それは数秒か、数十秒か、
「う……」
意識を失っていた坂井悠二は、全身を蝕む激痛に目を覚ました。
そして顔を上げるよりも早く、戦慄する。彼の鋭敏な感覚が、そうさせていた。
「―――――」
何が起きたのか解らない。顔を上げても、即座に状況の変化に付いていけなかった。
「今までなぁーにをしていたんですかぁー!! 今さらノコノコノコノコ出て来たとぉーころで、既に実験は失敗しているのでぇーすよぉー!!」
視界を染める茜色の煉獄、砕け散った駅と列車、その瓦礫の上に這いつくばっている自分。
「それは正しくこっちの台詞だ。あのまま先んじて討ち手どもを始末していれば、貴様のイカレた絡繰りはこの俺までも巻き込んだだろう。雇われの身とは言え、下らん自殺行為にまで付き合ってやる謂われは無い」
ヒステリックに喚く教授と……その正面に立つ、硬い髪を逆立てた外套の男。
「だぁーれのなぁーにがイカレた絡繰りですかぁー!? 危険が怖くて真理の追究など出来るワケがなぁーいでしょう!?」
その男が全身から発する、デタラメなまでの……総身を震わせるほどの力の気配。だからこそ、信じられない。
「(何で、こんな化け物の気配に気付けなかったんだ……!?)」
状況から考えて、この男に不意打ちを受けた事は解る。だが、こんな気配の持ち主に今まで気付けなかった事が信じられない。
教授の撹乱の中にあっても、ヘカテーやフレイムヘイズらの気配は感じられていたと言うのに。
そこでふと、悠二は目に映る炎の色……それが持つ意味に気付いた。
「(茜色の、炎……?)」
実際に見た事は無い、だが知識として知っている。
いずれ戦う敵として、ヴィルヘルミナに幾度となく聞かされていた。
『察知不能の不意打ちと異常なまでの耐久力を誇り、鋭い剣撃の全てに自在法“スティグマ”を付加させてくる、真に厄介な相手なのであります』
『戦技無双の舞踏姫』を追い詰め、『約束の二人(エンゲージリンク)』を屠り、『零時迷子』に謎の自在式を打ち込んだ殺し屋。 そして……ヘカテーの言葉に依れば、“教授に雇われた”紅世の王。
「“壊刃”、サブラク……」
その名が、唇から零れ出た。痛みもプレッシャーも理性でねじ伏せて、大剣片手に立ち上がる。
直後―――
「何やる気になってんのよ、あんたは……!?」
その視界が横に吹っ飛ぶ。『グリモア』に乗ったマージョリーが、悠二の首根っこを掴んで攫ったのだ。
「一旦退くわよ、『スティグマ』食らってちゃ勝負になんないわ」
返事も待たず、マージョリーは悠二を掴んだまま猛然と飛び去る。その横に、シャナを担いだカムシンが並走した。
「ああ、同感です。この数で畳み掛ければと思わなくもありませんが、いずれにしろ一度『スティグマ』の威力圏から離れるべきでしょう」
流石に歴戦のフレイムヘイズと言うべきか、勝利を確信した直後の不意打ちにもしっかりと生き残り、動揺の色も見えない。ただ、その身体には少なくはない傷も見えた。
「……シャナの傷は、深いのか?」
「ああ、直前に攻撃体勢に入っていたせいで、少し集中的に狙われたようです」
自在法『スティグマ』。
“壊刃”サブラク独自の、与えた傷を時と共に広げていく力。これがある限り、どんな小さな傷も時の経過で致命傷に届く。
徐々に弱っていくと解っている身体で“壊刃”と戦うのは確かに無謀だ。
しかし……
「あれを受けて全員が死を免れるとは、流石は世に聞こえた手練れと言ったところか。だが、果たせなかった依頼を前にみすみす指を咥えて見ているほど俺も甘くは無い。その身体で何処まで逃げ切れるか試してみるか」
逃げる背中を何もせず見送るサブラクではない。翼のように外套を広げる、その動作に合わせて―――燃え盛る剣が津波の如く押し寄せて来た。
「な……!!?」
軽々と放たれた絶大な力に驚愕する悠二を、そして手負いの討ち手らを呑み込まんと茜色の怒涛が迫る。
