夢を見ていたように思う。夢であってもらいたい、と思う。そう思いながら、加賀は掴んだ襟元を離しそうになるのを、必死にこらえた。スカーフェイス。沈む怪物を殺すべく、引きずり上げようとするその腕には、死んだはずの帝国海軍所属「戦艦『金剛』」が握られていた。 夢であってもらいたい。そう思ってみても、腕にかかる重みと、治りきっていない骨折の痛みが、これは現実だ、と訴えかけていた。余計者艦隊 瀬戸内海追撃編第1話「Turn Coat Fleets」「……通信が回復した?」 その報を受け、提督は安堵のため息を漏らした。周防大島で勝利したのはいい。本拠たる「ブルーリッジ」がやられては意味が無いのだ。通信が回復した、という事は、加賀が戦艦「タ級」つまり「スカーフェイス」をしとめたという事だろう。そのこと自体には驚きはしなかった。だが。加賀からの無線通信がヘッドセットに流れるが、収容時に人払いをしてもらいたい、という要望が届いた。ああ、負傷はしていないものの、艤装が破損したのか。と納得しながら、最低限の収容クルー以外は近寄るな、と指示をしたしばらく後に、加賀から発された言葉に片眉を思わず上げた。「……提督に来ていただきたいのです」「……俺にか?」 その言葉には意外なものを感じた。収容時に何ができる、というわけではないのだから、必要ないだろう。と言いかけて、やめた。なにかある。それも、とんでもない厄種が。 帰りたい。帰らなくては。少女は、金剛型巡洋戦艦ネームシップたる『金剛』は夢中でそう考えた。砲をチェックし、正常である、と信号が返ってくることを確認し、機関の出力を上げる。水上を滑るように、と言うにはゆったりとした動きで彼女は前進し、そして後ろを見る。後ろには、同じく帰還すべく航行を続けている重巡洋艦『三隈』と軽巡洋艦『長良』に、駆逐艦『暁』と『雷』がいた。いや、本来は居た、というべきだろう。今は、居ない。 戦艦『タ』級の頭を吹き飛ばし、その後一人で方位を見失い、なんとか合流した彼女たちとともに、鎮守府に帰還すべく、金剛は航海を続けていた。そして、今は金剛だけが生き残っている。 たまたま捕獲できた駆逐『イ』級を使った囮作戦は失敗に終わり、泊地にたどり着いたのもつかの間、戦艦を中核とする深海棲艦の襲撃を受け、金剛は左頬に大きな火傷を作った。敗残の身。「紅茶が飲みたいネー」 そう言ってはみるものの、紅茶なんて奢侈品がなかなか手に入ろうはずもない。輸出用に本来は国外に出るはずだった紅茶を彼女はなんとか手に入れていたが、それも鎮守府での話だ。敗走を重ねる身では、望むべくもない。 まして『鬼』とも呼ばれるクラスの戦艦を相手にしている状況では、なおさらだ。余計なことを考えている暇はない、砲を放とう、と諸言を入力し、そして。敵の砲の直撃を、金剛は受けた。意識が、飛ぶ。 帰りたい。帰らなくては。 その一念で、金剛は水を吸い、死にかけている機関にもう一度火を入れる。そして、ぐらぐらと揺れる頭で、前を見る。一隻の深海棲艦が、こちらに向ってくる。空母『ヲ』級だ。あれなら、なんとかなる。幸い砲の距離だ。そう思った時には、灼熱した感覚が体を焼く。「あ……ああ。あああ……?!」 金剛は、目を疑った。憎悪の炎を燃やした空母『ヲ』級だと思っていた物は、正規空母『加賀』だった。その青い袴と、甲板を見て、金剛は頭にかかっていた靄が晴れるのを感じる。 戦艦『タ』級の頭を吹き飛ばした、と思っていた。敵を殺したと思っていた。だが、それは敵などではない。絶望のさなかにも、守るべきものを守るべく、戦いに臨み、こちらを怒りの目で見ている少女。いや、少女と言いつくろうのはよそう。それは、妹の榛名だった。金剛は榛名の頭を吹き飛ばした。 駆逐『イ』級を捕獲した、などという迷妄はよしてしまうことにしよう。彼女は、金剛は特3型駆逐艦『響』の目を抉り、笑っていたのだ。その瞬間の喜悦は今でも脳の奥底にこびりつくほどのの鮮烈さが宿っている。 