「………勝手に名前をつけないで」
そう言い捨てて陽炎の向こうに消えて行く少女の背中を、平井ゆかりは無言で見送っていた。
「(………人間を失った存在、か)」
その瞬間だけではない。悠二と少女が言い合っている最中も、平井は何も言わずに傍観していた。
異界の住人に存在を奪われた少年と、自ら選んで人間を捨てた少女。どちらの主張に対しても、自分が何かを言う事は憚られた。
真実を知っただけの“ただの人間”が何を言ったところで、彼らに対する侮辱にしかならない。……そう思えて、仕方なかった。
何故なら平井は、人間だから。辛さも覚悟も知らない者の言葉は、どれだけ薄っぺらく響くのだろうか。
「(あたしは、やっぱり………)」
遠い。
力どころか、言葉すら届かないと思い知らされるほど、ひたすらに遠い。
猛烈な寂寥を伴う距離を感じて、平井ゆかりは立ち尽くしていた。
「……どういうつもりでありますか、勝手に名前をつけるなどと」
「軽挙自重」
そんな少女の心など置き去りにして、非日常は進んで行く。
成り行きを静観していたヴィルヘルミナが、他人にも判るほどの不満を鉄面皮に表して悠二を睨む。
「それはこっちのセリフだ。名前が無いってどういう事だよ。あの子、あんたとメリヒムが育てたんだろ」
悠二も怯まず、睨み返す。あの少女の、正しくも残酷な言い分には確かに腹が立ったが、『名前が無い』と聞かされた途端に『あの考え方は彼女本来の性格から来ているものではないのではないか』という疑念が浮かんだのだ。
矛先は自然と、彼女の育ての親に向かう。
「彼女は物心つくより前から『フレイムヘイズとなる』……唯それのみを志して己を磨いて生き、そして完成した“完全なるフレイムヘイズ”。故にそれ以外の名など不要。強いて呼ぶとすれば、フレイムヘイズの称号たる『炎髪灼眼の討ち手』こそが彼女の名であります」
冷たく、堅く、されど誇るように、ヴィルヘルミナは言い切った。聞いた悠二の方はと言えば………開いた口が塞がらない。怒りを通り越して呆れる。
「何だよそれ、結局みんなアンタが悪いんじゃないか………」
「これは他でもない彼女も納得している事。部外者の貴方に口を挟まれるのは心外でありますな」
「自分が育てて仕向けといて何が“納得”だ。他の生き方を教えなかっただけだろ」
「………………」
他でもない、あの少女を思っていつになく怒っているらしい悠二に対して、ヴィルヘルミナの口撃にはキレが無い。
理由は……二つ。
「(むむむ………)」
完全なフレイムヘイズらしからぬ行動を、他でもない、少女の育ての親たる自分自身が彼らに見せてしまっている事。痛い所を突かれそうで、迂闊な主張が出て来ない。
そして、もう一つは………
「(劣勢)」
「(うるさいであります)」
目の前の坂井悠二が、メリヒムに力を分けて復活させたという、これまで知らなかった事実。
このせいで、今までのように『“零時迷子”を蔵した気に入らないミステス』という単純な目で見れなくなってしまっていた。
ヴィルヘルミナにとって、メリヒムは単なる子育て仲間ではない。些か以上に特別な存在なのだ。
「うっ………」
と、埒もない口論を続けている内に、零時になってしまったらしい。悠二の中の『零時迷子』が、一日に失った存在の力を回復させた。
「………今日はあんまり集中できなかったな。平井さんもお疲れ様」
「あ……うん。また明日ね」
それをきっかけに、悠二は気まずい空気から抜け出そうとする。今さらヴィルヘルミナを責めたところで問題が解決するわけでもないし、悠二も「シャナ」という呼び方を改めるつもりは無い。
何より、
『お前、もっと自分の存在を自覚した方が良いわよ』
悠二自身、自分の事で手一杯の状態だった。
「………解ってるよ、そんな事」
負け惜しみにも似た呟きは、とても小さく、誰の耳にも届かぬ内に消えた。
相沢町の外れに位置するとある豪邸。無駄に広い館の一室のベッドの上で、一人の少女が行儀悪く胡坐を掻いている。
「なによ、なによ、何なのよあのミステスは!?」
今は髪と瞳を黒く冷やしたフレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』。一方的につけられた名前はシャナ。
そのシャナが、先程までの冷厳とした態度が嘘のように荒れていた。
「燃え残りのくせに生意気よ!」
原因は言うまでもなく、ミステス坂井悠二との口論にあった。実際に言い争っている時は、こんな風に怒鳴ったりはしなかった。あくまでも冷徹に事実だけを突き付けて黙らせてやるつもりだった。
なのに、結果はこの通り。家に帰り、自室に着いた途端、押さえ込んでいた感情が、堰を切ったように、怒声となって発散されている。
「本当に何て変な……じゃない、妙な……違う、嫌な……そう、嫌なやつ!」
常に無い取り乱しっぷりが一先ず途切れたのを見てか、漸く彼女の胸元のペンダント・神器『コキュートス』から、可笑しそうな声が漏れた。
「つまりアレは、お前が久しぶりに、まともに接した人間という事だ」
響く声は彼女の契約者、“天壌の劫火”アラストール。
父にして兄、師にして戦友たる彼の言葉にも、今のシャナは僅かに反発のようなものを覚えた。
