていた。 ――それは、魔導針があるから? サーニャの魔法。 レーダー魔導針の生成と、その効果の増強。 夜を専門に飛ぶ魔女、ナイトウィッチに必須とされるその魔法は実際のところ、実に戦術的な意味合いで必要とされている。 夜は暗い。 夜の帳は容易に視界を黒く覆いつくす。 黒はネウロイの色と同色であり、宵闇の中では、特に目が良いとされる航空歩兵の目ですら、視認は困難を極める。 ネウロイがビームや曵光弾を放てば話は別だが、それらは攻撃のために放たれるものであり、つまり何がしかの損害を被る可能性を意味する。 到底容認できるものではない。 その点、レーダー魔導針による探査は精緻さにはやや欠けるものの、彼我の位置関係を計るのには非常に適していた。 しかし、それは暗黒の空間を飛ぶのに、なんら寄与しない。 効果範囲内のどの辺りにどのくらいの大きさのものがどの程度の速さで動いているか。 判るのはその程度である。 無線に使われている周波数帯の電波を拾う、という副次的な効果により自分の現在地を割り出したり、魔法力が尽きそうな時に着陸できそうな場所をすぐに見つける事くらいは出来たが。 だから、その問いにもサーニャは否定の答えを返す。 それを受け取った魔女は、不快ともとれる表情をかすかに浮かべる。 サーニャが言葉少なな所為もあるのだろう。 人見知りが過ぎて、先達に対して愛想が悪いと取られているのかもしれない。 先輩の魔女は、疑問と否定の視線をもはや隠そうとせずに、最後に何故、と聞いた。 夜の空。 上も下もわからず、黒で塗りつぶされているがゆえに地上も見えず、高度も、友軍も、敵も、何もかもが見えない空が、何故怖くないのか。 無遠慮な視線と発言をぶつけられたサーニャは、それでも律儀に、素直にサーニャは答えを返す。 その短い答えを聞いて、溜息一つ。 呆れたように、揶揄するように年上の少女は言った。 ――貴女、まるで幽霊みたいね。****** そこまで思い出したところで、ごう、と肌に触れる風の質が変わった。 ブリタニアの雲は厚く、抜けるのには短いとはいえそれなりに時間がかかる。 身体に感じる雲独特の抵抗が薄くなったことで、サーニャは回想をやめて目を開くことにした。 彼方まで広がる、青白い雲海。 頭上の月光に照らされた自身の銀髪が、目の前で露を光らせている。 しっとりと湿った衣服が高空の気圧と夜の風で乾いていく肌寒さを感じながら、彼女はフリーガーハマーを持たない左手で髪の毛の水滴を払った。 と、側頭部、本来の自分に無い部位にむずがゆい感触。 使い魔との合一により生じている黒猫の耳に、水滴が滑り込む。 背筋をぞくりとさせるその刺激。 脊髄反射に応じて耳が小刻みに振るえ、はじき飛ばされた滴はサーニャの視界の外で月光を照り返し、元々己のいた場所へと帰っていった。 少しだけ冷えた身体を伸ばすように、緩やかにロール。 それなりの期間連れ添ってきた黒いストライカーユニット、Mig60は小柄なサーニャが望む速度で機動を行う。 その過程で、天球を埋め尽くす満天の星空と真円に近い月を一瞥したサーニャの頬が、微かに綻んだ。 深呼吸。 乾いていて、それでいて雨の臭いのする大気を己の内に招き入れながら、雲の中を通っている時の感触を思い出す。 重く、身体にまとわりつくような感触。 あの雲の湿り具合では、そう遠くないうちに雨粒となって地上に降り注いでいただろう。 早めに雲の上に上がってきたのは正解で、そう判断した自分の正しさに一人満足。 まだ夏とはいえ、夜はそれなりに長く、ブリタニアの空は涼しい。 状況によっては何度か基地に戻ることもあるとはいえ、そう何度も濡れて寒さに震えるのは好ましくない。 それは、地上で――基地の滑走路で空を見上げているだろう彼女も例外ではないだろうと思う。「――もうすぐ、雨が降ります」 数え切れないほど行ってきた行為。 経験と習熟がもはや意識せずとも望みの魔法を駆動させる。 