「(怖い)」
何か、得体の知れないものが降って来る。いや、降って来るという表現が正しいだろうか。ちっぽけな坂井悠二にとって、迫り来る気配は上空からの津波と言ってもいいほどの圧力だった。
その感覚が正しいのだと示すかのように、違和感は明確な異能として彼らを襲う。
悠二を、ヘカテーを、二人を含めた御崎大橋を陽炎のドームが包み込み、内に在る因果を外界から切り離した。一変した空間を埋めるのは漂い燃える薄白い炎、足下に敷かれるのは奇怪な紋章染みた文字列。
坂井悠二にとって、“人間”を奪われた悪夢そのものの自在法。
「封、絶………!?」
「……はい」
半ば自失する悠二とは違い、当然ヘカテーに動揺は無い。封絶に取り込まれる寸前には彼女の髪と瞳は淡い星光を灯し、手には大杖『トライゴン』が握られている。
「(また人が、喰われる……!)」
身の程知らずにも周囲の人間の様子を確認しようとする悠二は……
「ぐっ? ……痛っ!」
ヘカテーに後ろから襟首を掴まれ、無遠慮に足下に引き倒されて………
「――――――」
そうして仰向けに倒れた事で、目にする。―――頭上から降り注ぐ、雲霞の如きカードの怒涛を。
「うわぁああああ!!」
「…………………」
うるさい悠二の見上げる先で、水平に掲げたヘカテーの『トライゴン』が常識外れなスピードで回され始めた。回転する大杖は更に轟然と燃え上がり、カードの怒涛に接触すら許さずに焼き散らす。
「………手緩い」
少女が呟き、水色に燃える大杖を無造作に下げた時には、既に一枚のカードも浮いてはいない。代わりに、それ以上の異様が現れていた。
「この程度で私を討てるつもりですか」
「とんでもない。ちょっとした挨拶だよ。君の流儀に倣った、ね」
粗末な人形を肩に乗せた、全身白スーツの線の細い美青年。姿形こそ人間のそれと変わらないが、撒き散らす違和感が尋常ではない。……それは、今のヘカテーも同じだった。
「………“狩人”、フリアグネ」
「はじめまして、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女殿。逢魔が時に相応しい出逢いだ」
ここに在る事そのものがおかしい、そう思わずにはいられない異質な存在が二人。場違いな悠二を違和感に取り込んで睨み合っている。
悠二が完全に呑まれて身動き出来ずにいる一方で、ヘカテーは燐子の炎から疑って来た敵の正体を確信に変えていた。
“狩人”フリアグネ。多数の宝具を駆使して数多の討ち手を屠って来た紅世の徒。近代以降で五指に数えられるほど強大な『王』である。
「とは言っても、本当ならもっと優雅な出会い方をしたかったものだよ。他人の狩り場に割って入って宝を掠め取ろうとは、巫女と呼ばれるわりには随分と無粋な真似をするじゃないか」
肩の人形……彼の燐子、マリアンヌに頬を寄せながらそんな風に蔑むフリアグネの眼には、しかし怒りなど浮いてはいない。そうまでしてヘカテーの求める宝具に対する、本能にも似た執着だけが燃えていた。それが……微かに一瞥を受けただけの悠二にもはっきりと解った。
「…………………」
管楽器の奏でるような甘ったるい声に、ヘカテーは何も応えない。さっきの“挨拶”とやらで、既に話し合いの余地など無い。
「君がそうまでして欲しがる宝具。さて、一体どんな――――」
最後まで聞かず、鋭く差し向けた大杖の先から水色の炎弾を撃った。―――それが、その軌道に突然現れた一体のマネキンに阻まれ、爆炎を撒いて弾ける。その向こうのフリアグネは、無傷。
「つまらない子だね。戦う前の細やかな会話も愉しめないとは」
フリアグネは余裕の表情でヘカテーを見下し、優雅な仕草で右腕を振るった。途端、宙に浮かぶ彼より少し前の路面が薄白く燃え上がり、そこから十のマネキンが這い出て来る。ナース、チャイナ、セーラー、ゴスロリ、とにかく多種多様な、明らかに趣味の産物である衣装を纏った女型の燐子である。
「ならせめて、ダンスパーティーを愉しんで貰おうか!」
マネキン故の歪な動きで、しかしとんでもないスピードで、十の燐子がヘカテーに飛び掛かる。それぞれの両手が薄白く燃え上がり、接近を待たずに一斉掃射の構えを取った。
が、
「『星(アステル)』よ」
炎が弾丸を形成し、放たれる……その刹那の時を、水色に輝く流星が貫いた。
「っ!?」
十のマネキン全てが、一瞬にして粉々に砕け散る。炎弾とは比較にならないスピードを伴う流星。その内の一つが、貫いた燐子の後方……フリアグネの顔の真横、マリアンヌが肩に乗っていない右側を通過した。
擦り切られた頬の傷から、血の代わりに薄白い火の粉が零れ落ちる。
「光弾か………」
フリアグネの顔から、余裕の笑みが消えた。だが、相手が油断していようが警戒していようがヘカテーには関係無い。杖の遊環が涼やかな音色を響かせると、数十もの『星』が彼女の周囲に瞬いた。
「(あまり手札を見せたくは無かったが……)」
すかさず空へと逃げながら再び燐子を喚び出すフリアグネを、数多の光弾が複雑な曲線軌道を描いて追う。