「あれはトーチ、本人の残り滓よ」
覚えて、だからこそ、明確な事実をはっきりと告げる。そんな少女に、アラストールは問い掛けのように返した。
「自分ではそう思っていない……いや、人間にとって、自己の存在にとって、さして重要ではないという事かも知れぬ」
なぜ問うのか、それは、アラストールには解らないから。
紅世に於ける世界法則の一柱、『天罰神』である彼は、自らの存在理由に矛盾する生き方を選べない。理解する事も出来ない。
「お前には、解るのではないか」
しかし、この少女は違うはずだった。かつて一度、似たような事があって、やはり彼女だけは理解できていた。
その事を指摘されていると気付き、己が半身たる大太刀を思い浮かべて、やはり少女は断言する。
「あいつは……『天目一個』とは違う。知らない内に喰われて、運良く『零時迷子』が転移して来ただけの……只のトーチよ」
本当にそう思っているなら、こんな風に心乱したりはしないだろう。いつものように耳を傾けず、うるさいラジオでも見るように扱えば済む。
常の彼女と違う姿にアラストールは気付いていながら、敢えて告げる事は無い。
「だから絶対、あいつには負けない……!!」
本当に必要ならば、彼女自身が自ずと気付く。そう結論づけて、小さく小さく嘆息した。
「………………」
坂井家の二階、悠二の部屋と向かい合う一室が、居候たるヘカテーに割り振られた自室である。
その自室で布団に包まるヘカテーは……何故か今、寝つけない。時刻は深夜1時、常の彼女ならば早々に眠りに落ちている。なのに……今夜だけ眠れずにいた。
「…………わからない」
原因は、解っている。
先程の、鍛練の最中に起こった口論の事。解らないのは………口論が起こった、という事実そのもの。
「(悠二は、怒っていた)」
心の機微に疎いヘカテーにも、悠二が怒っていたという事くらいは流石に解った。だが、なぜ怒っていたのかが解らない。
ヘカテーが平井と同じく静観を保っていたのも、話の流れに全くついていけなかったからだ。
「(私がもう、話した事なのに……)」
トーチは人間の残滓。フレイムヘイズは存在を失った器。喰われて消えれば、最初からいなかった事になる。
全て、とっくに自分が悠二に話した内容。“そんな当たり前の事実”を聞かされた悠二が、なぜ今になって怒ったのかが解らない。
「(何か……おかしな所があったでしょうか)」
悠二は、基本的に穏やかな性格だ。日常レベルで怒るところなど滅多に見ない。………その悠二があんなに怒るほどの何かが、あの会話の中にあった。
それを理解できない事が……何故だか猛烈に淋しかった。
「(…………悠二)」
室温は決して低くないのに、とても寒い。布団を被り、自分の身体を抱き締めても、一向に温まらない。
「悠二………」
呼べば呼ぶほど、寒くなる。
彼との距離を自覚して、その距離が何故悲しいのかも掴めぬまま、ただ心だけが冷えていく。
「…………………」
その翌日、一般人の振りをしたフレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』は、ごく普通に御崎高校に登校する。
その少し前の鍛練で何度も「シャナ」と呼ばれたが、一度として返事はせず、代わりに目にも止まらぬ連撃をお見舞いしてやった。無論、会話らしい会話などしていない。
「(勝手に名付けて勝手に呼び捨て。絶対馬鹿にしてる)」
少女は当然、平井のように朝の坂井家にお邪魔したり、一緒に登校したりはしていない。鍛練が終われば家に戻り、別々に登校する。
「あ、シャナ」
「………………」
そうして教室に入れば、また坂井悠二である。あっちは喧嘩腰で突っ掛かって来るわけではないが、逆にそれが腹立たしい。
「二度目のおっはよーー!!」
などと思っていると、やたら元気な挨拶が聞こえて、後ろから両脇を持ち上げられてしまった。
「みんな、ちゅうもーーく!!」
かと思えば、クラス中の視線を集める背後の誰か……と言うか、平井ゆかり。
「転校して間もない大上さんに、親しみを籠めてニックネームをつける事にしました!」
嫌な予感しかしない。
その予感に違わず、平井は高らかに宣言する。
「今日からこの子はシャナ! シャナちゃんをヨロシク! 呼ばないヤツにはヘカテーのチョークが飛ぶよ!」
元より平井はクラスのムードメーカー的な存在である。その明るくエネルギッシュな言動に皆が引っ張られる事も珍しくない。
現に今も、
「何でしゃな?」「でも語呂はいいかも」「近衛さんはへかてー……だよな?」
などと、それなりに手応えのある反応をしてくれる1年2組。
その、盛り上がる寸前の空気の中で………
「…………………」
平井が呼ぶところのシャナは、無造作に自分の脇を抱える両手首を掴み―――
「んきゃあーーー!?」
一本……否、二本背負いで平井を床に叩きつけた。
途端、静まり返る教室。
「ネ……ネバー、ギブアップ……」
平井の呻き声だけが切なく響く。
この時、1年2組の仲間達の心が確かに一つになった。
『(チョークを投げられるか自分が投げられるか、それが問題だ)』
と。