坂井悠二はミステスである。
その身の内に宝具を宿した残り滓……人間の代替品。そんな彼は、秘宝『零時迷子』の力と“頂の座”ヘカテーの庇護を受ける事によって、仮初めの日常の中を薄氷の上を渡るように生きていた。
「大上準子。よろしく」
………その日常にまた一人、非日常からの来訪者が踏み込んで来たらしい。
「………で、どうして学校に来てるんだよ?」
時は日曜を跨いだ月曜日の放課後。場所は人気の無い学校の校舎裏。転校生にはお決まりの質問祭りを横目に、一日中訊きたい事を我慢していた悠二は、やっとその一言を口にした。
「どうもこうも無いわ。私はお前たちを信用した憶えなんて無いんだから、近くで見張るのは当たり前でしょ」
平然と言ってのける少女……『炎髪灼眼の討ち手』。つい先日、“虹の翼”メリヒムの口車に乗せられて悠二を襲撃したフレイムヘイズである。
「何か、メリーさんと一緒に暫く御崎に居るんだって」
「はあ!? ……て言うか、何で平井さんが知ってるの?」
「カルメルさんと一緒に住んでるからね」
横から口を出してVサインを作る平井ゆかり。今頃になってと突っ込むべきか、メリーさんという愛称に突っ込むべきか。
「…………………」
この場には当然、ヘカテーも来ている。今にも唸り出しそうな顔で、悠二の横から少女を睨んでいた。
その視線には構わず、少女は淡々と続ける。
「“狩人”を退けるほどの『戒禁』の話も、『零時迷子』に刻まれた自在式の話も、全部ヴィルヘルミナから聞いた。とりあえず、今すぐ宝具に手を出したりはしない」
『リシャッフル』の発動に起因する“頂の座”の信用性についても聞かされていたが、敢えて告げずに距離を取る。
そんな少女に、今度は悠二から訊ねる。
「いいのか? “虹の翼”に『零時迷子』を持たせたいんだろ?」
言った憶えも無い願いを言い当てられて、少女の肩が僅かに固くなった。努めて平静を保ちながら返す。
「お前から存在の力さえ確保出来れば、宝具自体を取り出す必要は無い」
「……そんな約束した憶えないんだけど」
「うるさいうるさいうるさい。別にいいでしょ、どうせ零時になったら回復するんだから」
「いや、それは別にいいんだけどさ……」
………あの親にしてこの子ありと言ったところか。
悠二の都合に合わせるつもりなど、最初から更々ないようである。
「終わったなら、もう行く」
言って、少女は踵を返す。その一言を聞いて「本当に24時間見張られるわけじゃないんだ」と安堵した悠二は、もう色々と麻痺してしまっているのかも知れない。
「…………それと」
不意に、去り往く小さな背中が止まった。振り返る横顔、その瞳が刹那……紅蓮に染まる。
「お前には、負けないから」
「は…………?」
不可思議なセリフを悠二に言い捨てて、今度こそ少女は去って行く。
「「…………?」」
顔を見合わせて首を捻る悠二と平井を脇に置いて………
「…………むー」
ヘカテーだけが、終始不機嫌なままだった。
少女はフレイムヘイズである。名前は……まだ無い。
メリヒムの提案によって御崎市を訪れた彼女は、予期せぬ状況の変化によってこの街に留まる事となった。
最低限の会話だけ済ませて、不審なミステスらと別れた少女は………意味も無く早足に歩を進めている。
「はむっ………」
歩きながら、鞄から取り出したメロンパンを噛み千切っていく。
常ならば、そのカリカリモフモフとした食感に弛む筈の少女の顔は今、触れれば切れそうな鋭さに固められていた。
「…………………」
他人が見ても判らないだろうが、さっきのやり取りの最中もずっとこうだった。そうと気付いていたからこそ、彼女のペンダントに意識を宿す“天壌の劫火”アラストールも静観を貫いていたのだ。………下手に口を挟めば、少女が容易く感情を曝け出してしまいそうな気がして。
「(何で、あんな奴に………)」
少女は、憎悪と復讐によって契約する普通のフレイムヘイズではない。
物心つく前にヴィルヘルミナに拾われ、幼い頃から『天道宮』で修練を積み重ねた末に、己が意志と使命感から契約を果たした変わり種である。
だからこそ、納得できない。
「(私は認めない)」
聞けば、あの少年がミステスになってから三ヶ月も経っていない。凡庸な人間として育ち、気付く事もなく存在を喰われ、幾つもの偶然の結果として存在を保っているだけ。
ワケも解らず巻き込まれた人間。覚悟も無い。信念も無い。己の存在にどこまで自覚があるのすら怪しい。………そんな奴に“後れを取った”。
「(あいつにだけは、絶対負けない……!!)」
使命感ではない何かが、少女の胸の奥で燃えていた。
「坂井君って………小さい子が好きなのかな……」
