「ふ、ん………」
相沢町の外れにある豪邸の一室で、ヴィルヘルミナ・カルメルは無表情に一枚の書類を眺めている。
「坂井悠二。十五年前に坂井貫太郎、千草両名の間に産まれ、この国に於ける通例に漏れず小、中と学校を卒業、現在の御崎高校に入学。武道はおろか、スポーツの経験すら希薄。当然、特別な訓練を受けていたわけでもない、であります」
「至極平凡」
その対面で彼女の報告を聞いているのは、常ならば契約者の首にペンダントとして提げられている“天壌の劫火”アラストールである。契約者たる少女はと言えば、今朝は庭で行われている鍛練の真っ最中だ。
「……解せぬな。如何に“頂の座”の助力を得たとて、そんな凡人がほんの数ヶ月で斯様な変貌を遂げるものなのか」
「確かに……仮に力を得る事が出来たとしても、それを実戦で発揮する事は不可能でありましょうな」
遠雷のような唸り声に、ヴィルヘルミナは全面的に同意する。『炎髪灼眼の討ち手』に相応しい器を求めて数多の子供を育てて来た経験が、実際に戦った手応えと合わせて確答を見出だす。
「聞けば……彼はまともな戦いは“あれ”が初めてという話であります。これは、勇敢や聡明という言葉で片付けられる問題ではない」
自身の怒りすら敵を欺く道具に使い、手に在る宝具を最大限に活かし、死地の中でも一筋の活路を見つけ、拾う。
度胸があるというだけでは、あんな判断は下せない。頭が切れるというだけでは、解っていても身体が動かない。そんな“当たり前の事”を、坂井悠二は実際に覆して見せた。
これらの事実を、ヴィルヘルミナは冷静に分析する。
「恐らく彼は……その本質が感情の側に無い、特殊な人格の持ち主なのであります」
「本質が、感情の側に無い……?」
「ええ」
怒りはある。恐怖もある。だが本質はその外側に在って、理性によって完全に制御されている。
だから恐怖に呑まれる事も、怒りに我を忘れる事も無い。理性が『そうすべきだ』と判断すれば、感情を脇に置いて実行に移す事が出来る。
「………なるほど」
その見解を、アラストールは戦友に対する信頼から肯定した。自分はあの少年を良く知らない。だが、ヴィルヘルミナがそう言うならば、と。
「“向いている”のかも、知れんな」
「…………………」
アラストールの発言には応えず、ヴィルヘルミナは目の前のお茶を啜った。コップをテーブルの上に置いて、また口を開く。
「彼はまだミステスとなって日が浅く、人間としての自意識が強く残っている。これからの経緯次第で、白にも黒にもなる状態であります」
あくまでもフレイムヘイズとして、不確定要素を伴うミステスへの対応を。
「これからの経緯、か………」
「……その通り、であります」
フレイムヘイズとして……その前提に『ミステスの破壊』という選択肢が入っていない事にアラストールは気付いていて、しかし敢えて指摘しない。
現在『零時迷子』に関わる案件は、非常に微妙な状況下にあるのだ。
「あの、ところで……彼は……」
無表情を“装って”さりげなく訊ねるヴィルヘルミナ。彼女の言うところの“彼”が誰なのかを察したアラストールは、
「仕込みがある、だそうだ」
「………………」
自分ではなく少女に告げられた言葉を、ヴィルヘルミナに伝えた。
意味が解らないヴィルヘルミナは、それでも避けられているような気がして、無表情の奥で沈んだ。
悠二がシャナに叩きのめされ、ヘカテーと平井が一緒にお風呂に入っている頃……一人の少女が、ボンヤリと目を覚ました。
「…………………」
目を覚ましてすぐ、翌日に控えたカレンダーの赤丸に視線を向ける。
少女の名は緒方真竹、悠二やヘカテーのクラスメイトである。
「(明日、田中と………)」
と言っても、彼女は悠二やヘカテーと特別に親しいわけではない。仲が良いのは、同じ中学出身の田中や佐藤。
……その二人とも、高校に入ってからは少し疎遠になっていた。部活のバレーボールに励むようになり、交友関係も女子に傾くようになったからだ。
「(頑張らないと)」
その一方で佐藤や田中は高校に入って明るくなり、中学時代のように孤立する事はなくなったが……別の意味で緒方の不安は増した。
そう……彼らの仲良くなった、坂井悠二を中心とするグループには……何故か美少女が多いのだ。
「(一美は大丈夫だと思うけど……ゆかりとか大上さんは良く解らないし……)」
それが、緒方からすれば気が気でない。
態度の差こそあれ、誰もが坂井悠二に興味を持っているようにも見えるが……吉田一美を除けば確証は無い。いや、吉田とて、“田中が”という意味では要注意人物には違いない。何より、身長や素行に多少の問題はあれど、彼女らは皆 緒方が羨むほどの美少女揃いなのだ。
「(とにかく、誰が誰を好きなのか、明日きっちり見極めないと……!)」
