ある日突然ウォールローゼの外が海になっていた。
朝日が昇り見張りの駐屯兵団の者が壁の下を見下ろすと巨人の姿はどこにもなく、あたりは一面大海原になっていたらしい。
突如として壁外が海になってしまったことに軍の上層部は大わらわ。壁内にはすぐに箝口令が敷かれたが、それも『無限の塩』という宝の山を前にしては無いも同然であった。
二日と経たぬ間に海の存在は壁内中に知れ渡り、神聖なはずの壁の上には海水の汲み上げ機が設置され、塩の生産、販売を画策する商人とここらで便乗して儲けようとする駐屯兵団の兵士が何事かを囁き交わす姿が茶飯事となっていた。
むろん壁外が海になったことはエレンたち104期生の耳にも届くこととなり、彼らも他の兵士と同様暇を見つけては何かと口実をつけて壁の上に登っていた。
「これが海……」
「まさか、壁の中に居ながら海が見られるなんて……」
「エレン、あんまり前に出ると危ない」
壁のギリギリから身を乗り出したエレンの服をミカサが引っ張って戻す。
「なんだよ。簡単に落ちねぇから大丈夫だよ」
むぅと不機嫌を露わにして見せるも、ミカサは表情をまるで変えない。
「危ないことをするエレンが悪い」
見たことも無い白い鳥が、みゃあみゃあと猫のような鳴き声を上げてアルミンたちの頭上を駆け抜ける。
目の前にはどこまでも続く大海原。空は突き抜けるような青い空。
「何か、変な感じだね」
人類は相変わらず壁の中だが、敵であった巨人が見えないこの状況はどう表現していい物か。それは、誰にも解らなかった。
☆ ☆ ☆
とりあえず壁外が海になってしまったのはもう覆しようがない。
ならば人類は何をすべきかというと、このまま壁の中に引きこもっているか、壁から出て海の調査をするかであった。
『巨人が居ないのならば何も臆することは無い。早急に船を造り辺りを探査すべきでしょう』
という意見があれば
『いやいや、まだどんな状況なのかもわからん。あの巨人たちの事だから水底でじっとこちらを窺っているかもしれん』
という意見もあり、その他資金の問題や海上活動のノウハウの欠落等の問題も山積みで上層部の意見はしばらく纏まりそうにないだろう。
上層部の難しい問題はここではさておき、エレンたち訓練兵104期生は何をしているかというと、
「おいエレン、これは何つー魚なんだ?」
「し、しらねぇよ。俺に聞くな。そうだ、アルミンなら知ってるんじゃないか?」
「え!? 僕だって何でも知ってるってわけじゃ……」
「とりあえず、普通の魚じゃないのは確か」
食糧確保の名目で釣りをしていたエレン達が釣り上げたのは下半身が魚の少女だった。
「ひだるかったけん美味しそうなミミズが目の前に垂らされて。つい食らいてもうたっちゃ」
釣り針を口から引っこ抜くと、尾びれで器用に立ち上がった少女は可愛くポーズを決めてみせる。
「アタシむろみ。よろしゅうね! あんたたちの名前は? あ、ウロコいる?」
満面の笑顔でフレンドリーに挨拶されては敵意も湧きようがない。ジャン、エレン、ミカサ、アルミンの四人は軽く目くばせすると、相手の真意はさておきこの奇妙な魚少女と交流することにした。
☆ ☆ ☆
「ふぅん。つまり朝起きたら突然壁の外が海になっとったと?」
「そうなんだよ。ちょっと前まではこの辺りは巨人がウヨウヨ居たってのに、いつの間にか消えてたんだよな。むろみさん何かこうなった原因とか知らないか?」
「うーん、アタシもこの辺りはあんまり来んけんな。んでもここにこんな壁は無かった気ぃもするし、確かに最近人間さんが居なくなっちょるなぁ~とは思ってたとよ」
