無意味に住宅地を練り歩き、のんびりと御崎大橋を抜け、人ごみ溢れる市街地にまで足を運んだ悠二とヘカテー。時間も頃合いと、適当に目についた無難なファミリーレストランに入り、向かい合って座り込む。
「存在の力を使って起こす異能が『自在法』。昨日の『封絶』ってやつとかか」
「はい。それについては、この場で説明は出来ません。どんな徒がどんな力を持っていても不思議ではないと思って下さい」
最初は人の多い場所にヘカテーを連れて行く事を躊躇していた悠二だが、そんな警戒に意味など無いと思い直してやって来た。どこにいようと、詰まる所ヘカテーの気分次第なのだ。
宝を狙う怪物と怪物。悠二はその宝を容れている箱でしかない。全く無力で、なのに一番近くで異能者たちの宝の奪い合いを眺めざるを得ないちっぽけな存在。
だと言うのに、悠二の心は自分でも不思議なくらいに冷静だった。
「そう言えば、どうしてヘカテーは僕の宝具だけ取り出して行かないんだ? 昨日の燐子はそうしようとしたよな」
こんな風に、自分にとって鬼門とも言える疑問を、簡単に口に出来るほどに。
「その宝具には“戒禁”……それを奪おうとする者に攻撃を加える自在法が刻み込まれています。不用意に手を出せば、私でも只では済まないほど強力なものです」
「ネズミ取りみたいなもんか……って事は、昨日の燐子はそれに気付いてない?」
「私が気付けたのは特別です。燐子どころか恐らくその主でも、実際に発動するまで気付く事はないでしょう」
奇妙な感覚だった。
とっくに死んでいる。生きていた残滓もいずれ消え失せ、誰の記憶にも遺らない。消滅を待つだけの身で、よりによって紅世の徒と街歩きなどしている。それが何だか、怖いというよりも面白かった。
「こっちから封絶を張って、相手を誘きだすわけにはいかないのか?」
「……無駄だと思います。未だに接触を試みて来ないのは、大人しく宝具を渡す気が無いからでしょう」
今の状況や、紅世の徒であるヘカテーにでは無い。そんな相手にでも自分の事を憶えていて欲しいと思っている自分自身が、本当に可笑しかった。
「……結局、後手に回るしかないんだなぁ」
自分の事、自分を狙う徒の事、消えるまでに訪れる災難を予期して悠二は椅子に沈み込む。
出来れば二度とあんな怖い目に遭いたくはない。それでもせめて、状況くらいは選びたかった。周りに人が大勢いる時、家で千草と一緒にいる時、月曜になれば行く事になる学校、避けたい時は沢山ある。しかし、それすらも叶わないらしい。
「……散策を続けましょう。運良く敵に近付ければ、気配で居場所を特定出来るかも知れません」
そんな悠二の前で、真面目な顔のヘカテーは……ミートスパゲッティを懸命に攻略している。別にふざけているわけではない。要するに、それだけ悠二とヘカテーは立場が違うという事だ。
「(こうしてると、ホントに普通の女の子なんだけどな……)」
月並みなセリフを心中で吐いた悠二は、その直後に首を横に振った。絶対普通じゃない。
ファミリーレストランのボックス席で口いっぱいにスパゲッティを含むヘカテー、という空間のおかげか、やや場違いな余裕が湧いて来る。つまりは、「こんな所をクラスメイトに見られたら、変な誤解を受けそうだなー」といった類の心配が出来る余裕である。
そして………
「…………………」
このテの災難というものは、それを怖れる者か、それを完全に見落としている者のどちらかの下に訪れるものなのだ。
………レストランの窓の外で、わざとらしいほど面白いポーズで驚愕している友人二人など、その最たるものだろう。
悠二が気付いた事に気付いた長身細目の田中栄太が、何を思ってか突撃する勢いで動き出し、その肩に手を置いて止めた美少年……と言えなくもない佐藤啓作が訳知り顔でかぶりを振る。小芝居めいたジェスチャーを披露した二人は、“空気を読んで”その場を去った。背中越しに立てた親指を見せ付けるのも忘れない。