「(決まった……!)」
咄嗟に喚び出した燐子の数は十にも満たない。対して光弾の数は先の何倍もある。燐子ともども粉砕される狩人の姿を幻視する悠二の視線の先で………白い手袋の指先に、いつの間にか簡素で上品なハンドベルが摘まれていた。
「(何だ………?)」
流星が奔り、燐子が湧く、その瞬間の攻防の中で、悠二は臓腑の奥に響く得体の知れない感覚を拾い上げ、
「伏せろ!!」
「っ」
その警鐘の命ずるままに叫んでいた。ハンドベルが、鳴る。
「――――――」
途端、一瞬にして燐子が凝縮、破裂して、大爆発を起こした。普通なら考えられない、全存在を弾けさせた衝撃は、燐子を貫くはずだった光弾を撥ね退け、その爆炎が“伏せたヘカテー”の頭上すれすれまで届いた。大きな帽子が余波で吹き飛ぶ。
「感知能力の宝具か……!」
予想外の燐子の爆発に動きを止めたヘカテーには目もくれず、フリアグネは悠二を凝視して感嘆の声を上げた。
どちらにしろ、今の間合いでは決定的なダメージは与えられなかった。ヘカテーの光弾の速度に、本来なら至近で不意打ちに使うべき宝具を使わざるを得なかったのだ。
ゆえに、悠二の叫びはフリアグネにとって大したデメリットにはならなかった。むしろ、ミステスの中身に見当をつけるヒントとなった。
「ははっ……!」
陶然と口の端を引き上げて、右掌を差し向ける。ヘカテーではなく―――悠二に。そして、躊躇なく炎弾を撃ち放った。
「……!?」
先ほどの燐子のものとは比べ物にならない特大の炎弾が悠二に飛ぶ。完全に不意を突かれたヘカテーは慌てて悠二の前に飛び出して……
「『星』よ!」
同じく特大の光弾で以て迎え撃った。明る過ぎる水色と薄い白が衝突し、膨れ上がり、凄まじい融爆となって御崎大橋を破壊する。
「ッあああああーーー!!」
「く……っ!?」
ヘカテーにとっては先ほどの迎撃で十分でも、悠二はそうはいかない。爆発の余波から彼を庇うように抱えて、ヘカテーは飛翔する。その背中を、再度トランプの豪雨が狙い撃つ。
「ぐ、ぅ……!?」
ブレーキもそこそこに放り出された悠二は、路面を二、三度バウンドして転がり、息も絶え絶えに呻き、悶える。そのすぐ前に立つヘカテーは、迫るカードをやはり一枚残らず焼き払っていた。
【このまま続けてミステスが巻き込まれるのは、互いに本意じゃないだろう?】
既に“狩人”の姿は無い。置き去りにした声だけが、朗々と封絶の中に響き渡る。
【最高の舞台を用意して待っている。一応言っておくが、一人で来てくれよ。大事な宝具が入っているんだろ?】
最後まで一方的な言葉を残して、フリアグネの力の気配が完全に消えた。
残されたのは、水色の炎に塗り替えられた陽炎の空間と、戦いの生んだ壮絶な破壊の跡だけ。
「……宝具の“狩人”がミステスに炎を向けるとは思いませんでした。私が護りに入るのを読んでいたのでしょうが」
あんな戦いの後でも平静に、ヘカテーは呑気に服の埃を払っている。
悠二は全く、言葉が出ない。事前に聞いていた事ではあったが、昨日の燐子などとは完全に戦いの規模が違う。考えが甘かった。中に宝具を持ったミステスだろうと、敵に破壊の意志が無かろうと、“ついうっかり”消されても何の不思議も無い。
「(……正直、あいつの提案に賛成したいかも)」
決着なら自分のいない所で着けて欲しい。そんな情けない感慨を抱く悠二の内心など露知らず、ヘカテーは近くにいた………何故か車の陰に身を潜めている少女に、指先を伸ばす。
「(あ、吉田さん……)」
それがクラスメイトの……平井ゆかりの親友・吉田一美と気付くと同時、
「っ……ヘカテー!」
封絶の中の“紅世の徒”、という最悪の組み合わせを今さらに思い出して、叫んだ。それに驚くでもなく、ヘカテーは悠二を見る。
「……今、“何”をしようとした」
どうしようもなく湧いて来る憤り、
「封絶内の修復です。“狩人”と戦う前に自前の力は使えないので、この人間を使います」
当然のように認める、人喰い。
「(何で……こんな……っ!!)」
そんな事は絶対に認められない。理不尽な理に、目の前の少女に、喩えようの無い怒りが燃えて……しかし、怒鳴り散らす事は無い。
「(………そんなんじゃ、止められない)」
今までもずっと、ヘカテーは人間を喰らって この世に顕現し続けて来たのだ。今さら感情に任せて「やめてくれ」と喚いたところで聞き入れてくれる筈が無い。
「だったら……僕のを使ってくれていい」
だから悠二は、感情を押し殺した理性を以てヘカテーを止める。
「………存在の力を消費すれば、それだけ貴方が消えるのは早まりますよ」
「………解ってる」
いつもならここで終わっている会話。しかし、今まで常に簡潔明瞭に事を進めて来たヘカテーが、何故かこの時、言葉を重ねた。
「……残された時間を、他人の為に捨てるのですか」
堅い表情で破壊の跡を眺めていた少年が、ゆっくりと振り返る。
「捨てるんじゃない、生かすんだ」
―――静かに、強く、微笑を浮かべて。