戦っていた相手は、自らのかつての仲間たちだった。彼女は家族を殺した。深海棲艦と戦っていた、というのはまやかしだ。 彼女自身が深海棲艦だったのだ。 帰りたい、帰らなくては。脳の奥底にこびりつく妄執めいたその感情に、金剛は半狂乱になりながら、しかし目を閉じた。疲れていたのだ。何もかもに疲れた。水底に沈み、しばらく、何も考えないでいたい。 帰りたい。でも、どこに、どうやって。そう、心に問うた瞬間、水の中から引き上げられる感触が、した。意識は鉛のよう。だが、そのおびえた声だけは忘れようがない。「こん、ごう」 その加賀のうめきに近い声を最後に、金剛の意識はふっつりと途絶えた。「金剛型が『帰って』きた?」 深海棲艦の電波妨害が消え、無線式のヘッドセットから聞こえる加賀の震える声に、良いことではないか、と提督は返しそうになる。純然たる戦艦とは違って運用の幅が広いのだから、これほどありがたい戦力も存在しない。速力が高く、戦艦よりは少々劣るものの巡洋艦よりも大口径の砲を積んだその存在はこれからはありがたい。特に、飛行場姫を撃破した今となっては、岡山側に逃走した深海棲艦の追撃に兵力が少しでも欲しい時期だった。下関側は、というと、実際のところ岩国の米海兵隊航空隊が手ぐすねを引いて待っているだろうことは疑いはない。復讐戦を挑むにはいい機会だからだ。そのため、無視とまではいかないまでも、ある程度安心は出来る。 しかし、提督のその言葉に、加賀は一瞬息を飲み、そして。「ともかく、後部ドックに来てください」 そう言って、通信を切った。重大な内容だろうから、暗号化をされていないインカムでの通信は避けたいのだろう。と言うことは、提督にも理解はできた。 何か引っかかる。帰ってきた、とはどういうことか。何かを忘れている気がする。帰還と言わなかったのはなぜか。そこから、思考が前に進まない。 通路からは微妙な疲労感と、勝利の歓呼が満ちている。提督に対する猜疑の視線は消え、下士官からはこの指揮官も悪くないじゃないか、という感じが見え、兵からはこの人の下につけて運が良かった、と言わんばかりに勢いのよい敬礼がやってくる。 そうか、勝ったのだな。とぼんやりと考えながら、提督は歩みを進め、艦娘を収容するために艦尾に設けられたウェルドック(注:提督の日記には、指揮統制艦「ブルーリッジ」は艦娘を運用するために、新造した方が早い、とまで言われた大規模な改修を受け、ワスプ級強襲揚陸艦のようなウェルドックを備えている、というメモ書きが添えられていた)に向かい、そして加賀の姿を認める。「……無事でよかった。死なれては……困る」 初めに『下関観光はどうだった』と侮辱したのは誰だったか。ということを思い出しながらも、提督は加賀にそう言う。加賀は片眉を上げて、少しの間を置いてから頷き、こちらへ、と目で促した。水密扉を開け、整備員が普段は詰めている部屋に案内されると、ベンチに黄土色の毛布をかけられた女性が横たわっている。その横にはぐしゃぐしゃに濡れた金剛型の衣服が乱雑に置かれていた。よく見てみれば、濡れているのは海水だけではない。濃密な金気が部屋に充満している。水に濡れ、というよりは血濡れ、と言った方が正確だろう。金剛の髪にも、血膿めいた何かが付着していた。「……どう、しましょう」「……無事に帰ってきたのはいいことじゃないか?」 提督は、そうとぼけたことを言って、そしてすぐに最上の言った一言が頭の中で稲光のように閃いた。『ボクの目の前で、深海棲艦になったんです』 あの娘は、何が、何になったと言ったのか。そう、つまり。 のろのろと、提督は顔を向ける。ごくり、と生唾を飲み、そして。「これは『金剛』なのか。それとも……」 ふるふる、と加賀は首を振る。それ以上はいけない。そこから先を続けては、もう一つしか選択肢がなくなってしまう。だから、いけない。そう言わんばかりの加賀の視線に、提督は二の句が継げなかった。 続々と、艦娘たちが帰還してくる。