建物の屋上、道行く人々からは見えない高い死角を、一人の人ならざる女が跳躍している。
「封絶の気配……やはり、既に始まっているようでありますな」
「戦闘中」
彼女の名はヴィルヘルミナ・カルメル。『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーの凶行を止めるべく力を振るい、奮戦虚しく敗北したフレイムヘイズ。いつも着ている給仕服は戦闘でボロボロになり、今の彼女はリボンで編んだ純白のワンピース姿である。
坂井悠二や“頂の座”ヘカテーの監察を請け負う彼女は、未だ万全とは言えない身体を酷使して戦場へと急行していた。
「(急がなければ)」
彼女の懸案は、三つある。
一つは、“屍拾い”ラミーの討滅による存在の力の暴発。……しかしマージョリーが向かった先から考えて、これは当面は大丈夫だろう。
二つ目は、銀炎を見たマージョリーが、ミステス坂井悠二を破壊する事。彼女個人の複雑な事情から、現状では彼を守らなければならない。
そして三つ目………これが、最も可能性の高い危機だった。
「(『弔詞の詠み手』が、殺される)」
悠二を狙ったマージョリーが、ヘカテーの手で返り討ちにされてしまう事。
向かう先には異能者が三人、いくらマージョリーでも勝てるとは思えない。そして……敗北で済むとも限らない。
『炎髪灼眼の討ち手』は、フレイムヘイズの使命からマージョリーを阻みはしても、同じく使命から、殺す事は考えられない。
同じく、未だ日常に固執する坂井悠二にとっても“人殺し”は大いなる禁忌である筈だ。
しかし……ヘカテーは違う。元より“同胞殺し”たるフレイムヘイズを快く思っていない彼女が、その破壊を躊躇う理由は殆ど無い。加えて……マージョリーは“銀”を仇と狙っている。
「(もし、それを知られてしまえば………)」
日常の様子から、そして……かつて自分が引き起こした戦いで見た、巫女らしからぬ逆上と涙から、ヴィルヘルミナは“ヘカテーの事情”の表層……或いは根幹を、概ね理解していた。
悠二に対して異常な殺意を示すマージョリーを見た時、彼女が何を思うかなど想像に難くない。
自分の時は坂井悠二が諫めたものの、今回も上手くいく保障など無い。
「見えた」
「確認」
複雑に絡み合うそれぞれの想いに無表情を固めて、ヴィルヘルミナ・カルメルは跳ぶ。
………そんな危惧を抱かれている“頂の座”ヘカテーはと言うと、
「むっ」
ファンシーパークに木霊するアナウンスの呼び出しを、後れ馳せながら耳にしていた。
雲霞の如く膨らんだ爆炎が、大気を灼き空を震わせ暴れ続ける。
「あれは………!」
先に気付いたのは、シャナだった。
膨張する炎の塊の中で、炎弾の爆発ではない何かが顕現されている。
それを口に出すより早く、燃える一端が炎を裂いて直下に伸びた。
「うわぁ!」
油断していた悠二の至近を風を巻き込んで通過して、メリーゴーランドを踏み潰す。
その上から更に巨大な群青が降って来るのを認めた悠二は、慌てて『飛翔』を構築してその場を離れた。
大き過ぎて近くでは正体の掴めなかったモノも、距離を取る事で全容を掴む事が出来る。
「狼……!」
それは、揺れる群青を体毛と揺らす、巨大な上にも巨大な炎狼。金の瞳は狂乱に染まり、牙だらけの口からは唸りと共に炎が溢れている。
「あれも自在法……? まだあんなに力が残ってるのか……」
「そうではない。深手のフレイムヘイズが力の制御を忘れて暴走しているだけだ」
戦慄する悠二の隣に、紅蓮の双翼で宙を舞うシャナが並んだ。その胸元から、紅世の魔神がマージョリーの状態を端的に告げた。
「暴そ―――」
それを、悠長に訊ねている暇は無い。
金の瞳が悠二を見つけるや否や、巨大な狼は長い四肢で一瞬にして跳び掛かって来た。
