種々の機械が無茶苦茶に絡み合い、既に原型を留めていない御崎駅の構内にて、燐子ドミノが白緑の自在式へと声を放る。
「教授ー、先ほど駅を占拠する時、人間の女の子に邪魔されたんでございまひたたた……!?」
その自在式からマジックハンドがニュッと生えて、ドミノの頬っぺたをつねり上げた。
【主であるこーの私がせっせと働いている時に、お前はなーにを遊んでいるんですかぁ~? つまらないミスで実験を台無しにしたりしたら、どーなるかわーかってるでしょうねぇ?】
「そ、それがその人間が銀の……」
「まーだ言いますかぁー!」
自在式の向こうの主に報告しようとするも、マジックハンドで“口答え”を封じられる。「とにかく私が到着するまで、なーんとしても持ち堪えるんですよぉ~?」と一方的に告げられ、通信を切られた。
「んもぉ~、せっかく『零時迷子』の手掛かりかも知れないのに」
愚痴を零すドミノだが、これは予想できた反応でもあった。実験に集中している時の教授に、何を言っても無駄なのだ。
その脇目も振らず真理を求める姿こそが、“探耽求究”たる本質の所以。ドミノも見習って、今は今の実験に集中する。
何せ、今まで推測ばかりで誰も実証して来なかった世界初の試み。確かに失敗は許されない。
「銀の炎については、それが終わった後でいいかぁ~」
終わった後、があるかどうかは考えず決めて、ドミノは気持ちを切り替えた。
丁度それに応えるように、揺れ幅の大きい朧な気配が近付いて来る。
「懲りないフレイムヘイズ共めぇー、ここまで来たらおとなしく破滅を待ってりゃ良いのに」
手元の自在式を操作する。これでフレイムヘイズは方向を見失って、見当違いの場所に激突……
(ドガァアアアン!!)
“しなかった”。
「……はい?」
激しい轟音と共にブチ抜かれたのは、近隣のビルでも人間ひしめく路上でもなく、ドミノの立て籠もる駅の屋根。
宙に浮かぶ少年の周囲には、燦然と輝く自在式が踊っている。
「もう平井さんが見せちゃったみたいだし、遠慮は要らないよな?」
「ンギャァアーーーー!!?」
燃え盛る銀炎の花火が、魔窟と化した御崎駅を震わせた。
撹乱の自在式は、ミサゴ祭りに際して飾り付けられる鳥のハリボテに仕掛けられている。当然、その配置は祭りを彩る大通りに集中していた。
その大通りの頭上を、
「ふっ!!」
万条を振るうヴィルヘルミナが、
「ったく、何で私がこんな雑用みたいな事しなくちゃなんないのよ」
自在法を放つマージョリーが、矢のように飛んでいた。飛翔の最中、自在式を刻まれた鳥の飾りを次々と破壊しながら。
「駅に仕掛けたのが坂井悠二の自在式である以上、突入は彼に任せる他は無い。その不満は、撹乱を破る事で気配を現す“探耽求究”に向ければ宜しいのであります」
「適材適所」
「解ってるわよ、そんな事」
二人は、さっきまで翻弄されていた撹乱の影響をまるで受けていない。
これは勿論、自在式を起動させていたドミノを悠二が襲撃しているからだ。その主たる教授が何処かに潜んでいる以上、今の内に鳥の飾りを一つでも多く破壊しなければならない。
その猛進の様子を、『玻璃壇』を通じて居残り組が見ていた。
「おーっ! 自在式がガンガン崩れてる!」
飾りを破壊すると共に、通りに並ぶ文様が解れていく様を見て平井が機嫌良く踊る。
もはや手出しも口出しも許されなくなった現状、彼女を含めた人間三人は応援しか出来ない。それを解っているのかいないのか、完全に置いてきぼりを食っていた佐藤が平井に声を掛ける。
「……平井ちゃんは人間、なんだよな?」
「? うん、がっつり人間ですけど?」
その声は、出した佐藤自身が驚くほど弱々しかった。
親しい友人らの真実もそうだが、何より初めて対峙した異形の化け物の存在感が、未だに彼の心に焼き付いて離れない。