提督は、疲れ、傷つきながらも不敵な表情を崩さない彼女たちを見て、軽い罪悪感を覚える。なぜ、俺は戦えないのだろうか。という部分だった。大きな負傷者はなし。腕の一本も継ぎ直さなくてもいい、という、ほぼ完ぺきな勝利であるにもかかわらず、その思いは消えない。「諸君。……勝ったぞ。出撃前に満艦飾の準備はしておいたか?」 それを聞いて、呆れたような苦笑いが広がる。何を言い出すか、と思えば、という反応だ。一呼吸を置いて、続ける。「まあ、それは冗談としても、ブルーリッジから降りる準備だけはしておけよ。凱旋式典というわけにはいかないが」 そう言って、提督は敬礼をする。弾かれたように、全員が答礼を返す。「何しろ勝ったんだ。胸を張ってくれ」 そう言って、解散を命じる。全員がひりついた緊張感をほどいていた。そして、巨大な艤装を背負った女性、山城と、鳳翔に声をかける。「少し、よろしいか」 提督は、加賀とともに別室に二人を差し招いた。そこで『金剛』の話を聞き、山城は渋面を作り、鳳翔は軽く眉を上げた。こうしたことを話せる年齢にある人間で、最上はこの事象について多少なりとも知識があるとはいえ、こうした政治向きの話には向かないし、摩耶は怒り始めるだろう。そして、今は艦の周りを哨戒している長良や、三隈は『お話にも』ならない。本来、哨戒任務から外したいほどである。「……どうすればいいと思うか。率直なところを述べてもらいたい」 そう提督は言う。戦力として考えるなら、戦艦としては『ワークホース』として使える金剛。これほど魅力的な存在も居ない。だが、本質的な意味合いでリスクを抱えている。それは『本当に金剛は金剛なのか』ということである。裏切りだけならばまだいい。まだいいが、本質的な問題点としては、彼女自身が意識していないにもかかわらず情報を垂れ流している可能性があるということだ。トロイの木馬。古典的ながら、有効な手段のそれを恐れない指揮官は、おそらくはいまい。そう考えてみれば、提督の「恐れ」はそこにあることが容易に知ることができるだろう。すでに「三隈」や「長良」を使っている時点で、なんらかの問題が起こっている可能性もある。あるが、使わざるを得ない。 その意味で『金剛』はまことに悩ましい問題である。戦力としては死蔵するには惜しい。あまりにも惜しい。だからこそ、提督は思い悩む。これほどうまい『トロイの木馬』はそう存在しないからだ。戦力が必要で、かつそうした意味合いで言えばうってつけ。そして作戦の中核に据えることができる存在なのだから。そして、仮に裏切られたのならばこれが致命的なのだ。なぜか。それは、作戦の中核に据えることができるから、だ。 その提督の表情を見て、山城と鳳翔は顔を見合わせる。そして、山城は口を開いた。「金剛を使うことそのものには、私は反対はしません」 そうして、山城は続ける。確かに「敵である」という可能性は否定できない。否定できないが、戦力不足はいまだに解消はしていない。解消していないのなら、使うしかない。そういう理屈である。「しかし、それは……」 提督が口を開く前に、加賀が難色を示す。鳳翔も、その通りだ、と言わんばかりに首を縦に振った。「……」 山城は、何か『言うのをためらうようなしぐさ』を見せた。提督はそれを見て、保険がなからこそ山城は『私は反対はしない』と言ったのだろう。と考えた後、保険、という言葉が引っかかる。数秒の沈黙の後、提督の脳裏にある考えが浮かんできた。「……仮に使うのなら、保険は必要だろうな」 保険。提督はその言葉を口にして、嫌悪感にかられた。つまり、それは『いざというときに金剛を殺せるスパイを飼う必要がある』という事なのだ。加賀もそこに思いいたり、ため息をつく。「……彼女は教え子です。保険が必要、という事とは別に、信用したい、と思っています」 山城の教え子。保険。その言葉が、提督の脳の中で結合を始める。思い浮かぶ言葉。そして『いざというときに金剛を殺せる』という意味合いで言えば、もっとも有用な保険の名前が、浮かんできたのだ。