「…………………」
「…………………」
カチコチとぎこちない動きで、右手と右足、左手と左足を同時に出しながら歩く吉田一美。
その隣を、緊張が伝染したように視線を泳がせる悠二が歩く。
事は、面白いほど順調に進んだ。
午前中で授業の終わる土曜日の早朝、誰も登校を始めないような時間帯から、メガネマンのミッションはスタートした。
まず、誰にも見られないように平井ゆかりのマンションの郵便受けに映画のチケットを二枚入れておく。
坂井家の郵便受けに入れたら坂井悠二と近衛史菜が二人で出掛けてしまう可能性も高かったが、平井と悠二が近衛を除け者にして映画を観に行く事はまずない、という確信があった。
その狙いは見事に当たり、放課後になるや否や、平井は近衛の手を引いて疾風の様に校外へと駆け出して行った。
ミッション……と言ったが、メガネマン池がしたのは只それだけ。
いつもの三人を見事に分断させた手腕は見事だが、悠二を誘ったのも、誘う場所を決めたのも、全て吉田一美自身である。
『初デートの内容を部外者に決められるなんてつまらないでしょ』とは、眼鏡を光らせた池の言。緊張で死にかけながらも悠二を誘う吉田にフォローを入れなかったのも池だ。
「(もっと色々お喋りしないと……! せっかくのデ……二人きりなんだし、いっぱい話し……なに話せば……)」
勇気を振り絞ってデートにこぎつけた吉田だが、全く以てギリギリの精神状態である。今にも倒れそうなほど緊張して、右に左にフラフラと揺れている。
「(これって、デート……だよな……)」
隣を歩く悠二も、吉田の状態に気付く余裕が無い。
女の子……それも、自分に好意を寄せてくれている女の子との、人生初めてのデートである。何を話せばいいのか解らないのは彼も同じだった。
「(……って言うか、良いのかな……)」
一つの違い。それは罪悪感。
吉田の熱意に圧されて誘いに乗ってしまった悠二だが、その胸中には微かな、それでいて確かな翳りがある。
自分は人間ではない。今は良くても、五年、十年……不老たる身が人間のフリをして生きるのにも限界がある。必ず別れなければならない相手に半端な気持ちで応えるのは、あまりに不誠実なのではないだろうか。………そんな、罪の意識。
「(いや、そもそもこんな打算で考えてる事自体、吉田さんに失礼だ)」
そんな気持ちに、悠二は自分で失笑する。『罪の意識』なんて他人を中心にした考え方をしている時点で、既に論点がズレている。
問題なのは、いつか訪れる吉田との別れを、自分自身の痛みとして感じる事が出来ない事の方だ。
もちろん、友人としての寂寥は確かにある。だが、それが恋愛感情から来る痛みだとは思えなかった。
少なくとも、今はまだ、坂井悠二は吉田一美を好きなわけではない………の、だろう。
「(……確かめよう、自分の気持ちを)」
恐らく吉田は、そんな事は百も承知で好意を示してくれている。『自分は意中の相手に好かれている』などと確信している者などどれほど居るものか。
それでも吉田は、勇気を出してくれている。気持ちを伝える為、気持ちを向けて貰う為、頑張ってくれている。
「(誰かを好きになるって気持ちが、どんなものか解らないけど………)」
そんな想いを曖昧な不安で拒む事など、今の悠二には出来なかった。
御崎アトリウムアーチ。
御崎市駅の裏手に聳える美術館である。「デートに誘え」と言われた吉田が選んだ場所がここだった(父親から偶々チケットを譲り受けていた、ともいう)。
「こういう所あんまり来た事ないけど……綺麗だな」
「は、はいっ!」
到着する頃には吉田も“それなりの”落ち着きを取り戻し、悠二も普通に目を合わせられるようになっていた。一度平静になってみれば、吉田の狼狽ぶりは微笑ましくて、逆にこちらの緊張を解してくれる。
「(うわぁ……若い人わたし達しか居ない。やっぱり美術館なんてダメだったかな、坂井くん退屈してないかな)」
まあ、そんな余裕が生まれているのは悠二だけで、吉田は絶えず思考の渦に呑まれているわけだが。
「……何これ、絶対僕でも描ける」
何の絵だかも解らない抽象画を見て不思議そうに唸る悠二にも、
「きっと、解る人には解る芸術が込められているんだと思います」
みたいな事を言いたいのに、
「は、はい!」
実際に口に出来たのは裏返る寸前の合いの手だけ。自己嫌悪のあまり、ハニワの入ったケースの横で体操座りで塞ぎ込む吉田だった。
「……えーと、吉田さん?」
「はいっ!」
そして、弾けるように背筋を伸ばす。本人には露ほどの自覚も無いのだろうが、中々に面白い。
「もう少し回ってから、喫茶店にでも入ろうか。さっき案内にあったし」
「はい!」