むしゃむしゃと釣り餌のミミズを勝手に食べながらむろみさんはぼやく。
「なんや皆でどっかに引っ越したんかなーとは思ってんけど、まさか人間さんにもガチ天敵が出来よるとは思いもよらんかったい」
「ってことは、巨人の事は知らなかったってこと?」
「まぁ、変なのは一杯おるけど、そんな危ないのが海におったらまずリヴァイアさんが黙っとらなかろしね」
「おい、あんまりミミズ食うなよ。釣り餌が無くなるだろ」
「いいやんジャンー。あんまこすいこと言わんと」
「そうだぞ。ミミズくらい良いだろうが。それよりジャンは壁外が海になった原因よりミミズの方が大事なのか?」
「や、別にそういうわけじゃねぇけどよ」
「ああん、エレン君太っ腹ー」
むろみさんがエレンにしなだれかかった瞬間、ひゅっ、とミカサの周囲の空気が重たくなった。隣に居たアルミンはすぐに空気を察して話題を変える。
「えぇと、それってつまりこの先にあるウォールマリアより向こうから来たってことだよね!? ここより先にでっかい壁があったでしょ? あれをウォールマリアって僕たちは呼んでるんだけど」
世界の壁は外側からウォールマリア、ウォールローゼ、ウォールシーナの三層構造だ。五年ほど前に人類はマリアからローゼに後退したのだが、壁の跡は残っているにはずだった。
ところがだ
「壁ぇ~? そんなん見んかったとよ」
アルミンがすべてを言い切る前に、頭にクエスチョンマークを浮かべるむろみさんに四人が再度顔を突き合わせた。
「おい、どういうことだ?」
「俺に聞くなよ。なぁ、アルミンは解るか?」
「いや、僕に聞かれても……」
「ウォールマリアが完全に破壊された?」
「いや、それは無いはずだよ。いくら巨人でもあの壁を完全に破壊するのは無理だと思う」
「つまり、この壁とその内側だけ海にテレポーテーションしたってことっちゃね」
四人の隙間にむろみさんが無理やり入ってしたり顔をする。
「はぁ!? なんだそりゃ!?」
「つまり、ここは壁の内側でありながら壁の外側ってこと!?」
「おおおい、アルミン、何かややこしくてついて行けねぇぞ」
「そういうことってあるの?」
「まぁ世界は不思議が満ちてるけん。あたしは解らんけど巨人もおるみたいやしそう言うことがあっても不思議じゃなかとね」
軽く言うむろみさんに、最初に立ち上がったのはエレンだった。冒険心冷めやらぬ様子でむろみさんを期待に満ちたまなざしで見る。
「な、なんかすげぇなそういうの!! なぁむろみさん、俺を海の向こうに連れてってくれよ!!」
「エレン、危険な事をするのはいくない」
「ミカサはちょっと黙ってろよ! なぁ良いだろう!? 俺は壁の向こうが見たいんだ!」
「うぅん。連れてってやりたいのはヤマヤマやけどね」
「なんだよ、何か問題があるのか?」
言葉を濁すむろみさんに、エレンが更に詰め寄る。
「見ればわかると」
むろみさんは不意にその辺に捨てられて天日干しになったヒトデを拾い上げるとエレンの体に擦りつけた。
ゴシゴシゴシと念入りに匂いを擦りつけると、ぽーいと波間に捨てた瞬間。
ぞばあぁぁぁぁぁぁぁん
十五メートル級の人面魚が深海から現れると、真下からヒトデを飲み込んだ。
「さっきからあんなんが人間さんば狙っとるみたいやけん。目ぇは悪いみたいっけど、嗅覚がヤバいやね。なんぼ海が弱肉強食とはいえ知り合いが食われるのはアタシとしても心が痛いというか……」
「おい、見たか?」
「あぁ、見た」
「というか、見たままだよね」
そして人類は再び恐怖を思い出した。
「あれは魚型の巨人」