狂ったように迫る顎、小さな人の身など容易く咬み千切ってしまう牙から、シャナは翼による飛翔で上へ、悠二は飛翔を解く事による落下で下へと逃れる。
下に逃げた獲物を、着地も待たずに踏み潰さんと繰り出される前足。悠二はそれを、咄嗟に展開した蛇鱗の障壁で止めた。
着地と同時、足裏に爆発を生んで一気に離脱。再び『グランマティカ』を繰って飛翔する。
空中戦は避けるべきだと判断していた悠二だが、あんな巨体相手に地面など走っていたら あっという間にぺしゃんこだ。
「表層的な姿に惑わされるな。頑強な意志総体に統御されてこそ、存在は本来の力を発揮する」
一方でシャナは、悠二のように危機感に圧されて浅慮に距離を取ったりはしていない。
こういう巨体相手には、距離を取ってもあまり意味が無い。あの長い四肢で容易く飛び込まれるだけだ。だからこそ、巨体ゆえに死角の多い至近を、シャナは翻弄するように飛んでいる。
「うん」
アラストールの、今だからこそ反復される基礎の基礎を、シャナは今のマージョリーの姿に納得する。
具現化した身体はあちこちで脆く綻び、群青の炎が酷く無秩序に噴き出していた。撒き散らす力そのものは膨大だが、安定などとは程遠い。
「はあっ!」
見つけた綻びに大太刀を突き立ててみれば、案の定さっきまでのトーガより容易く刃が埋まった。間髪入れず突き刺した剣尖に爆発を起こして、狼の背中に大穴を空ける。
「ッオオオオオオオーーーー!!!」
痛みにか、怒りにか、群青の狂狼が咆哮する。爆発染みた音の怒涛を至近で受けるシャナの周囲に、凄まじい数の炎弾が燃え上がった。
「っ……!」
炎翼を燃やしてシャナは飛ぶ。それを追って無秩序な曲線を描く群青の流星群を、紅蓮の少女は縫うような絶妙な飛翔で避ける。
唯それだけでは全てを躱し切る事は出来なかっただろうが、今のシャナには炎弾を阻む壁があった。
即ち、炎弾を繰り出した狼自身の巨体である。
「(いける……!)」
新たな力・紅蓮の双翼を使いこなす感覚に灼眼を細めつつ、シャナは狼の四肢に絡み付くような軌跡を引いて胴の下を飛ぶ。少女を狙う炎弾が狼の背に腹に足に命中してはいるものの、殆ど効いている様子は無い。
飛翔の最中、左後脚の一点に綻びを見つけたシャナは、身体ごと斬撃を叩きつけ、爆砕した。
バランスを崩した獣を後ろに見ながら、後方へと離脱する。
―――その時だった。
「くあっ……!」
倒れる炎狼の背後へ抜けようとするシャナの視界を群青の塊……狼の尻尾が捉えて、羽虫の如く叩き落とした。
「か――――っ」
翼が砕け散り、一溜まりもなく小柄な身体が背中から地面に叩きつけられ、石畳を砕いて深々とめり込む。
「(動か、ないと……)」
気が遠くなる程の痛みと衝撃の中でも、己そのものたる討ち手の本能がシャナの意識を戦場に繋ぎ止める。
明滅する視界に灼眼を凝らす………その先で、巨大な狼が前脚を振り上げた。
―――途端、特大の炎弾が銀に輝き、狼を横合いから打った。
「シャナ!!」
呼ばれた意味を、何故か声だけでハッキリと理解したシャナは、大太刀を持っていない左手を懸命に伸ばす。
その手を、銀炎を撒いて飛翔する少年が掴み、そのまま空へと連れ去った。
「……………」
握った手を、引かれる背中を、振り返る横顔を、灼眼が見る。
「(………変なの)」
その胸に、奇妙に弾む気持ちがあった。
今だけの事ではない。この戦いの中で何度も、これまでの戦いで感じた事の無い不思議な風韻に見舞われていた。
いつもとの違いなど、考えるまでもなく明白。今日は……独りで戦っているわけではない。ただ、それだけの事なのに。
「大丈夫か?」
「っ」
悪くない、そう思ってしまった不覚から、少年の気遣わしげな声が目覚めさせる。