こめかみの辺りから伸びる、幾何学的な模様を描き幽かな光を放つ緑の枝葉――レーダー魔導針がその輝きをやや強め、サーニャの言葉を地上、海へと伸びたに基地の滑走路の先端に居るはずの少女へと向けて電波ではなく魔力の波として放った。 不可視の波がエーテルを震わせながら雲間へと消えていく。 それを感覚として理解しながら、やがて戻ってくるはずの、弱弱しい、ノイズ混じりの魔力波を逃さないように少しだけ神経を尖らせた。 待つことほんの数秒。 魔道エンジンの駆動音にかき消されそうなほど弱々しいそれは、しかし確かにサーニャのアンテナに届く。『――■■、サ■■■、■理■■■。 エ■■、■っ■■』 多分に含まれる空電にも似たノイズのお陰で、何を言っているのか理解するのは困難だ。 しかしその魔力の質から、誰が言っているのかは容易に理解できる。 ましてや、今この瞬間地上のウィッチーズ基地でそれを行えるのはただ一人のはずだ。 ならば考えるまでも無く相手の名前が脳裏に浮かぶ。 ヴィルヘルミナ・バッツ。 カールスラント人で、部隊の新入りで、同階級で、年上で、でも小さくて、顔に火傷があって、サーニャよりも口下手で、無表情で。 形容する言葉は色々と思いついたが、今のところサーニャにとって最も正しく思えるのは、あまり覚えの良いとは言えない生徒であるということか。 十日ほど前から始まった、魔導針の習熟訓練。 魔導針の生成には割とすんなり成功したものの、レーダーとして機能させるために必要な、電磁波や魔力波の精密発信、受信時のフィルタリングの習得に難航していた。 発信する電磁/魔力波を、中々安定させることが出来ていないのだ。 放つ波の周波数を一定値に留める事ができず、波長が発信途中ですら容易に揺れてしまう。 そのうえ、会話のように意味を込めようとすると途端に波の力が弱まってしまっていた。 その結果が先ほどの不鮮明な通信である。 通信は単なるパルスではなく持続的に波を発するために、そちらの方に意識を取られて魔導針の制御が疎かになっているのではないか、とサーニャは推測していた。 尤も、断続的に発信するパルスですら数回に一回の割合で”揺れ”や余分な周波数帯の電波まで発信してしまう始末。 雑多な電波を撒き散らされるのはそれを扱うものにとっては非常に迷惑な事であり、その点では持続的に発信を行う際に波が弱くなるのは幸いといってよかったが。 他者に迷惑をかけかねない発信の問題に比べて、受信帯域のフィルタリングはそれほど優先度が高い、という訳でもない。 通信電波を魔力針で拾わなければならないということは無い。 基地や他者との通信は魔力で駆動する高性能なイヤホン型通信機のお陰で行える。 フィルタリングに失敗しても精々が広い周波数帯の電波を拾いすぎて五月蝿く思う程度だ。 それに、ブリタニアという戦線では単機~数機の規模でやってくる大型のネウロイの迎撃が主任務であり、大勢対大勢という物理的にも電波的にも”五月蠅い”大規模な戦場が発生することは極めて希である。 サーニャにっとってはほとんど難なく習得できた技術であるが故に、感覚的な指導しか行うことが出来ず。 習熟には経験を重ねるしかないという結論が出ていて。 とりあえずは、単純な、だだ漏れの魔法力の波ではなく。 少しでも意味の篭った返事が届いたことに満足して、改めて周囲に注意を向ける。 もう何百時間も繰り返してきた夜間飛行。 感覚が告げるのは、異常は無く、何時もどおりの静かな夜だという事実。 フリーガーハマー――小柄なサーニャが持つには滑稽なほど大きな九連装ロケットランチャーの質量に振り回されないよう、己の重心に近づけるようにその鉄の塊を抱いて、再びゆっくりとロール。 ストライカーユニットの整流翼が夜風を切り裂き、唐突に、一瞬だけ小さく笛のような音を奏でたのに少しだけ驚いて。 夜の静けさを不必要に破らないようにロールの速度を緩める。 一人ぼっちで、涼しくて、足元で唸りを上げる魔道エンジン以外の音は聞こえない。 たまにエイラが居るときとは違う、何時もの夜間哨戒。 身体の正面が月に向いたところで、回転を停止する。 