「紅茶が飲みたいネー」 白いクロスの上に、栗色の髪が踊った。うう、とうめきながら、その少女はため息をついている。それを聞いて、山城はピクリと片眉を上げる。緑茶に口をつけた少女は開口一番そういったのだ。「私の淹れた緑茶では不満かしら」 我ながらケンのある声だ。と山城は自覚する。緑茶の入手もかなり苦心したし、第一民間では餓死寸前の人間だって珍しくはないのだ。艦娘以外の軍人にしたところで、量的なそれはともかく質的なものはかなりお粗末になっている。前線に居た彼女はよくわからないのだろうが、と口に菊を象った砂糖菓子を入れ、緑茶に再び口をつける。独特な苦みと、ふわりと抜けるさわやかな香りがし、舌の上で砂糖菓子がほどけ、強い甘味が苦みを和らげ、香りだけを残す。 わからない、で言えば、こちらも前線のことはわからないのだから、同じか。と表情を和らげた。 目の前に座っている少女は、つややかな栗色の髪を垂らし、ぴん、と触覚のようなものが立っている。目は、というと海の青だ。そこには知性と、快活さの双方が宿っていた。巫女装束を少し改造したような艤装から肩が覗き、すべらかな白い肌の下には、うっすらと張りのある筋肉が見えた。ほっそりとはしているが、よく鍛えられている。名は、金剛という。金剛型巡洋戦艦一番艦だ。「そういうわけじゃないんデース。山城……教官」 山城教官、と呼ばれて、ふと可笑しさを山城は覚えた。史実で就役したのは金剛が先で、山城は後。むしろ金剛のほうが先輩と言える。それは第二次世界大戦が勃発した世界での史実であり、この世界でも史実と言える。では、なぜ山城が教官なのか、というと、艤装は確かに金剛型巡洋戦艦『金剛』のほうが先に開発され、扶桑型戦艦『山城』は後に開発された。ただし、その艤装に適合する人間のほうが遅れた。扶桑、山城姉妹は先に就役し、扶桑は佐世保、山城は呉に送られ、史実通りの欠陥戦艦として教官に回された。金剛は呉で山城の嚮導を受けたのである。これは伊勢や日向も同様であった。 教官としての山城の評価はどうか、というと『地獄の山城』であった。優しくしているつもりなのだが、どうにも指導に『熱』が入ってしまうきらいがあり、厳しかったのは間違いはないだろう。「……まあ、わからなくもないわね」 目の前の金剛はイギリスから帰ってきた本物の帰国子女である。下の妹たちは、というと、国内に居たらしい、ということであった。そして、イギリスで広く飲まれている紅茶の産地はどこか、というとインド亜大陸とその近辺、中国紅茶もあるが、どちらにしても、台湾が失陥した今、国内には入ってこない。日本産の紅茶は細々と生産が続けられてはいたが、べらぼうな値段がついている。その点、コーヒーも同様ではあったのだが、米軍のハワイという要塞がまだ機能しているため、多少マシではあった。「国内の業者は作ってくれないんデスかねえ」「あるけど高いわよ?」「Bloody hell…!」 ううう、と嘆く彼女を見て、思わず山城は笑った。転勤前のあいさつに、ということで自分の部屋にやってきていた彼女が、相変わらずだったことに、だ。「そういえば、山城キョーカンのエルダーシスターに会いまシタ!」「……扶桑姉さま?元気だったかしら……」「牡蠣に当たってマシタ」「……相変わらず不幸だわ……」 姉の姿を思い浮かべる。優しげな笑みが今は苦悶の表情になっていると思うと、なんとなく悲惨さを覚えるが、しかし牡蠣か、という呆れもなくはない。「ああ、ソーデシタ、ワタシは佐世保に転属デース」「それは最初に聞いたわ」「山城キョーカンは?」「……今、一人工廠に居る子にいろいろ教えてるの。だから転勤はないと思うわ」「ソーデスか!」 そういって、笑った。その笑顔を見て、山城は何かいろいろと救われた思いになる。戦況は苦しいが、この明るさは救いだ。 だが、金剛は沈んだ。佐世保に転属したその日、イ号集団とロ号集団が大挙して押し寄せた。