華琳にとって、ランスは常に予想の斜め上を行く存在だった。
初めて出合った時、ランスは英雄と言われていた。そして、ランス自身もその気になっていた。
それが、華琳にとってはたまらなく不愉快だった。
英雄とは、民を、そして国そのものを導く存在のことを指すべきである。
それが英雄と呼ばれるものの存在意義であり、役目であるべきだ。
華琳はそう考えていたからである。
しかし華琳が見たところ、ランスはそのようなつもりがまったく無いように見えた。
彼にとって英雄とは、自身を褒め称える称号の一つに過ぎないように見えたのだ。
だから説いた。
英雄とは何かを。
英雄を名乗ることの意味を。
そして、その言葉が持つ重さを。
その上で、華琳はランスに尋ねたのだ。
それでも英雄を名乗るのか……と。
勢いだけで英雄を騙っていた人物ならば、ここで怖気づいて英雄を名乗るのをやめるだろう。
英雄と言う言葉を利用して自身を権威付けている人物であれば、強がって英雄を名乗り続けようとするのだろう。
英雄をやめるのならよし。
それでもなお、自身の利害の為に英雄を騙るのであればその場で切って捨てるつもりでさえいた。
しかし、ランスはそのどちらでもなかった。
彼は英雄を名乗り続けることを選択した。
しかしそこに利害の計算は一切無く、ただ純粋に、英雄であるが故に英雄を名乗る、そのような当たり前の感覚として英雄を名乗ったのである。
華琳はこの回答を聞き驚いて…………、そして心底愉快になった。
この大陸出身の者ではないとはいえ、これほどの人物がまだいたのか……と。
あまりにも愉快だったため、真名まで教えてしまった。
それが、華琳とランスとの初めての邂逅だった。
次に驚かされたのが、黄巾党を倒した時だった。
あの時、ランス達を囮に使う作戦を提案したのは華琳だった。
華琳から見れば、それが一番確実で、損害の少ない戦い方だったからだ。
しかし考えてみれば分かると思うが、
「一旦帰って兵士を集めてくるから、それまで囮として敵をひきつけておいてね」
などと言われて誰が納得するのだろうか。
いや、逡巡し、計算し、そして華琳達を信じることが出来るかどうかを利害から考えて、信じることが出来るかもしれないと思えば納得するかもしれない。
しかし、ランスの反応はそうではなかった。
ランスは考える素振りすら見せずに了解したのだ。
そこにどのような思惑があったのかは分からない。
ただ事実として、ランスはすぐさま了解したのだ。
これに華琳は驚かされた。
そして思ったのだ『この信頼に応えたい』……と。
そしてそれは結果として、華琳達の準備を早めることにつながり、黄巾党討伐に成功したのであった。
そして今、華琳は玉座に向かっている。
ランスに驚かされ続けてきた彼女が、今また、ランスに驚かされることになった。
魏対呉・公の図式が明確化された今になって、どうしてこのようなことが起こるのか。
華琳はいらだちまぎれにそのようなことを考える。
しかしそれと同時に、楽しいと感じてしまっていた。
自身の予想の斜め上を越えていくランスが、今度は何をしてくれるのか。
今回、ランスがここに来た理由くらいなら検討がついている。
そして、それを華琳が認める分けないということも向こうは分かっているはずだ。
しかし、それでもなお、ここに来たのだ。
つまり、また何かしら驚かせてくれるのではないか、そういう思いが華琳の胸の中に渦巻いており、それを楽しいと感じてしまっているのだった。
そんなことを思いながら、玉座の間に通じる扉にたどり着く。
そこで華琳は一度立ち止まり、『華琳』から『魏王曹操』へ変わる為に一度深呼吸をする。
そうして切り替わった自身を客観的に見つめ、扉に手をかける。
