目の前に映る光景を、“頂の座”ヘカテーはボンヤリと眺めていた。
彼女から見ても繊細緻密な自在式を宙に描くのは、“螺旋の風琴”リャナンシー。紅世の徒、最高の自在師。
その正面で正座しているのは、坂井悠二。大命詩篇を内包する『零時迷子』のミステス。徒が戦闘用に造ったわけでもない、宝具が転移して来ただけの非力な少年。
―――それも、今となっては過去の事。
「(悠二は強くなった)」
『万条の仕手』の襲撃を皮切りに、『炎髪灼眼の討ち手』、『弔詞の詠み手』、世に名立たる強者と戦った。………そう、彼女らと戦って生き延びる程の実力を、いつしか彼は身に付けていた。
ヴィルヘルミナも、シャナも、マージョリーも、並のフレイムヘイズでは決して無い。彼女らと渡り合えたという意味を悠二が本当に理解していのか定かではないが、それが事実。
凡百の徒やフレイムヘイズでは、今の悠二に傷一つ付ける事も出来ないだろう。
加えて、その真価を発揮した悠二の自在法『グランマティカ』。複数の自在式を掛け合わせる蛇鱗は、彼の手札を増やす事で樹系図を描くように可能性を広げていく。このタイミングで最高の自在師“螺旋の風琴”の師事を受けられるのは想定外の幸運だった。
「(これで……良い)」
『自分の身を守れるくらいに悠二を鍛える』という当初の目標を果たす日は遠くない。『零時迷子』に起因する複雑な因果を考慮に入れても、だ。
「(私が―――いつまでも彼の傍に居る事は無いのだから)」
空を、見上げる。
陽炎の異界に鎖された夜空に、星は見えなかった。
朝から小雨の続く六月、悠二らがマージョリーとの激戦を経た翌日・月曜日。御崎高校一年二組の教室は微妙な緊張に包まれていた。
と言っても、いつ起きるか判らない凶事に怯えるだけのものではない。期待と不安の入り混じる、好奇心のままに手を突っ込んでみたくなる、そんな緊張感である。
その注目は、先日転校して来たばかりの一人の少女に集められていた。
「で、今日の放課後にデパート行く事になったんだけど、シャナも行かない?」
大上準子。彼女に対して平井ゆかりと坂井悠二が『シャナ』という渾名を使うのは、いつも通り。だが、この後が違う。
「今日はヴィルヘルミナと書類整理する事になってるから」
そう呼ばれた大上が、何を気にしたわけでもなく平然と会話を続けている。今までならばきっちりと否定し、場合によっては手痛い反撃で黙らせていたというのに。
「(わ、私も呼んでいいのかな……シャナちゃん、って……)」
つまり、クラスに漂う緊張はそういう事だった。
『大上準子を渾名で呼んでもいいものかどうか』。
平井が実践してくれている、というのもあるし、この渾名で呼ばないと何故かチョークによる制裁を受けるケースもあったりするので、彼女に多少なりと興味を持つ者は密かに様子を窺っているのだ。
「……相変わらず、見てるだけで胸焼けしそうなお昼だな」
「うるさいうるさいうるさい。だったら見なければいい」
心無しか、休み前より険の取れた悠二とシャナの会話を脇に………
「“シャナちゃん”って、一人暮らしだっけ?」
真っ先に口火を切ったのは、やはりメガネマン・池速人。まるでぎこちなさを感じさせない、元々そう呼んでいたかのような自然な口振りで。
「違う」
それにシャナも、素っ気なくだが返事をする。渾名に対する拒絶は、無い。それに引っ張られるように吉田も続く。
「シャ、シャナちゃんの家、確かゆかりちゃんのマンションの近くだったよね?」
「……? そう」
こちらは少し落ち着きが無い。やや裏返り気味の声を訝しみつつ、シャナも深く追及したりはしない。
おしゃべりに乗るでもなく、最低限の返事だけするシャナは、手にしたメロンパンに噛り付いて満面の笑みを浮かべる。その愛らしい笑顔に、彼女に注目していた何人かの生徒が感嘆の溜め息を溢した。
「(ん〜む、マブい!)」
吉田に貰った悠二の弁当を失敬しようとするヘカテーの手をはたきつつ、平井も万感の気持ちで何度も頷いていた。ふと、その視線がシャナの隣で止まる。
「オガちゃん、どしたの?」
今日はいつも一緒に昼食を採るメンバーが学食だからと こちらに混じっている緒方真竹である。