迫って、そして―――弾け飛んだ。
「これは……」
天空から剣の波を貫いた、眩し過ぎる水色の連爆によって。
「神なる業に触れた禁忌を、その身を以て知るがいい」
砕けた剣が細雪のように風に舞う空から、光の粒を無数に降らせる巫女が降りて来る。
白い外套をはためかせ、大杖『トライゴン』を翻し、髪を瞳を水色に煌めかせて。
「我が名は“頂の座”ヘカテー、創造を司る蛇神が巫女です」
水色の天使が、紅世の王へと戦いを挑む。
「ヘカテー!!」
マージョリーに首を掴まれた悠二の視界に、離れてどんどん小さくなっていく少女が見える。
徒は血が出ないせいで、ヘカテーが『スティグマ』を受けたかどうか咄嗟に解らなかった、その危機感が悠二の声を荒げさせる。
「“頂の座”は『スティグマ』食らってないわよ」
「へ?」
平然と、マージョリーが答えた。
「『万条の仕手』が咄嗟に護ったからね。いま“壊刃”の足止めが出来るとしたら、あの子しか居ないでしょ」
「っ……」
ヘカテーの無傷を保障する言葉なのに、悠二はまるで安心できない。マージョリーは……当然のように「足止め」と言ったからだ。
そのマージョリーが、青ざめた顔を怪訝に歪めて悠二を見る。
「って言うかアンタ、ずいぶん平気そうね」
「? いや、十分痛いけど……」
奇妙な問い掛けに自分の身体を見た悠二は、言葉を途中で切った。
確かに傷は負っている。未熟な上に攻撃を感知できなかった為、受けたダメージはマージョリーやカムシンより大きい。……しかし、その傷が話通りに拡大している様子は、今のところ見えない。
まだ大して時間が経過してないからかとも思ったが、マージョリーらの様子を見る限りその線は薄そうだ。
つまり、これは……
「僕にだけ、『スティグマ』が掛かってない?」
「ああ、おそらく貴方の破壊による『零時迷子』の無作為転移を怖れたのでしょう」
「ふむ、『スティグマ』を刻んでしまえば、フレイムヘイズと戦っている間に君が死んでしまう可能性も出て来るからの」
半信半疑な悠二の声を、二人の『儀装の駆り手』が肯定する。
言われて見ればもっともな話だ。ヨーハンの死による無作為転移で見失った『零時迷子』を運良く見つけたというのに、再び無作為転移させるような愚を冒すわけがない。
……理屈は解るが、サブラクの行動の全てから余裕のようなものが感じられてならない。これだけの手練れが揃っている状況で、自分の危機や敗北がまるで考慮の内に無いとしか思えない。
「……あんた達は、シャナを連れて一旦逃げてくれ」
そんな規格外の化け物を、何とかしなければならない。サブラクが封絶の中を修復するとは思えないから、逃げる事は出来ない。何が何でも、倒すのだ。
「『万条の仕手』の話で、気になる事が幾つかあるんだ。今『スティグマ』の威力圏でそれを探れるのは僕しかいない」
付け入る隙が、きっとある。
……否、必ず見つける。
「戦力を分散するのが得策かどうか、判断が難しいところですが」
「これまで、正攻法で誰一人やつを倒せておらんのも事実。ここは、賭けてみるのも良いかも知れんな」
特に強く言ったわけでもない口調の中に悠二の本気を汲み取ったのか、カムシンとベヘモットは反対しない。
役に立つかは解りませんが、と続ける。
「私は戦闘の際、周囲の瓦礫を身に纏う『儀装』という形態を取るのですが……」
なぜ今カムシンの手の内を聞かされるのかと訝しみつつ、悠二は黙って傾聴する。
「現在、その『儀装』が組めないようです。それが“探耽求究”の仕掛けなのか、“壊刃”の仕掛けなのかは解りませんが」
「……瓦礫が操れない、つまりそういう事か」
確かに、それだけでは何が何だか解らない。だが、その現象にも何らかの原因や思惑があるのだとすれば……糸口の一つにはなるかも知れない。
「……ありがとう」