扉が開くに連れて開けていく視界からは、いくつもの視線が向けられる。
それを受けながら、華琳は魏王として堂々と玉座に向かう。
そして玉座に腰を下ろすと、ついにその口を開いた。
「待たせたわね、ランス」
「応、待ってたぜ華琳」
大陸の運命を決める話し合いが、今始まろうとしていた。
「さて、今更挨拶なんて面倒なことはいいわ。それで一応聞いておくけど、今回の訪問は何のようなのかしら?」
玉座に座り、ランスと一言交わすと、華琳はすぐさま本題に入るように促してきた。
魏の王、その肩書きにふさわしくその言葉には力があり、対峙した公の面々(+小蓮)は気圧される。
約一名……ランスにおいてはその限りではなく、いつものように堂々と、胸を張る……というよりはふんぞり返るようにして華琳を見返していた。
「それでは単刀直入に言わせていただきます。公及び呉の国との戦争をやめ、恒久的な三国同盟を築きませんか?」
公の面々の中でいち早く正気に戻り、言葉を発したのはウルザだった。
ゼスの四天王たる彼女にとって、ある程度の威圧感は慣れたものだったので、その分他の者より立ち直りが早かったのだ。
「現在、大陸は3つの大国によって治められています。すなわち、魏・呉・公の三カ国です。
そして現在、国家間の緊張と言う一点を除けば、この大陸に住む人々は幸せに暮らしていると言えるでしょう。
それは何故か?それは、現在大陸に残っている三カ国が、それぞれ民の幸せと平和を目標にしていた国であるからです。
つまり、魏・呉・公のそれぞれの国は、それぞれに共通した目標を達成していることになります。
にもかかわらず、ここで再び戦端を開いてしまえば、大陸は再び黄巾党の事件に端を発した混乱に包まれ、民の平和と幸せは夢と消え行くでしょう。
しかし、先ほども言ったように私達三カ国の目標は同じであり、それは既に達成されているのです。
であれば、わざわざ戦端を開き、混乱を導くことに意味はあるのでしょうか。
少なくとも私たちは、そこに意味があるとは思えないのです」
「では私たちが取れる道は何か。そこには二つの道が考えられます。
一つは、話し合いによる、漢王朝のような大陸統一国家の作成。
もう一つは、三カ国による同盟の締結です。
……前者については、難しいと言わざるを得ないでしょう。
利害関係の調整や法制度の統一など、様々な軋轢や混乱を引き起こす可能性がありますし。
もちろん、不可能かどうかで考えれば、可能です。しかし現在の状況を鑑みれば、それをすることの利益は薄いように考えられます。
なぜなら、後者の方法が取れるからです。
後者の方法をとった場合、それぞれの国が、それぞれの制度や理念などを維持したまま、今後の平和を望むことが可能だからです。
戦争も無く、私達の目標が達成できる。それならば、それを選択すべきではないでしょうか?」
ウルザの言葉を聞いて正気に戻り、続いて言葉を発したのは朱里と雛里だ。
彼女達は軍師という立場から、現在の状況、そして戦争が起こった場合の不利益を述べ、そして三国同盟が成った時の利益を説く。
彼女達は冷静に、感情を混ぜずに淡々と話す。
彼女達から見た華琳という人物は、冷静で、冷酷で、それでいて計算高い人物。
であれば、余計な感情など入れずに、ただただ事実だけを述べる。その方が成功率が高くなるように思えたからだ。
そして、それを華琳は聞いてはいるようだった。しかし、その表情に変化は無い。
「私達の目標を達成できる方法があるのに、それでもまだ大陸統一の為に戦争をするというのは、
そしてみんなの平和を乱すということは、それはもう平和のためなんかじゃないっ!大陸を統一するための戦いだよっ!