もはや「はい」しか言えない生物と化している。思わず苦笑してしまった悠二を見て、また俯いて真っ赤になった。
「(可愛いなぁ)」
と、悠二は素直に思う。
思って、しかし、その先に行けない。好きだと思える、決定的なものがない。
「(“身体を電気が駆け抜けた”とか、解りやすい合図でもあればいいのに)」
などと、調子の良い願望を抱く脳裏に………
「―――――――」
刹那、何かが過った………気がした。形の無い、なのに綺麗で、穏やかな欠片が。
「………坂井君?」
どんな表情をしていたのか、自分では良く解らない。ただ気付けば、緊張を忘れるほどに心配そうな吉田の顔が、すぐ目の前にあった。
「っ……なん、何でもない!」
「!!? そ、そそ、それは良かったです! とても!」
間近に迫った可憐な顔に当惑して跳び退く悠二。その反応を見て、今更ながらに自分の無意識の接近に気付く吉田。二人揃って微妙な距離を空けて赤くなる初々しい様子に、少し離れた場所で人の良さそうな老婆が微笑んでいた。
「と、とにかく行こう!」
好奇の視線に居たたまれなくなった悠二は、吉田を促して歩き出す。
その………一歩を踏み出した時だった。
「っ……」
踏み出した足が、止まる。次の足が、出ない。
動きを止めて意識を集中せざるを得ない感覚が、そうさせていた。
「…………………」
それは、違和感。
外れた存在が撒き散らす、この世ならざるモノの気配。
それが二つ。物凄いスピードで近付いて来る。
「………ヘカテーじゃない」
御崎市に滞在する異能者は、悠二を含めて三人居る。だが、映画を見に行ったヘカテーがヴィルヘルミナと一緒に行動しているとは思えない。
何より、これは………
「(電車に、乗ってるのか………)」
とにかく、悠長に構えている場合ではない。思考の間も気配は近付いて来ている。既に、あちらも悠二の気配を掴んだとみて間違いなかった。
「吉田さん、ここから離れ………」
「きゃ!?」
反射的に吉田の手を掴み、駆け出そうとして……
「(って、僕は馬鹿か!)」
自分と一緒に居る方が遥かに危険だと、すぐ気付いて放す。頭から湯気を出して目を回す少女に、どうしようもない罪悪感を覚えながら………
「ごめん吉田さん! 埋め合わせは絶対するから!」
頭を下げて謝り、返事も待たずに走り出した。
「………………………………………え?」
駆け出した背中はあっという間に見えなくなり、手を引っ張られたままの奇妙なポーズの吉田一人が残される。
先程の老婆が、とても気の毒そうな目で少女を見ていた。
「た、たた、たまたまだよ……次こそ、次こそきっと……」
茫然自失となった吉田は、独り淋しく、再びハニワの隣で丸くなった。
「(とにかく、『万条の仕手』に知らせないと……!)」
アトリウムアーチは、駅のすぐ裏手にある。到着した気配から悠二が逃げ切るには、まるで時間が足りなかった。
それでも悠二は、一目散に平井のマンションを目指して走っている。………いや、建物の屋根から屋根に跳び移っている。
もしこの気配の主がフレイムヘイズなら、自分やヘカテーが出ても話をややこしくする事にしかならない。頼るのはかなり癪だが、ここは同業者に任せた方が良いという判断だった(無論、人が喰われる可能性もあるので、封絶が張られれば急行するつもりで)。
……が、前述の通り、逃げ切るだけの余裕は最初から無い。
「(追って来てる……!)」
さらに距離を詰めて来る気配を背後に感じつつ、「徒ならわざわざ気配を追ったりしないよな」などと悠二は思う。
もちろん、思う間にも移動は続けている。しかし、やはり、逃げ切れない。
「う………ッ!」
炎で彩られた陽炎の世界が、逃げる悠二をも内に取り込んで一帯の因果を隔離した。同時に膨れ上がる、圧倒的な存在感。
「く……!?」
怖気に呼ばれて、悠二は咄嗟に振り返る。その視線の先……豆粒ほどの黒い影が、足下からの爆発で一瞬にして大きくなった。
「!?」
反射だけで、悠二は横っ跳びに逃れる。その髪の先が、鋭い白刃を受けてハラリと落ちる。
「(こいつッ……もう戦うつもりでいるのか!?)」
悠二は後ろに跳びながら、ポケットから素早く一枚のタロットカードを取り出した。指先に挟まれたカードは刹那の発光を経て、大剣型宝具『吸血鬼(ブルートザオガー)』へと変ずる。
そうして警戒を強める間にも、敵を見た。
「っ……………」
その身に纏うは夜の如き黒衣。その手に握るは非情なる大太刀。紅蓮に靡くは燃える炎髪。双眸に光るは、鮮やかに過ぎる灼眼。
あまりにも鮮烈な姿に、悠二はこんな時だと言うのに、一瞬目を奪われた。
かつての言葉と今見る姿が結び付き、唇から零れ落ちる。
「炎髪灼眼の、討ち手………」
小柄な少女が……紅蓮の討ち手が、破壊の意志を以て刃を握る。