池を“こちら”に引き込んだ、複雑な感情を抱かずにはいられないフレイムヘイズに、それでも一つ礼を告げて……坂井悠二は戦場に舞い戻る。
茜に燃える剣が、全てを焼き斬る雨となって飛んで来る。
「『星(アステル)』よ」
大杖一閃、ヘカテーもそれに輝く流星群を叩きつけた。着弾と同時に生まれた余波は、撃ち漏らした剣をも一本残らず吹き散らす。
茜色と水色の入り乱れる爆炎の海を、“壊刃”サブラクが平然と突き破って飛び出して来た。
その両手には、『スティグマ』を宿した双剣が光っている。ヘカテーはもちろん、受け止めない。
「ふっ……!」
剣を振りかぶるサブラクの間合いに入る寸前、左掌から光弾を連射、悉く命中させて眼下へと撃ち落とす。
「はあああああぁ!!」
ヘカテーは止まらない。錫杖を差し向け、絶え間なく『星』を放ち続ける。
「なるほど、大言を吐くだけの力はある……が、神の眷属と名乗るには些か以上に不足と見える。いや、神使たる事実を持つ者を前にそう感じるのは、俺の側に偏見があるか。理解は出来ても、感じる事は難しいものだな」
サブラクも負けてはいない。間合いから押し返された数発以降の連弾を、ブツブツと独り言を零しながら、双剣の乱舞で次々と薙ぎ払っていく。
弾けた光弾の爆炎を思い切り浴びているが、それを気にする素振りすら無い。
だが―――
「廻れ」
それすらも、足止めに過ぎない。サブラクが光弾を払う間にも、それに倍する流星が彼の周囲を踊り、一つの天体を形成している。
その天体が……
「滅せよ」
巫女の言霊を受けて、一斉に内へと雪崩れ込んだ。光を束ねているかのような幻想的な姿も一瞬、
「っおお―――!?」
封絶全体を揺るがせるほどの連鎖的な大爆発が、サブラクを呑み込んだ。
確かな手応えと、十分過ぎる破壊力。それでも、ヘカテーは油断しない。
「これで……」
錫杖を頭上に掲げ、その先に……もはや『弾』と呼ぶのも憚られる、直径10メートルを越えようかという巨大な光星を作り出し……
「終わりです!」
間髪入れず、叩き込んだ。それは連爆の中にいたサブラクを確かに捉え、眼下の繁華街に落ちて炸裂する。
「――――――」
爆音が空に轟き、爆炎が天を焦がし、爆光が大地を刳る。あまりの威力に、危うくヘカテー自身が巻き込まれそうになるほどの、正に全身全霊の一撃。
「(ここまでする必要は無かったかも知れませんが……)」
強いとは聞いていたし、自分も肌で感じていた。だからこそ、ヘカテーは初手から全力で迎え撃った。
戦いが長引けば、それだけ『スティグマ』を受ける可能性が高まってしまう。
しかし、これではまだ逃げていないヴィルヘルミナまで巻き添えにしてしまったかも知れない。
「っ……!?」
そんな“見当違いな”心配をするヘカテーの視線の先で、
「まさか……」
―――無傷の“壊刃”サブラクが、炎を裂いて姿を現した。
「……………」
抑えきれない驚愕を、ヘカテーは必死に無表情の内へと隠す。
あれだけの攻撃を受けて、全くの無傷。いくら耐久力が高いと言っても、こんな事はあり得ない。
だが、
「(ただ頑丈なわけではない)」
そのあり得ない結果こそが、ヘカテーに気付かせた。単純な耐久力ではないのなら、他の何かが必ずあるのだ。
だが、出来たのは“気付くところまで”。
「(手応えは確かにあった、幻術の類じゃない。でも、ならどうやって……)」
これだけの敵と戦っている最中に、今まで誰も見抜けなかった仕掛けを看破し、更にその仕掛けを破る方法を編み出し、実行し、成功させる。
そんな事は、どう頑張っても不可能だ。つまり……ヘカテーは、サブラクには、勝てない。
「……………」
渦巻く炎の頂に立って昇って来るサブラクを見ながら、ヘカテーは自らに問い掛ける。
勝ち目が無い、ならば逃げるのか?
ここで逃げても、『零時迷子』が奪われるとは限らない。悠二は既に逃がしている。
……しかし、逃げれば御崎市はどうなる?