再編成の真っ最中だったため、指揮系統に混乱が見られたが故の、大被害であった。「姉御?」 その声を聞いて、はっとなる。安下庄地区に突入する段取りの再確認をしていたところだった。なぜ、今金剛のあいさつのことを思い出したのか。と一瞬考えるが、すぐに首を振ってそれを打ち消した。「光学観測は?」「……それが……水偵の映像を送る。敵の砲に撃墜される前までは見えてたんだが」 映像を転送してくるが、そこには黒い粘液のようなものがべったりと一面に張り付いていた。浚渫された安下庄港がアスファルトで舗装されているようにも見える。通常の深海棲艦の占領地に対して行う処置とはずれがある。通常は、もっと脈動しているように見えるのだが。 光学映像に対する欺瞞かとも考えたが、そうした『手管』を使う頭は深海棲艦にはない。はずだ。なぜ、いま私は戦艦タ級『スカーフェイス』のことを思い出したのだろうか、と首を一瞬ひねるが、口には出さない。撃破したはずだからだ。「……航空機の滑走路のようにも見えるわね」「僕もそう思うんだけど……こんな滑走路、必要とするような深海棲艦、居るかなあ?」「アタシも心当たりはない。空軍連中なら必要だろうが」 ううん、と言いながらも、山城は前進を選択する。突入してみればわかることだ。何しろ、速度を落としつつ航行していても妨害はないのだから。「……なあ、鳳翔姐さんの航空機支援、来てないな?」「もともと後詰よ。期待しすぎてはいけないわ」 そういって、山城は息を吸った。「両舷全速! これより、周防大島に突撃する! 目標は安下庄地区! 生きて帰るわよ!」 タービンエンジンがそれに応え、甲高い音を立てる。遅れて、速度が上がった。本物の戦艦であればもっと増速に時間がかかるが、彼女たちははるかに軽量な艦娘だ。すぐに、山城の速度計が25ノットを指す。 楔形の陣形を取り、山城が最上と摩耶の前に立つ。海の女王たる戦艦の本領は装甲と火力だ。下々はついて来い、といわんばかりの自信が、彼女にはある。「敵の歓迎委員はまだかよ?」「敵影見えず。……いや、音が……紫電改のエンジン音だ!」 顔を上げる。そこには、鳳翔の艦載機、紫電改が飛んでいる。そして、データリンカが接続されていないため、何事かを伝えるために投光器で信号を送ってくる。「摩耶、解読!」「了解。……テッタイセヨ。……撤退だあ?!」「ええっ?!」 島の陰が見える。くそ、ここまで来て。と山城は歯噛みするが、次の摩耶の声は震えていた。「ヒメギミガイル」 嫌な予感は、的中した。 深海棲艦が何を考えているのかはわからない。わかろうとしていないからだ、と言う者たちは居るが、しかし対話を拒絶しているのは彼女達だ。どこからともなくやってきて、己が怨念をぶちまける。すなわち、殺戮によってだ。戦艦タ級『スカーフェイス』は、敵の情報を感じる。量子データリンカが手に取るように『敵の情報』を伝えてくるからだ。口や電波でのそれは検知できないが、今暴れている三人と、響と呼ばれていた個体のそれは手に取るようにわかった。 笑う。左頬を修復しないのは、それが愉快な反逆だったからだ。羽虫がごとき駆逐艦が、海の女王に歯向かった。その一事が、彼女にとっては愉快でならない。そして、死んだと思いこんでいることも、同時に愉快でしかないのだ。 響を生かしておくのは楽しかった。目を潰され、消耗していく彼女を眺めるのは喜悦そのものであった。それが故に生かしていたのか、といえば違う。彼女は餌だった。なにか秘密の作戦を行っている、と言うところまでは各種の電話線から放射される磁場を傍受し、解析することで了解できていたのである。予想外だったのは、救い出した娘達が強く、そして陸軍に『あきつ丸』と呼ばれる個体が居たことだ。作戦は失敗したが、響をなぶることで怨念返しはできた。 だが、もっとも面白いのは。後ろを振り返る。腕を組むヲ級2隻と、重巡リ級2隻が喜悦に顔をゆがめた。