そう―――緒方真竹は、田中栄太が、好きなのだった。
ファンシーパークへ遊びに行く約束の日、その前日に当たる土曜の午後。悠二とヘカテー、平井……そして、シャナが街中を歩いている。
「……お金ならある。別に買って貰わなくていい」
「だーめ! 先に奢って逃げ場失くしちゃえって企んでるんだから」
用事はズバリ、平井がシャナをファンパーに連れて行く際に約束したメロンパンを買う事。勿論シャナがせがんだのではなく、平井が押し掛けて連れ出したのだ。シャナだけでなく、悠二とヘカテーまで。
「(平井さんなりに、気を遣ってくれてるんだろうなぁ)」
シャナに言えば「余計なお世話」と一蹴されること請け合いだが、全く平井らしいサポートだった。このままではクラスで孤立する事も判り切っているし、悠二やヘカテーとも今のままでは良くない。これからも見張られるというなら、尚更に。
「(僕だって、無意味に喧嘩なんてしたくないけどさ)」
仲良くするのは難しそうだ。と、頑張ってもみない内から弱気を出す悠二。
敵意を剥き出しにしているヘカテーは勿論、悠二もシャナとは衝突してばかりだ。
「シャナ」
それでもと、悠二は自分がつけた名前で少女の背中に呼んでみる。反応はやはり、無し。どころか、歩くスピードが急に上がった。
「(前途多難だな、こりゃ)」
頭を掻いて誤魔化す悠二を、平井の肘が茶化すように突つく。
先行して歩くシャナは信号を渡り……ものすごい普通にスーパーに入った。
「「へ?」」
「?」
悠二と平井が思わず変な声を上げ、そんな二人にヘカテーが首を傾げる。
平井はもう少し先のパン屋に向かうつもりだったのだが、主賓を置いて行くわけにもいかない。信号が変わりそうな事もあり、小走りにシャナを追い掛ける。
「…………………」
そこにシャナは、いた。
何か別の買い物をしに来たという様子はなく、一直線にレジ近くのパンコーナーを見ている。目線はやはり、種々多様なメロンパン。
「おーいシャーナちゃん。遠慮しなくても、パン屋でちゃんとしたメロンパン買ったげるよ?」
「? ……ちゃんとしたメロンパン?」
まさかスーパーのメロンパンで済ませるつもりのなかった平井の言葉に、シャナは怪訝に眉根を寄せた。
さっきと違って「シャナ」と呼ばれて反応するほどの重要案件なのだろうが、何を訝しんでいるのやら。
「そういえば学校でも、いつもスーパーの袋から出してるよな。……まさか、食べた事ないのか?」
「ありません」
何故かヘカテーが応えた。その横で、どこか納得いかなそうにシャナが頷く。
「メロンパンって、これの事じゃないの?」
そして、続け様に訊ねる相手は悠二ではなく平井である。何だかんだ言いつつも、平井には少しずつ心を開いている節があるシャナだった。
「ん~、それもメロンパンには違いないけど……ま、百聞は一見に敷かずだね」
斯くして一行は再び移動を開始する。目指すはパン屋、求むるは焼きたてのメロンパン。
…………
………
……
「到着ぅー!」
「「「……………」」」
意気揚々と入店する平井に、口数の少なくなった三人が続く。何やら激しくお馴染みの違和感の残滓が漂って来るのだが、きっと気のせいだろう。些末な事に構ってはいられない。本日の主役は飽く迄もシャナ、引いてはメロンパンだ。
「………!!」
その主役はと言えば、鼻腔を擽る芳ばしさに灼眼を見開い―――
「っシャナ、眼、眼……!」
「ッッ!? ………ごめん」
悠二に注意されて、我に帰った。よろめいた両足を弱々しく踏ん張り、息も絶え絶え、悠二に対する言葉使いも何処か可笑しい。
棚に向かい合うシャナの眼は、黒く冷えてなお恐ろしく真剣だった。
「………………」
一方のヘカテーも、芳ばしい香りに瞳を輝かせている。他にも色んなパンがあるのだが、シャナの執着ぶりに興味を刺激されたのか、ヘカテーもまたメロンパンに向かう。
今だけは並んでパンを見る二人が仲の良い友達みたいに見えて、悠二は小さく頬笑んだ。ついでに口も挟んでみる。
「これは? 本物のメロンの果汁入りとか書いてるぞ」
「ダメ」
一瞬と待たずに却下されてしまった。ギラリと、どこまでも本気の視線で悠二を睨むシャナは、身体ごと振り向いて両手を腰に当てた。
そして、告げる。
「メロンパンっていうのは、網状の焼型が付いてるからこそのメロンなの! 本物のメロン味なんて、ナンセンスである以上に邪道だわ!!」
「「………………」」
雄々しく、勇ましく、力強く、シャナの主張が響き渡った。
この後、20分の厳選を経て一同はパン店を発つ。
炎髪灼眼のフレイムヘイズの世界が変わるのは、その3分後の事だった。
一方、
「まずは……駅で乗り換えて、同じほーむの向かいに乗って……」
銀髪長身の美青年は、触角頭の女子高生に貰ったメモを凝視していた。