無茶苦茶になった街をサブラクが修復する保障など無い。むしろ、直さない可能性の方がずっと高い。
「私は……」
この窮地にあるからこそ、ヘカテーの迷いは容易く氷解した。
「この街を、守りたい」
戦う。
それは、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女ではなく、この街に暮らす一人の少女としての決意だった。
「見縊っていた事は認めよう。だが、俺も依頼を果たす為に戦っている。いつまでも貴様の相手をしているわけにもいかん」
その少女の眼前で、サブラクは足下の炎を大海の如く広げた。外から内へと圧縮されていく力は、これから壮絶な攻撃が来る事を容易に悟らせる。
「(不味い……!)」
察してすぐに、ヘカテーは眼下の駅前通りへと全速力で降下する。その直後に、サブラクは自身を穂先とした長大な槍となってヘカテーの背中へと撃ち出された。
「っ…『星』よ!」
砲弾のように飛んで来るサブラクは、あっという間に距離を詰める。その追撃を振り切るように払われたヘカテーの大杖から、またも光弾が放たれた。
『星』は複雑な軌道を描きながらも一点に収束し、迫り来るサブラクへと激突する。
その束ねられた力は―――
「ぬぅん!!」
数瞬と保たず、弾き散らされた。その凶悪なまでの斬撃が、瞬きの間にヘカテーに届いていた。
「(疾―――)」
その一撃、サブラク自身の放つ双剣の交叉を、ヘカテーは辛うじて大杖で受け止める。
しかし、完璧に防いだわけではない。受けた大杖ごと、まるで車に轢かれたように弾き飛ばされた。刀傷を受けなかったのは奇跡に近い。
「(は、離れ―――)」
受けた大杖に打たれた胸の痛みに耐えながら必死に『飛翔』を制御するヘカテー目がけて、サブラクは振り向きざまに握っていた一振りを投擲していた。
サブラク自身と同じく炎で加速されたそれを、ヘカテーは咄嗟に上体を斜めに反らして躱す。
その躱したばかりの剣が、背後で即座に爆発した。だけでなく、無数の短剣を八方へとばら撒いた。
今度は、とても躱せない。
「はあっ!!」
ヘカテーは全身から爆火を生んで、迫る全てを水色の爆発で吹き飛ばした。
その一瞬だけ視界の曇ったヘカテーの眼前に、
―――“壊刃”サブラクが踊り出ていた。
「くっ……!」
振り下ろされた刃を、大杖が頭上で受ける。それを皮切りにして、嵐のような連撃が襲って来た。
「これほどの手応えは初めてだ。逃げに徹した『約束の二人』はもちろん、『輝爍の撒き手』もここまでの奮闘は見せなかった」
大杖と双剣は数多の軌跡を描いて衝突を繰り返して火花を散らすも、一方的にヘカテーが押されている。
「只それもいつもの事、依頼を受けて標的を狩る、常と変わらぬ営みに下りた、細やかな余興の一つに過ぎん」
両者の間に、技巧の差は殆ど無い。
だが、『スティグマ』の斬撃を一つとして受けるわけにはいかないヘカテーに対して、異常なまでの耐久力を誇るサブラクは杖で殴られたところでどうという事も無い。
つまり相手の攻撃を完全に無視して、力の全てを攻撃に注げる。
その優位性が、接近戦に於ける勝敗を分けた。
「か…っ……!?」
右の肩から左の脇腹まで、剣の一閃がヘカテーを薙いだ。水色の炎が、鮮血の如く噴き出す。
「(私は、勝てない……)」
解っていた結果、敗北という瞬間を迎えて、ヘカテーはただ、想いを馳せる。
「(でも……)」
いつの間にか、一緒にいる事が当たり前になった、少年を。
その想いを、前のめりに崩れ落ちる身体に込めて……
「(“私たち”は、負けない)」
サブラクの足を、掴んだ。
瞬間―――
「ぐっ!?」
“身を袈裟に斬られたような激痛”が、サブラクを襲った。この現象が何なのかを考える余裕もなく、不死身とも見える殺し屋は少女の手を蹴り落とす。
「(……全部、解った)」
もはや浮かぶ力も無く落下しながら、ヘカテーは小さく微笑む。
察知不能の不意討ち、異常なまでの耐久力、それを成立させる『サブラクという徒の肉体』の秘密、それら全てを、他でもない“サブラクの感覚から”悟った。
打開策は思い付いていないが、これは悠二に任せれば良い。あれで意外に、頭が切れる。
「(後は、これを何とか悠二に……)」
既に力の入らない身体で、それでも懸命に戦おうとする少女……その視線の向こうから、茜色の怒涛が無慈悲に迫る。
「ゆ、じ……」
求めるように、何も無い中空へと、届かない手を伸ばす。
その指先が、
―――何かに触れた。
「ヘカテー」
幻覚かと思った存在を証明するように、迫る怒涛が阻まれた。
そこに在るのは、その内に銀の自在式を燃やす……半透明の鱗壁。
「遅くなって、ごめん」
僅かに遅れて、小さな身体を後ろから抱き止められる。
「(……悠二)」