スカーフェイスは、再び笑った。 罠にはまる羽虫のみじめさは、愉快なものだった。「畜生……!」 山城は血が流れ続ける右腕に止血帯を巻き付け、応射する。その視線の先には、安下庄地区の滑走路の先で笑う深海棲艦の姿がある。敵の赤い装甲が、その砲弾を受け止め、破片が海に白い泡をたて、飛び散った。飛行場姫。そう呼ばれる個体の姿が、そこにはあった。燃えるような赤い瞳と、性別すらわからない白一色の異形。憎悪と喜悦を内包した、深海棲艦の姫君の笑顔を浮かべていた。確認したその時には、すでに敵航空機が上がっている。紫電改は、落とされた。 津和知島と情島の間を通り抜けた頃には、敵の航空機が矢のように降ってくる。まるで、空が蝙蝠に占められたかのように、真っ黒だった。ぬらりと太陽の照り返しを受け、光るその機体が、1トン爆弾を落とし、魚雷を発射し、そして自動化された機銃システムがそれを迎撃しよう、と必死の抵抗を行う。回避運動をしながら、波を浴び、破片を浴び、そして。「畜生……!」 最上と摩耶は、と後ろに目を向けると、同じく機銃で対抗し、しかしそれでもさばききれなかったのか、最上は20.3cm連装砲のうち一つがひしゃげている。同じく、右腕に破片をもらい、力なくぶら下げていた。「姉御ッ!」 その鋭い叫びに、はっと思わず負傷した右腕を上げる。機銃が反応し、撃墜しようとするが、しかし。爆炎。激痛。「ちくしょおおおおお!」 嘆きなのか、痛みの表明なのか、すでにわからない。山城は混濁した意識の中、ずぐん、ずぐん、と動かす度に鈍い衝撃が走る腕を掲げる。いや、それは腕だったのか。妙に黄色い脂肪の層。ぐずぐずに引き裂かれた筋線維と、暴れながら血を吹きだす動脈。しろいほね。「姉御ッ!」「私に構わないで! 前進、前進よッ!」 止血帯を強く締め、血が噴き出さななくなったことを確認すると、は、は、と強く息を吐く。「ちくしょう……!」 何が海の女王だ。と歯噛みする。このまま逃げればどうなるのかわかっているのか。お前は広島市街にこの敵を誘導するのだぞ。と冷静な頭が語る。汗と脂とでひたいに張り付いた髪が不愉快だ。と右腕ではらいのけようとし、下唇を噛む。「ちくしょう」「姉御ッ!このままだと広島湾に出ちまう! 現在地は柱島周辺!」「わかってるわ!」 どうする。考えろ。考えるのだ。どこに逃げればいい。 地図データを呼び出す。このまま北上は論外だ。どこ、どこへ。と目を動かすと、安芸灘の文字が目に入る。倉橋島と、江田島の間。「……倉橋島と江田島の間に向います! そこを抜けて……!」「抜けてどうするの?! 呉にこいつらが来ちゃう!」「……くそ!」 呉にこいつらを誘引することに。と考え、再び砲撃しながら、全速で前進する。扶桑型戦艦は足が遅い。私のせいで、もっと足の速いこの子たちが逃げられない。そう思った瞬間。「……あなたたちは先に行きなさい」 それが、口をついて出ていた。「はあ?! 何考えてんだよ!」「行け! 命令するわ、高雄型重巡洋艦『摩耶』! 行きなさい! ……あなたもよ、最上!」 最上は、こちらの目を見て、うなずき、摩耶に目くばせする。進路をわけ、終われながらも、彼女たちは首尾よく変針。山城は、大物食いに目がくらんだ連中が空を埋め尽くすのを見て、笑った。戦艦とは何か。艦隊の盾である。なればこそ、今ここに居るのだ。「さあ、かかってきなさい!」 発狂せんばかりの調子で、空に向って叫び、砲撃する。砲弾が『命中』し、敵機をへし折った。 さあ、来い。相手になってやる。姫君だ、とそちらが誇るなら、こちらは女王だ。矜持を見せてやる。そう言わんばかりの調子で、顔を上げた。「不幸だわ」 顔を上げながらでも、そう言ってしまうのは彼女らしさでもあった。 ごっ、という音がする。発砲炎が目を覆い、そして黒煙が彼女の白い装束を煤で汚した。「こい、こい、来い!」 さあ、一分一秒でも押しとどめるのだ。囮とは、そういうものである。