或いは池より先にシャナを渾名で呼んでくれるかと密かに期待されていた彼女は、何だかボンヤリと宙を見つめていた。箸も殆ど動いていない。
「え? あぁ、いや別に、何でもないよ?」
呼ばれて、初めて自分が友達と昼食を食べている事を思い出したように緒方は慌てて手を振って苦笑する。
名前の通り、竹を割ったようにサッパリとした普段の彼女から考えると、どうにも不自然な感じである。
「田中君が居ないから?」
佐藤啓作と田中栄太の二人は本日欠席。二人揃って、という辺りにサボタージュの匂いがプンプンするものの、まさかそんな理由で緒方が沈むとも思えない。この質問は八割方からかい目的だった。
のだが……
「あはは、そういうワケじゃないんだけど、ね……」
予想に反して、緒方は照れるでもなく居心地悪そうに視線を逸らした。何だか深刻な空気に、平井以外の面々も緒方の様子に気付く。
「昨日、僕達と別れた後に何かあった?」
「いや、ホント何でもないから! 何でもない……って信じたい……」
尻すぼみに小さくなる声で、誰にも聞こえない呟きを漏らした少女は……そのまま力無く机に突っ伏した。
「う゛〜〜………」
ぐるぐると頭を揺らす不快な感覚に叩き起こされるように、マージョリーは眉根を寄せて目を覚ました。
ソファーに俯せに倒れた体勢のまま、首を動かすのも億劫と言わんばかりに視線だけで周囲……と呼ぶには狭い範囲を見回す。
テーブル、バーカウンター、毛布、ビーフジャーキー、酒瓶、酒瓶、酒瓶。
「(えっと……何だっけ……)」
完全無欠に二日酔い。とりあえずと、ノロノロと左手を着いて起き上がろうとして………
「ふぎゃっ!?」
無様に失敗、ソファーの上から見事に転げ落ちた。ソファーの正面にあったテーブルの脚に後頭部を打ったのが地味に痛い。
落下の原因となったもの、浴衣の下に隠された自身の左腕に目を向けて……それが無い事を思い出した。
忌々しい……という言葉だけでは到底片付けられない、敗北の爪痕。
「ヒーッヒッヒッ! 漸くお目覚めかい、我が永遠の泥酔者マージョリー・ドー」
「……起き抜けに大声出してんじゃないわよ、バカマルコ。頭に響くでしょうが」
「そいつぁ俺のせいじゃねーだろ。そうなるって判って何で飲むかねぇ?」
向かいのソファーの上に置かれた、画板ほどもある巨大な本『グリモア』から、パートナーのキンキン声が変わらず響く。こういう時いつもと変わらない態度で居てくれるというのは、正直ありがたい。
「で、ここどこよ?」
言って、マージョリーは改めてこの『室内バー』とでも呼ぶべき一室を眺めた。酒が入る前の事は思い出したが、その後の記憶がハッキリしない。
「ったく、情けなくて涙が出るねぇ。ご両人がお使いに出されてて万々歳ってトコか」
「ご両人? あ〜……そう言えば何か居た気がするわ」
少し直視出来ないレベルで無邪気な少年二人。その招待に預かったんだったか。そういえば今朝も、誰かに何か頼んだような気がしなくもない。
「名前、何だっけ?」
常に輪を掛けてズボラな……余裕の無さが透けて見える契約者に、
「ケーサクとエータだよ」
グリモアの端から、群青の炎が溜め息となって漏れた。
平日でもそれなりに賑わうデパートの三階、階段横の自販機コーナーで、二人の少年がうなだれている。
「……やっぱ俺には無理だ。田中、おまえ行ってくれ」
一人は軽薄そうな雰囲気の、美を付けてもいい容姿の少年、佐藤啓作。
「俺も無理だっての! そもそも頼まれたのお前だろ!?」
もう一人は、細目で愛嬌のある顔立ちの大柄な少年、田中栄太。
「偶々トイレに行ってただけで何 責任おしつけてんだよ。マージョリーさんは『あんた達』って言ったんだぞ」
「それにオーケー出したのはお前だろ」
「お前ここまで付き合っといて今更そりゃないだろ!」
「……あ、俺さすがに二日連続外泊はマズいから、後よろしぐおっ!?」
「ふざけんな! ぜってー逃がさねー」
沈んだ顔でベンチに腰掛けた状態から一転、鬱憤を晴らすように怒鳴り合った二人は、またすぐ萎んだように座り込む。こんな事をしていても、何一つ事態は好転しないのだ。