そんなの……絶対に許せないっ!」
そして最後に桃香が思いのたけをぶつける。
これは朱里と雛里にとっては想定外の発言だった。
先ほども言ったように華琳という人物は、冷静で、冷酷で、計算高い人物であると二人は思っていた。
であるから、このような感情論は逆効果にしかならない、そう思っていたのだ。
なのに、想定外の桃香の発言。
これを聞いた二人は、本来であれば肝を冷やすべ立場だ。
しかし、彼女達二人が抱いた印象は、逆だった。
心を打たれた。
彼女達だけではない。桃香の言葉を聴いていた人間は、みな一様に心を打たれていたようだった。
智謀を司る軍師達の様に、理路整然と言葉を並べ立てたわけではない。
前線を鼓舞する将軍のように、圧倒的な力強さがあったわけでもない。
しかし、響いた。
『平和』という夢を追う少女の、後一歩で『平和』をつかめると思った少女の心の叫びは、確かに人々に響いたのだ。
これには魏の軍師たちも、そして武将達も言葉を発することができず、このまま決するように思われた。
しかし
「貴女が何を許さないというのかしら、劉備」
『華琳』という王はそれを上回る信念を有していた。
そして、最初の言葉以上に冷酷に、そしてまるで期待はずれだといわんばかりに言葉を続ける。
「まず一つ言っておくわ。劉備、貴女何様のつもりなの?
今の貴女は公の国の一武将。王でもなければ、外交の最高責任者でもないの。
つまり、今の貴女には力なんてこれっぽっちもないのよ。
そんな貴女が許さない?笑わせないで頂戴。
今の貴女に出来ることなんてこれっぽっちもないのよ」
「っ……!」
桃香が息を呑む。
華琳の言うとおりだった。
桃香……劉備は何かと目立つし、その発言は人の心を惹き付ける力を持つ。
これは確かだ。
しかし、言ってしまえば、ただそれだけなのである。
華琳の言うように、劉備は王でもなければ、外交の最高責任者でもないのだ。
仮に劉備の意見を通そうとするならば、軍師やランス・白蓮といった決定権を持つ人間にその意見をとりあげてもらわなければならないのだ。
つまり、劉備は自己の一存で何かを決定することの出来る人間ではないのである。
「まあ、こうは言ったけど、まったく力が無いわけでもないわ。
今の貴女は外交使節の一員。つまり、決定権は無かったとしても、国の代表であることには変わりないのよ。
国の代表が他国の王に向かって『許さない』という発言をすること、その意味が分かるかしら。
貴女の『許さない』という発言、これは公から魏に対しての宣戦布告と十分にとらえられるものよ」
「そっ……そんな……。私は……そんな…………つも…り……じゃ……」
古今東西、戦争の大義名分は様々にある。
同盟を反故にされた等の大きなものもあれば、一兵士の暴走といった小さなものまで、戦争を開始する大義名分としては十分に成り立つのである。
であれば、今回の『許さない』という発言はどうなるか。
端的に言えば、もちろん大義名分になりうる。
仮にも外交使節団の一員、つまり国の代表が、相手の王を否定したのだ。
すなわち、『公が魏を否定した』そうとられても、なんら不可思議ではないものなのだ。
そのことを、華琳に言われてようやく理解した桃香は小さく否定の言葉を繰り返す。
その体は小刻みに震え、何かを懸命に堪えているようだった。
しかしそんな桃香を気にもせず、いやむしろ、とどめを刺すかのように華琳は言葉を紡いだ。
「誰よりも平和を願う貴女の不用意な発言で、戦争が始まる。これほど皮肉なこともないわね」
「あっ…………ぁ………」
「どうするの、劉備。それでも貴女はまだ、私を『許さない』のかしら?」
華琳に現実を、自らの発言が招くであろう未来を克明に示されて、桃香は崩れ落ちる。
今までの桃香にとって言葉とは、自らの思いを遂げるための手段に過ぎなかった。
例え無理難題だとしても、桃香の発言は結局は無碍にされることなく実行された。