引かれる手はそのままに、シャナは灼眼を鋭く細めて言い放つ。
「当たり前でしょ。お前に心配されるほど落ちぶれた憶えは無いわ」
「良し」
少女の強気な返事を聞いて、悠二も満足気に笑い返す。
その笑顔が何だか落ち着かなくて、シャナは視線を、新たな炎で欠損を埋めつつある巨大な狼に移した。ついでのように、アラストールに訊ねる。
「アラストール。あれ、どう思う?」
己が器も弁えず、力を派手に振り回して自滅する徒には何度か会った。
そういう相手は適当に攻撃を受け流しつつ、消耗を待ってから討滅するのがセオリーなのだが……流石は世に謳われた『弔詞の詠み手』。あんな無茶苦茶な顕現を続けていながら、未だ力尽きる気配は無い。
それどころか、下手に守勢に回ればこちらが一呑みにされかねない。
「早急に決着をつけるべきだ。あまり考えたくはないが……消耗した彼奴らが封絶内の人間を喰らわんとも限らん」
アラストールもまた、シャナと同様の意見からそう告げた。付け加えられた物騒な言葉に、シャナの手を引く悠二も表情を強張らせる。確かに……あの狂気から考えれば、あり得ないとは言いきれない。
生唾を飲み込む悠二の内心を知ってか知らずか、シャナは繋いだ手を払って炎翼を広げる。
「……お前、『吸血鬼(ブルートザオガー)』で中の『弔詞の詠み手』に攻撃できる?」
「……難しいと思う。あれだけデカいと、存在の力を流しても届かないだろうし」
早口で作戦を考える悠二とシャナは、
「その大太刀じゃ、狼の奥には届かないよな」
「……だったら、私がもう一度炎の衣に穴を空ける。お前はそこに、全力の炎弾を放り込んで」
敵の力を警戒するあまり、慎重になり過ぎていた。四肢の一つを崩した時点で、なりふり構わず畳み掛けるべきだったのだ。
「……行くわよ」
「ああ」
二人、銀と紅蓮を螺旋に引いて飛行する先で、狼は牙だらけの口から息を思い切り吸い込む。
「………?」
その口に吸い込まれるのは大気だけではない。無秩序に暴れる炎の全てが、一点に収束して飲み込まれていく。
「「(炎を吐いて来る)」」
当然のようにそう予期して、二人は弧を描いて左右に岐れた。的を増やし、炎を躱して、敵の死角に飛び込む為に。
果たして、狂狼はシャナに向けて炎を吐き出した。
「な……!?」
シャナらが見誤ったのは、その威力と範囲。今までの炎とは桁違いの灼熱の大瀑布が、一部の隙も与えない群青の津波となって押し寄せて来たのだ。
「(逃げられない……!)」
死角に飛び込むどころではない。どこに飛んでも間に合わない。肌に感じる熱気が、『夜笠』での突破は不可能だと告げている。受ければ……死ぬ。
「(出来るか……いや、)」
シャナはすぐさま翼を解き、路面に亀裂を入れて着地する。―――全ての力を、攻撃だけに注ぎ込む為に。
「(絶対、やる!!)」
成功した事は、無い。
それでもシャナは、形容し難い確信を以て大太刀を振り上げる。
あの……紅蓮の双翼を広げた時と同じ。自分の中に湧き上がる熱い何かを、感じたそのまま解き放つ。
――――炎が、迸る。
「はぁああああーーーー!!!」
振り下ろす刃の先から、全てを焼き尽くす紅蓮の炎が解き放たれた。
それが眼前に広がる群青の咆哮に、真っ向からぶつかり合う。
「(やった……!)」
シャナにとっては、長らく求めて、しかし叶わなかった願いの発現。天罰神たるアラストールの炎を顕す、『炎髪灼眼の討ち手』の力。
だが――――
「ぐ……うっ……!」
紅蓮の炎は群青の津波とぶつかり、鬩ぎ合い……押し戻されていく。
初めて顕現されたシャナの炎は、決して弱くない。並の徒なら、叫ぶ暇すら無く一瞬で燃え尽きてしまうだろう。それでも………狂乱に叫ぶマージョリーの炎には通じない。