目の前には、銀砂を散りばめたかのような星空と、銀色に光り輝く月。 その輝きに少しでも近づければと思い、サーニャはそのまま高度を上げた。 高空での運用に適したMig60の魔道エンジンが、己の好む大気密度に喜びの声を上げはじめた所で、上昇を停止。 背面飛行を続けながら、雲の上ゆえに遮るもののない満天の星空を視界一杯に収めてサーニャは思う。 かつて、訓練校の先輩魔女に告げた言葉。 夜の空が、好きだという言葉。 あの先輩は、夜の空なんて真っ暗で怖いと言ったけれど。 それを好きだなんて、幽霊みたいだと言ったけれど。 ああ、夜の空は、こんなにも静かで、明るくて、こんなにも美しい。 月光に照らされ、青白く広がる雲海を背に、サーニャは飛び続ける。 彼方まで広がる雲海はまるで雪原のようで、それは故郷の冬を彼女に思い出させて。 ふと目を閉じて、己の魔法で魔導針の感度を限界まで上げる。 急激に鼓膜が敏感になっていくような感覚。 魔導針の広大な探査範囲が捉える他のナイトウィッチの反応や、あるいは大陸上空を蠢くネウロイの塊を通り越して、もっと遠くの音が聞こえないかと、意識を澄ましていく。 そして沈黙。 しばらく、何かを待つように耳を済ませていたサーニャの口から、小さな呼気が漏れて。 「――――――――」 その口から柔らかな歌声が零れだした。 透き通るようなソプラノが奏でる穏やかなメロディ。 それは彼女が一番大切に思う歌――父親が自分の為に作ってくれた歌だ。 祈りをこめながら、サーニャは謳う。 魔力の波でもなく、電波でもなく、ただ、自身の声帯を通して出た音が、この広い空を通って愛しい人たちに届くように。 ウラル山脈の向こうに居るはずの彼女の両親が、この静かな夜に安らぎを得ていますように、と。 ******「不機嫌さが顔に出てるわよ、坂本少佐」 かすかな機内灯が飾り気の無い灰色の壁を照らす、輸送機の客室。 向かい側に座る美緒の眉間の皺が先ほどよりも深まっているのに気づいてミーナは言った。 輸送機のエンジン音にかき消されて聞こえないかとも思ったが、中空を眺めていた彼女の視線が自分に向いたことを知って。 美緒は案外耳が良いのね、とぼんやり思う。 目の前の、何時もの白い詰襟の士官服を纏った少女の表情は、時が経つにつれて不機嫌さを隠すことが出来なくなってきていた。 どんな時も豪胆に笑っている美緒にしては、珍しい表情。 理由は考えずとも容易に思い当たる。 ミーナも正直なところ、盛大に溜息をつくか、あるいは愚痴の一つでも零したいところだったが。 美緒の隣で窓の外を眺めながら、ちらちらと困ったような表情で不機嫌な教官を見ている芳佳の姿を見ると、そうもいかないのであった。 親友にして戦闘隊長である美緒相手なら別としても、司令として部下に見せて良い顔と悪い顔がある。「態々呼び出されて何かと思えば……予算の削減だなんて聞かされたんだ。 顔にも出るさ」「彼らも焦っているのよ。 何時も私達ばかりに戦果を上げられてはね」 美緒の苦々しげな表情と声をやんわりと受け止めて、目線を手元の本へと戻す。 別に、美緒の話を軽く聞いているわけではない。 だが、真面目に面と向かって話して良いような話題でもなければ、場所でもなかった。 美緒もその辺はわかっている筈である。 実際、判ってはいるのだが。「連中が見ているのは、自分の足元だけだ」 彼女は、そう吐き捨てるように言わずにはいられなかった。 自分の本心に真直ぐなのは美緒の美徳であり、不器用なところである。 その不器用な部分を好ましく思い、不安にも思うミーナは、だからこそ関心の無さそうな口調で年上の彼女を宥めた。「戦争屋なんてあんなものよ。 もしネウロイが現れていなかったら、今頃あの人達、人間同士で戦いあっているのかもね」「……さながら世界大戦、といったところか」 人類同士が戦いあう。 美緒としては馬鹿げた話だ、と一笑に付したいところだったが。 あの高級将校達の様子を見ると、あながちありえない話では無さそうだ。 その事に気づいた彼女は軽く苦笑を浮かべる。 