『何も出来ない』……そう、見ただけで理解してしまった。認めたくない確信に苛まれた佐藤の唯一の拠り所が、平井ゆかり。人の身でありながら化け物に向かって行った少女の存在だった。
「いや、人間でも紅世の徒と戦えるんだなって……」
「あたしが戦力になるんなら、こんなトコで留守番なんてしてないよ」
その拠り所が、あっさりと淡い希望を打ち砕く。近しい境遇にあるからか、平井には佐藤の悩みを声だけで察する事が出来た。
「紅世の戦いって、殆ど怪獣映画みたいなもんだから。いくら宝具や小道具を揃えたって、生身の人間が“戦力”になろうって言うのは自殺行為なんだよ」
佐藤の顔から、一切の表情が抜け落ちる。まだ形を成す前の夢を踏み躙られた絶望がそこにあった。
「……………」
田中は燐子を見ていない。それでも、平井の言葉と佐藤の様子から、見えざる壁のあまりの高さを痛感する。
二人の辛さも、悔しさも、痛いほどに理解して、それでも平井は容赦なく事実を突き付ける。
「半端な覚悟なら、これ以上踏み込まない方がいいよ。深入りした分だけ、痛い目見る事になるから」
まるで自分自身に言い聞かせて―――その言葉に挑むように。
「……………」
心室内にいる池も佐藤らと同じく、そんな平井を見ていた。
自分たちよりも長く、近く、悠二やヘカテーの真実を知りながら過ごして来た少女の心中に思いを馳せる……
「ああ、これだけ撹乱の式を崩せたら、何か見えて来ませんか?」
「は、はいっ、すぐにやります!」
ような暇など、今の池にはない。
本来ならばマージョリーやヴィルヘルミナ同様、この機に乗じて血印の破壊を試みるべきカムシンがここに残っているのも、池を活かして敵の目論見を探る為なのだから。
ならば当然、池はカムシンを残らせただけの成果を見せねばならない。
「(さっきと違って、意識が無理矢理まげられない。一度目の時に大分ちかい)」
目を閉じ、意識を集中し、出来得る限り鮮明に思い描く。そうして把握した力の流れが、『玻璃壇』の中に映し出された。
「これは……」
それは遂に、カムシンにその正体を見せる。
「調律の、『逆転印章(アンチシール)』……!?」
寂びた声が、滅多にない驚愕に揺れた。
悠二がドミノを襲撃し、ヴィルヘルミナとマージョリーが街の撹乱を崩している頃、ヘカテーとシャナは東西に別れて街からの脱出を試みていた。
敵の術中に囚われたままでは解らない異変でも、外から全体を捉えれば見えるものもあるかも知れない、という考えあっての行動だったのだが……収穫は全く予想外の所から得られた。
「(おじ様の、気配……!?)」
感知能力に優れた悠二でさえ全く感じ取れなかった教授の気配を今、ヘカテーはハッキリと感じていた。
但しそれは御崎市の中ではなく、遠方から接近して来る気配として。何の事はない、見つからなかったのではなく、初めから居なかったのだ。撹乱の自在法は、街の外から接近して来る気配を誤魔化すのにも一役買っていたらしい。
街から脱出したのは大正解だった。何を企んでいるのか知らないが、到着する前に撃退する。……しかし、問題が一つ、
「(あっちの方角は……)」
教授の気配、ヘカテーと街を挟んで反対側……つまり今、シャナが一番近くにいるという事になる。
人知れず『大命詩篇』を回収するミッションを秘めたヘカテーにとって、この流れは非常に宜しくない。即座に流星となって空を翔る。
その飛翔の最中に、携帯電話が鳴り響いた。慣れない手付きで通話ボタンを押す。
【ヘカテー、そっちはどう?】
平井の声だ。
「……おじ様の気配を街の外に捉えました。これから撃破に向かいます」
ヘカテーが敢えて『討滅』という言葉を使わなかった事には構わず、平井は深刻な声で話を進める。
【ヘカテー、教授の狙いが解ったの。調律の逆転印章、だって】
一瞬、ヘカテーは言葉の意味を理解できなかった。
―――『逆転印章』。
自在法を正反対に作動させる、本来ならば防御陣などに使われる自在式。それを、歪みを正す『調律』に使うという事は即ち……