「(止めっ、られ―――)」
紅蓮の炎が、押し流される。群青の波がシャナを攫って……すぐさま途切れる。
再び展開された半透明の鱗壁が、灼熱の怒涛を塞き止めていた。
「まだだ」
後ろに倒れそうになる少女の肩を、後ろから誰かの腕が支えた。……誰なのかは、見なくても判った。
「長くは保たない。耐火の式を組み上げる余裕が無かったから、これは単純な障壁の自在法だ」
耳元で、やけに落ち着いた声が聞こえる。その言葉に違わず、障壁は早くも硬い音を立てて罅割れ始めていた。
「このままじゃ保たないし、鱗を組み替えようとすれば一瞬で突き崩される。だから、ここはシャナに任せるしかない」
一度だけ、横目を向けて少年の顔を見る。
「出来るよな?」
挑発するような声と、場違いに穏やかな頬笑み。その奥にあるモノを確かに認めて、シャナは微かに口の端を引き上げた。
「当たり前、でしょ」
向けられたのは、期待。
そうさせたのは、信頼。
「(顕現は、一瞬でいい)」
湧き上がるのは、炎。
不可解な衝動に熱くなる心をそのまま顕したかのような、真っ赤に燃える紅蓮の炎。
「(ただ、一撃必殺の………)」
群青に焙られた『文法(グランマティカ)』が、乾いた音を立てて割れ砕ける。
「(力を!!)」
障害を失った二人に、群青の奔流が押し寄せる。
天を衝く刃が一閃、振り下ろされた。
「燃えろォオオオオーーーー!!!」
絶叫が爆ぜ、煌めく炎が紅蓮の大太刀となって唸る。
「うおっ……!」
灼熱の斬撃が大気を貫き、群青の津波を両断し、道阻む全てを斬り裂き、焼き尽くす。
それは……狂気に駆られた炎狼をも、一太刀に薙ぎ払っていた。
「…っ………」
膨らみ、広がり、霧散していく群青を確かに認めて、シャナは弱々しく脱力した。後ろの悠二に肩を抱かれて、身を預ける。
鮮やかに煌めく炎髪と灼眼は、放った炎に全てを吸い尽くされたように黒く冷えていた。
「やったな……」
悠二が、言う。
「……うん」
シャナが、応える。
生死を懸けた戦いを共にした為か、勝利の余韻と安堵の為か、いつになく柔らかな空気が満ちる。
その空気に誘われるように、悠二は言った。
「名前さ、刀の名前から適当に付けちゃったけど……気に入らないなら、変えようか?」
「……シャナでいい」
近過ぎるくらいの距離で、少年と少女は顔を見合わせて―――どちらからともなく、吹き出すように笑った。
「………………」
長く……途方もなく長く思える短い眠りから、マージョリー・ドーは目覚めた。
「よぉ」
真っ先に聞こえたのは、何百年と共に戦って来たパートナーの声。返事の代わりに身を起こそうとして……走った激痛に顔を歪めて断念する。
「お目覚めでありますか、『弔詞の詠み手』」
呼ばれた声に、横たわったまま視線を向ければ……ついさっき叩きのめした『万条の仕手』。万全なわけもないだろうに、相変わらず仕事熱心な女だ。
次いで、自分の身体に目を向ける。どういうわけか着ていたスーツは跡形も無く、見覚えの無い純白のドレスを着させられていた。恐らくは、『万条の仕手』がリボンで編んだ物。
戦いの途中から記憶が無いが、まるで身体に力が入らない。それなりの時間が経った筈なのに、脇腹や肩に受けた傷も異様なほど回復が遅い。そして何より………包帯の巻かれた左腕が“無い”。
これだけの惨状を見て、勝ったなどと勘違い出来るワケもなかった。
「……生きてんのね」
感慨とも呼べない虚ろな呟き。
「不服なら、トドメを刺してあげましょうか」
それに、冷淡極まる提案が返った。怒るでもなく視線を流して……流石に目を剥いた。
「……これ、何の冗談よ」
「俺もついさっき、散々驚いたところだぜ」