何時か、地球上からネウロイが居なくなったその後――時の為政者が、そこまで愚かではなかろうと望むばかりだった。 美緒には、自身は軍人であるという意識がある。 様々な特例を許されている魔女とはいえ、仮に戦えといわれれば取れる選択肢は少なく、本意にそえない結果になる可能性は高い。 だが、隣で夜空を眺めている少女――恩人である宮藤博士の忘れ形見に、人類同士の戦争などという不毛な経験をさせたくは無かった。 と、そこまで考えて。 美緒は、先ほどから窓の外を眺めながらも様子を伺うように時折目線を彼女に移していた芳佳に漸く気づく。 仄暗い中、何時ものセーラー服の白さが浮いていた。 その姿を見て、不愉快さにいささか近視眼的になっていたことを悟り。 内心で親友の心遣いに感謝しつつ、ふむ、と一つ息を吐く。 直前まで考えていた暗い思考を棄却。 多少なりとも心配をさせた分もこめて、美緒は語りかける。「すまんな、宮藤」「ふぇっ?」「何だその気の抜けた返事は。 ……いや、折角だからブリタニアの町を案内してやろうかと思ったんだが、予想外に長引いてしまったからな」「い、いえっ、平気です! それよりも、私は……」 そこで、芳佳は言葉を切って。 逡巡を告げるその視線を受けた美緒はうなずきを返した。 余りほめられた事ではないが、今この場では今更な感じが否めない。 不安を招いた張本人として、責任は取るつもりだった。「……その、軍にもいろんな人が居るんだなぁ、って」「まぁ、な。 だが、勘違いするなよ宮藤」「?」「彼らと私達では、見えているものや背負っているもの、それに対してとり得る選択肢が違う。 それだけのことだ。 皆思っていることは一緒――ネウロイを倒して、平和を取り戻す。 だから、安心しろ宮藤」 そう言葉を締め、小さく笑顔を浮かべた美緒を見て、安心したように元気に返事を返す芳佳を眺めながら。 本当に、そうあって欲しい――そうで無ければ多くの兵士達が救われない。 扶桑海事変から戦い続けてきた美緒は、その悪戯に不安を招くであろう思考を飲み込んだ。 そんな美緒の内心も知らず、再び視線を窓の外、暗く広がる雲海と星空へと向けた芳佳は何かに気づいたように首をかしげた。 耳を澄ますかのように、目を閉じて。 確信を持ったのか、すぐに目を開けて、美緒とミーナのほうに振り向く。「あの……なにか聞こえませんか?」「ん? ああ、これは……」「これは、サーニャさんの歌ね」 芳佳の問いに答えようとして、確認のために意識を集中しようとした美緒を遮って、ミーナが言った。 会話をやめて見れば、容易に聞こえる。 機内スピーカーから流れる、穏やかで、優しげな歌声。 歌詞も無く、伴奏も無いその独唱を奏でる声は、機器を通して変質していても確かにサーニャのものだった。 おそらく、操縦士が気を利かせて回線をつないだのだろう。 中々”分かる”操縦士だな、と美緒は乗り込むときにちらりと見えた中年の男を思い出して。「ああ、基地に大分近づいたな……」「私達を迎えに来てくれたのよ」 その言葉と共に、ミーナが芳佳の背後に視線を向ける。 それにつられて彼女が再び窓の外を見てみれば、その姿が見えた。 ストライカーユニットを穿いた、航空歩兵のシルエット。 足元には、夜間灯の小さな光。 頭部には緑に輝く魔導針。 その仄かな光が照らすのはサーニャの銀色の髪。 月を背にしていて表情までは見えなかったが、その姿格好は芳佳が何度か見たことのあるものだった。 強すぎる日光の下では見ることの出来ない飛行呪符が拡販したエーテルの残滓。 それが放つ青白いきらめきの尾を引くその姿は、ひどく幻想的で。 輸送機と並んで飛ぶサーニャに、届くわけ無いと判っていても、芳佳は迎えに来てくれてありがとう、と言葉と共に手を振った。 が、機内の芳佳と、機外のサーニャの視線が重なった次の瞬間。 サーニャはふわりとロールして、雲海に飛び込んでいく。 あれれ、と芳佳は機内の二人に振り向いて。「……なんか、サーニャちゃんて照れ屋さんですよね」「ふふ、とっても良い子よ。 歌もとっても上手でしょ?」 