桃香自身、無意識ながらそれを理解していた。
自分の言葉には、力がある……と。
だから今回も、単純に言えば『でしゃばった』。
事前の打ち合わせを無視し、いつも通り発言し、いつも通り上手くいく……そのはずだったのだ。
しかし、今回は違った。
華琳という王が、桃香の発言を一刀両断にしたのだ。
そして現実を、事実を桃香に突きつけたのだ。
そして、桃香は耐え切れなかった。
自ら心を閉ざしたのか、今、桃香の瞳に生気は無かった。
そんな劉備を心底見下したように見た華琳は、ため息をつくと、再び喋り始める。
「このままだと、私が劉備という小物の発言の言葉尻を捉えて戦争の口実にしたようになるから、一応言っておくわ。
私はね、劉備の発言がたとえ無かったとしても、三国同盟など結ぶ気は無いの」
「それは何故でしょうか。先ほども申し上げたとおり……」
「簡単よ。私が貴方達を信じられない。ただそれだけよ。
いつ攻めてくるか分からない相手と同盟なんて、結べるわけがないでしょう?」
華琳は、それが当たり前であるかのように言ってのける。
これに驚いたのは公の陣営である。
この危険な中、わざわざ魏まで交渉に来ているのだ。それを酌んで、ある程度は信用して貰えると思っていた公の陣営は、慌てて弁解に入る。
「しかし、私たちは……」
「黙れっ!」
弁明の為に口を開いた雛里の言葉は、終わりを迎えることなくさえぎられた。
そして、雛里の言葉をさえぎった華琳の一喝は、今まで冷静であったからこそ効果を増大し、聞くもの全てを萎縮させる力があった。
「貴方達公と呉は、軍事同盟を結び、私の国との国境に兵を集めているわね。
つまり今現在は、武力を背景とした圧力をかけ、その上で交渉に臨んでいるということ。
これは、外交の形としては非常に正しいわ。
軍事的なものであろうと経済的なものであろうと、圧力が無ければそれは国家間の交渉にならないもの。
だけれど、今回の件に限ればその限りではないわ。
貴方達がやっていることは、左手に武器を持ちながら、武器を捨てて手を取り合いましょうと右手を差し出しているようなもの。
そのようなものを、誰が信用できるというの?」
華琳の発言は正しかった。
公と呉が兵を集めているということは、そもそもが魏を信用していないということに他ならないのである。
本当に本気で三カ国による平和を目指すのであれば、相手がどのように武装していようとも武器を持たず、無防備に手を差し出すべきだったのだ。
そこまでして、初めて相手も気を許し武装を解くのである。
公の面々はこのことに気付いていなかった。
いや、正確には朱里や雛里のような一部の人間は気付いていた。
しかし、彼女達は失敗の可能性を計算し、その時の被害を計算し、そして失敗に備えてしまった。
そして結局、彼女達の言葉は華琳には届かなかったのである。
「仮に今三国同盟を結んだとしても、私は貴方達を信用していないから、国境に兵を置くことになるでしょう。
とすれば、貴方達も攻め込まれるかもしれないと疑心暗鬼になり、国境に兵を置くことになる。
つまり、今と変わらないのよ。
それでは意味が無いわ。それでは、結局大陸が平定されたとは言えない。
だから私は戦う。危険を冒したとしても、魏による大陸統一の為に戦うわ」
公の面々には最早返す言葉も無かった。
それぞれが華琳の言ったことを考え、結局同じ結論を出した。
そして、それに納得もしてしまった。
だから、彼女達には華琳に返す言葉が無かった。
こうして、公と呉の面々だけではなく、同席した魏の面々さえも、これで交渉は終わり、戦が始まるものだと確信した。
であるから、続く言葉が発せられた時、彼女達は何が起きているのか理解できなかった。
「さて、待たせたわね、ランス。本題に入りましょう」
「うむ、ようやく俺様の出番か」
ランスと華琳、時代を代表する英雄の対話は、まだ、始まってすらいなかったのであった……。