少年に羽交い締めにされながら手足をバタつかせる水色の少女……見紛う筈もない、“頂の座”ヘカテー。
『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女ともあろう者がフレイムヘイズと一緒に居るなど夢にも思わない。
あまりに馬鹿げた状況に敵愾心さえ失せる。それに正直……今は部外者の存在などどうでも良かった。
「よく殺さなかったもんね。……こっちは殺す気満々だったってのに」
“銀”の炎を持つミステス。唯それのみにしか興味が湧かない。
少年を押さえていた少女を後ろに居た触角頭の……人間の少女に預けて、マージョリーの前に立つ。
「悪いけど、“視た”」
「っ………!?」
その指先に、群青色の火が灯っている。言葉の意味するところに気付いたマージョリーは………
「(…………え?)」
何故か、動かなかった。自分の全てである筈の光景、唯一残された“自分だけのモノ”に余人が触れているというのに。
そんな自分に困惑するマージョリーに構わず、ミステス・坂井悠二は言葉を続ける。
「あんたの復讐を否定する気は無い。人間を捨てたフレイムヘイズにとって、それは当然の権利なんだろ」
シャナが、ヴィルヘルミナが、眉を跳ね上げた。
マージョリーもまた、燻る炎を隠そうともせずに言い放つ。
「……解ってんの? “銀”の唯一の手掛かりである以上、私はまたアンタを狙う。あんたが違うってんなら、中の宝具をもぎ取るって事も考える」
「ああ、それで良い」
あまりに容易く言った一言に、マージョリーを含めた全員の絶句があった。
「あんたの気が済むまで、何度でも掛かって来い。僕も全力で受けて立とう」
自分の胸を拳で叩く悠二の表情に、ふざけている様な色は欠片も無い。迷いなく悠然と立つ姿は、日常に生きる少年としては異様ですらあった。
「(こいつ………)」
自分が命を狙われる。戦いの中に放り込まれる。普通は、それだけでも取り乱すには十分過ぎる。
「(以前と……雰囲気が違う?)」
たとえ力が在ろうとも、理不尽な暴力に怯え、戸惑い、逃げ回る。運良く生き延びたとしても、課せられた残酷な現実を受け入れられずに目を背ける。
「(坂井君って……“こっち”だと結構強気なんだ)」
理性の側に本質が在る、という特異な人格を考慮に入れても、今回の言動は皆の理解を越えていた。
歴戦の貫禄を備えたフレイムヘイズでさえ、こんな馬鹿な事はまず言わない。
シャナが、ヴィルヘルミナが、平井が、奇妙な態度に相反する安心感にも似た風韻に呑まれる中で……
「………………」
ヘカテーだけが、より以上の衝撃を受けて悠二の背中を見ていた。
「(………悠、二?)」
抱いたものは、既視感。
他者の欲望を聞き入れ、認め、受け止める。欠片も似ていない二つの姿が、目蓋の裏で歪み、重なる。
「(っ……何を、馬鹿な!)」
不意に抱いた感覚を、ヘカテーは頭を振って振り払う。
それら周囲の心中とは別に………
「…………………」
『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーは、残った右手で目元を隠した。
殺意のままに怒り狂い、考える事すら放棄して暴れ回り、そして、負けた。負けて……情けを懸けられた。
「(……いっそ………)」
いっそ、真っ向から全てを否定された方が、よっぽど楽だったかも知れない。
これ以上ないほどの、考えた事もないくらいの、完全敗北だった。
「……後の事は、私にお任せを」
惨めに過ぎる静寂を、ヴィルヘルミナの一言が破る。それを受けて、足音が一つ、また一つと遠ざかっていく。
「御崎市に起きたこれまでの事件を、一から説明させて頂きたいのであります」
「傾聴」