大上準子に暫し遅れて下校を始めるいつもの三人の背中を、教室の窓から見送った吉田一美の第一声が、それだった。
「………いや、何で?」
そう訊かれたのは、同じく教室に残っていたメガネマン・池速人。
「だって近衛さんは“ああ”だし、ゆかりちゃんも童顔だし、大上さんだって………」
「………言いたい事は解るけど、多分違うと思うよ」
二人は“当然”、さり気なく悠二が大上準子を連れ出した事に気付いていた。最初は後を尾けようかとも考えたが、近衛史菜あたりに気付かれるだろうと思い直して止めた。
近衛史菜が転校して来た時と酷似した状況ではあるので、吉田の危惧も解らなくはない。
「………それより、吉田さん自身がどうするかだよ。埋め合わせするって言ってたんだよね」
とは言え悠二の性癖を勝手に決め付けるのも憚られるので、池はなるべく前向きな方向に話題を逸らす。
昼休みに悠二が吉田に謝る場面に居合わせていた為、池も大体の事情は解っている。
「(……まあ、次は近衛さんもついて来るだろうけど)」
そして、悠二の隣で不機嫌そうにしているヘカテーの姿も見ていた。再び二人っきりの状況を作るのは難しいように思える。
と言うか、そもそも土曜日の時点でバレバレだった。
『ん〜……池君が一美の味方するの、何か特別な理由があるのかなって』
バッタリ出会った平井ゆかりに平然とそんな事を訊かれて、コソコソと画策していた自分に赤面したものだ。
「(平井さんの方こそ、どうなんだって話だよな)」
そんな文句を、もちろん池は本人に言ったりはしない。あくまでも心の中でぼやくのみである。
平井ゆかりは池速人が好き……という“設定”も、最近では装う素振りすら見せない。恐らく忘れているのだろう。
もっとも、池は微妙な空気でもしっかり読めるので、そんな事を直接指摘したりはしないが。
「埋め合わせ……あっ、そうだ! どうしよう、今度はどこに誘えば………」
「いや、今回はあいつに任せていいんじゃない?」
言われて思い出したのか、忙しく慌てだす吉田。そんな吉田に、池は頬笑みと共に溜息する。
「埋め合わせとは言え、今度はあいつから誘った形なんだから。そういうのはあいつにさせるべきだよ」
前は「吉田自身が頑張るしかない」と言った池だが、今回は状況が違う。
坂井に軽く促してやる程度の事はしておくか、などと池は思う。
「吉田さんはアプローチの練習でもやっとくべきかな。さり気ない手の握り方とか」
「手ッ………!!?」
池のからかうような軽口を受けて、吉田はリンゴのように赤面した。
少年少女がそれぞれに青い悩みを抱えている頃、相沢町一丁目三の三・花園マンション、平井宅のリビングで、一人のメイドがテーブルに突っ伏していた。
「…………………不覚であります」
「無様」
ヘッドドレスが無遠慮な悪口をほざいたので、自罰と反撃の両方の意味を込めて自分の頭を殴る。無論、そんな事で醜態を晒した過去が消えるわけではない。
「…………………」
『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルは、『大戦』の終結から数百年……『天道宮』に身を潜めてたった一つの器を探し続けていた。
『この人は“こんな事”じゃ絶対に挫けないし、諦めない。そんないい男に相応しい、完全無欠のフレイムヘイズを見つけてあげて。男を残して死ぬ女の………これが最期のお願い』
今は亡き、唯一無二の戦友に託された、誓いを果たす為に。
そうして彷徨い、探し、育て、学ばせ、やっと巡り合った最高の人材……それがあの少女、『贄殿遮那のフレイムヘイズ』。
「(だと、言うのに………)」
そんな彼女に自身が見せた姿を思い返すと、心が闇の底へと沈む。
単純な羞恥心や沽券などという生易しい問題ではない。これは紛れもない“恐怖”だった。
「(私は、何という………)」
彼女への誓いの形、彼の愛の証、それを……よりにもよって自分が変容させてしまうのではないか。そんな恐怖が、消える事なく胸を苛み続けている。
“戒刃”への雪辱も、『零時迷子』への拘泥も、そして………抑える事の出来なかった想いと涙も、全て『完全なるフレイムヘイズ』には不要のものだ。
「あの子は、どう思ったでありましょうな………」
「心配」
憂いても、嘆いても、知られた事実はもう隠せない。
『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルは、情に生きるフレイムヘイズであるという真実は。
一方その頃………
「雇え」
誓いの下に少女を鍛えたもう一人の人物は、新たなバイト先を見つけていた。