そのミーナの答えに、芳佳は頷きで同意した。****** 芳佳に手を振られて、少し恥ずかしくなってしまって。 咄嗟に雲の中に隠れたサーニャは、自分の頬が少し火照っているのを自覚する。 歌うのを辞めようかな、とは思わない。 恥ずかしいからといって歌うのは嫌いではないし、何より芳佳が見せていた表情は快だ。 自分の歌で楽しんでくれる人が居るのは、彼女にとってとても喜ばしいことである。 ふわふわした外見とは裏腹に、雲海の中は雨が降っているかと思わせるほどに濡れている。 濡れ始めた肌と服の感触で、本来の用向きを思い出す。 出迎え、つまりはミーナたちの乗っている輸送機の護衛だ。 雲の中に入ったことで利かなくなった視界の代わりに、サーニャは魔道針の出力を高めることにして。 直後、その眉がひそめられた。 口ずさんでいた歌が途切れる。 『……どうしたサーニャ』 イヤホンから、鼓膜に直接響くような美緒の疑問の声。 これほど距離が近ければ、イヤホン単体でも十分に声は届く。 その声に応える様に、まずは雲の上に出る。 相変わらず雲の上は月光で明るく、何事も無いように静かに見えた、が。 魔導針は、サーニャの魔法は異常を告げる。 その警告に従って、サーニャは呟く様に美緒に告げた。「誰か……こっちを見てます」『報告は明瞭に、あと大きな声でな』「すみません。 シリウスの方角に、所属不明の飛行体、接近しています」 報告と同時に、誰何の電波は飛ばしている。 反応の大きさから言って魔女でないことは明白故に、魔力波は送っていない。 返事は返ってこず、相手が電波を――人類側が使っている電波を放っているような様子も感じられない。 次いで、上昇、下降、左右移動。 輸送機から離れず、しかし位置を変えての観測。 それから判るのは、それがミーナたちが乗っている輸送機よりも大きく、そしてその大きさにしてはありえないほど、速いということ。 その情報は、次のミーナの推測を肯定するのに十分な要素だ。『ネウロイかしら』「はい、間違いないと思います。 ……通常の航空機の速度でも、サイズでもありません」『ふ、む……私には見えないな』「雲の中です。 目標を肉眼で確認するのは無理です」『そういうことか』 魔眼で確認しようとした美緒に、そう伝える。 超長距離を見通し、ネウロイの核を発見できる美緒の魔眼とはいえ、流石に雲の中までは見通せなかった。 見えないものでも見ることができるのは、ミーナと、サーニャの領分で。 射程距離が限定されているミーナの魔法では、捕らえきれない距離である。 見ることが出来ないが、確かにそこに居る相手。 ネウロイの感覚機器がどういった物なのかは判明していない。 追尾してきている以上、雲の中に居るとはいえこちらの事が見えているのは間違いなかった。『……どうしようもないな』『……くやしいけど、ストライカーが無いから仕方がないわ……ッ、まさかそれを狙って?』『それこそまさか、だ。 ネウロイはそんな回りくどいことはしないさ』 イヤホンが、美緒とミーナの声を拾う。 サーニャに向けた言葉ではない。 大方、芳佳がパニックに陥りかけてるのであろうと予測をつける。 輸送機の装甲は、ネウロイのビームに対して紙一枚程度の防御力も持たないのだ。 幾度か実戦をくぐったとはいえ、まだまだ新米の芳佳。 サーニャとて、敵と相対することが怖くないわけではない――それでも、ストライカーという戦える装備を持っているのと持っていないのでは大違いだと理解できる。 「目標は、依然として高速で接近しています。 接触まで……約、三分」 機内の芳佳の不安を助長するであろう事は想像に難くないが、それでもサーニャは必要な事を告げた。 このままでは、ネウロイである可能性が極めて高い飛行物体が戦闘距離に入ってしまう。 その上、ネウロイの持つ熱線兵器の射程は長く、威力は絶大だ。 不用意に近づけるのは最悪の選択で、だからミーナの言葉は当然の命令だった。『サーニャさん――、今、基地のほうに援護を求める通信を送ってもらったわ。 