「……歪みの、極限までの拡大」
【そう、完成したら、御崎市は丸ごと“完全消滅”する】
ヘカテーの背筋を、冷たい感覚が撫でる。仮初めの筈だった日常が消え去る想像……それは紛れもなく、恐怖だった。
【カムシンさんの話だと、今の式は肝心の部分がポッカリ空いてるみたい。多分、その足りないピースを運んで来てるのが……】
「おじ様、ですか」
必要な事は聞いたとばかりに、ヘカテーはそこで通話を切った。より以上の加速を以て、騒がしい気配へと猛進する。
胸に去来する想いは、いつしか別のものへと変わっていた。
駅の内部があり得ない構造に変形し、飛び出た数多の砲門が一斉にミステスの少年へと向けられる。
そこから放たれる白緑の集中砲火が、一瞬にして標的を爆炎で呑み込んだ。
「やったー! どーだミステスめぇー、私だってやる時はやるんだぞー!」
その光景を見て、自在式を操作していたドミノが両手を叩いてはしゃぐ。
「良かった」
直後、煙の向こうから発せられた涼しい声を聞いて、硬直する。
「一人で勝った事ないから不安だったけど、これなら何とかなりそうだ」
燃え盛る白緑の炎の向こうから、無傷の少年が平然と歩いて来ていた。
その掌上に、半透明の蛇鱗が浮かぶ。
「ひーーーっ! 教授ー! 駅にミステスが突入して来ましたー! 私はどうすれば良いんでございますですかーー!!」
変形させた駅の防壁に隠れて、ドミノは情けない悲鳴を上げる。立て続けに響く轟音の中に、主の返事は混ざらない。
御崎市に向かう“探耽求究”ダンタリオンもまた、フレイムヘイズと交戦の真っ只中にあったのだ。
「はああああぁーー!!」
烈迫の気合いと共に、大太刀の切っ先から紅蓮の炎が迸る。灼熱の奔流はヒョロ長い白衣の男に一直線に伸びて……巨大なフライパンに阻まれた。
自在の黒衣『夜笠』を翻す『炎髪灼眼の討ち手』は、敵の間合いから逃れるように三、四回のバック転を繰り返した後……前触れもなく出現したバナナの皮に滑って落ちた。慌てて紅蓮の双翼を広げて飛翔する。
「外見や言動に惑わされるな。いや、実際中身も外見そのままだが……意表を突くという一点に於いては指折りの王なのだ」
「わ、わかってる!」
彼女は現在、御崎市駅へと続く線路……それを走る列車の上で戦っていた。
ギャオー! とおかしな汽笛を鳴らす列車は、無論普通の電車ではない。逆転印章の最後のピースたる我学の結晶エクセレント―29182『夜会の櫃』である。
最も敵に近い位置で気配に気付いたシャナは、偶然とは言え王手を掛ける大役を担う事となった。ヘカテーが猛スピードで近付いて来る気配も感じてはいるが、待つ気など毛頭ない。この期に及んで“不確定要素”の介入は望むところではなかった。
「無ー駄無駄ぁ! こーの『我学―――」
「ぇやあ!!」
何故か危険を伴う列車の外に運転パネルごと出て来ている教授めがけて、再び紅蓮の大太刀を振りかざす。
それはやはりフライパンに弾き散らされるが、振り回す軌道の下から、シャナが列車の屋根を蹴って飛び込んでいる。
炎が駄目なら斬撃、その狙いを看破するように教授の眼鏡が光った。
「っ……!?」
真っ直ぐは不味いと、シャナの直感が告げる。その背中に再び炎翼が燃え上がり、神速で旋回して教授の背後を取った。
その……“さらに後ろ”。
「うあっ!?」
屋根から飛び出た巨大なトンカチが、攻撃に意識を集中させていたシャナを叩き落とした。
小柄な身体が鉄の屋根に叩きつけ……られない。屋根は唐突にパカリと開き、シャナを叩き込んでから閉まった。
暫く、というほども待たずに列車全体を震わせるほどの爆発が響くも、『夜会の櫃』はビクともしない。それどころか、煙の代わりに紅蓮の炎をギャオーッと噴き出しながら猛然と加速する。