「あいつら……よく道端であんな恥ずかしい事するな」
「…………?」
負け惜しみ染みた蔑みが、声となって悠二の口から零れ落ちた。
昼食を済ませ、レストランを出た悠二とヘカテー。先ほどの一件があったせいで、人目のある場所は避けようか……などと考えもした悠二だが、その愚考を振り払って駅前通りに向かっている。
ヘカテー曰く、近くに行けば気配で敵を見つけられるかも知れないのだ。大事の前では甚だしく小事である。……どうせあれも、坂井悠二が消えれば忘れ去られる記憶だ。
「(そんな事より、二人の胸に灯火が無かった事を喜ぶべきだろ)」
田中栄太も、佐藤啓作も、人間だ。喰われてトーチになってはいない。それに安心すると、次に湧きだすのは不安。二人が無事だったのは偶然に過ぎない。つまり、“そうだとしても不思議は無かった”。
「どう? 敵の気配とか、何か気付いた?」
「………解りません」
そうだとしても、やはり事態は簡単に好転などしない。元より無力な悠二の自意識程度で何が変わるわけもないのだが。
「(どうしようもない、この世の真実か………)」
活発な駅前通り、考え事にばかり没頭していたらヘカテーを見失ってしまいそうな雑踏の中、また一人トーチが見えた。
母親に手を引かれて歩く小さな男の子。それが擦れ違い様に中学生にぶつかって、繋いだ手が離れた。ぶつかった中学生は気付かない。手が離れた母親も気付かない。そうして気付かれないまま……転んだ少年は地面に倒れる前に消えた。
……今日だけでトーチは何人も見てきたが、消える瞬間を見るのは初めてだ。
こんな、さして大きくもない街で、これだけのトーチが……喰われた人間がいる。酷過ぎる、しかし誤魔化せない現実。
「そういえば……この街のトーチは多いって言ってたっけ」
「………はい、異常と言っても良い数です」
傍らのヘカテーからの、やはり簡潔に告げられる言葉。世界中が“こう”でなくて良かったと思えば良いのか、何でよりによって御崎市がと思えば良いのか。愚にもつかない感想は、続くヘカテーの説明に流される。
「紅世の徒は通常、一つ所に留まりません。いくらトーチを残しても、人を喰らえば喰らうほど世界は歪む。そして、その歪みは同胞殺しを呼び寄せるからです」
「……同胞殺し?」
それは何なのか、そう訊ねようとした悠二は……言えず、固まった。何となく人ごみの中のトーチを探していた視界に……いま見てはいけないモノが映ったからだ。
「(…………まずい)」
向かう先、駅前のアイスクリーム屋の自動ドアから出て来た所、一人の少女が立っている。両手の握り拳を戦慄きに震わせ、ツーサイドアップの触角を犬の尻尾よろしく羽ばたかせる少女……今のところ、悠二の唯一の女友達に当たる、平井ゆかりだった。その爛々と輝く紫の瞳は、雑踏の中の水色の少女を確実に捉えている。
「(…………まずい)」
胸に灯火は無い。良かった。それはそれとして、心中で悠二は繰り返し呟く。
佐藤や田中のように、『月曜になったら何を言われるか解らない』といった問題ではない。彼女は間違いなく、そんな悠長な真似はしない。
平井ゆかりがその場で小気味好いステップを踏み、雑踏の中でもお構い無しにクラウチングスタートの体勢を取った所で………
「ヘカテー、こっち!」
一も二もなく、悠二はヘカテーの手を引いて矢のように駆け出した。
「このあたしから逃げ切れるとでも!!?」
迫る背後から、嬉々とした叫びが耳に届く。しかしヘカテーの手を引きながら進む悠二が、雑踏を身軽に抜けるのは難しい。
逆に平井は、フェレットのような柔軟な動きで雑踏を無人の野の如く駆け抜けて来る。