「やめようぜ……どうせこのまま帰るって選択肢はねーんだし」
佐藤が、英語で書かれたメモ用紙を悔しそうに握り締める。
彼らは現在、ある女性の(半分寝呆けた)命を受けてお使いに出されていた。
その女性とは、マージョリー・ドー。不良に囲まれていた彼らを、『格』としか言い表わせない威嚇のみで助けた女傑である。
宿を探していた彼女を、ワケあって自宅に招いた佐藤と、それに同伴した田中は、助けてもらった恩義を返そうと思ってそんな事をしたわけではない。いや、恩は恩として感じてはいるのだが、それ以上の感情を以て彼女と接している。
“青臭い自分たち”が無様に求めた強さとは全く違う、あまりにもカッコいいその姿に強烈に惹き付けられた。憧れという言葉が、最も相応しいだろう。
その感情の命ずるまま、今日もこうして学校を無断欠席して使い走りなどしているのだが………
「じゃあ何だ? 遅かれ早かれ“あそこ”に入るっきゃないのか?」
戦慄くように田中が細い目で睨む先に、それはあった。即ち―――女性の下着売り場が。
佐藤や田中は聞き知ってはいない事だが、フレイムヘイズたるマージョリーは普段生活に必要な物は神器『グリモア』に収納している……のだが、昨日の“暴走”の影響でその大半を焼失してしまったのだ。
マージョリーからすれば「必要だから買って来い」程度の事しかないだろうが、二人には些か以上にハードルが高い。
「あ゛〜……こんな事なら、ハウスキーパーの婆さん達に頼むんだった」
「なあ、今からでも電話した方がいいんじゃ……」
「今の時間じゃ家に居ねーし、ダメ元で掛けてマージョリーさんが出たらどうすんだよ」
英和辞典で一つ一つメモを解読しながら、そもそも日本には無いような化粧品を探し回ったりして奮闘していた二人だが、ここに来て為す術もなく足を止めている。ちなみに現在は午後5時15分。そろそろ現実逃避も許されない時間帯に差し掛かろうとしていた。
「……よし、こうなったらジャンケンで決めようぜ」
「勝っても負けても恨みっこ無し、後から『やっぱ無理』とかも無しな」
立ち上がり、向き合い、ポキポキと拳を鳴らす二人の少年。たかがジャンケン、しかし男の尊厳が賭かっている。
「最初はグー!」
「ジャンケン……」
そんな二人の衝突を前に、
「学校サボって何やってんの?」
一人の少女が、声を掛けた。佐藤と田中が、ピタリと止まる。
「って、あたし達も人のこと言えないけどね。何かオガちゃんが心配してたよ?」
声に引かれて目を向ければ、クラスメイトの中でも取り分け仲の良いグループの二人……平井ゆかりと近衛史菜、愛称ヘカテーが階段を上って姿を現していた。
学校帰りにそのまま来たのだろう。二人とも制服のままである。
「そ、そっちこそ何やってんの? 珍しく坂井いないみたいだけど」
佐藤はまず、「マズいトコ見られた!」と思った。マージョリーの事は余人に話すべきではないと、直感が告げている。
「ふっふっふっ、よくぞ訊いてくれました」
意味深に笑った平井は、意味深に笑ったワリにはあっさりと、手にしたそれをと見せ付けた。
左手を腰に当てて右手のそれを突き出すポーズを、まるで示し合わせたようにヘカテーも取っている。
「……携帯?」
「そ。さっきまで一階のcomodoショップでコレ選んでたの。で、これから服でも見ようかなと」
平井とヘカテーの手に握られているのは、同型で色違いの携帯電話。平井が赤で、ヘカテーが青である。
これまでならば家の電話で十分かな、などと考えていた平井だが、“昨日のような事”もある。その教訓を活かして、良い機会だからと文明の利器に手を伸ばす事にしたのだった。
「「……………」」
仲の良い友達が携帯電話を所持。普通なら真っ先に番号やアドレスに注目する場面だろうが、佐藤と田中は後半のオマケ染みた一言にこそ反応する。
「「何も訊かずに協力して下さい!」」
「……はぇ?」
気付けば、二人揃って両手を合わせ、頭を下げていた。
呆気に取られる平井の隣で、ヘカテーは携帯の画面を黙々と凝視している。
「何で僕が書類整理なんて手伝わなきゃいけないんだ………」