―――手負いの狼はただ、陽炎の空に舞い踊る銀の炎を見上げ続けていた。
「何だったんだろうなー……」
中央インフォメーションセンター脇の自販機に凭れて、田中がぼやく。
「つーか平井ちゃん、途中から何か変じゃなかったか?」
同じく、コーラをチビチビと飲みながら佐藤が呟く。
「でも、ゆかりを呼び出したのは近衛さんなんだよね?」
頭上に?を浮かべた緒方が首を捻る。その隣で、池が盛大に溜め息を吐いた。
彼ら『絶叫マシーン組』は、どういうわけかアナウンスで呼び出された平井ゆかりに付いてここまで来たのだが……当の平井が、インフォメーションセンターに到着する直前で再び何処ぞへと姿を消してしまったのである。
仕方なしに彼らだけでインフォメーションセンターに行ってみれば、そこに居たのは吉田一美一人だけ。平井を呼び出したというヘカテーもエスケープ済みだった。
はっきり言って、まるっきり意味が解らない。
「(近衛さんも、ゆかりちゃんも、大上さんも、やっぱり……坂井君と一緒なのかな)」
それはヘカテーに付き合わされていた吉田も同じだった。
いきなり悠二とシャナが何処かへ行ったかと思えば、急に戻って来たヘカテーにここまで連れて来られて、『平井ゆかりの姉』という肩書きで呼び出しをする彼女を隣で見ていた。やはりと言うか、まともな説明は受けていない。
『緊急事態です。とにかく一緒に来て下さい』
と、早口に告げられて、後は一方的に引っ張っていかれただけ。無論、絶叫マシーン組に説明する事など出来るワケもない。
「(また、これだ)」
近衛史菜の転校を契期に度々感じるようになった壁……寂寥と疎外感を与える“何か”を今も覚えて、吉田は顔を俯かせる。
「おーい! おっ待たせー!」
それも程なくして、終わりを迎える。常と変わらない、陽気極まりない平井の呼び声によって。
「ゆかりちゃんっ」
顔を上げる。
そこに悠二も居るのだろうか、という期待と不安の入り混じった感情と共に。
果たして、悠二は平井の後ろにいた。
「――――――」
瞬間、吉田の時が止まる。
「やーごめんごめん、坂井君が腕利きの殺し屋に狙われちゃって痛っ!?」
いつもの調子で冗談を飛ばす平井の後頭部を悠二がはたき、そのやり取りを不思議そうにヘカテーが見ていて、シャナが興味なさそうに歩いている。
大方の予想通り、四人は一緒に戻って来た。だが、その見える光景の中に、予想だにしないものがあった。
「ペ、ペペ、ペペペペ………」
悠二と、シャナが、ファンシーパーク土産のジャージの上下を着ていたのだ。………二人、お揃いで。
「ペアルックーーーーーー!!?」
吉田の切実な断末魔が、まだ日の高い遊園地に木霊した。
「さ、ささ、坂井君って、やっぱり小さい子が好きなんですか?」
「どういう意味!?」
回る観覧車の中で、吉田が悠二に質問する。
「ゆかり、あの……次来る時は、もうパンダだけは勘弁して? ね?」
「パンダ?」
平井が、緒方の不思議な懇願に首を傾げる。
「むぅ」
「ふっ!」
子供に人気のカートレーシングで、ヘカテーとシャナがデッドヒートを繰り広げる。
「で、実際どうなんだよメガネマン」
「吉田ちゃんか? 平井ちゃんか? それともやっぱロリか?」
「……僕に訊くな、僕に」
佐藤が、田中が、池が、約一名に対して失礼なトークに花を咲かせる。
予期せぬ戦いを挟む事になったとはいえ、日常の中の非日常はその後も賑やかに続いた。
―――それぞれの胸に、それぞれの想いを密かに刻みながら。
「やれやれ、やっと落ち着いたか」
異能者の消えた御崎市で、一人の老紳士が帽子の鍔を押さえて微笑む。その傍を過ぎた一人のトーチが、消えた。
―――日々はいつしか、胎動を秘めて動き出す。孵るべき時をただ静かに、歩いて往けない隣に隠して。