「んーっふっふっふっ。実験を邪魔する道具をも実験に利用する! こぉーれこそが実験というもののあるべき姿でーすよぉー!!」
高らかに勝ち誇る教授と、炎を誘発する為の仕掛けを受けて半狂乱になるシャナを乗せて、『夜会の櫃』は御崎市へと突き進む。
役立たず。
紅蓮に燃える化け物列車を見たヘカテーが真っ先に抱いた感想が、それだった。
迎撃に向かった『炎髪灼眼』は、撃破するどころか列車の推進力として有効利用されているらしい。
『大命詩篇』を押さえられる、などという事態に比べればマシと言えるが、もう少し何とかならなかったのか。
「『大命詩篇』を返して貰えるか交渉したいところですが……」
ともあれ、今はあの列車を止める事が最優先。交渉はそれからでも遅……いかも知れないが、とにかく止める。
因みに「止まって下さい」が無意味なのは痛いほど良く解っている。実験遂行中の教授に何を言っても無駄なのだ。
というわけで、
「『星(アステル)』よ」
容赦なく光弾をぶっ放した。明る過ぎる水色の流星が外から内へと弧を描き、やけに尖った列車の先端に直撃し……いきなり顕れた白緑の自在陣に弾かれる。
列車の存在を悟られない前提で動いていただろうに、こちらの防御も抜け目が無い。
「(……どうする)」
遠距離が駄目なら接近戦、という作戦は却下する。どこぞの赤毛の二の舞になるわけにはいかない。遠距離から何とかしなくてはならないが、教授の我学を自在法で上回れる気がしない。
「(っ……これです!)」
と、見える中に閃きを呼び起こす物があった。
間髪入れず振り抜かれた大杖の先から、再び数多の光弾が撃ち出され、連鎖的な大爆発を巻き起こした。
「のぉおーーう!!」
そうして粉々に砕かれたのは、教授を乗せた化け物列車“ではない”。その列車が向かう先……線路を走らせる高架だった。
掴むべきレールも走るべき足場も失った列車は、為す術もなく転落……
「しっかぁぁーーし! こぉーんな事もあろうかとぉおーー!!」
“しない”。
「お、おぉ……!!」
思わず、かつてのように、ヘカテーは感嘆の声を漏らしてしまう。
『夜会の櫃』はその左右から鋼鉄の翼を広げ、夜空へと雄々しく飛び立っていた。この奇想天外な発想と、未知なる道へと突き進む執念こそ、ヘカテーが彼をおじ様と慕う所以。
……などと、感心している場合ではない。
「さーぁ飛べ! 『我学の結晶ェエークセレント―29182夜会のぉー櫃』!!」
眼鏡を爛々と輝かせる教授が、空から御崎市に突入してしまう。
次の手を思い付かないまま、とりあえず追い掛けるヘカテー。その視線の先で、
(ガギンッッ!!)
硬い金属音と共に、『夜会の櫃』の車体から何かが生えた。
それは波紋も見えないほど銀色に溶け合う、細くも太い刃。シャナの名前の由来ともなった、『贄殿遮那』の刀身だった。
「(中から、力付くで……)」
炎を動力にされている事に気付いているのか、刃で強引に脱出を試みているらしい。
そのまま抉じ開けるのか、と見守っていると……
「っ!?」
脱出を待たずして、シャナを収めた車両だけが抜き出すように切り離された。その車両が、ヘカテーの上に降って来る。
「く……っ」
それを光弾一閃、間一髪で爆砕する。と……中から、黒くてモゾモゾした何かが、雨のように降って来た。
特に大きな力を感じなかったが故に警戒せず、何の気なしに掴み取る。その正体は、毛虫だった。
「………?」
何故こんなものが、と首を傾げていると、一緒に吹き飛ばされていたシャナがゆらりと浮上して来た。
さっきの仕返しでもされるかと身構えてみるも、そんな様子は無い。シャナの灼眼は、彼方に飛び去る化け物列車のみを睨み付けている。
「あっっの……ドバカァーーー!!」
今の危機的状況を理解しているのか、見た事も無い形相で飛んで行くシャナ。ヘカテーも当然続くが、
「「っ……!?」」
その飛翔が突然、見当違いな方向にねじ曲げられた。見れば、鳥の飾りが複数、二人の周囲を飛んでいる。