佐藤らと平井らがデパートで遭遇している頃、坂井悠二は真南川沿いの道路を歩いていた。
「文句なら平井ゆかりかヴィルヘルミナに言えばいい。私に言われても知らない」
その隣を歩くのは、大上準子ことシャナ。本来ならば平井ゆかりの仕事である外界宿(アウトロー)からの書類の整理を、今日はこの二人がやる事になっていた。
「お前は買わないの? 携帯電話。自在法の気配無しで連絡が取れるのは便利だと思うわよ。まあ、封絶で隔絶されたら使えないけど」
その目的は、シャナと悠二に外界宿の概要と必要性を知らしめる事にあった。
一人一党な者が多いフレイムヘイズの中でも、外界宿を全く使わないのはシャナくらいのものだ。一匹狼の代表の様なマージョリーでさえ外界宿を飲み屋代わりに使っていた事から見ても、シャナの存在は異質に過ぎた。意図せず彼女と再会を果たしたヴィルヘルミナとしては、この非効率な習慣は是非とも改めさせるべきだと考えている。
「どうせなら僕だって持ちたいけど、とりあえず母さんに話を通さない事にはね」
そして、坂井悠二。
“頂の座”に助けられ、しかし人間としての自我を抱く少年は、未だ不安定な存在である。外界宿と関わりを持つ平井を楔に、彼をフレイムヘイズの側に引き込めないか、とヴィルヘルミナは画策していた。
『零時迷子』と謎の自在式を宿すミステス、破壊できない事情もある以上、せめて味方に付けて置いた方が良いに決まっている。
「シャナは? どうせお金なんて大した問題じゃないんだろ」
傍ら、視線を返すでもなく前を見る少女に、悠二は何の気なしに訊いてみる。
その眼が少し、遠くを見つめた。
「私は……誰かと関わろうと思った事が無い。アラストールと二人で戦ってきたし、実際それで困らなかった」
それが当たり前の事であるように、シャナは語る。
それは寂しい事だと、悠二は思った。思って、しかし、口に出す事は無い。
「………そっか」
自分の中の何かを掴みかねているような少女の横顔を見て、口にすべきではないと判断する。シャナ自身が、今の暮らしの中で思えるようになればそれで良い。
……誰かと一緒に居る事が、大切だと。
「(根は良い子なんだよな、やっぱり)」
出会い頭に殺されかけた事も、今では水に流せる気がする。この偏った考え方の責任は、やはり彼女の育ての親にこそ負わせるべきなのだろう。
そんな事を考えていると………
「悠ちゃーん」
自転車のベルを鳴らす軽快な音と共に、後方から母・千草がやって来た。自転車の籠いっぱいに、ビニール袋に詰まった食材が溢れている。
「……母さん、頼むから外でその呼び方は……」
「あらあら、女の子の前だと恥ずかしい?」
「男子でも女子でも関係ないって、高校生にもなってカッコ悪いだろ!」
わりと本気で嫌がっている悠二と、楽しそうに頬笑む千草。そんな二人を、シャナは交互に眺めてみる。
と、その視線に気付いてか、千草が人の良さそうな笑顔で会釈した。
「悠二の母の千草です。学校のお友達?」
「違う」
シャナ、即答。
悠二は乾いた苦笑を浮かべざるを得ない。確かに悠二も友達と呼べるほど親しくなったつもりなど無いが、それにしたってもうちょっと迷ってくれても良いのではないか。
ごほんっ、とわざとらしく咳をし、悠二はシャナに掌を上向けて千草に紹介する。
「転校生なんだ。カルメルさんの娘みたいな子だよ」
「まあっ、カルメルさんの?」
途端に綻ぶ千草の表情。悠二と仲の悪いヴィルヘルミナだが、どういうわけか千草とは仲が良い。当然のように、飽きもせず繰り返される娘自慢も聞かされていた。
「何て呼べば良いかしら」
「……シャナで良い」
今まで経験した事がない、無条件に注がれる優しい眼差しに、常なら誰に対しても素っ気なく返す少女がたじろぐ。
「じゃあシャナちゃん、いつでも家に遊びに来てね。悠ちゃんはともかく、私は貴女とお友達になりたいから」
平井ゆかりともまた違う、包み込むような柔らかな笑顔を残して、坂井千草は去って行く。
「……あれは、本当に貴様の母親か?」
『コキュートス』から一部始終を見ていたアラストールが、小さく訊ねた。