温かな安らぎに身を委ねて、ヘカテーはそれが誰なのか、確認するまでもなく理解した。
もう、首を動かす余力も無い。言いたい事は沢山あったが、それも叶わない。
「ま、ちを……」
言うべき全てをその一言に乗せて、ヘカテーは意識を手放した。
「……街?」
自分の腕の中のヘカテーに、駆け付けた坂井悠二は問い返す。だが、気を失った少女が答える事は無い。
また、悠長な会話を許してくれる相手でもない。
「標的の方からわざわざ戻って来てくれるとは、『永遠の恋人』と違って愚かなミステスよ。いや、そう言ってやるのは酷というものか。俺が奴を破壊した日を考えれば、貴様がミステスとなって半年と経っていない事になるのだからな」
ヘカテーと戦った後とは思えない悠然とした態度で、“壊刃”サブラクが下りて来る。
奪うべき『零時迷子』を前にしたからか、その態度には性急さを感じさせない余裕が見えた。
その圧倒的な存在感に、悠二が改めて身震いしていると……
「いつまでそうしているつもりでありますか」
背後から、無感情な……しかし明確な非難の声が掛けられた。
ヘカテーと戦っている間に悠二と合流したヴィルヘルミナだ。
「時は一刻を争うのであります。“頂の座”を連れて早く離脱を」
悠二はサブラクに対する逆転の策を見つけたから、この場に現れたわけではない。
『夜会の櫃』の残骸を調べる為に御崎駅に戻り、そこで教授を取り逃がしたヴィルヘルミナを発見し、収穫が無かったからと『玻璃壇』に向かおうとしていた所でヘカテーの窮地に気付き、咄嗟に助けに入っただけなのだ。
「……いや、足止めなら僕がする」
そしてヴィルヘルミナも、咄嗟にヘカテーを庇った為に最低限とは言えない『スティグマ』を受けている。
間違ってもサブラクに勝てる状態ではない。
「奴の狙いは『零時迷子』。それに認めたくはないでありますが、恐らく私に“壊刃”は倒せない」
しかし、ヴィルヘルミナは負傷した身で敵を食い止めると主張する。
全ては……“壊刃”サブラクを討滅する為。
「……………」
託されたものの重さを感じて、悠二は二の句が告げずに口を閉じた。確かに、ここで悠二が足止めをしてもサブラクは倒せない。最後には全滅か敗走かしかない。
「……解った、任せる」
逆に―――打開策なら、既に見つけつつある。
この街を守る為に、命を懸けて戦ってくれた少女のおかげで。
「死ぬなよ!」
それだけ言い残して、悠二はヘカテーを抱えて飛び去った。
サブラクも、それを無理に追おうとはしない。ただ、ヴィルヘルミナだけを見ている。
「何もせず見送るとは、意外でありますな」
「静観疑問」
「あれが俺を倒すつもりだと言うなら、わざわざ事を急ぐ理由は無い。拘泥して二人を相手取るよりも、手負いの狐を確実に仕留める方を優先したまでだ」
ふっ……と、小さく、本当に小さく、仮面の奥でヴィルヘルミナは笑った。
「無難な判断でありますな」
確かに、先に悠二を捕えたところで利は少ない。『戒禁』がある限り、この場で宝具だけを取り出すのは不可能だろう。悠二が逃げないと言うなら、確かに後回しにするのが無難だ。
「だが、だからこそお前は敗北する」
そんな常識的な判断をこそ、ヴィルヘルミナは嘲笑う。
「これまで御崎市を訪れた者と同様に、お前は敗北する」
かつて、自分がそうだった。『零時迷子』に気を取られ、一つの存在を軽視したが為に、敗北した。
『零時迷子』が転移して来ただけの……ちっぽけなトーチ。
―――坂井悠二の存在を。
「(急がなきゃ)」
ヴィルヘルミナが長くは戦えない事も、ヘカテーが長くは保たない事も理解して、坂井悠二は空を翔る。
今まではサブラクに見つからないよう建物の頭を越えない低空飛行を続けていたが、もうそんな悠長な事はしていられない。
「(撹乱が消えたのに残ってるモヤモヤした違和感、察知不能の不意討ち、操れない瓦礫、異常な耐久力、ヘカテーの言葉)」
幾つかのピースを重ねる事で、悠二は敵の正体を自分なりに看破していた。具体的な対策も一応思い付いてはいるが……人手が足りない。タイミング良くマージョリーが戻ってでも来てくれない限り、使えそうにない。
それに、『スティグマ』対策の方は今のところ完全に暗礁に乗り上げてしまっている。
「(くそっ、時間が無いってのに……!)」
苛立ちのまま舌打ちしつつ、忙しく視界を巡らせる。早く『玻璃壇』に戻らなければいけないのに、こんな時に限って依田デパートが見つからな……
「え……?」
凍り付くように、悠二は全ての動きを止める。
今まで低く飛んでいたせいで気付かなかった。今、ようやく見つけた。見つけて……目に映る光景を、認めたくなかった。
御崎大橋の付近に位置する廃ビル、彼の友人を残して来た依田デパートは、
―――見る影もなく倒壊していた。