「(……もう、撹乱の威力圏に入っている)」
すかさず鳥を破壊してから、教授を追う。だが既に、御崎駅はすぐそこにまで迫っていた。
「ェエークセレント! エエーキサイティング! 世界はこんなにも美しい!!」
飛んでいた列車が滑空を始め、再びレールを掴む。もはや勝利を確信した教授の雄叫びが響き渡る。
変形した駅に、列車が誂えたように突き刺さった。
「ドォーミノォーー!! 今こそ生まれる世紀の瞬・間! 見ぃ逃すんじゃあぁーりませんよぉーー!?」
足りなかったピースを嵌め込まれ――――遂に、巨大な『逆転印章』は完成された。
歪みを正す調律の逆転、存在の完全消滅、誰も見た事が無い未曾有の崩壊。自らの死すらも度外視して、教授はそれを見届けんと眼鏡を光らせる。
「……………」
が、
「……………おやぁ?」
何も、起こらない。
確かに『逆転印章』は完成した筈なのに、いつまで待っても世紀の瞬間は訪れない。
首を90度ほど傾げる教授の前で、
「ンノォオオーーー!!?」
駅の鉄壁が内側から爆発、ドミノが砲弾よろしく飛んで来た。ガスタンクのような丸い身体は制止も利かず教授にぶつかり、そのまま二人仲良く『夜会の櫃』から転げ落ちる。
「ドォーミノォーー! 私の助手ともあろうものがなぁーんてザマですかぁーー!?」
「うわぁーん! すいませんでございますです教授ーー!!」
とりあえず叱る教授、とりあえず叱られるドミノ、その頭上に……
「今回ばかりは、相手が悪かったようでありますな」
「敗北必至」
仮面で表情を隠す『万条の仕手』が、
「ヒャッハッハッ! さぁーて、知ってること洗い浚い吐いてもらうとしようじゃねーか」
「……そーね」
今一つ意気込みが噛み合っていない『弔詞の詠み手』が、
「ああ、調律の血印は既に破壊させて貰いました」
「ふむ、これだけ人手がある状況もそうはないからの」
そして、変わらず冷淡とした態度を崩さない『儀装の駆り手』が、囲むように滞空していた。
「なぁーんですってぇーー!!?」
言われた教授は、食らい付くように運転パネルに乗り込み、その眼前に式の全容を映し出した。
……無い。
確かに『逆転印章』は完成している。だが、逆転させるべき肝心の調律の自在式が、無い。何も起きないのも道理だった。
「ああ、正直、手腕だけ見ればそちらの方が何枚も上手でしたよ。今回は運が良かった、と言う他ありません」
そう、『玻璃壇』と池の協力によって調律の『逆転印章』を見抜いたカムシンは、即座に自らが施した『カデシュの血印』の破壊に移っていたのだ。ただ鳥の飾りを減らす事のみを目的としていたヴィルヘルミナやマージョリーの手も借りて。
悠二やヘカテーらの襲撃を受け続けていた教授やドミノは、その動きを把握する余裕が無かったのだ。
「鳥の数も減ったし、調律も壊した、か……」
衝撃に固まる教授ら、を含めた御崎市全域が、銀の陽炎に包まれた。それを起こした少年……坂井悠二が、ドミノの叩き出された穴から空へと舞い上がる。
「よし、封絶も使える」
もう手加減は必要ない。
暗にそう告げる悠二に応えるように、ヘカテーとシャナも追い付いて来た。
悠二、ヘカテー、シャナ、ヴィルヘルミナ、マージョリー、カムシンによる四面楚歌。さしもの教授と言えど、明らか過ぎるほどの窮地だった。
「燃え尽きろぉおおおーーー!!!」
周りとの連携も忘れたシャナが、怒りの咆哮を上げる。振り上げられた大太刀が、先とは比較にならない紅蓮の炎を纏う。
「ちょっ、シャナ!?」
誰もが、
「待ちなさい!」
次に起こる事態を予測した。
「そいつにゃまだ訊きてぇ事が……」
灼熱の奔流が教授を列車ごと焼却する、その光景を幻視した。
「おじ様、逃げ……」
その予感は、正反対の形で裏切られる事になる。
何の前触れもなく湧き上がった、
―――茜色の怒涛によって。