皆が来るまで、時間を稼げればいい。 直接戦闘は出来る限り避けて、無理はしないでね』「了解しました」 サーニャは目を閉じる。 暗い視界の中、呼吸を一つ。 ヨーロッパの空から、何度も繰り返してきた戦闘という行為。 恐怖はある。 だけど、機内で不安を感じているであろう、ほとんど話したことも無い、それでも何時も笑顔だった芳佳の姿を思い浮かべて。 目を開いた。 親指をスナップ。 軽い金属音と共に、フリーガーハマー、空飛ぶ鉄槌の名を持つ兵器のセーフティが解除される。 彼女の心に応じるようにMig60の魔道エンジンに魔力が叩き込まれ、回転数が一気に跳ね上がった。 魔道エンジンの唸り声と肌を撫でていく風が、巡航速度から戦闘速度へと移行を始めたことをサーニャに伝える。「敵を、引き離します」 口にした言葉を、実現させるその為に。 高度を取る。 月と星に近づく。 急速旋回が生んだ雲と、エーテルの残滓を煌かせてサーニャはいまだ目に見えず、しかし依然として接近しつつある黒い脅威へと飛翔した。****** 黒いストライカーユニット。 白いシャツを覆うような黒いワンピースに、黒猫の耳と尻尾。 黒一色のサーニャを彩るのは、飛行呪符の青と、魔道針の緑色。 回転数を上げた魔道エンジンの排気口から、排気炎がちろちろと明るいオレンジ色を漆黒の空に散らしている。 エンジンの駆動音と、風を切る音以外はきこえない。 恐ろしいほど静かで、だからこそ身を切るような緊張感。 先ほどまで明るいと感じていた月光が、不意に暗くなったようにすら思える感覚にサーニャは不快感を覚える。 頼りになるのは己の最も得意とする魔法――レーダー魔導針。 向きを変え、フリーガーハマーの銃杷を強く握る。 手のひらに馴染んだ――あるいは、手のひらが馴染んでしまったその感触を起点に、意識を集中。 魔導針による探査。 魔力の波を放ち、返ってくるまでの時間差により対象物との距離を測るだけの、レーダーとしての術式。 光と等速で伝播するその情報の処理は、最早意識して行っていたのでは追いつかない。 自身の生まれ持った感覚によってしか理解し得ないそれは、彼女にとって耳を澄ませる行為と酷似していた。 魔力で編み出した感覚器に聞こえてくるのは、くぐもった、しかし幾度も聞いたことがある”音”。 先ほどは判らなかった事実が、より接近した今ならば明確に判る。 それはネウロイが放つ”音”だ。 人間が作り出したいかなる物とも違う、不気味にも聞こえる”音”。 くぐもって聞こえる理由は、距離か、雲による減衰か、あるいは何か別の理由か――いずれにせよ、考えている余裕は無い。 判るのは大まかな方向のみ。 状況は依然として変わっていない。 サーニャは自分から不用意に動くのは危険と判断。 ミーナの言っていた言葉を思い出す。 無理はしないで。 その前に言っていた、戦闘は出来る限り避けろ、というのは無理だと判断する。 直進するネウロイの気配の行く手を遮るように、輸送機との間にサーニャは静止。 目を閉じる。 視界は不要。 美緒の魔眼ならば別だろうが、元より夜戦において夜間視の魔法を持たないサーニャにとって視覚など会敵するまでほとんど役に立たない。 近づいてくる”音”。 距離が狭まるにつれて、不鮮明さは薄れていく。 不鮮明でも無視できる程度になっていく。 ただ、その瞬間を待って――「――ッ!」 本能が警鐘を鳴らすのと、意識の裡で”音”が実像を結ぶのは同時。 大質量のフリーガーハマーを振り回していたのでは機を逃す。 だから、サーニャは発射体制へと自身の身体を振り回す。 強引な動き。 しかし、彼女のしなやかな体はその軋みを容易に受け止めた。 目を開き、躊躇い無く引き金を引く。 爆音と噴射炎が等しく夜空を染め上げる。 発射によって乱れた気流が、襟首の辺りまで伸びたサーニャの銀髪を揺らした。 雲の中、見えない相手が立てる”音”、その響きを頼りに放たれた20mmロケット弾は大気をかき乱しながら直進。 穏やかにすら見える雲海へと突き進む。 ひとたび捉えれば、サーニャはそれを逃しはしない。 