「ちょいやぁーーー!!」
「ぐはぁ!?」
必然としていとも容易く追い付かれ、人通りの少ない狭い路地に逃れた辺りでフライング・クロスチョップが炸裂した。
「……あっ、ごめん。痛かった?」
「当たり前だろ! いきなり何するんだよ!」
「いやぁ〜、だって坂井君いきなり逃げるもんだから本能的に、ね?」
「……何が『ね?』だ」
悠二の後ろ首筋に強打をかました友人は、片手を立てて申し訳なさそうな“雰囲気で”謝る。……そして、その眼をヘカテーに向ける。
「で? で? このめんこい子だれ? 坂井君の彼女!?」
「……何でそうなるんだよ」
どうして このちびっこにそんな解釈が出来るのか、という悠二の呆れ声は当然の理として届かず……平井は身を屈めてヘカテーと目線を合わせていた。
「あたしは平井ゆかり! 坂井君の友達で御崎高校一年生! よろしくね」
「……近衛史菜です」
一連のやり取りにも変わらず無表情を貫いてきたヘカテーにも、躊躇なく向日葵のような笑顔を見せる平井。この人懐っこさは彼女の美徳だと悠二も思ってはいるのだが………この今に限っては危険過ぎる爆弾に他ならない。
「あぁ……もぅ……可愛い!!」
「んげ!?」
案の定、平井は我慢しきれないようにヘカテーに抱きつき、抱き上げた。そのままクルクルと楽しそうに回る。
いつもなら「仕方ないなぁ」と思う程度だが、今は違う。ヘカテーの正体を知る悠二は気が気では無い。正しく生命の危機である。
「ひ、平井さん? お願いだからそれくらいに……」
当然、平井がそんな事情など知る由も無い。いつものノリでひた走る。
「坂井君、この子もらって帰っていい?」
「いや、ホントもうそれくらいで……ほら、平井さん家だとおじさんとおばさんもいるだろ……?」
何とかかんとか平井を引き下がらせようとして、つい余計な事まで口にする悠二に……平井は不思議そうな顔で言って―――
「? うち一人暮らしだよ。坂井君も知ってるでしょ?」
「―――――――」
悠二の心に、重く冷たい衝撃を与えた。
「………………」
市街地の散策もあの場で終わり、悠二とヘカテーは御崎大橋を渡って坂井家を目指す。
平井ゆかりは、この場にいない。悠二が衝撃を受けて黙り込んだ事が、結果的に彼女を遠ざける決め手となった。……もちろん、それを喜ぶ事など出来はしない。
「(………トーチどころか、もう消えてるんだ)」
悠二の知る事実では……平井ゆかりは一人暮らしなどしていない。両親と一緒にマンションで暮らしていた。その両親が……喰われて消えた。昨日と今日の間、悠二がこの世の真実に触れた後で……存在の残滓すら使い果たして消えた。
それが……娘である平井ゆかりでも気付かない現実。
「ははっ……結構、堪えるな……」
自嘲染みた乾いた笑いが零れた。他人に置き換えて漸く自覚出来たとでもいうのか、仮初めの克服など拭けば飛ぶ錯覚でしかなかった。
それでも、やはり、頭のどこかが冷静だった。
「……徒は一つ所に留まらない。そう、言ったよな」
「はい」
どうしようもない現実を受け止めて、まだ何かを探している。
「だったら、今この街にいる徒はともかく、ヘカテーがこの街に長く留まる理由は無いんだよな?」
「………はい」
坂井悠二はもう戻らない。だけど、まだ人間である者はそうじゃない。
「僕は君に、容れ物としておとなしくついて行く。……だからヘカテー、この街にいる徒を倒して欲しい。僕に出来る事なら、餌でも捨て石でも構わない」
諦めとは違う何かが、彼を衝き動かしていた。
「………はい」
そんな悠二の言葉に、ただヘカテーは肯定を繰り返す。それは単に、彼の提案に不都合が無いから。
「…………………」
視線と視線が、交わる。それが一つの合図のように―――歪んだ怖気が満ちた。