此方の攻撃を察知して回避機動をとりはじめた”音”、その進行方向にあわせて引き金を連続して引く。 ロケット弾の初速は遅く、相手が見えない状況では初弾での命中は期待できない。 たった九発の装弾数。 しかし当たれば必殺といっていいほどの威力。 牽制と本命織り交ぜて連射。 雲海へと突き刺さるロケット弾は魔力によって設定された時限信管に従い、己の破壊力を撒き散らす。 たっぷりと魔法力の込められた炸薬はその量に応じた爆発などではなく、夜闇を明るく照らす巨大な火球を生み出した。 雲の平原に穴を開けるほどの威力。 しかし、それでも。 依然としてサーニャにはネウロイの”音”が聞こえている。 だから、疑問が浮かぶ。 その感情はそのまま言葉となった。「反撃、してこない……」 サーニャは思考する。 弾速の遅いロケット弾は、ネウロイのビームに迎撃されがちである。 居場所の暴露を恐れている――それはない。 攻撃を受けるということは位置を補足されているということで、それは自身の進行方向に予測されて放たれるロケット弾から解ることだろう。 ただ、サーニャの攻撃を避けている。 逃げるわけでもなく、雲から出てくるわけでもなく、攻撃してくるわけでもない。 ネウロイの意図がわからない。 だからといって、サーニャが今できることは、ミーナたちを守るために引き金を引くことだけだ。 光爆が断続的に雲海を吹き散らす。 位置はわかっても、回避に徹されては当てることが出来ない――そのもどかしさに、焦燥がつのる。 一人きりでは、強行突破を掛けられたらネウロイをとめることは難しい。 せめて、ダメージを与えなければならない。 諦めて、逃げざるを得ない程に。 祈りを込めて引き金を引いても、残弾少ないロケット弾を悪戯に消耗していくだけだ。 あるいは、ネウロイの狙いはそれか。 弾切れが起きてから、悠々と此方を仕留めにかかるつもりか。 その予測が、余計にサーニャを焦らせる。 最初から感じていた、じっと見つめられるような感覚が、その焦りを加速させる。 来ないで欲しい、当たって欲しい、皆早く逃げて、皆早く来て―― 『――サーニャ、もういい。 戻ってくれ』 唐突にイヤホンが放つ美緒の声。 その声に、サーニャは我に返る。 気づけば歯を食いしばって、息を止めていた。 口を開けば、酸素を求めて息が荒くなる。 荒い息のまま、焦燥の篭った言葉を放った。「でも、まだ……!」『ありがとう、十分に距離は稼げたし、皆も来てくれたみたい。 一人でよく頑張ってくれたわね』 ミーナの言葉。 皆が来てくれた。 その事実に、安堵が全身を包む。 ネウロイは依然として、距離を見計らうかのように回避機動をとっていて。 最後に一発、牽制として最後のロケット弾を放ってからサーニャは反転。 そのまま、基地の方向へと向かってフルスロットル。 背後に向けた意識。 遠ざかっていくネウロイの”音”。 追撃は無い。 しかし、依然としてそのネウロイに見られているような感覚。 その不快感に、サーニャの尻尾が神経質に揺れる。 戦闘が終わってなお張り詰めている意識。 それは、一人だけ援軍から先行していたエイラの声を聞くまで、サーニャの心を乱し続けていた。--------ちょっと何時もより三割り増しで三人称頑張ってみたレーダー魔導針に関してはかなり独自解釈。 でもあの時代のレーダーってこんなもんだろ。ん? あれ、主人公出てないな……主人公いらねえんじゃね?まぁストパン世界の歴史的には人類同士でも結構戦ってるんですがね。 ブリタニアと扶桑とかインド洋辺りでぶつかって頂上決戦したことあるみたいだし。ウィッチは「もーやだ!」って本気で思ったり精神衰弱すると魔法力無くなるみたいだから多くのウィッチは人間vs人間の現代戦には使えないでしょう、多分。というか消極的に行動するだけで魔法力下がるくらいだし。 そういう意味ではちょっと安心。年端もいかない女の子達が戦えてるのは、相手が人間じゃない、そしてネウロイは人間と相容れないという理由に尽きると思う。